のびのび西遊記

 

蜈蚣というのは、雄鶏だけが大敵――
『本草綱目』巻四十二所引の寇宗奭《こうそうせき》『本草衍義《ほんぞうえんぎ》』
によれば、
蜈蚣の毒にやられた場合は、
「烏か鶏の屎あるいは大蒜《にんにく》を塗ればよい」とのこと。
これと関係あるかどうか不明だが。
ついでに、
蜈蚣は蛞蝓《なめくじ》も苦手で、さわっただけで死んでしまうという。
さらについでに言えば、
蜈蚣の大きいのは一丈余にもなり、牛をも食ってしまう、と。
そしてその肉は、牛肉よりおいしい、と(!)。
ホントかね?
(中野美代子[訳]『西遊記(十)』岩波文庫、1998年、p.374)

 

ただいま電車内で読む本は岩波文庫の『西遊記』でありまして、
最終の第十巻も、ようやく終りに近づきました。
三巻目までは、小野忍さんの訳でしたが、
1980年に小野さんが急逝され、
その後を中野美代子さんが引き継ぎました。
さいしょ、
翻訳された日本語の文体が、小野さんと中野さんではそうとう違っていて、
戸惑いましたけれど、
読み進めているうちに、
原文のもつニュアンスは分かりませんけれど、
おそらく、
『西遊記』というのは、
いわゆる高尚な(?)お堅い文学作品とは言いがたい雰囲気が元々あって、
むしろそれがこの作品の味なのかもしれない、
中野さんは、
それを
(批判が起こりそうなことを承知の上で)
日本語の文体に反映させたのではないかと想像する
ようになりました。
猪八戒の登場場面で、
中野さんは、
「このあほんだらが…」
と訳されていて、
「あほんだら」に強調の傍点まで付しています。
猪八戒の言動はたしかにあほんだらで、
しょっちゅう羽目を外しては孫悟空を困らせます。でも、憎めない。
さて上で引用した箇所は、
100回ある内の第九十五回に出てきた
「蜈蚣というのは、雄鶏だけが大敵」
の文言に対する注で、
注自体の言い回しにも、
中野さんらしさ(もちろんそれもあるでしょう)、
というより、
ひょっとしたら、
西遊記らしさが表れているのかもしれません。
ちなみに蜈蚣は「むかで」、
一丈は約3メートル。

 

・猫ひろし、もとい、窓広し春新館工事止む  野衾

 

なにがだいじか

 

精神病理学会場では演題を聞かずに、
精神の危機にあるとおぼしき風貌の若手医師の隣にさり気なく座り、
休憩時間になっても静かに談笑していた姿を何度か目撃した。
中学時代に夜になると天井に誰かがいると言い、怯えている友人の家を訪ねて
二晩寝泊まりした。
一緒に天井を調べ、誰もいないことを確かめた。
以後その友人の怯えは消えた。
また、
医局の高価な医療機器が損壊した責任を押し付けられた友人医師
(ムツゴロウこと畑正憲氏も友人だったと聞く)
が失踪したことを知り、
推理を働かせて行き先を追ったが、
寸でのところで彼の自殺を止められなかった悲しみと
当時の医局講座制への怒りを抑えながら運転する私に語った
(これはのちの『日本の医者』にも収載されている)。
(統合失調症のひろば編集部[編]『中井久夫の臨床作法』日本評論社、2015年、p.2)

 

本を買ったときも目をとめた文章ですが、
あらためて読んでみると、
やはり目が留まり、
中井久夫さんの凄さがひしひしと伝わってきます。
この文章は、
この本の「刊行に寄せて」として精神科医の星野弘さんが書いたもの。
著書、訳書をあわせ、
中井さんのものを、
これまでいろいろ読んできましたが、
先だって『中井久夫との対話 生命、こころ、世界』
を読み、
思うところがありまして、
また中井さんの文に触れたくなりました。
日本を代表する著名な精神科医でありながら、
(この場合「ありながら」はおかしいかもしれません)
自身の職業的なもろもろを離れ、
なにが大切かを忘れないところが凄いと思います。
それがあるから、
日本を代表する精神科医なのでしょう。
京都大学に入学して間もなく結核に罹病していることが判明し
休学したことが、
中井さんのその後の人生に大きく影響したのではないか
と思ってきましたが、
上で引用した文章を読むと、
中井さんのセンスは、
自身の病気の体験よりもさらに深いかも知れず、
そのセンスが、
病気をとおして更なるものになったか、
とも思えてきます。
なによりも、
中井さんの書くものには「希望」があります。
かつて春風社のPR誌『春風倶楽部』にご寄稿いただいたことを、
なつかしく、
うれしく思い出します。

 

・春寒し道路拡張工事中  野衾

 

『狂気の歴史』

 

十八世紀以来、非理性的な生活は、
もはやヘルダーリンやネルヴァルやニーチェやアルトーらの、
閃光のような作品のなかにしか現われない。
――しかもそれらの作品は、
治癒するたぐいの精神錯乱につれ戻されることは永久にないし、
また、
例の大規模な道徳本位の投獄監禁――
人々が、おそらく反語的にであろうが
習慣上ピネルとテュークによる錯乱者の解放と呼んでいるあの投獄監禁に
自分に特有な力で抵抗している。
(ミシェル・フーコー[著]田村俶[訳]『〈新装版〉狂気の歴史』新潮社、
2020年、pp.619-20)

 

翻訳された日本語をとおしてではありますが、
それでも、
フーコーを読んでいるときの解放感は独特でありまして、
たとえて言うなら、
へ~、
俺ってこんなところに立っていたのか、
と、
高い高いタワーの展望台に上り、
厚いガラスでできた床の下を覗き見るような、そういうたぐいの興奮を覚えます。
本書巻末の索引によれば、
ピネルはフランスの著名な精神科医で、1792年ビセートルに勤務し、
当時狂人と見なされた人々に対して《解放》を行った。
テュークはイギリスの社会事業家。

 

・春なれば富士の高嶺のはるかなる  野衾

 

人生の貌

 

秋田に住んでいる弟の文章が地域誌に掲載されました。
父がいたく褒めていたので、
弟にたのみメールに添付して送ってもらいました。
公立の中学校を定年で辞め、
いまは町から委嘱され
「井川こどもセンター」の園長を務めています。
「新米園長にできること」
というタイトルで、
まだ村だったころの井川幼稚園の一期生当時の思い出と現在の心境をむすぶ
カイロス的時間がしずかに解きほぐされ、
思索の過程が読む者にゆっくり伝わってきます。
父と同様、わたしも、
いい文章だと思いました。
文のタイトルの横に、
割と最近の弟の顔写真が掲載されています。
よく知った弟の顔をしばらく眺めているうちに、
昨秋読んだ矢内原忠雄の『ダンテ神曲講義』を思い出しました。
矢内原もダンテも時代の波を強く受けた人ですが、
ダンテの肖像画を見、
言葉少なくつぶやくように語った矢内原
のことが記録されてありました。
いま手元に本がないので確かめられませんけれど、
ダンテの顔に刻まれた人生を思っての言葉だったと思います。
それは、
ダンテの顔についてのコメントであるけれど、
見方を変えれば、
人生の相貌、貌のことを言っているのだと感じられました。
子どものころ、わたしは、
だれと遊ぶよりも弟と遊びました。
というよりも、
わたしと弟がセットで、ほかの友だちと遊んだ、
と言ったほうがいいかもしれません。
ふるさとを離れてからも帰省すれば会ってきたし、
このごろは老いた両親のことを電話で話す機会が増え、
気ごころをお互いに知っていると感じますが、
当然のことながら、
知らないことのほうが圧倒的に多く、
それが人知れず、顔に刻まれているということかもしれません。
時代がちがい、国がちがっていても、
例外なく人生は、
人生そのものを人の顔に刻むようです。

 

・うららなる公園の水見てをりぬ  野衾

 

いい眠り

 

『中井久夫との対話 生命、こころ、世界』のなかにでていたことですが、
付箋を貼らなかったので、
どこだったかわからなくなってしまいました。
そこにたしか
こんなことが書いてあったと思います。
「いい眠り」というのは、
たとえていえば、
おもちゃで思いっきり遊んで、片付けずにいると、
知らぬ間にコロポックルだか妖精だか、
そういうものたちが現れて、
気がついたら、
あ~らら、
きれいに片付けられていた、
そんな感じであると。
正確ではありませんが、そんな喩えが書かれてあり、
わたしはじぶんの体験と重ね、
なるほどと納得しました。
時時刻刻いままさに、の、ここにおける「現在」は捉えどころなく進行し、
立ち止まろうとしても立ち止まれず、
たとえ静かに座っていても、
ひどく慌ただしく、にぎやか。
しかし、
ぐっすりゆっくり「いい眠り」につけば、
目が覚めたあと、
前日の慌ただしさが薄まり整理されていることに気づく。
すっきりとしたいい朝は
「いい眠り」のおかげのようです。

 

・鎌倉の草のとざしの雛かな  野衾

 

ウンベラータの挿し木

 

けさのこの日記を入力するためにネットで検索したら、
ウンベラータの挿し木のやり方について、
写真付きのていねいな説明がされているサイトがありました。
なるほどなるほど。
そうだったのかとふかく納得。
というのは、
半年くらい前、いやもう少し経つかな、
会社にあるウンベラータがぐんぐん成長し、成長し、とうとう天井に達しました。
まさか天井を突き破ることはないだろう
とは思いましたが、
どうも気になる。
背の高い少年が、
アタマの閊える部屋に閉じ込められている図が想像された。
そんなわけで、
家にある剪定鋏を持っていき、
伸びたところをバッサリ、
80センチほどでしょうか、
切りました。
そのまま捨てるにはもったいない気がしましたので、
てきとうに葉を落とし、
親株のある鉢の、
親株のある横10センチほどの土に、
グッと挿しておいた。
それがなんと、
このごろ芽を吹きだした。
いやもう嬉しいのなんの。
下の写真がそれです。
ところで。
写真付きのていねいな説明がされているサイトによれば、
ウンベラータの挿し木は、
親株の鉢とは別に新しい鉢を用意し、
5月から8月に行うのがよく、
それ以外はしない方がよいと書いてありました。
え。
そうなの!?
わたしが行なったのは、
9月、いや10月、だったかもしれず、
間違えたかもしれません。
ではありますが、
いまさらどうにもなりませんし、
芽が吹いてきたのだから、結果オーライということにします。

 

・光よりなほ村里は水の春  野衾

 

サリヴァンとフィッツジェラルド

 

さらに、ジャズ・エイジの寵児だったフィッツジェラルド夫妻
つまり作家のF・スコットとその妻ゼルダというモデルの破壊的な衝撃力がある。
一九二七年ごろのフィッツジェラルド夫妻は
デラウェア州ウィルミントン近郊に住んでいた。
フィッツジェラルドは大酒を飲み、作品を書くことがきわめてむつかしくなっていた。
多分この年だろう。
フィッツジェラルドはサリヴァンに逢っている。
もっともどういう形で逢ったか、正確なことは分らない。
(ヘレン・スウィック・ペリー[著]中井久夫・今川正樹[共訳]『サリヴァンの生涯 1』
みすず書房、1985年、p.310)

 

伝記を読んでおもしろいのは、こういう記述にときどき遭遇することだ。
サリヴァンとジャズ・エイジの寵児・フィッツジェラルドは
逢って何を話したろう。
自身の酒癖のことか、
はたまた妻ゼルダの精神状態のことか。
サリヴァンの養子となり当時同居していたジェームズ・インスコー・サリヴァンは、
F・スコット・フィッツジェラルドに会ったことがあると、
著者のペリー女史に話したそうだ。
ペリー女史は、
ジェームズがサリヴァンに紹介されてフィッツジェラルドに会ったのだろう
と推測している。
なお、
ペリー女史はまた、注でつぎのように記している。
「ジェームズ・サリヴァンは、
サリヴァンの患者の情報を洩らさないように特に気をつけていた人で、
間接的にそれとなくほのめかすことが時々あっただけである。」
この注の記述から、
著者のこころ配りが感じられ、
情報の信憑性がいっそう高くなる気がする。

 

・白雲と連れ立ちてゆく春の水  野衾