生きられる時間

 

歳を重ねると時の経つのがはやく感じられるとだれもが言います。
先日入った蕎麦屋の女将さんも、
「正月が明けたと思ったら、もうすぐ桜の季節ですものねー。はやいですねー」
と言っていた。
心理学的な説明をする人もいて、
そんなものかと、
どこか他人事のようなところがありましたが、
このごろそれを実感することに遭遇した。
「遭遇」
はちょっと大げさだけど。
それは、
散髪の間の日数感覚。
わたしの散髪は、
長さ1ミリに刈り上げるバリカンでウィ~ンとやるだけの簡単なものですが、
長さが短いだけに、
たとえば髭のごとく、
すぐに伸びてきて気分が悪く、
人にも不精な印象を与えかねませんから、
2週に一度は行きつけの床屋に足を運ぶようにしています。
ついこのあいだの土曜日がその日でした。
夕刻、
首都高速道路永田インターチェンジ横の長い階段を下りながら、
つらつら思い返していたとき、
ハッと立ち止まり、
2週間の時の短さを思い知らされた。
ん!?
2週間て、
こんな感じだったか。
いくらなんでも短い。
短すぎる。
子どもの頃、
父と母と弟と汽車で(電車でなく)秋田市まで行って、
まず動物園へ行き、
それからまんぷく食堂でラーメンを食べ、
そしてそれから木内デパートでいろいろ買い物をする、
それが2週間後
と言われた時の興奮と待ち遠しさといったら、
長く長く果てしなく感じられたっけ。
散髪までの2週間が1週間
なのに対して、
4人で秋田市に行くまでの2週間は、1か月後、2か月後、それ以上にも思えました。
どうやら、
時計で計れる時間とはまた別の時が流れていて、
それをわたしたちは感じ分け、
生きているようです。

 

・卒業の日にジョーズを観に行けり  野衾

 

音読に耐える学術書

 

本書はアメリカの精神科医の間でもかなり難解という定評がある。
しかし、訳者らの見解では、圧倒的大部分が文体の問題にすぎない。
彼の文体を同郷アイルランドの作家である
ジェイムズ・ジョイスの多義的な文体に比べる人もある。
とにかく、
訳者らは、
非専門家を交えた人々への講義である、という本書の成立事情に忠実に、
あくまで講義として訳した。
したがって、
述語を含め、
できるだけ音読に耐え、耳で理解しうるものになるように心がけた。
実際、
本書における「話のつぎ穂」は、
しばしば、日本語の学術論文の文体を用いれば全く失われるか、
唐突、あるいは滑稽にすらなりかねない態のものであると思う。
講義もサリヴァン理論に徴すればその行われた対人的な場の関数である。
その意味では
著者サリヴァンの趣旨に敵う翻訳をめざしたことになるかと思うが、
むろん、
その当否・成否の判定は読者にゆだねられることである。
(ハリイ・スタック・サリヴァン[著]中井久夫・山口隆[共訳]『現代精神医学の概念』
みすず書房、1976年、pp.345-6)

 

日本語のいまの片かな表記では、ハリー・スタック・サリヴァン
とされる人の代表的著作。
生前、
サリヴァン自身がみずから目を通した唯一の刊本であるとのこと。
引用した文章は、
『現代精神医学の概念』の「訳者あとがき」
からのものですが、
この本は、ゆっくり読めば、
「音読に耐え、耳で理解しうるもの」
になっていると思います。
わたしは、中井さんから習ったわけではありませんが、
学術書と言えども、
「音読に耐え、耳で理解しうるもの」でなければならないと信じます。
なので、
わたしが担当する本の原稿は、
そのこころで精読し校正することになります。

 

・崖下廃屋の庭に梅の花  野衾

 

編集の仕事とは

 

書評紙『週刊読書人』からの依頼で、
村山恒夫[著]『新宿書房往来記』の書評を書きました。
発行元は「港の人」。
「港の人」の社主である上野勇治さんは、
二十代の頃に知り合い、
わたしを出版の仕事に誘ってくれ、
その後いっしょに働いたこともある恩人です。
『週刊読書人』の編集者から連絡があったときに、
上野さんの仕事ぶりを改めて勉強できるいい機会と直感しましたので、
喜んで引き受けました。
先月25日に掲載されました。
ワード原稿を添付します。
コチラです。

 

・石鹸玉けやきの枝をすぎゆけり  野衾

 

紀貫之と『万葉集』

 

ところで、『万葉集』を見ると、
夕されば小倉《をぐら》の山に鳴く鹿は今宵は鳴かず寝《い》ねにけらしも
(巻8・1511)
夕されば小椋《をぐら》の山に臥《ふ》す鹿の今宵は鳴かず寝《い》ねにけらしも
(巻9・1664)
とある。
ただし、これは大和の小倉山であって、
『古今集』の小倉山とは違うが、
「小倉山」と「鹿」の結びつきのパターンから見て、
貫之が『万葉集』を読んでいた証拠の一つとも見られる。
ついでに言えば、
貫之が『万葉集』を読んでいたことは確かだが、
今の『万葉集』と同じ形のものを読んでいたかどうかは、
必ずしも明らかではない。
貫之の歌に現れた『万葉集』の影響をつぶさに洗い上げることによって、
彼が用いた『万葉集』の実態を明らかにしてゆく必要がある
と思われるのである。
(片桐洋一『古今和歌集全評釈(中)』講談社学術文庫、2019年、pp.220-1)

 

へ~、あの貫之さんがね~、
友だちではないけど、
さん付けしちゃうもんね~、
『万葉集』をね~、
そうですか。
こういうところに静かな感動を覚えるわけですが、
引用した文章は、
朱雀院の女郎花《をみなへし》歌合《うたあわせ》のときに、
「をみなへし」という五つの文字を歌の各句の頭に置いて紀貫之が詠んだ歌、

 

小倉山峰立ちならし鳴く鹿の経にけむ秋を知る人ぞなき

 

の【鑑賞と評論】の項目のところに書かれてあるもの。
小倉山の「を」、峰立ちならしの「み」、鳴く鹿のの「な」、経にけむ秋をの「へ」、
知る人ぞなきの「し」。
なるほど。
「を」と「み」と「な」と「へ」と「し」
を頭に置きつつ、
歌としてもちゃんと成立している
あたりが、
つらつら慮る(ダジャレですが)
に、
天才的歌人紀貫之の紀貫之たる所以というわけなのでしょう。
また、
『万葉集』と比べ、
こういう遊び的要素が加わっているところに、
『万葉集』とは一味ちがう『古今和歌集』ならではの面白さがあるようです。

 

・一刻の刻み見えざる風車  野衾

 

ん!? なにかあったか!?

 

仕事がらもあり、眼鏡をかけているとはいうものの、
齡相応に視力が落ちてきましたから、
見間違えが生じても、さほど驚かなくなりました。
きのうも、
対象物に近づくまで、
何の注意、はたまた何の警告だろう?
と、
ほんの数秒のことでしたが、訝しく思いました。
下の写真がそれです。
文中、

 

元気に通学されているお姿は駅だけでなく

私どもの心をも明るくしてくださいました。

 

とあります。
うつうつとした日がつづくこのごろにあって、
若い溌剌としたひとの姿は、
駅そのものを明るくしていたような気がします。
そのとおり。
まったくだ。
きのうが卒業式というひとも多かったのではないでしょうか。
駅員の方たちのはからいにも、
ありがとうと言いたいです。

 

・ゲラ読みのけふはここまで春の宵  野衾

 

『西遊記』の三蔵法師

 

このごろ電車内で読む本は、
岩波文庫の『西遊記』
10巻あるうちのただいま9巻目。
ふ~。
そろそろ終りが見えてきましたが、
いちばん印象深いのは、
ていうか、
怒りがもたげてくるほどアタマにくるのは、
三蔵法師がどうもダメ人間であること。
どう見積もってもエラいお坊さんとはとても思えません。
妖怪につかまるたびに孫悟空に助けてもらい、
そのときは、
感謝に堪えないようなことを口にするくせに、
しばらく旅をつづけ歩いていると、
たとえば8巻目の終りに近く、
妙齢の女性が木に縛り付けられ嘆いているところに出くわし、
「助けてやれ」
と悟空たちに指示する。
悟空は女性を見てすぐに、姿を変えた妖怪であることを見抜き、
そのことを三蔵に告げた
にもかかわらず、
三蔵は「この馬鹿ザルめ」
とかなんとか罵倒(ヒドい! ヒドすぎる!)
して、
有無を言わせず、女性の体を縛っていた縄をほどかせる。
かつて玄奘三蔵の『大唐西域記』を読んでいた
からよかったようなものの、
そうでなければ、
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」
のことわざどおり、
エラそうなことを言いやがってこのろくでなし!クソ坊主が!
と、
大っ嫌いになっていたかもしれない。
冷静になって考えると、
三蔵法師がそんなふうに描かれているために、
それだけいっそう孫悟空は魅力的に思えてきますから、
作者の狙いはそこにあったか。
孫悟空は、
『ラーマーヤナ』にも登場する猿の神ハヌマーンの影響のもとに造形された
とも言われていますから、
民俗における伝統と信頼が圧倒的だった、
ことの証かとも思えてくる。
ともかく。
これから結末までの間に、
三蔵法師のイメージがいささかでも修復されることを願うのみ。
きょうから三月。

 

・春宵の景少年の六十年  野衾

 

つげ義春のキリスト

 

仏教の原点はリアリズムで釈迦は凄いリアリストだと思えますね。
でも自分はキリストも好きなんです。
後のキリスト教団は嫌なんですけど、イエスの言葉は深いなあと思って。
一例を挙げると、
「貧しい人は幸いである、神の国はあなたがたのものである」
という言葉に出合ったとき、
直感ですぐ理解できたのですが、
後年の研究では貧しい人とは「乞食」のことだったのですね。
乞食は社会の枠組みからはずれ、関係としての自己から解放されています。
自己意識も消えて、生も死も意識されることがなくなり、
生きていることの不安も消える、
その状態こそが神の国、天国ではないですかね。
(つげ義春、山下裕二、戌井昭人、東村アキコ『つげ義春 夢と旅の世界』
新潮社、2014年、p.33)

 

『ガロ』の時代のつげ義春は知りませんが、
ていうか、
『ガロ』を買ったことはありませんでしたから、
『ガロ』とは別に、
つげ義春さんの漫画やエッセイを好きで読んできました。
病気をしたとき、
ゴソッと本を売って、
つげさんの本もそのなかに相当入っていたはずです。
なのに、
ふつうの状態に戻ると、また、なんとなく読みたくなって売ったものを買ったり、
新編集のつげさんの本を買いますから、
けっこうつげファンかも知れません。
つげさんを読みたくなるのは、
なんとなく、
疲れているときのような気もします。
もちろん、わたしの場合です。
疲れとは関係なく、つげさんのファンはいっぱいいるでしょう。
引用した箇所に「関係としての自己」
という言葉がありますが、
バランスを欠いて「関係としての自己」に向きすぎ、
重くなるときがあります。
大峰千日回峰行を満行した塩沼亮潤さんは、
「たいへんな行であったけれども、思い返せば、自分一人でできる行だったので、できた。
むしろ難しいのは人間関係ではないでしょうか」
とテレビで語っていました。
精神医学の根本は対人関係論である
と喝破したハリー・スタック・サリヴァンともひびき合い、
つげさんの本はおもしろく、
なんどでも読みたくなります。

 

・小さき庭なれど鳥よぶ梅の花  野衾