湘南も乗れーる

 

打ち合わせのため、岡田編集長と湘南深沢へ。
大船駅から初めて湘南モノレールに乗車。
小ぶりの車輛で、シートも小ぶり。
みじかい時間でしたが、
車窓から見える景色も初めて。
大船駅と湘南江の島駅を結ぶ線ということですから、
しばしの観光気分を味わえるかと思いきや、
景色も、車両も、
頭上で鳴るゴトゴトいう音も、
ふつうの日常と思え、
「湘南」から想像されるもろもろとは違っている気がし、
それがむしろ新鮮でした。

 

・蜥蜴の子ひらがな残し消えにけり  野衾

 

古代のリーダーたち

 

伝承はモーセがこの歌を歌ったと伝えている
(出エジプト記第15章1節、申命記第31章19節、30節)。
それどころかモーセは最も厳密な意味において、
つまり、
霊媒の働きに似た神に生きる詩人であったのである。
神はモーセに神の言葉の筆写をさせておられる
というのである。
「あなたたちは今、次の歌を書き留め、イスラエルの人々に教え、
それを彼らの口に置き、この歌をイスラエルの人々に対するわたしの証言としなさい」
(申命記第31章19節)。
(加藤常昭編訳『説教黙想集成 1 序論・旧約聖書』教文館、2008年、p.402)

 

上の引用文の冒頭「この歌」とは、詩編第90篇を指しています。
原著作者は、
スイスの著作家、改革派教会の神学者であるクルト・マルティ(1921-2017)
聖書のモーセについて、
このように解釈するのをわたしは初めて読みましたが、
柿本人麻呂や孔子に対する白川静さんの見方
とも重なり、
古代のリーダーたちの心性、
それと、
圧倒的な話し言葉の厚み、深さ、
いわば、ことばの海、
ということを考えずにはいられません。

 

・声無くも摘まめば強し蟬の羽  野衾

 

玄鳥

 

中国最古の詩集『詩経』に「玄鳥」という詩があり、
書き下し文では、
「天 玄鳥に命じ 降(くだ)りて商を生ましめ 殷の土の芒芒たるに宅(お)らしむ」
というふうに始まります。
この玄鳥、ツバメのことで、
中国古代の国のはじまりの象徴とされていたことが分かります。
さて、
ツバメといえば、
春風社のロゴはツバメです。
さらに。
『詩経』には風、または国風という
民謡に分類されるもの
がありますが、
『白川静著作集』の表紙には全巻、
この「風」一文字の卜字が大きく空押しされており、
(函にはさらに大きな卜字「風」の印刷)
ここにも春風社との縁を感じます。
ふたつともまったくの偶然
ではありますが、
ふかく文字とのつながりを感じ、
うれしくなりました。

 

・蟬しずか重さ無くして骸かな  野衾

 

こまめに

 

よく行く駄菓子屋に寄りましたら、
店番の、いつものおばあちゃんがいました。
煎餅と餡蜜を買っての帰りしな、
どちらからともなく世間話を持ち出し、
ほんのしばらく打ち興じるのがこのごろのならい。
「コロナコロナと騒いでいたら、
こんどは熱中症でしょ。
たいへんな世の中ですねー」
と、おばあちゃん。
「そうですねー。熱中症で緊急搬送されている人が増えているようです」
と、わたし。
「水分補給がだいじといいますけどね」
と、おばあちゃん。
「齢がいくと、体感がにぶくなるので、
時計を見て定期的に水分を摂るようにしたほうがいいみたいですよ」
と、わたし。
「そうなんでしょうね。
こまめに水分を摂らないといけないんでしょうが、
わたしは、
こまめに忘れますからね、困ったものです」
と、おばあちゃん。
ここで、わたくし大笑い。
「こまめに忘れる、ですか。面白いですね。それ、いただこうかな」
と、わたし。
「ほんとにこまめに忘れるんですよ。ははは」

 

・レンズ避け一目散の蜥蜴かな  野衾

 

直(じか)について

 

東京大学出版会が発行しているPR誌『UP』8月号に、
おもしろい記事が載っていました。
Kというイニシャルがありますから、
東京大学出版会の編集者だろうと思われます。
記事のタイトルは、
「対面で議論することの清々しさ」
久しぶりの研究会だったそうですが、
主催者の尽力によって、
参加者の間の距離をとり、それぞれの前にアクリル板を設置、
会場も、
参加人数に比して大きな場所を使用するという万全の態勢がとられたのだとか。
Kさんは、
そのときの様子と感想を次のように記しています。

 

研究会での参加者の方々のやり取りを聴いて、そして観ていて、
対面での議論はオンラインと比べ、
こんなにも情報量が多く、
しかし疲労度は小さいものなのだ、
ということを改めて実感した。
議論されている時の声のトーン、リズム、顔の表情、
そして発言されていない方々の姿勢、
さまざまな反応、同時に笑いがおこる時のスムーズさ等々、
オンラインの時にも同じようなことが起こっているはずなのに感じ取りにくいこと
の数々を身体全体で受けとめることはこんなに興奮する

ことだったのかと、
実に楽しい気分で二日間を過ごした。

 

この文章を目にしたとき、
2009年に亡くなられた演出家の竹内敏晴さんのことを思い出しました。
竹内さんは生涯「直(じか)」にこだわりました。
「直(じか)」がいかに人間を生き生きさせ、
直(じか)によって人は生きる、
竹内さんは、
そのことを演劇を通して証したのだと思います。

 

・その頃を思い出してる曝書かな  野衾

 

詩経の恋愛詩

 

白川静さんの文章は、漢文調といえばいいのか、
スッキリしていて読んでいて心地よく、
すらすらとはいきませんが、
お盆休み中、
けっこう読み進みました。
すると、
以下に引用するような箇所に出くわし、
謹直な白川さんの隠れた一面に触れたようで、
うれしくなりました。

 

全体的にいえば、これら小雅中の恋愛詩は、
様式的には最も民謡に近く、その発想においても感情においても、
大部分は国風と殆んど異なるところのないものである。
恋愛詩はもともと庶民的な発生をもつものであり、
貴族社会においては、祝頌詩から展開した恋愛詩を考えることができるとしても、
その社会の感情生活そのものが、
庶民社会ほどに解放的でありえなかったし、
権力や財力を欲望達成の手段とするような社会が、
恋愛詩のよき地盤でありうるはずはなかった。
(『白川静著作集10 詩経Ⅱ』平凡社、2000年、p.637)

 

・馬冷やす若き父の背見えにけり  野衾

 

箱根みやげ

 

ある方から『温泉たまごポテトチップス』なるものをいただきました。
下の写真が、その袋。
なんと言いますか、
ズバリ、ドーンの圧倒的迫力!
味はといえば、
ま、まさに温泉たまご。ポテチなのに…。
人工的なものが入っていないようで、
クセになりそう。

弊社は、本日より営業再開です。
よろしくお願いします。

 

・藪中に川魚居て馬冷やす  野衾