月に慰められる

 

「月」だけだと、俳句的には秋ですが、「冬の月」となると、
すさまじい感じが伴い、また格別です。
『新古今和歌集』1782番は、
慈円さんの歌で、

 

思ふことなど問ふ人のなかるらん仰げば空に月ぞさやけき

 

峯村文人(みねむら ふみと)さんの訳は、
「わたしの思い嘆いていることを、どうして、
問い慰めてくれる人がいないのであろうか。
仰いで見ると、空に月がさやかに澄んでいることだ。」
この歌は、
建仁元年(1201)二月に後鳥羽院が主催した「老若五十首歌合」の中のものですから、
冬の月を見ての感懐だったのかもしれません。
いま空にある冬の月も、
八百年前の冬の月も、
同じように人のこころを慰めてくれることが、
歌を通して知ることができます。
この歌の月について、
峯村さんは、真如の月を暗示すると注しておられます。
真如の月はこころの迷いを破る悟りを示す月、
と。

 

・凩や灯りの下に佇めり  野衾

 

哲学書を読むよろこび

 

仕事の関係もありますが、この仕事に就くまえから、
割と好んで哲学書を読んできた気がします。
西暦480年ごろに生まれ、525年ごろに反逆罪に問われ処刑されたローマの哲学者に
ボエティウスさんという人がいまして、
獄中で『哲学の慰め』を書きました。
この書名が今のわたしにはいちばんぴったり来ます。
哲学のことばは難しく、難しいのが哲学、
みたいな印象もありますけれど、
読んでいるうちに、
ほかの本では味わえない得も言われぬ、ほのかなよろこびに満たされることがあります。
哲学の本を読むことで慰められる、
哲学の本には、そういうところがあるようです。
岩波文庫の『哲学の慰め』は、
畠中尚志(はたなか なおし)さんの訳です。
このごろは、
ベルクソンさんの文章に慰められています。

 

まったく純粋な現在のなかだけに生き、
一つの外的刺激に、直接的反応でとっさに応えるというのは、
下等な動物[に類する人間]に固有の生き方である。
そのような生き方をする人間は、衝動的人物である、と言われる。
しかし、
過去に生きることを喜びとする人、
現在の状況には何の役にも立たない想起ばかりが意識の明るみに浮かび上がる
ような人も、また、
[衝動的な人よりも]行動に向いているとは言いがたい。
その人は衝動的人物ではないかもしれないが、
夢想的人物である。
この両極端の典型の中間に位置しているのが、
現在の状況が示す輪郭に精確に対応しうるほどには柔軟であり、
それ以外の呼び声には
断固として抗いうるほどには精力的である記憶機能[を持つ人]の示す、
うるわしい天賦の素質である。
良識といい、現実感覚というのも、どうやら、
それ以外のものではないようだ。
(アンリ・ベルクソン[著]竹内信夫[訳]『新訳ベルクソン全集2』
『物質と記憶――身体と精神の関係についての試論』
白水社、2011年、p.210)

 

ここに訳者である竹内信夫さんの注が付されており、その文にも、
ふかい共感を覚えます。
曰く
「ベルクソンは、1895年の講演「良識と古典研究」で、
良識とは「思考と行動の求めるものの内なる一致」である、と定義している。
哲学的議論のあいだに、
このような世間的教訓(しかし、それは常識=共通感覚の宝庫でもあるのだが)
に近い感想がふとこぼれてくるのが、
ベルクソン読者の何とも言えない喜びの一つである。
少なくとも訳者にとっては、
ベルクソンに限りない愛着と共感を感じる瞬間である。」

 

・冬の月一歩一歩の近さかな  野衾

 

疲れが吹っ飛んだ

 

休日出勤しての仕事のほとんどは、組んだ原稿を読みすすめることでありまして、
だったら家に持ち帰ってやれば良いではないか
と自分でも思うのですが、
実際、そうすることもありますけれど、
休日の仕事場の広々とした静寂がいまのわたしには好ましく、
いとわず出かけて行きます。
パソコンを立ち上げ、お香を焚き、
それからおもむろに、組んだ原稿の束を机の上に置き。
メガネを外して原稿を読みはじめます。
二時間ほどつづけるとちょっと疲れてきますから、
気分転換に、YouTubeで好きな歌を。
このごろのお気に入りは、
数年前テレビの番組で見たインドネシアのファティマさんがその番組で歌った
いきものがかりさんの「ブルーバード」。
その場に居合わせた人たちの驚きの表情もおもしろく、
見ていて飽きません。
ふと、
ハイフェッツさんの「ツィゴイネルワイゼン」を聴いてみようかな、
と思い入力すると、
画面横にHIMARIさんという少女の名まえが出てきました。
日本人の女の子のようです。
何気なくクリックし見てみることに。
……………
不覚にも、
右の頬をあたたかいものが濡らします。
くり返し見ているうちに、
少女の顔が興福寺の阿修羅像に重なっていきます。
疲れが吹っ飛び、
また原稿に向かいます。

 

・駅一つことば置き去り冬の旅  野衾

 

小さな発見、からだは繋がっている

 

お灸ファンみたいなところがありまして。
朝に晩にお灸をし、とくに寝る前には、足裏にある湧泉というツボの辺りに、
片足4壮、両足で8壮を据えていました。
そうやって体を横にすると、すぐに眠りにつくことができたので。
気分を良くし、習慣づいていました。
と、ある時、
家人から、このごろ咳き込むことが多いんじゃない、
お灸の煙のせいじゃないの? と指摘され、
アッと思いました。
たしかに、朝起きると、まず大きな咳を一つして、尾籠な話で恐縮ですが痰がでた。
気づくのが遅いぐらいでしたが、
自分のこととなると、こういうことが間々あります。
寝る前のお灸を止めて一か月ほどになりますが、
咳き込むことがなくなり、
痰もでなくなった。
さらに。
頸から後頭部にかけてのコリと痛みが減った気がする。
そうか。
アレはサインだったのか!?
そんなふうにも思います。
お灸の煙のせいで、気管支や肺にストレスがかかっていたかもしれない。
なにごとも、やり過ぎはよくないようです。
からだが繋がっているとは、子どもでも知っていますが、
お灸の煙が原因で、風が吹けば桶屋が儲かる式に、
つぎからつぎへと連鎖反応を起こし、
一見無関係なところに不具合が生じる、
ということを今回、
身をもって知った次第。
ひとつところを治すつもりが、そのせいで大元の体を傷つけてしまう、
角を矯めて牛を殺すということわざもありますが、
そんなことにならぬよう、
今後気をつけたいと思います。

 

・電磁波が宙を飛び交ふ冬の朝  野衾

 

辞典を作るこころ

 

だいたいの本の「はじめに」「あとがき」は読むのに、
辞典、事典の「序」「刊行のことば」「はしがき」「編集にあたって」となると、
この仕事に就くまではあまり、
というか、
ほとんど読んできませんでした。
ところが、いまの仕事を続けているうちに、
辞事典類の「序」や「刊行のことば」がいかに重要であるか
を思い知らされ、
遅まきながら、
これまで使ってきた辞事典類の「序」や「刊行のことば」を読み返している
きょうこの頃です。

 

辞典によっては,
それぞれの用語の正しい使用方法や本来の語義を考えて規範的な観点から記述する,
いわば現在の語の使用の誤りを正すという編集方針を採用するものもあろう.
しかし本改訂においては,
我々はこの方針はとらなかった.
「世直しを行わない」という原則である.
それは,
用語や概念は, 時代によりその意味や用法が変化していくものだという考え
に基づいている.
また, 使われなくなった古い用語や現在は否定され誤謬とされる古い概念などは,
新しい辞典に採録する必要なし, との立場もあろうが,
あらゆる時代の文献を読解するにあたっては, これらもまた無視はできない.
現在の用法のみを適切に記した用語集は, 各分野において常備されており,
本書の機能はそこにはない.
むしろ積極的に,
広範囲にわたってさまざまな用語や概念の消長をあえて記しておき,
生物学の俯瞰を可能にすることが,
学問科学の次世代の担い手を育成することに繋がると我々は考えた.
無論, 不適切な用語は時間とともに消えて行くだろう.
どの語が最も適切であるかは,
編者が判断するのではなく,
科学者コミュニティの中での語の長期の変化,
すなわち「用語の自然淘汰」に任せるのが望ましい.
ただ, 採択するべきはどの語か, すでに定着しているのはどの語か,
といった判断,
あるいは処理の手際が適切かどうかに関しては,
我々編者の責任である. 読者の率直なご批判をいただきたい.
(巌佐庸、倉谷滋、斎藤成也、塚谷裕一[編]『岩波 生物学辞典 第5版』
2013年、第5版序より)

 

こころの丈が感じられる、いい文章だと思います。
なお、この辞典は横書きの日本語ですが、横書きのため、句読点ではなく、
カンマ、ピリオドを使用しています。
このことについては、言わずもがなのことかもしれず、
とくに謳っていないようです。

 

・三寒の児を追ふ母の背中かな  野衾

 

無理に剥がさない

 

きのうのつづきのことですが、
「どうしてそんなこと言うの?」「そんな言い方ってある!?」
「クソッ!!」
と、腹に据えかねた場合、
腹に据えかねるだけでなく、こころに少なからず傷を負うことが間々ありまして。
そうすると、
「どうしてそんなこと言うの?」「そんな言い方ってある!?」
「クソッ!!」
まずいまずい。ほかのことを考えなきゃ。
とは思うものの、
同じことばが頭をめぐり、やりくりを始めます。
こうなるといけません。
まるで、
傷を負ったときに、放っておかずに、
直りかけたかさぶたをしょっちゅう触ってみたり、挙句の果てに剥がしてみたり
するのにも似て。
どういうのか、ひとつの癖みたいなものでしょうけれど、
これが、わかっちゃいるけどやめられない。

 

【かさぶた】痂皮(かひ)とも。
皮膚が創傷を受けたとき、傷口から浸出した血液や組織液が乾固したもの。
炎症や化膿(かのう)を伴うこともあるが、そうでない限り、
その下に表皮が新生して自然に脱落する。
むりにはがすと、治癒(ちゆ)が遅れ、瘢痕(はんこん)を残すことがある。
(百科事典マイペディアより)

 

引用した説明文の「皮膚」を「こころ」に置き換えると、
ひとのことばによって受けた傷にもピタリ当てはまるようです。

 

・商店街火点しごろの冬の月  野衾

 

怒りについて

 

アメリカの精神医学者ハリー・スタック・サリヴァンさんは、
精神医学は対人関係論であると喝破しました。
紀元前後ローマのストア派の哲人セネカさんに「怒りについて」の文章があります。
じぶんじしんに怒ることもあるけれど、
多くの場合、
他人に対して怒りは生じます。
「どうしてそんなこと言うの?」「そんな言い方ってある!?」
「クソッ!!」
腹に据えかねる。
どうにもこれは厄介な問題で、
一筋縄ではいきません。
いろいろ思い悩んでいるうちに、じぶんがおかしくなってくることもあります。
吉井和哉さんの「みらいのうた」は好きな歌ですが、
その歌詞に
「怒りもあるならば素直に出せばいい」
とありまして、
なかなか実人生でそんなふうにはできないけど、
歌うしかない、思いの深さが感じられます。

 

結局、どこに行っても一緒なんやなあ。100%満足できる環境はないんです。
だから大事なのは、
「今いる場所で、どうしたら己が快適に過ごせるのか」
を中心に考えることやと思います。
他人さんを変えて快適にするのではなく、
「自分がどう動けば快適になるやろうか」
「ここで気持ちよく過ごせるようになるやろうか」
なんです。
ハッキリ言ってしまうと、
他人さんを変えることなんか無理。
100%不可能とは言いませんけど、ちょっとそっとの努力では、
人の考えやふるまいは変わりません。
あの手この手を使って、
何年も十何年も徹底的にめんどうを見る。
それくらいの覚悟やエネルギーが必要になるもんや
と思ったほうがええでしょう。
(中村恒子・奥田弘美[共著]『心に折り合いをつけて うまいことやる習慣』
すばる舎、2018年、p.51)

 

「思ったほうがええでしょう」
そうか。
そうだろうなあ。
中村恒子さんは1929年生まれの精神科医。
この本は奥田弘美さんの聞き書きによるものです。
奥田さんは、内科医だったそうですが、
中村恒子先生と出会ったことをきっかけに精神科医に転科したとのこと。

 

・コーヒーの香りや味や冬ざるる  野衾