祖母のおしえ

 

先だって、ひさしぶりに叔母と電話で話す機会がありました。
何ごとによらず、
気が置けないひさしぶりのひとと話すのはたのしいわけですけど、
いろいろ話しているうちに、
話題は祖母のことに。
子どもの頃、
わたしは、おじいちゃんおばあちゃん子で、
とくにおばあちゃんに懐いていた。
叔母にとっては母ですが、
母から訓えられたことで、
いまも忘れず憶えていることがある、
と。
わたしも祖母からいろいろなことを訓えられたと感じていますが、
叔母にとってのだいじな教訓がなにか、
的を絞ることはできませんでした。
「なに?」
叔母がいうには、
それは、一度口から出てしまったことばは、口に戻せない、
ということ。
幾度となく言われたと。
だから、
いまも忘れずにいる…。
貧しくて小学校にも行っていない祖母でしたが、
人生の修行から得られたことばは尽きぬ滋味にあふれ、
叔母もわたしも、
それをたいせつに日々の暮らしに生かしている。
亡くなる数日前、
入院先の病院で会ったのが最後になりましたが、
そのとき祖母は、わたしの手をつよく握り、
「ふとに負げるなど!」
と言った。
「ふと」は人、「負げるなど」は、負けるなよ。
以前、拙著にも書いたことですが、
そのときは、
「ふと」はひょっとしたら自分を指しているか?
とも感じてそう書いた。
しかし、いまは、「ふと」はやはり他人を指しているだろうと思います。
コミュニケーションにおいて、
じぶんの弱さに発し、
弱さに耐えられず、
言わなくてもいいことばをつい口にし(その時点で負けている)、
対手を傷つけてしまう。
一度口から出てしまったことばは、
口に戻すことができない。
(じぶんの弱さに負け、対手に負ける。対手がいるから、じぶんに負ける)
「いい人と歩けば祭り、わるい人と歩けば修行」
と言った盲目の瞽女・小林ハルさんのことばを思いだします。
ことばは、薬にもなり毒にもなる、
というのはほんとうです。

 

・ありがどなー電話の母を夏の雲  野衾

 

川柳発見

 

田辺聖子さんの『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代』
を読まなければ、川柳のおもしろさを知らずに終ったかもしれません。
NHK俳句、NHK短歌はあっても、NHK川柳はないし、
それぞれつどう仲間を、俳壇、歌壇といったりしますが、
柳壇という熟語が、
わたしのつかっている国語辞書には出ていません。
また、
わたしの有っている古代から現代までの詩歌をあつめたアンソロジーでも、
川柳は採られていません。
しかし、
田辺さんのこの本で採り上げられている川柳は、まさに、
尽きぬ滋味にみちてい、
悲喜こもごもの人生の味わいがあります。
これまで、なんとなく、駄洒落っぽいなぁ、と、不遜なことを思っていました。
わたしが知らなかっただけで、
川柳、川柳家に対して申し訳ないことでした。
俳句の花鳥諷詠に対し、人間諷詠というのも、なるほど。
この本には、岸本さんをはじめ、
多くの人の味わい深い川柳が紹介されていますが、
まず岸本さんのもので、
もうぜったい忘れないであろう作品、

 

人間の真中まんなか辺に帯をしめ

 

は、つくづくいいなぁ、
と感服。
人間を詠ってかつ句柄が大きいというのか、
俳句でいえば、
「荒海や佐渡によこたふ天の河」「五月雨や大河を前に家二軒」のごとく広大、
かつ滋味ゆたか、深邃な世界に触れるよろこびがあります。
田辺さんによれば、
岸本さんは、
「柄の大きい作品を示したが、またズレを楽しむ人でもあった」
そうで、
そんな人柄がこの本にはよくでていると思います。

 

・端居して古書の頁の暗きかな  野衾

 

その時代

 

田辺聖子さんの『道頓堀の雨に別れて以来なり』にはサブタイトルが付されてあり、
「川柳作家・岸本水府とその時代」。
伝記・自伝は、人物を描きますが、
その人が生きた時代から人物だけを抜きだして描くわけにはいきません。
岸本水府さんは、
1892年に生まれ、1965年に他界されていますので、
時代としては、明治、大正、昭和、ということになります。
岸本さんを灯台にたとえると、
その灯が照らす人びとの風情、織り成す情愛のこもごもがふわり浮かび上がってきます。
以下の文章を読みながら、
『男はつらいよ』の第17作「寅次郎夕焼け小焼け」を思いだしました。
マドンナは太地喜和子さん。
芸者ぼたんを演じています。

 

絵葉書屋の店頭にある美人写真ブロマイドは全部芸者のそれであった。
大阪の八千代、東京の万龍は全国的なスターだった。
芸者の意気地や気持の張りは芸に関する自信から来ている。
その修業のきびしさは一通りのものではない上に、彼女らは社交のプロであらねばならない。
客には無論、
朋輩・先輩、師匠からお茶屋の内儀・仲居・女中に至るまで受けがよくなくては、
この商売は張ってはいけず、
といって功利打算や冷酷の本性を嘘で固めてよくみせようとしても、
人間関係だけで成立しているような色まちでは、
瞞着しきれぬものがある。
そういう時代に、
ぬきんでて評判のいい芸者になろうとすれば容色や芸は当然として、
心根が一流、
というものでなければ、人に認められなかったろう。
ことにも素人の女たちが芸者に太刀打ちできなかったのは、
きびしい芸の修行に鍛えられた立居振舞の美しさ、
人をそらさぬ如才なさ、
打てばひびく応酬などであったろう。
女性全般の知的水準は徐々にあがり、教育も普及していたが、
それは良妻賢母育成のためであって、
当時の日本社会では女性の素のままの魅力(肉体的にも精神的にも)
を引き出すような教育ではなかった。
たいていの女たちは、
おのが才能や魅力を磨かないままに終ってしまう。
天与の美質を磨く機会をもてた女たちはごく少数であった。
一般の女たちは野暮で迷妄にみち、
教えられた規矩にしたがい、
道を外すまじということだけにすがって生きていた。
そういう社会で、
磨きに磨きぬかれたある種の女たちは、男にとってどんなにめざましくみえたか、
多情多感の若い水府の目には、
「日本女性の中で、これ以上の美と愛情の結晶はあるまいとまで」
見えたのである。
この愛情というのは説明が要る。芸者たちはみな、
男にやさしかったのだ。
(田辺聖子[著]『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代(上)』
中央公論社、1998年、p.246)

 

わたしはいわゆる芸者遊び、お座敷遊びというものを知りません。
なので、
たとえば「寅次郎夕焼け小焼け」の芸者ぼたんの立居振舞から、
そういうものかなぁと思ってきた程度ですけど、
引用した田辺さんの文章に触れ、合点がいくと同時に、
背景にある社会の様相、教育のあり方、時代背景、文化状況を垣間見た気がします。
そこには、きらりと光る批判もこめられていると感じます。

 

・谷崎を秘密めかして読む夏日  野衾

 

外の世界がある

 

16日の金曜日から三日間、新幹線で秋田に帰省しました。
大曲駅を出ると、進行方向が逆になり、うしろ向きに電車は走ります。
大曲を過ぎればつぎは秋田。
11時27分、秋田駅着。
暑い暑い。
秋田の気温としてはことし最高の35度。
それもあって、三日間、一歩も外に出ることなく、
家に居た。
歩行がむずかしくなった齢89の母を、明後日には93の誕生日を迎える父が介護しながら、
それでもなんとか暮らしを維持していました。
父も母も、
また、ふたりにくらべればそれほどではないとはいえ、わたしも、
耳が遠くなったので、
交わす会話はひつぜん叫びに近くなる。
とくに趣味のないふたりなので、もっぱらテレビのスポーツ番組を見ている。
甲子園の高校野球があってよかった。
テレビはまた、
大音量のため、四六時中、明るい映画館の中に居るみたいなもの。
本を読むのは、ふたりが寝室に退いている間のみ。
わたしの鏡に父と母が写りこみ、父の姿、母の姿を鏡にわたし自身が写しだされる。
重力にはさからえず、気持ちがだんだん墜ちてゆく。
それをじっと見つめていたとき、
不意にあることばが閃いた。
「すべて世は事も無し。」
上田敏さんが訳したロバート・ブラウニングさんの詩「春の朝」の一行。
訳詩集『海潮音』にある詩の全体は、

 

時は春、

日は朝あした

あしたは七時、

片岡に露みちて、

揚雲雀あげひばりなのりいで、

蝸牛かたつむり枝に這ひ、

神、そらに知ろしめす。

すべて世は事も無し。

 

映画館の中に居れば、そこだけが世界であるように感じるけれど、
映画が終って館の外にでれば、そこに、厳然と世界がある。
「すべて世は事も無し。」
ことばでいえば、そんなふうですけど、
そのことを、
なにかと気分が沈みがちな三日間ではありましたが、
その時間のおかげで、
いままでなんとなく好きだった詩のことばが、これまでとちがった相貌を有ちはじめ、
ちがった光を放ち寄せくる気がしました。
「知ろしめす」は「領ろし召す」であり、お治めになること。
それは、ありがたく、
また悲しい希望であると思います。

 

・大曲過ぎて浮き立つ帰省かな  野衾

 

人間の貫目

 

田辺聖子さんの本を、ゆ~っくり、の~んびり、読んでいます。
そうかぁ。なるほどなぁ。
川柳もいいなぁ、とかとか、思いながら。
肩の凝らない文章でありながら、きりりとしてい、
お会いしたことはありませんでしたが、お人柄がほうふつとなります。
と、
ときどき、
「ん!?」と目が止まる箇所があったり。
「貫目」というのは、ふつう「重量」「めかた」のことですけど。

 

「番傘」創刊号の句の中で私の好きな句を拾ってみたい。
旗挙げの句といっていい當百の、
「上かん屋ヘイヘイヘイとさからはず」
は、
以前に私が出した『川柳でんでん太鼓』にも取りあげた。
上燗屋はおでん燗酒の一ぱい飲み屋である。
キタにもミナミにもそんな店はあるが、
現代ではおでんやもチェーン店などになっていて、
きびきびした姐さんたちがニコリともしないで、効率的に客をさばいている。
これはそんな店ではない。
都会なれば場末の、
あるいは郊外の駅裏の盛り場などを出はずれたところ、
昔ながらの古い店、
大鍋にぐつぐつと関東煮かんとだき
(大阪ではおでんのことを、かんとだき、という)、
蒟蒻こんにゃく厚揚、豆腐に卵、親父さんは酔っぱらいを相手にしなれているから、
何をいわれても、ヘイヘイヘイ、だ。
「悪口は聞き馴れて居る上燗屋」 當百
ヘイヘイヘイは卑屈や迎合ではない、客の気分への暖い心くばりである。
「上燗屋惚気のろけ笑つて聞いて居る」 〃
親父さんは店じゅうの客の気分を一瞥で見て取り、
うまい肴と熱い酒で客がくつろげるような雰囲気にもってゆく。
その対応がヘイヘイヘイである。
こういうのが、
〈おやっさん〉(店の親父)または〈おっさん〉の教養の度合である。
私はそういう教養を
〈プロ意識とよく釣り合った人間の貫目かんめ
と呼びたいのである。
(田辺聖子[著]『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代(上)』
中央公論社、1998年、p.222)

 

當百というのは、西田當百さんのこと。
當百さんの「上かん屋ヘイヘイヘイとさからはず」の句中、
三度くりかえす「ヘイ」の二回目三回目は、正確には、踊り字になっています。

 

・音たてて利休鼠の夕立かな  野衾

 

庶民文化の根

 

仕事柄もあると思うのですが、なにが書かれているか、と同じぐらい、
ひょっとすると、
それよりすこしウエイトがかかるぐらいに、
どういう書きっぷりであるかが、以前とくらべて気になります。
内容をすぐ忘れるから、かも知れませんが。
ともかく、
このごろ田辺聖子さんの文章が、いいなぁ
と、しみじみ思います。
田辺さんは川柳がお好きなようで、
『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代』
という本を書かれていますが、
本のなかで紹介される川柳の味わいと相まって、
田辺さんの文章の味を堪能できる本であると感じ、ゆっくり、おもしろく読んでいます。

 

――こういう教養が、むかしの日本人をかたちづくっている。
そういえば、
司馬遼太郎氏の『菜の花の沖』で高田屋嘉兵衛が浄瑠璃本をつねに読んでいた
ということを教えられた。
一介の廻船業者ながら、
情理そなわって芯の通った嘉兵衛の見識は
浄瑠璃本によって涵養かんようされた教養であるらしい。……
庶民文化の根をもう一度探りたいような気が、
私にはしている。
この間私は、
興深い文章を読んだことがある。
日本経済新聞の文化欄に寄せられた山田風太郎氏の「深編笠の太平記読み」
なる一文である(平成2・11・11)。
『太平記』は文学性や史書としての価値はともかく、
後世に与えた影響はまことに大きい、
といわれる。
「太平記読み」なる浪人を蔟出そうしゅつせしめたのだ。
講談の源流である。
彼らは『太平記』のさわり所を朗々、哀々と読みあげる。
名場面のいくつかはそうして民衆の耳へ染みこんだ。
ことに楠公討死はそのクライマックスである。
古来から、
どれほど日本の民衆に愛されたか。
山田氏は
「かくして忠臣楠公は定着し、遠く太平洋戦争にも影響を与えたのではあるまいか」
といわれるのである。
山本五十六は一度は三国同盟に反対した。
しかしひとたび連合艦隊司令長官となってアメリカと戦うことがきまったあとは、
「もはや異論は口にせず、躍々やくやくとして真珠湾奇襲の作戦にとりかかった」。
そこには廟議ひとたび決したあとは、
武人たるもの異論を申したてるに及ばずと湊川へ駆けつけて討死した、
正成の影響はなかったか、
といわれるのである。
――民族伝統の奥深いところにずっと蠢動しゅんどうしている、何かがある、
芝居も落語も講談もその一部であり、
「川柳」という文学ジャンルもまたその根に繋がるのではないか
と私は思っている。
(田辺聖子[著]『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代(上)』
中央公論社、1998年、pp.42-43)

 

すぐに役立つことはなくても、教養としての読書、
というのは、
古びることはないのではないでしょうか。
古代ローマの政治家で、カエサルに抗し、後に自害した小カトーが
死を前にしてなお、プラトンを読んでいたというのも、
同じことのような気がする。
けっきょく、根にかんすることなのだとおもいます。

弊社は本日より通常営業となります。
よろしくお願い申し上げます。

 

・とりあへず人事沙汰止む夕立かな  野衾

 

ゲーテさんと寅さん

 

『寅さんとイエス』という本がありますが、きょうは「ゲーテさんと寅さん」。
森鷗外さんも愛読していたという『ゲーテ その生涯と作品』
を、毎日ちょんびりちょんびり読んでいて、
へ~、とか、は~、とか、え! そうなの!? とかとか。
知っているはずの人の、知らなかったエピソードを読むのも、
伝記を読むたのしみの一つ。

 

荘重に、しかもいたずらっぽく、老詩人はこの話の続きをこう書いている。
「わたしの不思議な生涯の経歴の途中で、
婚約者の気分を味わえたのは、
わたしたちを高いところで統べておられる方の奇妙な裁定であった。」
しかしこのように述べるとき、
ゲーテの念頭にあった快適な心地よい満足感は、
驚くほど急速に彼の心から消えていったのである。
婚約指輪に拘束されたとたん、
彼はもうそれをふたたびやすりで切断したいと思う。
フリーデリーケのときと同じ企みが繰返される。
ただ、
危険が大きければ、戦いもそれだけ熾烈しれつだった。
婚約の二、三週間前、
ゲーテは『シュテラ』のなかで、フェルナンドの仮面をつけてこう叫んでいた。
「鎖につながれるとしたら、
おれもとんだ愚か者だよ。こういう状態はおれの力という力を全部窒息させてしまう。
こういう状態は魂の勇気を全部おれから奪ってしまう。
おれを袋小路に追い詰める。
おれは絶対に自由な世界へ逃げてみせる。」
彼のあらしのような自由への衝動が、
彼の人生の船を捕え、たった今近づいたばかりの家庭的幸福という港から、
ふたたび広大な外界へほうり出してしまうのである
(一七七五年五初旬のヘルダーあて書簡参照)。
「おれは絶対に自由な世界へ逃げてみせる。」
これは婚約後ゲーテがいだいた最初の明確な、揺るぎない考えだった。
(アルベルト・ビルショフスキ[著]高橋義孝・佐藤正樹[訳]『ゲーテ その生涯と作品』
岩波書店、1996年、p.253)

 

ここで言われている婚約者の名前はリリー。
『男はつらいよ』で浅丘ルリ子さん演じるマドンナの名前がリリー。
たまたまといえば、たまたまんでしょうけど、
ちょっと気になります。
『男はつらいよ』のなかで、
寅さんとリリーさんをいっしょにさせよう、
そうなればうれしいな、という流れの段があります。
さくらからそのことを告げられたリリーさん、まんざらでもない様子で肯う。
寅さんが帰宅して、
その話題をさくらが口にすると、
「え!? 冗談なんだろ、そうなんだろ。な、リリー」
なんてことを寅さんが言う。
それをうけてリリーさん、
「冗談さ。冗談に決まってんだろ」。
そのときの間とセリフの絶妙さは、何度見ても感動します。
寅さんの已むに已まれぬ衝動が、
「たった今近づいたばかりの家庭的幸福という港から、ふたたび広大な外界へほうり出してしまう」
のだ。
というわけで、
なんだかゲーテさんと寅さんが重なって見えてくる。

明日(8/10)から8月15日まで、弊社は夏季休業。
16日から通常営業となります。
よろしくお願い申し上げます。

 

・朝涼やまずゴミネットの組み立て  野衾