人につまずく

 

ふと、わたしは自分のことをどれだけ知っているだろうか、と思うことがあります。
六割ぐらい? いやもう少し、七割ぐらい?
いやいや、とてもとても。
せいぜいのところ三割、ひょっとしたらそれ以下かも。
そういう感じ方は、
これまでの実体験から来るところと、
共感をもって読んだ本によるところもある気がします。

 

そこで私はキリスト者というもののあり方には、
二種類ありはしないかということを考えさせられるようになってきた。
一つは自己完成的ともいうべきあり方で、
他は自己超越的ともいうべきあり方である。
自己完成的のあり方とは、他人がその人を見る場合、その人しか見えない場合である。
その人がりっぱであればあるほど、
「その人」がりっぱに見えるという人である。
こういう人のりっぱさは、
その人自身を尊敬させるりっぱさで、
それ以上のものをさし示さないというりっぱさである。
ところが困ったことには、
こういう人の場合に、
前述の「つまずき」が起こりやすいのである。
というのは、
この意味におけるりっぱな人でも
――人間であるかぎり、完全な人というものはないから、
その近くにおり、親しくなれば必ずこの欠陥や、イヤなところが見えてくる
ものである。
欠陥やイヤなところといわないまでも、
近づく人は、
彼とは個性的に違っているのだから、
いつか不満を感ずるようになるものである。
この時その尊敬者はたちまち彼につまずくということになる。
こういう場合が非常に多くみられる。
しかるに第二の「自己超越的」とよばれうるあり方をもつ人には、
こういうことはあまりない。
この自己超越的なあり方をもつとは、
その人のあり方が、
何かその人だけでなく、その人を越えたものをさし示す、
というようなあり方をいうのである。
よくいわれる「あの人は変な人だが、なんとなく異なったところがある」
というような人である。
こういうあり方をもつ人においては、
その長所も短所も、
いっさいがその人自身を示すというよりは、
その人を越えた「なにものか」を示しているし、またそれを示すために役立っている。
したがって逆説的にいえば、
その人の短所や欠点が、目だてば目だつほど、
強ければつよいほど、
その人との関係をもっている人々は、
彼の示しているその「なにものか」をよりあざやかに指示される
ことになる。
だからこの人の場合には、
その関係者がつまずくということがあまり起こらない。
(渡辺善太[著]『渡辺善太著作選 1 偽善者を出す処 偽善者は教会の必然的現象』
ヨベル新書、2012年、pp.104-105)

 

・夏草やトゥーキュディデースの夢止まず  野衾