久保正彰さんの日本語訳によってトゥキュディデスさんの『戦史』を読みました。
岩波文庫で上中下三冊ありますが、各巻に充実した訳注が付されています。
たとえば下巻の訳注は125頁分。
訳注とあわせ読むことで、
久保さんがいかにアクチュアルな問題意識をもってこの仕事をされたのか
が分かった気がしました。
そのことをとおして教科書で習ったトゥキュディデスが
ようやく身近になり、
さん付けで呼びたくなります。
なので、
本はまた、著者、訳者からの手紙でもあります。
久保さんは翻訳の最後に「後記」として、つぎのように述べられています。
トゥーキュディデースにとって、
「戦史」の記述は己れの生命のあるかぎり完成するところのない、
補正と加筆のはてしない道程を意味したことであろう。
大戦二十七年目にアテーナイが降伏し長城壁が破壊される場面まで、
かれの筆が進んでいたと仮りに考えてみても、
歴史家としてかれはまだ何かを書き加え、
この大事件の核心になお一歩迫るための努力を最後まで惜しまなかったであろうと思う。
周到なる準備によって集められる限りの史料をあつめ、
その一々に厳密な吟味を加え、
事実を明確に再現し、
そしてさらに
その背後にあって事件のモーメントをあやつる人間の心理的諸力
にまで光をあてようとする、史家の客観的な論理の道は、
戦争を記述しながらなお戦争記述の範囲にとどまることに甘んじない。
人間が人間であるかぎり、これが脱しえない桎梏なのである
という論理的な解答に達するまでは、
一つの事件の記述は完結されたとは思えない。
かれに「戦史」を書かしめた苦しみはそれほどに大であり逃れがたく、
またかれが歴史記述によって到達を望んだ目標は、
宗教的な解脱に近いものであったと言っても過言ではない。
そしてその鍵である真実が、
彼岸にではなく、
生けるがままの人間の言動に求められなくてはならなかったところに、
悲劇的なアイロニーがあった。
(トゥーキュディデース[著]久保正彰[訳]『戦史(下)』岩波文庫、1967年、
pp.367-368)
上の文章に触れられているとおり、トゥキュディデスさんの『戦史』は未完
に終っています。
なんらか事情があってのことだったのでしょうけれど、
理由・原因とはべつに、
そのことの意味に思いをいたすとき、
それが21世紀のいまに託された悲願であるとも感じます。
・見えねども屋根に目を上ぐ盂蘭盆会 野衾