ヘロドトスさんの『歴史』、トゥキュディデスさんの『戦史』を読み、
「人間とは何か」を考えてみた。
というか、むしろ、考えさせられました。
とくに、徹底してペロポネソス戦争を描く『戦史』を通じて、
以下、三つのことを。
一つ目。
人間の精神は、『歴史』や『戦史』の頃とくらべ、
ほんの少しも進歩していないのではないか、
ということ。
これまでは、なんとなくだけど、
物質的な面での進歩にくらべ、精神はゆっくりとしか進歩しないのかな?
みたいに考えてきましたが、
ゆっくりもなにも、
ひょっとしたら、精神はまったく進歩しないのではないか、
そんなふうに感じた。
二つ目。
ソクラテスさん(その精緻化であるプラトンさんの対話篇)に始まる哲学の歴史には、
そもそもペロポネソス戦争を背景にし、人間同士が戦わずして、
もっといえば、
人を殺さずに生きていく知恵をもとうとしての切実な願い
が籠められているということ。
岩波文庫の『戦史』中巻に「メーロス島対談」が収められています。
権力を笠に着たアテネの代表とミロス島の代表との対話で、
読んでいて、胸に迫ってくるものがあります。
けっきょく、
ミロス側はアテネ側の逆鱗に触れ、紀元前416年、島の男はすべて殺され、
女と子どもは奴隷にされたと『戦史』は告げています。
哲学を学ぶ根本がここにあると初めて腑に落ちた。
三つ目。
これまたなんとなくですが、
戦争というのは平和が乱された異常事態であって、ながくつづくものではない、
なんとなく、そう思ってきました。
思いたかっただけ、かもしれませんけど。
ところが、
『歴史』『戦史』を通して読むと、
いやいや、そんなことは言えないのではないか、
言えない言えない、
むしろ戦争が、
愚かな人間という動物の通常であって、
戦争のない状態というのは、倦まず弛まず、日々、新しく勝ちとっていく、
そういうものではないのか、
と思えてきた。
トルストイさんの『戦争と平和』は、
「戦争と平和」であって、
けして「平和と戦争」という並びではない。
そのことの意味も、
こんかい改めて考えさせられました。
・梅雨は梅雨そのときどきに相応しく 野衾