木下愛日さん

 

田辺聖子さんの『道頓堀の雨に別れて以来なり』は、サブタイトルが、
「川柳作家・岸本水府とその時代」ということで、
この本には、
水府さん以外に、多くの川柳作家の句が取り上げられています。
初めて知る方々の川柳を読みながら、
じぶんの無知を恥じるとともに、
句に表現されたことばから、それぞれの人生を想像し、
ことばの味を嚙みしめています。

 

またもや、木下愛日さんの句から。
「こども寝てしまへば金の要る話」 以下、愛日
愛日さんの句は声調うるわしくととのい、いつも清らかである。
金の話なのに品がいい。
ことにも子供(愛日さんの句ではいつも、こども、だ)
に関する句は高雅で柔和である。
「手をあげて眠るこどもにそつと秋」
「お父さんうちにお金がありますか」
この子の姿は光芒を曳いて聖性をそなえ、愛憐の思いをそそられずにいられない。
「鯉のぼり薬のむ子と思はれず」
虚弱体質の子らしい。
「叱られて寝る子が閉めてゆく襖」
「友だちは買つてもらつた子の寝顔」
子供がねだったのは玩具か、着るものか、はきものか。
愛日さんの家庭はリッチなブルジョアではない。
つつましい給料生活者なれば、
無駄な買物はできないと子供をたしなめたのであろう。
……でも友達はみんな買ってもらってるのに、
と子は子なりの辛さでしおしおと寝にゆく。
――友だちは買ってもらった子の寝顔
……この作家は水府と南北と夢路を足して三で割ったようなところから、
すぐれた新芽を出し、やがて独特の境地に花開いた感がある。
「清貧は鏡にうつる白の足袋」
ほそい面相筆であえかに描きながら、愛日さんのキレはするどい。
(田辺聖子[著]『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代(下)』
中央公論社、1998年、pp.366-367)

 

引用したところの愛日さんの子供の句は、ことばがありません。
映像が浮かんでくるばかり。

 

・塀を曲がりやがて轟く吾子のこゑ  野衾

 

愛とユーモア

 

田辺聖子さんの本のことを何度か書いていますが、しみじみ、なるほどなぁ、
と、おもしろくてたまらない。川柳、やってみようかな、
という気持ちになってきた。
ていうか、
スマホのメモ帳に、俳句とは別に、川柳らしきものをすこし残しています。
ということで、きょうもまた書きます。

 

遊びには馴れていたのが花又花酔、彼は縁日商人の取締り、花又一家の跡取りで、
この花又一家は
おでん・綿菓子・電気飴・しんこ細工・飴細工・いか焼・蛸焼
などを縄張に扱っていたという
(『川柳のすすめ――鑑賞と作り方』浜田義一郎・神田仙之助・渡辺蓮夫編、有斐閣刊)。
神田旅籠町はたごちょうの生れ。
尤も花酔はのちに芝居の肉襦袢にくじゅばん絵師に転じている。
『川柳総合事典』によれば
「戦後は日本でただ一人の無形文化財的存在」だったそうである。
花酔は明治二十二年生れだから三太郎より二歳年長だ。
廓吟くるわぎんの第一人者といわれ、
廓や遊女の句に佳吟が多い。
新興川柳推進派からみれば唾棄だきすべき句境かもしれないが、
遊女への哀憐切々たる句に心搏たれぬものがあろうか。
川柳世界は渺茫びょうぼうとして無辺際むへんざい
猫の額のような尺寸の定義をかぶせないでほしい。
私の解釈でいえば、
そも川柳は〈個〉と〈座〉の二面の芸術性をそなえている。
しかも個は座の文芸にも通ずる面をもち、
座の文芸にも個の背骨がある。
いや、
なくては座の文芸にならない。
川柳を性急に狭窄きょうさくせず、
浩々こうこうたる天地の間に解き放ってほしい。
そしておのずからそこに、
作り手の個性、座の気韻きいんがただようものであらまほしい。
もしそれ何かの共通項を探すとすれば、
愛とユーモアであろう。
文芸には客観性が要求されるが、ユーモアほど客観で成立しているものはない。
ともあれ、
花酔を有名にした句は、
「生れては苦界死しては浄閑寺」以下、花酔
である。
浄閑寺は娼妓遊女の投げ込み寺であった。
引き取り手のない遊女の亡骸なきがらは、荒菰あらこもに巻かれて
ここへ投げ込まれる。
いま東京都荒川区南千住二丁目の浄土宗浄閑寺に
この句が刻まれているというが、
私はまだ見ていない。
(田辺聖子[著]『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代(上)』
中央公論社、1998年、pp.541-542)

 

つよいいい方に、川柳愛がみちていると感じます。
ユーモアは、辞書を引くと、いろいろに定義されてでてきますが、
わたしの解釈でいえば、
それはじぶん自身を客観的に見「じぶんを笑う精神」
であると思います。
ひと様をわらうのではなく、じぶんを笑う、
じぶんを笑わない人の文章、発言は、読んでいて、聞いていて、苦しくなる
ところがあります。
だれにいわなくても、
自身、半生をふり返れば、笑わずにいられません。

 

・明日知らぬけふときのふを生きて夏  野衾

 

ゲーテさんと『聖書』

 

どのジャンルかにかかわらず、欧米のひとの伝記を読むときのたのしみの一つに、
『聖書』をいかに読んでいたのか、ということがあります。
たとえば、
ハインリヒ・モルフさんの『ペスタロッチー伝』を読むと、
牧師になることを志したぐらいのひとですから、当然かも知れませんが、
ペスタロッチさんが『聖書』を自家薬籠中のものにし、
かれの日々の営みに生かしていたことがよく分かります。
ビルショフスキさんの『ゲーテ その生涯と作品』に、
以下のような記述があり、
目をみはりました。
ゲーテさんがシチリア島を旅していたときの話。

 

帰路は往路よりなおいっそう不快だった。風向きが悪く、船も居心地が悪く、
旅客を満載し、
しかも土地の人たちがその知識を信用していない船長と舵手が船を動かすというありさま
だったのである。
三日目の夕刻にはカープリ島とミネルヴァ岬の中間に来ていた。
完全な凪の状態だった。
それだけにいっそう旅客の動揺は激しかった。
彼等の言うところによると、
船長の不手際のために船がカープリ島の周囲を流れる潮流に巻き込まれ、
島の暗礁に乗り上げる危険が生じた。
危険が近づくにつれて人々の興奮も高まった。
全員が甲板にあがり、
まだ救助方法を考えあぐねているようにみえた船長に激しく詰め寄った。
ゲーテはこのような状況を目の辺りにして、
これ以上なにもしないで手をこまぬいていることはできなかった。
騒げば乗組員をますます混乱させるから、
暗礁よりも大きな危険を招くことになると考えた。
力をこめてゲーテは
このことを人々に言って聞かせ、
臨機応変にだれに対しても適切なことばを見つけられる才能を駆使して、
奇蹟を信じやすい南イタリアの人々をこう諭した。
「あなた方の熱心な祈りを聖母にささげなさい。あらしのテベリヤ湖で波が今にも船を
吞み込もうとしたとき、
イエスが当時彼の使徒たちにされたことをみなさんにも行われるように、
聖母が御子にとりなしてくださるかどうかは、
ひとえにそれにかかっています。
あのとき、
しかし主は眠っておられたが、
慰めも助けもない彼らが主をお起し申したとき、主はただちに、
風よ静まれとお命じになりましたが、
ちょうどそのように、
もしほんとうにそれが主の神聖なおぼしめしとあれば、
主は今、
風よ吹けとお命じになることもできるのです。」
彼のこの行動が願わしい効果を及ぼした。
人々は祈ることで落ち着きを取り戻した。
そしてようやく穏やかな風がほんとうに吹き始め、
船を危険な潮流から脱出させたのである。
四日目、
すなわち五月十四日の午前に、旅人たちはナポリに上陸した。
(アルベルト・ビルショフスキ[著]高橋義孝・佐藤正樹[訳]『ゲーテ その生涯と作品』
岩波書店、1996年、pp.456-457)

 

生きるか死ぬかのとっさの場面で、
『聖書』に記されたエピソードをもちだすゲーテさんはさすが
でありますが、
「そうか。そうだそうだ。そうだった」
と、
さっそく祈った人びとのなかにも『聖書』は活きている。
教会のことはいったん置いといて、
ことばの力と文化的な背景を考えざるを得ません。

 

・いづこより蜻蛉戸惑ふ日照り雨  野衾

 

記憶は一冊の本

 

秋田にいる母が歩行困難になったことをきっかけに、
週に一度、手紙を書くようになってから十八ヶ月が過ぎましたので、
ひと月四週として、
七十通ぐらいになっているでしょう。
書きはじめて程なく、昔のことを書くと喜んでもらえることが分かったので、
以来、
ほんのちょっとの傷みたいなところから、
ものがたりを紡ぐようにして文章を書き、封緘するようになりました。
こんな書き方をしていると、
もっともっと書ける気がしてきて、
記憶はまるで一冊の本みたい、とも思います。
だれもかれも一冊の本を書いていて、
あるとき何かをきっかけに思いだそうとして思いだし始めると、
そのときから記憶の本を読むことになる。
そんな気がします。
かつて安原顯さんが始めた創作学校に通っていたとき、
「名の記憶」
という小説を書いたことがあります。
中条省平さんとはそこで知り合いました。
そのとき書いた小説は手もとにありませんが、
なんとなく憶えています。
記憶をなくした男の話。
腕に名前が彫られていて、それが何なのか、だれなのか、探っていくというストーリー
でした。
はじめてのプルーストは読み終っていました。
この流れで『記憶術と書物 中世ヨーロッパの情報文化』
『自分のなかに歴史を読む』
をこれから読むことになると思います。
小学四年のとき『こゝろ』と『山椒大夫』を買ってきてくれた母は、
こんどは、記憶をくれた。
読んでせっせと手紙を書こうと思います。

 

・ひぐらしや商店街の小路に入る  野衾

 

記憶の自動書きかえ

 

わたしの誕生日は11月25日。ですので三島事件があった日のことはよく憶えています。
13歳になったちょうどその日でしたから。
自宅の二階から下りてきたら、
テレビで、
片手を腰にあて大声で演説する軍服姿の男を報じていた。
映像とともに、
その記憶がずっとわたしのなかに居座っています。
ところが。
つい先だってのこと、目をみはり、驚いた。
三島事件についての『ブリタニカ国際大百科事典』の説明文によれば、
「1970年11月25日午前11時10分から同日午後0時15分にかけて
三島は「楯の会」の会員4人を伴い、
東京都新宿区市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部総監室を訪問、総監の益田兼利を縛り、
不法監禁するとともに総監室を占拠。」
となってい、
説明はさらにつづきます。
ということは。
学校へ行こうとしてわたしが二階から下りてきたのは朝ですから、
テレビでアジ演説を見るわけがない。
なので、
わたしの記憶は、明らかに間違っていることになります。
ここからは想像です。
テレビで見たのは翌日だったか?
13歳の誕生日の頃は、
白黒のテレビが家にあったはずなので。
それとも。
こちらの可能性が大きいと思うのは、
事件の起きた日は、
11月25日で間違いないわけですけど、
三島さんがアジ演説をする映像は、昭和史の事件としてその後何度もテレビで見、
目に焼きついていますから、
わたしのなかで記憶の書き換えが行われたのではないか、
ということ。
事件の起きた日がわたしの誕生日だった、
ということで、
書き換えられた記憶がいつの間にか正式のものとして
わたしの物語にちゃっかり記録されてしまった…。
事程左様に、
記憶は加工され、捏造されます。

 

・ひぐらしや乗降客の駅ホーム  野衾

 

祖母のおしえ

 

先だって、ひさしぶりに叔母と電話で話す機会がありました。
何ごとによらず、
気が置けないひさしぶりのひとと話すのはたのしいわけですけど、
いろいろ話しているうちに、
話題は祖母のことに。
子どもの頃、
わたしは、おじいちゃんおばあちゃん子で、
とくにおばあちゃんに懐いていた。
叔母にとっては母ですが、
母から訓えられたことで、
いまも忘れず憶えていることがある、
と。
わたしも祖母からいろいろなことを訓えられたと感じていますが、
叔母にとってのだいじな教訓がなにか、
的を絞ることはできませんでした。
「なに?」
叔母がいうには、
それは、一度口から出てしまったことばは、口に戻せない、
ということ。
幾度となく言われたと。
だから、
いまも忘れずにいる…。
貧しくて小学校にも行っていない祖母でしたが、
人生の修行から得られたことばは尽きぬ滋味にあふれ、
叔母もわたしも、
それをたいせつに日々の暮らしに生かしている。
亡くなる数日前、
入院先の病院で会ったのが最後になりましたが、
そのとき祖母は、わたしの手をつよく握り、
「ふとに負げるなど!」
と言った。
「ふと」は人、「負げるなど」は、負けるなよ。
以前、拙著にも書いたことですが、
そのときは、
「ふと」はひょっとしたら自分を指しているか?
とも感じてそう書いた。
しかし、いまは、「ふと」はやはり他人を指しているだろうと思います。
コミュニケーションにおいて、
じぶんの弱さに発し、
弱さに耐えられず、
言わなくてもいいことばをつい口にし(その時点で負けている)、
対手を傷つけてしまう。
一度口から出てしまったことばは、
口に戻すことができない。
(じぶんの弱さに負け、対手に負ける。対手がいるから、じぶんに負ける)
「いい人と歩けば祭り、わるい人と歩けば修行」
と言った盲目の瞽女・小林ハルさんのことばを思いだします。
ことばは、薬にもなり毒にもなる、
というのはほんとうです。

 

・ありがどなー電話の母を夏の雲  野衾

 

川柳発見

 

田辺聖子さんの『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代』
を読まなければ、川柳のおもしろさを知らずに終ったかもしれません。
NHK俳句、NHK短歌はあっても、NHK川柳はないし、
それぞれつどう仲間を、俳壇、歌壇といったりしますが、
柳壇という熟語が、
わたしのつかっている国語辞書には出ていません。
また、
わたしの有っている古代から現代までの詩歌をあつめたアンソロジーでも、
川柳は採られていません。
しかし、
田辺さんのこの本で採り上げられている川柳は、まさに、
尽きぬ滋味にみちてい、
悲喜こもごもの人生の味わいがあります。
これまで、なんとなく、駄洒落っぽいなぁ、と、不遜なことを思っていました。
わたしが知らなかっただけで、
川柳、川柳家に対して申し訳ないことでした。
俳句の花鳥諷詠に対し、人間諷詠というのも、なるほど。
この本には、岸本さんをはじめ、
多くの人の味わい深い川柳が紹介されていますが、
まず岸本さんのもので、
もうぜったい忘れないであろう作品、

 

人間の真中まんなか辺に帯をしめ

 

は、つくづくいいなぁ、
と感服。
人間を詠ってかつ句柄が大きいというのか、
俳句でいえば、
「荒海や佐渡によこたふ天の河」「五月雨や大河を前に家二軒」のごとく広大、
かつ滋味ゆたか、深邃な世界に触れるよろこびがあります。
田辺さんによれば、
岸本さんは、
「柄の大きい作品を示したが、またズレを楽しむ人でもあった」
そうで、
そんな人柄がこの本にはよくでていると思います。

 

・端居して古書の頁の暗きかな  野衾