田辺聖子さんの本を、ゆ~っくり、の~んびり、読んでいます。
そうかぁ。なるほどなぁ。
川柳もいいなぁ、とかとか、思いながら。
肩の凝らない文章でありながら、きりりとしてい、
お会いしたことはありませんでしたが、お人柄がほうふつとなります。
と、
ときどき、
「ん!?」と目が止まる箇所があったり。
「貫目」というのは、ふつう「重量」「めかた」のことですけど。
「番傘」創刊号の句の中で私の好きな句を拾ってみたい。
旗挙げの句といっていい當百の、
「上かん屋ヘイヘイヘイとさからはず」
は、
以前に私が出した『川柳でんでん太鼓』にも取りあげた。
上燗屋はおでん燗酒の一ぱい飲み屋である。
キタにもミナミにもそんな店はあるが、
現代ではおでんやもチェーン店などになっていて、
きびきびした姐さんたちがニコリともしないで、効率的に客をさばいている。
これはそんな店ではない。
都会なれば場末の、
あるいは郊外の駅裏の盛り場などを出はずれたところ、
昔ながらの古い店、
大鍋にぐつぐつと関東煮《かんとだき》
(大阪ではおでんのことを、かんとだき、という)、
蒟蒻《こんにゃく》厚揚、豆腐に卵、親父さんは酔っぱらいを相手にしなれているから、
何をいわれても、ヘイヘイヘイ、だ。
「悪口は聞き馴れて居る上燗屋」 當百
ヘイヘイヘイは卑屈や迎合ではない、客の気分への暖い心くばりである。
「上燗屋惚気《のろけ》笑つて聞いて居る」 〃
親父さんは店じゅうの客の気分を一瞥で見て取り、
うまい肴と熱い酒で客がくつろげるような雰囲気にもってゆく。
その対応がヘイヘイヘイである。
こういうのが、
〈おやっさん〉(店の親父)または〈おっさん〉の教養の度合である。
私はそういう教養を
〈プロ意識とよく釣り合った人間の貫目《かんめ》〉
と呼びたいのである。
(田辺聖子[著]『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代(上)』
中央公論社、1998年、p.222)
當百というのは、西田當百さんのこと。
當百さんの「上かん屋ヘイヘイヘイとさからはず」の句中、
三度くりかえす「ヘイ」の二回目三回目は、正確には、踊り字になっています。
・音たてて利休鼠の夕立かな 野衾