田辺聖子さんの『道頓堀の雨に別れて以来なり』にはサブタイトルが付されてあり、
「川柳作家・岸本水府とその時代」。
伝記・自伝は、人物を描きますが、
その人が生きた時代から人物だけを抜きだして描くわけにはいきません。
岸本水府さんは、
1892年に生まれ、1965年に他界されていますので、
時代としては、明治、大正、昭和、ということになります。
岸本さんを灯台にたとえると、
その灯が照らす人びとの風情、織り成す情愛のこもごもがふわり浮かび上がってきます。
以下の文章を読みながら、
『男はつらいよ』の第17作「寅次郎夕焼け小焼け」を思いだしました。
マドンナは太地喜和子さん。
芸者ぼたんを演じています。
絵葉書屋の店頭にある美人写真ブロマイドは全部芸者のそれであった。
大阪の八千代、東京の万龍は全国的なスターだった。
芸者の意気地や気持の張りは芸に関する自信から来ている。
その修業のきびしさは一通りのものではない上に、彼女らは社交のプロであらねばならない。
客には無論、
朋輩・先輩、師匠からお茶屋の内儀・仲居・女中に至るまで受けがよくなくては、
この商売は張ってはいけず、
といって功利打算や冷酷の本性を嘘で固めてよくみせようとしても、
人間関係だけで成立しているような色まちでは、
瞞着しきれぬものがある。
そういう時代に、
ぬきんでて評判のいい芸者になろうとすれば容色や芸は当然として、
心根が一流、
というものでなければ、人に認められなかったろう。
ことにも素人の女たちが芸者に太刀打ちできなかったのは、
きびしい芸の修行に鍛えられた立居振舞の美しさ、
人をそらさぬ如才なさ、
打てばひびく応酬などであったろう。
女性全般の知的水準は徐々にあがり、教育も普及していたが、
それは良妻賢母育成のためであって、
当時の日本社会では女性の素《す》のままの魅力(肉体的にも精神的にも)
を引き出すような教育ではなかった。
たいていの女たちは、
おのが才能や魅力を磨かないままに終ってしまう。
天与の美質を磨く機会をもてた女たちはごく少数であった。
一般の女たちは野暮で迷妄にみち、
教えられた規矩にしたがい、
道を外すまじということだけにすがって生きていた。
そういう社会で、
磨きに磨きぬかれたある種の女たちは、男にとってどんなにめざましくみえたか、
多情多感の若い水府の目には、
「日本女性の中で、これ以上の美と愛情の結晶はあるまいとまで」
見えたのである。
この愛情というのは説明が要る。芸者たちはみな、
男にやさしかったのだ。
(田辺聖子[著]『道頓堀の雨に別れて以来なり 川柳作家・岸本水府とその時代(上)』
中央公論社、1998年、p.246)
わたしはいわゆる芸者遊び、お座敷遊びというものを知りません。
なので、
たとえば「寅次郎夕焼け小焼け」の芸者ぼたんの立居振舞から、
そういうものかなぁと思ってきた程度ですけど、
引用した田辺さんの文章に触れ、合点がいくと同時に、
背景にある社会の様相、教育のあり方、時代背景、文化状況を垣間見た気がします。
そこには、きらりと光る批判もこめられていると感じます。
・谷崎を秘密めかして読む夏日 野衾