食欲のこと

 

体調をくずして以来、料理したものを食べれば美味しいとは感じるものの、
みずから、あれを食べたい、これを食べたい
という欲求がまったくと言っていいほどなくなっていました。
たとえば、好きなキンキの塩焼きなどは、
若いときから、
想像するだけでよだれが口中に広がったものでした。
それが、不調のせいで、そうならない。
キンキの塩焼きですらそうなのに、ましてほかのものは推して知るべし、
でありました。
ところが先日のこと、鍼灸の施術をしてもらったあと、
横浜駅から保土ヶ谷の自宅まで歩いてみようと考え、歩いてみた。
歩いているうちに、だんだん疲れてきた。
そりゃそうだな。
元気なときでもかなりの距離なのに、
いまの状態でこの距離を歩くのは、
無謀ではないにしても、すこし無理があったかもしれない、
そりゃそうだ、
などと思いながらも、てくてく歩いていたら、
こんどはむしょうにおなかが空いてきた。はらへったーーー!!
この感覚、なんだか久しぶりな気がして、うれしくなった。
とりたててなにを食べたいというわけではないけれど、
とにかくおなかが空く感覚というのが、大げさにいえば、生きてるーーー!!
みたいな。
食欲、性欲、睡眠欲というけれど、
どれも生きている感覚、生きる欲望に直結しているものなんだなぁ、
と改めて実感した次第。

 

・家々の竈のけむり雪しんしん  野衾

 

ここだけの話

 

といういい方が、かつて(いまも?)会話のなかでつかわれていた頃がありました。
テレビドラマでは、つかわれることがあっても、
実際の生活の場面でそうそう遭遇するチャンスはありません。
先日、ある場面である方が、「ここだけの話」を枕に話し始めたので、
「ここだけの話」のあとにつづいた話よりも、
「ここだけの話」の味にひたって、たのしくなってきたのでした。
だいたい「ここだけの話」というのは、
「そこだけ」にとどまっていることはない気がします。
「ここだけの話」を耳にした瞬間、
これは相当な範囲に流布している、あるいは、流布する可能性の高い話にちがいない、
そうおもえてきてしまいます。
さらに、
5W1H(昔習ったような)的に要約すると同じ話でも、
味わいということになると、要約はそうとうむつかしい。
その人がその場で、手振り身振りを交えながらする「ここだけの話」は、
ひょっとしたら、内容よりも、その人と、
向き合っているこちらとの関係性の妙を表現していて、
替えがたく「いま、ここ」に立ち会っているとおもわされます。

 

・吾の道の先を転がる落ち葉かな  野衾

 

木と声

 

体調をくずしてから何人かの方に、「みうらさん、声がかすれているね」
と指摘され、そうか、じぶんでは気づかなかったけど。
そうすると、わたしの悪い癖で、なにかまた病気が潜んでいるのじゃないかと恐れ、ネットで調べてみました。すると、
加齢と水分の不足で声がかれることがあると書かれていた。
ハッとした。
体調の悪さを理由に、なまけ癖が付いて、このところ、水をはじめ、
お茶など水分の補給を怠っていた。
それで、声を出さずに「あ、い、う、え、お」を繰り返し行ったり、
意識して水分を取るようにしました。
すると、けさのこと、
家人が「ヤダ、声が治ってるじゃない」。
「ヤダ」は余計ですが、ひとまず安心。
敬愛する詩人・長田弘さんの詩集に『ひとはかつて樹だった』
がありますが、
声にかんするかぎり、いまもって、ひとは樹と似ているとおもった次第。
人も樹も、水をやらないと枯れるよう。

 

・日は西に寒烏の影に覆はるる  野衾

 

いいおせっかい

 

「おせっかい」は、あまりいい意味でつかわれることのないことばです。
「おせっかいを焼く」は、
たのんでもいないのに、必要以上に干渉することでしょうから、
なかなか受け入れがたい。
ところで、その一見「おせっかい」と思えることを積極的にとりいれている
会社があり、おもしろいなぁとおもいました。
家人が、昨年夏のうちに、
インターネットを通じ冬物をクリーニングする会社に送りました。
12月に入って返送されてきたとき、
クリーニングされていただけでなく、
ちょっとしたほころびなどをていねいに、
つくろってくれていました。
説明書にも、そのことをうたっています。
上から目線かもしれませんが、
こういう会社は伸びるだろうなぁとおもいました。
どこまでがじぶんところの商売だと、
こと細かに書いてあるのがふつうだとおもいますが、
たとえば、
クリーニングを依頼されたときにみつかったほころびを直して、
喜ばれることがあっても、いやがられることはあまりないのではないか、
すくなくとも、わたしと家人は、へ~、と、
感心しうれしくおもいました。
すべて計算づくめだと、ちょっと息苦しい。
商売ですから、損したらいけないけれど、
「おせっかい」のいいところを積極的にとりいれるのは、
悪いことではない気がします。

弊社は、本日より通常営業となります。
よろしくお願い申し上げます。

 

・裏日本とよばれた日の寒さかな  野衾

 

電気シェーバーとカミソリ

 

ながくジレットの五枚刃カミソリをつかってきました。
剃ったあとの肌触りがなんとも気持ちいい。
それはいまも変りないのですが、
体調を崩してからというもの、なにをするにも体が重く、
たとえば、朝、目が覚めているのに、起き上がるのにとても苦労する。
ギギギギギ、グググググ、ガギグゲゲ、
へとへとになってしまいます。
それで、
風呂にゆっくり浸かってからカミソリで髭を剃るのを好んでいたのに、
家人につき合ってもらい、
久しぶりに電気シェーバーを購入しに出かけました。
それだと面倒くさくない。
お気に入りのソファに座ったまま、ジーー、ジーー、
きれいに剃れます。
むかし、テレビCMで、朝、駅に下りたサラリーマンをつかまえ、
電気シェーバーで髭を剃ってもらう、
というのがありました。
剃ってもらったあと、平らなシートの上でトントンとやると、あ~らら、
けっこう剃れて、
「朝、剃って来たのに」とサラリーマンが言う。
そんなCMを思いだしたりもし、ジージーやって、鏡を見ると、
たしかにそれなりに剃れてはいる。
が、しかし、剃ったあとの顔を手のひらで触ってみると、
風呂でカミソリをつかって剃ったときとはいかにもちがっています。
からだの調子がもどって来たあと、
久しぶりに五枚刃のカミソリをつかって髭を剃りました。
元気なうちは、これでいこうと、
あらためておもいました。

弊社は、明日12月27日(土)より2026年1月4日(日)まで冬季休業
とさせていただきます。1月5日(月)から通常営業。
よろしくお願い申し上げます。

 

・四方より竹を刈る音冬ざるる  野衾

 

興味をもつことは

 

精神科医で先年他界された中井久夫さんのことばに
「患者とは、考え、考え、考え、考えている者である」
というのがありまして、
最相葉月さんの『中井久夫 人と仕事』の本の帯にも引用されています。
四十代の終りから五十代の初めにかけ、
いまのこの病気にかかったとき、
敬愛する詩人の飯島耕一さんから速達の手紙をちょうだいし、
それをお守りのようにして養生したことを、ぼんやり考えていました。
「何にもつよい興味をもたないことは
不幸なことだ
ただ自らの内部を
眼を閉じて のぞきこんでいる。」
と飯島さんは、「ゴヤのファースト・ネームは」を書き起こしています。
このたびのことを書きはじめれば、
「さまざまのこと思いだす桜かな」
でありますが、
その思いをひとことの印象で片づけると、
過去に投影する現在と、現在に生きる過去ではちがう、
ということになるでしょうか。
過去にも、それなりにいろいろありましたけれど、
思いだすとなると、
痛みを伴うことはあっても、安心して眺めていられます。
なので、安心して眺めていられるまいにちにこころを寄せながら、
危険でこわい来る日来る日を、
うしろ向きに歩くような具合になっていたようです。
これではいけない! とおもうけど、
なんとも身の置き場がない、みたいな状態のときもありました。
「何にも興味をもたなかったきみが
ある日
ゴヤのファースト・ネームが知りたくて
隣の部屋まで駆けていた。」
と飯島さん。
西洋医学を修めた医者が処方する薬では足りず、
森鷗外も通ったという老舗の漢方薬局にもふらふらの足を運び、
そこで処方される薬がわたしの体力を下支えしてくれたように感じます。
一日分三回の薬を煎じるのに約50分かかりますが、
養生のため、いのちの水とおもってルーティンに加えています。
わたしのいまの興味の対象は、ウォーキングシューズ。

 

・赤錆の屋根の上なる寒烏  野衾

 

おしらせ 2

 

秋田の父は、94歳を過ぎてどこも悪いところがないと医者に太鼓判を押された
と自慢げに電話で言いますが、
へなちょこのわたしはすこし体調を崩し、
「よもやま日記」をしばらく休まざるを得ませんでした。
このところ快方へ向かっているようですので再開を期したいとおもいます。
いろいろご心配をおかけし、ねぎらいと励ましのお言葉をちょうだいし、
まことにありがとうございました。
社員の協力と力添えにも感謝です。
しばらくは「平日毎日更新」をあらため「平日たまに更新」
でいきたいとおもいます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

・考えることほどもなし日向ぼこ  野衾