なんのための学び

 

生松敬三(いきまつ けいぞう)さんのお名前は、翻訳書を通じて、
記憶にありましたので、
原著者のことを知りませんでしたが、
『読書日記』という書名にひかれ、古書で求めました。
この本では「クルティウス」
となっていますが、
いまは「クルツィウス」と表記されるようです。
ノーベル平和賞を受賞したアルベルト・シュヴァイツァーさんとの親交についても、
ちらり触れられており、
そんなこともあって、おもしろく読みました。

 

われわれが形而上学者でないにしても、
われわれは次のようなことははっきりと知っている――聖なるもの、善なるもの、
美なるもの、真なるものがあるということ、
これらは互いに抗争する必要はないということ、
これらの諸価値をより深くより広く認識し実現すれば、
それだけ人間は価値豊かなものとなるということ、
またわれわれはまず人間であり、しかるのちに学者であるのでなければならぬということ、
学問の意義を生の全体的意味の中に組み入れることはできるということ、
学問に献身するわれわれが
――教える者であると教わる者であるとを問わず――
われわれの学問的存在と人間的存在の間に隔壁を設けることは、有害な、悪い、
不条理なことであるということ。
そしてまたわれわれは知っている――純粋な研究目的を自分の学校・研究所で維持する
のは善いこと、必要なことではあるが、
大学はたんに研究機関であるにとどまらず教養〔人間形成〕の施設でもあるのだ
ということ、
学問的即事象性ザッハリヒカイトへの教育(今日切実に必要とされているもの)

精神的な生の諸価値の伝達という
より大きな目標の中に組み入れられるということ、
勉強し研究する青年たちがそのような即事象性への訓練をもっとも喜んで受けるのは、
まさしくかれらがそのほかのもの、
より深く実り多いものを見出すことを確信できるような教師たちからである
ということを。
(E.R.クルティウス[著]生松敬三[訳]『読書日記』みすず書房、1973年、pp.157-158)

 

この文章は、『読書日記』の付録として巻末に収録されている二つの書評のうちの一つから。
マックス・ヴェーバーさんの『職業としての学問』に関する書評です。

 

・五月雨やほの暗きなか書を読む  野衾

 

著者と訳者からの手紙

 

久保正彰さんの日本語訳によってトゥキュディデスさんの『戦史』を読みました。
岩波文庫で上中下三冊ありますが、各巻に充実した訳注が付されています。
たとえば下巻の訳注は125頁分。
訳注とあわせ読むことで、
久保さんがいかにアクチュアルな問題意識をもってこの仕事をされたのか
が分かった気がしました。
そのことをとおして教科書で習ったトゥキュディデスが
ようやく身近になり、
さん付けで呼びたくなります。
なので、
本はまた、著者、訳者からの手紙でもあります。
久保さんは翻訳の最後に「後記」として、つぎのように述べられています。

 

トゥーキュディデースにとって、
「戦史」の記述は己れの生命のあるかぎり完成するところのない、
補正と加筆のはてしない道程を意味したことであろう。
大戦二十七年目にアテーナイが降伏し長城壁が破壊される場面まで、
かれの筆が進んでいたと仮りに考えてみても、
歴史家としてかれはまだ何かを書き加え、
この大事件の核心になお一歩迫るための努力を最後まで惜しまなかったであろうと思う。
周到なる準備によって集められる限りの史料をあつめ、
その一々に厳密な吟味を加え、
事実を明確に再現し、
そしてさらに
その背後にあって事件のモーメントをあやつる人間の心理的諸力
にまで光をあてようとする、史家の客観的な論理の道は、
戦争を記述しながらなお戦争記述の範囲にとどまることに甘んじない。
人間が人間であるかぎり、これが脱しえない桎梏なのである
という論理的な解答に達するまでは、
一つの事件の記述は完結されたとは思えない。
かれに「戦史」を書かしめた苦しみはそれほどに大であり逃れがたく、
またかれが歴史記述によって到達を望んだ目標は、
宗教的な解脱に近いものであったと言っても過言ではない。
そしてその鍵である真実が、
彼岸にではなく、
生けるがままの人間の言動に求められなくてはならなかったところに、
悲劇的なアイロニーがあった。
(トゥーキュディデース[著]久保正彰[訳]『戦史(下)』岩波文庫、1967年、
pp.367-368)

 

上の文章に触れられているとおり、トゥキュディデスさんの『戦史』は未完
に終っています。
なんらか事情があってのことだったのでしょうけれど、
理由・原因とはべつに、
そのことの意味に思いをいたすとき、
それが21世紀のいまに託された悲願であるとも感じます。

 

・見えねども屋根に目を上ぐ盂蘭盆会  野衾

 

傘を振る

 

書こう書こうと思いながら、きょうになってしまいました。
先週の土曜日
だったと思いますが、
朝のルーティンのツボ踏み板を踏みながら外をぼんやり見ていました。
(はじめたときは、脂汗が噴き出すほど痛かったのに、
いつの間にか、
鼻唄交じりでメニューをこなせるようになりました。
継続の賜物)
海沿いならば岬のようなる丘の上の窓から
目をこらすと、
峰につらなる向こうの階段を初老の男性が上っていきます。
うっそうとする緑のなかを、ゆっくりゆっくり、
一段ずつ。
右手に持っているビニール傘を、竹刀を振るかのごとく、上下にゆっくり振りながら。
傘についた雨の滴を振り放とうとしているのか、
とも思いましたが、
傘はたたまれているし、傘の動かし方がゆっくりなので、
そのための動作とは思えません。
階段を踏みゆく歩みもゆっくりですが、
たたんだ傘の上下動もあくまでゆっくり、ゆっくり。
ただなんとなく?
あそんでる?
おとなだって遊びたくなる。
そういうこともあるよな、と、つらつら想像していて、アッ
と気がついた。
そうか。
蜘蛛の糸! 蜘蛛の糸だ!
階段の両脇は緑が鬱蒼としており、
さらに片側には木々が枝を伸ばしています。
この梅雨どき、
蜘蛛くんたちがさかんに糸を張る。
湿気を含んだ空気のなかを歩いていて、
汗をかいた首に蜘蛛の糸が触れることが間々ある。
あの感覚が俄かに思い出され、
首筋がゾワッ!
それだそれ!
万が一、蜘蛛の糸が張られていたときのことを想定し、
からだに触れるのを避けるために、
それで、たたんだ傘を上下動させているんだ!
そうにちげーねー!!
窓を開け大声を上げ、階段を上っていく人に尋ねてみたくなった。
いやいや。
尋ねるまでもなく、
もはやそれ以外に考えられない。
初老の男性は、ほどなく藪のなかへ消えていった。

 

・雨上がり草取りすすむ庭の陰  野衾

 

湿気と健康

 

無明舎出版の社主である安倍甲(あべ はじめ)さんのブログをよく見るのですが、
七月九日は「湿気」について書かれていました。
梅雨の時期に寝つきが悪くなるのは、
暑さよりも湿気によってからだのコントロール能力が奪われるから
と教えられ、
それをご自身でも実感したとの内容でした。
いま、朝の読書はもっぱらトゥーキュディデースさんの『戦史』
でありますが、
岩波文庫の下巻を読んでいたら、
シケリア島のアテーナイ側陣営が置かれている地域が沼沢状態を呈し、
それもあって兵士らが疲弊していたことについて、
久保正彰さんが訳注に、
こんなことを書かれています。

 

季節、水質、立地条件が人体に及ぼす決定的影響については、
当時のヒッポクラテースの医学書『空気、水、地域』が説いている。
ことに沼沢地帯の害は、同書七節に詳しい。
史家(=トゥーキュディデースさん)もこれをよく知っていたと考えてよい。
シケリア島南部は、パピルス草が自然繁茂する亜熱帯気候であり、
夏季は酷暑、沼沢地にはマラリアや消化器官の障害が、多々生じえた。
(トゥーキュディデース[著]久保正彰[訳]『戦史(下)』岩波文庫、1967年、p.444)

 

ヒッポクラテースさんは、トゥーキュディデースさんと同様、
紀元前460年ごろの生まれ。
湿気が人体に及ぼす影響について、すでにそのころ気づいていたことに、
ちょっと感動を覚えまして。
梅雨明けまで、あと少しありそう。
きのうも、エアコンを除湿に設定し眠りにつきました。
ですので、けさも快適。

 

・連れられてはぐれし海や夏帽子  野衾

 

役に立つことば

 

一日一ページずつ読む本がいくつかありまして、
そのうちの一つが『リジューのテレーズ 365の言葉』(女子パウロ会、2011年)。
ちいさな本です。
リジューのテレーズさんは、1873年にフランスのアランソン市に生まれ、
1888年にリジューのカルメル会に入会した修道女で、
1897年、24歳の若さで帰天されました。
この本には、
テレーズさんがのこした、まさに珠玉のようなことばが、
一日ごとに収められているわけですけど、
これを「わっぱがでがして」帰宅後に読んでいると、
新約聖書「マタイによる福音書」第四章の「人はパンだけで生きるものではな」い
ことに、改めて思い至ります。
たとえば、7月4日のページには、
こんなことばが記されていました。

 

あなたがだれかに対して
激怒しているのを感じるとき、
心の平和を取り戻すには、
その人のために祈ることです。

 

こうべを垂れるしかありません。

 

・鯉眺む人を鯉見る溽暑かな  野衾

 

仲よき事は

 

先週木曜日(7/4)のブログタイトルは「このごろ好きなテレビCM」
でしたが、その冒頭、
ガンバレルーヤのよしこさんのセリフを、
「ゴーメットってすこし贅沢な蒟蒻畑なんでしょ」と記したものの、
ちょっと気になり確認したところ、
「すこし贅沢な」
ではなく、
「ちょっといい」
でした。
お詫びして訂正いたします。
ところで、
このコマーシャル、コマーシャルですから短いわけだけど、
見るたびに、
こちらの気持ちが明るくなる気がします。
武者小路実篤さんのことばに有名な「仲よき事は美しき哉」がありますが、
あのコマーシャルを見ると、
実篤さんのことばを思い出さずにいられません。
さらにところで。
こんにゃくゼリーなるもの、
わたしはこれまで買ったことがありません
でした。
が、
テレビCMをきっかけに、
行きつけのコンビニエンスストアやスーパーマーケットやドラッグストア
に入った折に見てみると、
いろいろいろいろあるんですね。
これまでも
見えていたはずなのに、
意識しないから、それと気づかなかったのでしょう。
さてきのうのこと。
ドラッグストアに立ち寄り買い物をしていた
とき、
蒟蒻畑はありませんでしたが、
ほかのメーカーのものがありましたので手にとろうとしたら、
横からおばさんがサッと手を出し袋を持ちあげ、
ちゅうちょせずに買い物かごに入れた。
邪魔されたわけではありません。
わたしはただ見ていただけですから。
そのとき思ったのは、
「へ~。売れているんだぁ」
ということ。
「こんにゃくは、からだに良さそうだし、いまは物価が高いから、
それもあって売れているのかな?」
とか。
そんなようなわけで、
わたしもひと袋、買い物かごに入れました。

 

・生と死のあはひの生や半夏生  野衾

 

人間とは何か

 

ヘロドトスさんの『歴史』、トゥキュディデスさんの『戦史』を読み、
「人間とは何か」を考えてみた。
というか、むしろ、考えさせられました。
とくに、徹底してペロポネソス戦争を描く『戦史』を通じて、
以下、三つのことを。
一つ目。
人間の精神は、『歴史』や『戦史』の頃とくらべ、
ほんの少しも進歩していないのではないか、
ということ。
これまでは、なんとなくだけど、
物質的な面での進歩にくらべ、精神はゆっくりとしか進歩しないのかな?
みたいに考えてきましたが、
ゆっくりもなにも、
ひょっとしたら、精神はまったく進歩しないのではないか、
そんなふうに感じた。
二つ目。
ソクラテスさん(その精緻化であるプラトンさんの対話篇)に始まる哲学の歴史には、
そもそもペロポネソス戦争を背景にし、人間同士が戦わずして、
もっといえば、
人を殺さずに生きていく知恵をもとうとしての切実な願い
が籠められているということ。
岩波文庫の『戦史』中巻に「メーロス島対談」が収められています。
権力を笠に着たアテネの代表とミロス島の代表との対話で、
読んでいて、胸に迫ってくるものがあります。
けっきょく、
ミロス側はアテネ側の逆鱗に触れ、紀元前416年、島の男はすべて殺され、
女と子どもは奴隷にされたと『戦史』は告げています。
哲学を学ぶ根本がここにあると初めて腑に落ちた。
三つ目。
これまたなんとなくですが、
戦争というのは平和が乱された異常事態であって、ながくつづくものではない、
なんとなく、そう思ってきました。
思いたかっただけ、かもしれませんけど。
ところが、
『歴史』『戦史』を通して読むと、
いやいや、そんなことは言えないのではないか、
言えない言えない、
むしろ戦争が、
愚かな人間という動物の通常であって、
戦争のない状態というのは、倦まず弛まず、日々、新しく勝ちとっていく、
そういうものではないのか、
と思えてきた。
トルストイさんの『戦争と平和』は、
「戦争と平和」であって、
けして「平和と戦争」という並びではない。
そのことの意味も、
こんかい改めて考えさせられました。

 

・梅雨は梅雨そのときどきに相応しく  野衾