下駄を鳴らして

 

ある方から下駄をいただきました。二枚歯。家人から受け取りすぐ手に持ってみて、
その軽さに驚きました。
しかも、下駄の台に歯をはめ込んだものにあらず、とのこと。
見れば、たしかに境い目がありません。
せんだっての晴れた日曜日、下駄を履いていそいそと外へ出ました。
ぎごちないわたしの歩き方をうしろから見ていた家人に言われ、
鼻緒をはさんでいた足指の力をすこし抜きました。
と、
歩をはこぶたびに、
カラン、コロン、カラン、コロン、カラン、コロン。
軽みのある、かわいた、なんともいい音。
アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」のエンディング曲、
またにわかに、
かまやつひろしさんの「我が良き友よ」が口をついてでてきたり。
すぐ近くの公園まで歩き、
ベンチに腰を下ろしてあたりの風景に目をやる。さらに腕を組む。ほう、
あそこに藤棚が… 明治の文豪ミニ、
になった気分でありまして。
というようなわけで、
下駄の音に魅了されおりましたところ、
きのうの日曜日、午前中は雨もようでしたが、
午後からすっかり雨が上がり、日和下駄ならぬ下駄日和。
カランコロンと出かけましたよ。
こんどは少し脚を延ばし開いててよかったセブンまで。
アイスを買って復路にカラン。
心地よい下駄の音を聴いているうちにコロン、
俳句をはじめようと思ったきっかけも音であったと思いだしました。
あれは夏帽子にあたる雨の音でしたが。

 

・用もなく下駄を鳴らして梅雨晴間  野衾

 

第一次世界大戦のこと

 

『赤毛のアン』シリーズを読みながらいろいろ考えさせられましたが、
さいしょの世界戦争について、あらためて考えることになりました。
じぶんのことながら馬鹿だなぁと思ったのは、
はじめての総力戦である世界戦争が起きたとき、
それを第一次とはだれも呼んでいなかった、
ということ。
最初で最後と思っていたにもかかわらず、二度目が起きてしまったので、
ふりかえってみて、まえのが第一次。そうか。
そうだよね。

 

シグマンド・ノイマンが指摘するように、
ナチスの中心的な幹部たちはほぼ、1890年から1900年の間に生まれており
(ヒトラーは1889年生まれ)、戦争が決定的な影響を与えた世代に属していた。
1919年9月ヒトラーがナチス党(国民社会主義ドイツ労働者党。NSDAP。
マーザーによればこの名称は2月20日以降に使われ始める)
の前身ドイツ労働者党に入党する前には、党員は、労働者と手工業者とが多かった。
ヒトラーの入党以後は、とくに復員兵氏が目立っていた。
現役兵士の数は少なかったが、
この少数の現役兵士たちもヒトラーの強力な支持者であった。
ヒトラーの熱烈な後援者は、
いわゆる「塹壕共同体」「塹壕の友愛」の体験者であった。
(桜井哲夫『世界戦争の世紀 20世紀知識人群像』平凡社、2019年、pp.185-186)

 

桜井哲夫さんのこの本は800ページを超える浩瀚なもので、
『戦争の世紀』(1999)『戦間期の思想家たち』(2004)
『占領下パリの思想家たち』(2007)をベースにしつつも、
その後の多くの研究をふまえ、
大幅に書き直したものであると「あとがき」に記されています。
二度にわたる世界戦争のかんけいについて、教えられることが多々ありましたが、
この本を読むときに、
『赤毛のアン』シリーズで描かれる
アンの三人の息子たちの従軍とその後をかさね合わせることになりました。
モンゴメリさんは、
アンの子どもたちについても、
誕生からはじめて、ていねいに物語をつむいでいますから、
よけいにこころを揺さぶられました。

 

・鍼灸院出でて見上ぐる雲の峰  野衾

 

『赤毛のアン』シリーズ

 

ルーシー・モード・モンゴメリさんの『赤毛のアン』をはじめとするシリーズを、
へんけんたっぷりに、女の子が読む本かな、と、
なんとなく思ってきましたが、
村岡花子さんにかんする伝記を読んだらたいそうおもしろかったので、
そのながれで、
村岡さん訳の新潮文庫を買って手元に置いていました。
読もうと思っている本がいろいろあるので、
とりあえずシリーズさいしょの本『赤毛のアン』と、
あと一、二冊読んでみようかな、
と思い五月の連休まえに読み始めたのですが、
『赤毛のアン』を読んだら不覚にも目がしらを熱くするページがあり、
こういう世界であったか、
無知も甚だしかったとおのれのおろかさを反省し、
連休中とその後の数日をついやし、
村岡花子さん訳の新潮文庫10冊と、
同じく新潮文庫に入っている村岡美枝さん訳の『アンの想い出の日々』上下2冊、
あわせて12冊を読み終えました。
美枝さんは、
村岡花子さんの義理の娘(実の姪)みどりさんの娘ですから、
義理の孫、ということになります。
『アンの想い出の日々』(原題:The Blythes Are Quoted)は、
モンゴメリさんの遺作で、
モンゴメリさんが亡くなった1942年4月24日に、
だれかの手によって出版社にとどけられたのだそうです。
その完全版がモンゴメリさんのふるさとカナダで2009年に刊行され、
2012年に日本語訳が刊行されました。
というような経緯でありますが、
シリーズをとおして読みながら、
これはモンゴメリさんの『戦争と平和』なのだと感じました。
トルストイさんのは19世紀のナポレオン戦争が背景ですが、
モンゴメリさんのは20世紀の第一次世界大戦が背景となっており、
アンの息子は三人とも従軍することになります。
第一次世界大戦というのがなんだったのか、
アンとその夫ギルバートをはじめ、
村のひとびとが戦争をどうとらえていたのか、
しみじみ考えさせられました。
『赤毛のアン』というと、
古書店の店先にあるワゴンに並べられた100円コーナーに何冊か置かれていたり、
わがふるさとのJRの駅の待合室に、
どなたかが寄贈された本のなかにもたしかあった(と思います)りして、
表紙カバーの背が日焼けしているのを見、
なんとなく気になっていたのも、
読もうとしたことの遠因だったかもしれません。
本づくりをなりわいにしていますので、
日焼けした本の中身を知りたくなりました。

 

・惜しむごと梅雨入りまへの光浴ぶ  野衾

 

さまざまのこと 34

 

小学校の五年と六年は、小武海市蔵(こぶかい いちぞう)先生が担任でした。
二年れんぞくで受けもってもらったのは、はじめて。
教室でべんきょうもし、いろいろ教わったけれど、
小武海先生とはいっしょに遊んだ記憶のほうが圧倒的に多い。
まず、すもう。
先生は、先生たちのなかでも大柄なほうで、おなかもたっぷりしていたので、
思いっきりぶつかっていっても、
やわらかいふとんにダイブするみたいで気持ちよかった。
つぎつぎ子どもたちが先生にぶつかっていき、
つぎつぎ投げとばされる。先生は手加減しない。
でも、
投げられて痛がる子どもがいなかったことを考えると、
そこは微妙に手加減していたのかもしれません。
体育館に笑顔と笑いが満ちあふれ、
きらきらきらきらしていたな。
晴れた日には外の運動場でソフトボール。
先生もどちらかのチームに入って、打ったり守ったり。
先生は、大人げないほど、ちゃんと打ち、
ちゃんと守る。
忘れもしません。
いちど、打ったボールが勢いよく飛んで飛んで体育館の屋根の下のガラスを直撃。
ありゃ~~!!
子どもたち呆然。あのとき先生どうしてたかな。
あ然とした感じでもなかった。笑いながらダイヤモンドを一周し、
ホームベースに戻ってきた。
校長先生に叱られたかもしれない。
でも、いなかの小学校のこととて、校長先生に報告し謝罪しても、
ふたりで笑い合っただけかもしれません。

 

・夏草や風を起こして崖の上  野衾

 

さまざまのこと 33

 

これも小学三年生のときの話。子ども用の自転車を買ってもらいました。
フレームがベージュでした。
さいしょは後輪に補助のクルマをつけて。
補助車で慣れたらこんどは補助車を外して乗ることになりますが、
補助車付きで乗ることと
それを外して乗ることのあいだには、
天と地ほどのちがいがあるような気がします。
浮き輪をして泳ぐのとそれ無しで泳ぐののちがい、
みたいな。
乗れるようになってしまえばどうってことないのですが、
乗れないときから乗れるようになるときのバランス感覚の冴えというのは、
逆立ちをするときの感覚にも似て、
いくらことばで教えられても、なるほどそうか、
とはならず、
なんどもなんどもくりかえし失敗することをつうじて、
からだが微妙な感覚をつかむしかないように思います。
補助車を外したら、つぎにすることは、自転車のうしろをだれかに支えてもらい、
ペダルを踏みこむのに合わせ、数メートルいっしょに走ってもらうこと。
それからパッと手を離してもらう。
それをしてくれたのはおもに、道をはさんだ向かいのHさん、
だったかな。
わたしより四つか五つ上でした。
やがて、
みじかい距離ならひとりで乗れるようになりました。
だんだん自信もついてきました。
あるとき、
家から自転車を持ち出し、車道まで押していった。
ゆるい下り坂を利用し、乗りはじめた。
はじめすこしゆらゆらしましたが、ほどなく、すー。
ペダルをこぐほどにスピードが増していく。
と、
道が右へカーブし井内へ下りていく手前、
うまくハンドルが切れず、そのまま左手の苗代に突っ込んだ。
苗代なので痛くはなかったけれど、頭からさかさに泥に突っ込んだので、
自力で身を起こすことができませんでした。
ぐにゅぐにゅわさわさしていたら、
ちょうどオートバイで通りがかったおじさんが、
オートバイを停め、わたしを泥から引きぬいてくれた。
役場に勤める方であることを、
あとから知りました。
苗代だから事なきを得ました、わたしも自転車も。
そんな失敗がありましたが、
さいわい乗れるようになり、
中学三年間は自転車通学でした。ところで、
自転車って、いちど乗れるようになったら、その後ずっと乗らなくても、
乗るとなったら転ばずに乗れるのはなぜ?
からだの感覚ってすごいと思います。

 

・草々を白く濡らして夏の雨  野衾

 

さまざまのこと 32

 

小学三年のときの担任は、川上景昭(かわかみ かげあき)先生。
背の高い先生で、教室はいつも明るく、
笑うときは大きく口をあき、
顔を真っ赤にし声を出して笑うのが常でした。
たまに授業から離れ、こわい話をしてくれることがあり、とてもこわかったけど、
おもしろかった。
子どもたちは、そのおはなしが好きで、
教科書をつかった勉強ではないからよけいに、
「先生、こわい話をしてよ」と、
ねだることも間々ありました。
夜な夜な墓場に向かう人がいて、その人のあとをこっそりつけていくと、
墓地にある目的の場所に着く寸前、
その人がいきなりうしろをふり向いてこちらを向く。
ギャ~~~~ッ!!!
みたいな。
ほんと、こわかった。こわすぎて、
みんなワイワイガヤガヤ。
そんな川上先生がだい好きでした。
先生の家は、いま潟上市になっていますが、
昭和町草生土(くそうど)にあり、
わたしの母の実家からそう遠くない場所にありましたから、
一度、
先生のご自宅を訪ねたことがありました。
このときは、弟をともなわず、
ひとりで行ったと記憶しています。
地名のとおり、草深いところだったような。
先生の家を訪ねるなど、はじめてのことでしたから、
緊張して何をしゃべったのか、
おぼえていません。
ただ、そのとき出してくださったメロンの味は忘れられません。
メロンを食べるのが初めてではなかった
と思いますけれど、
とても甘くて、同じメロンと思えませんでした。
『父のふるさと 秋田往来』を上梓した折に、
四十数年ぶりに先生のご自宅を訪問し、拙著を謹呈しました。
ほど経て、会社に手紙がとどきました。
川上先生からの手紙。
拙著を読んでくださった感想が記されていました。

 

・夏草や雨に打たるる古き址  野衾

 

さまざまのこと 31

 

わたしの叔母にM子(きのう書いたM子とは別の)がいました。
嫁いだ先が秋田県昭和町山田にありまして、
あとから知ったのですが、
そこは、
秋田の二宮尊徳といわれた農聖・石川理紀之助ゆかりの地でもあります。
理紀之助さんは、
弘化2年(1845年)2月25日、
秋田市金足小泉の農家、奈良周喜治の三男として生まれ、
21歳のとき、潟上市昭和町豊川山田の石川長十郎の養子となったことが、
ネットでしらべれば、すぐにでてきます。
わたしの祖父は理紀之助さんが好きで、
子どものわたしに話して聞かせることもありましたから、
尋ねたことはなかったけど、
むすめM子の結婚を考えるとき、
祖父のあたまに、結婚の相手が理紀之助さんゆかりの地の人か、
の認識が少なからずはたらいていたのではないか、
と想像します。
それはともかく、
子どものころ、弟といっしょに何度か、おばさんの家に遊びにいきました。
同じ歳ごろのいとこもいました。
バスで羽後飯塚駅まで行き、そこから汽車で大久保駅へ。
そこで降りて、
てくてく歩いていった記憶があります。
けっこうな距離でした。
おばさんの家に着き、いとことすぐ近くの高台で遊んだりもしましたが、
それよりなにより、
はっきりと記憶に残っているのは、
おばさんが作ってくれた赤茶色をしたご飯です。
鶏肉も入っていました。
なんと美味しかったことか。
はじめて口にする味。
こんな美味しいものが世の中にあるのかと驚きました。
赤茶色がケチャップの色、
なんてことは、当時思い及びもしません。
こころ根のやさしい人でしたが、
病気で割と早くに亡くなりました。

 

・紫陽花や古民家裏の狭き庭  野衾