傘を振る

 

書こう書こうと思いながら、きょうになってしまいました。
先週の土曜日
だったと思いますが、
朝のルーティンのツボ踏み板を踏みながら外をぼんやり見ていました。
(はじめたときは、脂汗が噴き出すほど痛かったのに、
いつの間にか、
鼻唄交じりでメニューをこなせるようになりました。
継続の賜物)
海沿いならば岬のようなる丘の上の窓から
目をこらすと、
峰につらなる向こうの階段を初老の男性が上っていきます。
うっそうとする緑のなかを、ゆっくりゆっくり、
一段ずつ。
右手に持っているビニール傘を、竹刀を振るかのごとく、上下にゆっくり振りながら。
傘についた雨の滴を振り放とうとしているのか、
とも思いましたが、
傘はたたまれているし、傘の動かし方がゆっくりなので、
そのための動作とは思えません。
階段を踏みゆく歩みもゆっくりですが、
たたんだ傘の上下動もあくまでゆっくり、ゆっくり。
ただなんとなく?
あそんでる?
おとなだって遊びたくなる。
そういうこともあるよな、と、つらつら想像していて、アッ
と気がついた。
そうか。
蜘蛛の糸! 蜘蛛の糸だ!
階段の両脇は緑が鬱蒼としており、
さらに片側には木々が枝を伸ばしています。
この梅雨どき、
蜘蛛くんたちがさかんに糸を張る。
湿気を含んだ空気のなかを歩いていて、
汗をかいた首に蜘蛛の糸が触れることが間々ある。
あの感覚が俄かに思い出され、
首筋がゾワッ!
それだそれ!
万が一、蜘蛛の糸が張られていたときのことを想定し、
からだに触れるのを避けるために、
それで、たたんだ傘を上下動させているんだ!
そうにちげーねー!!
窓を開け大声を上げ、階段を上っていく人に尋ねてみたくなった。
いやいや。
尋ねるまでもなく、
もはやそれ以外に考えられない。
初老の男性は、ほどなく藪のなかへ消えていった。

 

・雨上がり草取りすすむ庭の陰  野衾

 

湿気と健康

 

無明舎出版の社主である安倍甲(あべ はじめ)さんのブログをよく見るのですが、
七月九日は「湿気」について書かれていました。
梅雨の時期に寝つきが悪くなるのは、
暑さよりも湿気によってからだのコントロール能力が奪われるから
と教えられ、
それをご自身でも実感したとの内容でした。
いま、朝の読書はもっぱらトゥーキュディデースさんの『戦史』
でありますが、
岩波文庫の下巻を読んでいたら、
シケリア島のアテーナイ側陣営が置かれている地域が沼沢状態を呈し、
それもあって兵士らが疲弊していたことについて、
久保正彰さんが訳注に、
こんなことを書かれています。

 

季節、水質、立地条件が人体に及ぼす決定的影響については、
当時のヒッポクラテースの医学書『空気、水、地域』が説いている。
ことに沼沢地帯の害は、同書七節に詳しい。
史家(=トゥーキュディデースさん)もこれをよく知っていたと考えてよい。
シケリア島南部は、パピルス草が自然繁茂する亜熱帯気候であり、
夏季は酷暑、沼沢地にはマラリアや消化器官の障害が、多々生じえた。
(トゥーキュディデース[著]久保正彰[訳]『戦史(下)』岩波文庫、1967年、p.444)

 

ヒッポクラテースさんは、トゥーキュディデースさんと同様、
紀元前460年ごろの生まれ。
湿気が人体に及ぼす影響について、すでにそのころ気づいていたことに、
ちょっと感動を覚えまして。
梅雨明けまで、あと少しありそう。
きのうも、エアコンを除湿に設定し眠りにつきました。
ですので、けさも快適。

 

・連れられてはぐれし海や夏帽子  野衾

 

役に立つことば

 

一日一ページずつ読む本がいくつかありまして、
そのうちの一つが『リジューのテレーズ 365の言葉』(女子パウロ会、2011年)。
ちいさな本です。
リジューのテレーズさんは、1873年にフランスのアランソン市に生まれ、
1888年にリジューのカルメル会に入会した修道女で、
1897年、24歳の若さで帰天されました。
この本には、
テレーズさんがのこした、まさに珠玉のようなことばが、
一日ごとに収められているわけですけど、
これを「わっぱがでがして」帰宅後に読んでいると、
新約聖書「マタイによる福音書」第四章の「人はパンだけで生きるものではな」い
ことに、改めて思い至ります。
たとえば、7月4日のページには、
こんなことばが記されていました。

 

あなたがだれかに対して
激怒しているのを感じるとき、
心の平和を取り戻すには、
その人のために祈ることです。

 

こうべを垂れるしかありません。

 

・鯉眺む人を鯉見る溽暑かな  野衾

 

仲よき事は

 

先週木曜日(7/4)のブログタイトルは「このごろ好きなテレビCM」
でしたが、その冒頭、
ガンバレルーヤのよしこさんのセリフを、
「ゴーメットってすこし贅沢な蒟蒻畑なんでしょ」と記したものの、
ちょっと気になり確認したところ、
「すこし贅沢な」
ではなく、
「ちょっといい」
でした。
お詫びして訂正いたします。
ところで、
このコマーシャル、コマーシャルですから短いわけだけど、
見るたびに、
こちらの気持ちが明るくなる気がします。
武者小路実篤さんのことばに有名な「仲よき事は美しき哉」がありますが、
あのコマーシャルを見ると、
実篤さんのことばを思い出さずにいられません。
さらにところで。
こんにゃくゼリーなるもの、
わたしはこれまで買ったことがありません
でした。
が、
テレビCMをきっかけに、
行きつけのコンビニエンスストアやスーパーマーケットやドラッグストア
に入った折に見てみると、
いろいろいろいろあるんですね。
これまでも
見えていたはずなのに、
意識しないから、それと気づかなかったのでしょう。
さてきのうのこと。
ドラッグストアに立ち寄り買い物をしていた
とき、
蒟蒻畑はありませんでしたが、
ほかのメーカーのものがありましたので手にとろうとしたら、
横からおばさんがサッと手を出し袋を持ちあげ、
ちゅうちょせずに買い物かごに入れた。
邪魔されたわけではありません。
わたしはただ見ていただけですから。
そのとき思ったのは、
「へ~。売れているんだぁ」
ということ。
「こんにゃくは、からだに良さそうだし、いまは物価が高いから、
それもあって売れているのかな?」
とか。
そんなようなわけで、
わたしもひと袋、買い物かごに入れました。

 

・生と死のあはひの生や半夏生  野衾

 

人間とは何か

 

ヘロドトスさんの『歴史』、トゥキュディデスさんの『戦史』を読み、
「人間とは何か」を考えてみた。
というか、むしろ、考えさせられました。
とくに、徹底してペロポネソス戦争を描く『戦史』を通じて、
以下、三つのことを。
一つ目。
人間の精神は、『歴史』や『戦史』の頃とくらべ、
ほんの少しも進歩していないのではないか、
ということ。
これまでは、なんとなくだけど、
物質的な面での進歩にくらべ、精神はゆっくりとしか進歩しないのかな?
みたいに考えてきましたが、
ゆっくりもなにも、
ひょっとしたら、精神はまったく進歩しないのではないか、
そんなふうに感じた。
二つ目。
ソクラテスさん(その精緻化であるプラトンさんの対話篇)に始まる哲学の歴史には、
そもそもペロポネソス戦争を背景にし、人間同士が戦わずして、
もっといえば、
人を殺さずに生きていく知恵をもとうとしての切実な願い
が籠められているということ。
岩波文庫の『戦史』中巻に「メーロス島対談」が収められています。
権力を笠に着たアテネの代表とミロス島の代表との対話で、
読んでいて、胸に迫ってくるものがあります。
けっきょく、
ミロス側はアテネ側の逆鱗に触れ、紀元前416年、島の男はすべて殺され、
女と子どもは奴隷にされたと『戦史』は告げています。
哲学を学ぶ根本がここにあると初めて腑に落ちた。
三つ目。
これまたなんとなくですが、
戦争というのは平和が乱された異常事態であって、ながくつづくものではない、
なんとなく、そう思ってきました。
思いたかっただけ、かもしれませんけど。
ところが、
『歴史』『戦史』を通して読むと、
いやいや、そんなことは言えないのではないか、
言えない言えない、
むしろ戦争が、
愚かな人間という動物の通常であって、
戦争のない状態というのは、倦まず弛まず、日々、新しく勝ちとっていく、
そういうものではないのか、
と思えてきた。
トルストイさんの『戦争と平和』は、
「戦争と平和」であって、
けして「平和と戦争」という並びではない。
そのことの意味も、
こんかい改めて考えさせられました。

 

・梅雨は梅雨そのときどきに相応しく  野衾

 

人につまずく

 

ふと、わたしは自分のことをどれだけ知っているだろうか、と思うことがあります。
六割ぐらい? いやもう少し、七割ぐらい?
いやいや、とてもとても。
せいぜいのところ三割、ひょっとしたらそれ以下かも。
そういう感じ方は、
これまでの実体験から来るところと、
共感をもって読んだ本によるところもある気がします。

 

そこで私はキリスト者というもののあり方には、
二種類ありはしないかということを考えさせられるようになってきた。
一つは自己完成的ともいうべきあり方で、
他は自己超越的ともいうべきあり方である。
自己完成的のあり方とは、他人がその人を見る場合、その人しか見えない場合である。
その人がりっぱであればあるほど、
「その人」がりっぱに見えるという人である。
こういう人のりっぱさは、
その人自身を尊敬させるりっぱさで、
それ以上のものをさし示さないというりっぱさである。
ところが困ったことには、
こういう人の場合に、
前述の「つまずき」が起こりやすいのである。
というのは、
この意味におけるりっぱな人でも
――人間であるかぎり、完全な人というものはないから、
その近くにおり、親しくなれば必ずこの欠陥や、イヤなところが見えてくる
ものである。
欠陥やイヤなところといわないまでも、
近づく人は、
彼とは個性的に違っているのだから、
いつか不満を感ずるようになるものである。
この時その尊敬者はたちまち彼につまずくということになる。
こういう場合が非常に多くみられる。
しかるに第二の「自己超越的」とよばれうるあり方をもつ人には、
こういうことはあまりない。
この自己超越的なあり方をもつとは、
その人のあり方が、
何かその人だけでなく、その人を越えたものをさし示す、
というようなあり方をいうのである。
よくいわれる「あの人は変な人だが、なんとなく異なったところがある」
というような人である。
こういうあり方をもつ人においては、
その長所も短所も、
いっさいがその人自身を示すというよりは、
その人を越えた「なにものか」を示しているし、またそれを示すために役立っている。
したがって逆説的にいえば、
その人の短所や欠点が、目だてば目だつほど、
強ければつよいほど、
その人との関係をもっている人々は、
彼の示しているその「なにものか」をよりあざやかに指示される
ことになる。
だからこの人の場合には、
その関係者がつまずくということがあまり起こらない。
(渡辺善太[著]『渡辺善太著作選 1 偽善者を出す処 偽善者は教会の必然的現象』
ヨベル新書、2012年、pp.104-105)

 

・夏草やトゥーキュディデースの夢止まず  野衾

 

このごろ好きなテレビCM

 

「ゴーメットってちょっといい蒟蒻畑なんでしょ」と、ガンバレルーヤのよしこさん。
(たしかに、グルメの横文字を英語風に読み、ゴーメットと言いたくなる)
すると、
「それ、グルメだよ。グルメ」と、ガンバレルーヤのまひるさん。
それを受け、
「グルメだね」と井桁弘恵さん。
ふたりにそう言われ、
もういちど商品の袋を見直すよしこさん、
カタカナでも書いてある商品名を見直して、
「ほんとだー。あはははは」。
このコマーシャル、
わたくし、大好きです。
好きが嵩じて、ひとり三役で演じ、家人に呆れられたりしています。
むかし、
『広告批評』という雑誌がありました。
主にテレビのコマーシャルを取り上げ批評し、コメントするという雑誌で、
ときどき楽しく読んでいたものですが、
『広告批評』の天野祐吉さんがいらっしゃったら、
きっと取り上げていたのではないか、
と想像したりします。
ともかく。
ガンバレルーヤのよしこさんとまひるさん、
それと、井桁弘恵さんの関係が絶妙で、
コマーシャルの制作者側のアイディアと演出の妙だと思いますけれど、
ほれぼれしてしまいます。
セリフが短いだけに、三人の人柄が現れているような気もし、
短いながら、
すばらしい芝居を観たときのような感動がある。
うん。
それで、
ガンバレルーヤのよしこさん、まひるさん、井桁弘恵さんを、
ますます好きになりました。
かつ、
「ちょっといい蒟蒻畑」のゴーメット、
いや、フォーグルメを購入。
さっそく食べてみた。うんめー!!
というわけで、
すっかりコマーシャルにやられてしまいました。

 

・ふりふりて軍癖《いくさぐせ》止まず五月雨  野衾