ユーモアについて

 

中野好夫さんが『自負と偏見』の解説に書いている、
オースティンさんに関することで、
きのう引用した箇所につづくところの短文も、
『聖書』との関連でとても興味ぶかく、おもしろく感じました。

 

全体としての人間を写す、そしてそこからは、
おのずからすべてを最後はゆるすというユーモアが生れる。
これがオースティン最大の魅力なのではあるまいか。
(オースティン[著]中野好夫[訳]『自負と偏見』新潮文庫、1997年、p.604)

 

ユーモアを辞書で引くと、たとえば『広辞苑』では、
「上品な洒落(しゃれ)やおかしみ。諧謔(かいぎゃく)」。
『明鏡国語辞典』では、
「人の心を和ませるような、ほのぼのとしたおかしみ。気のきいた、上品なしゃれ」
と書かれてあり、
さらに、
「「ウイット」「エスプリ」が理知的なおかしみであるのに対し、
人間的・感情的な温かさを感じさせるおかしみをいう」
とも。
また『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、
「基本的美的範疇の一つ。ラテン語のhumorに由来し、本来は湿気、体液の意」
と。
さて、引用した中野さんの文章に
「ゆるすというユーモア」という文言がありまして、
このことばと
「ユーモア」を説明した『ブリタニカ国際大百科事典』の「体液」から、
「ヨハネによる福音書」の第7章38節の
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」
の文言を思い浮かべました。
「心の奥底から」は、直訳なら「腹から」であると、
『聖書』に注記されています。
「腹からの水」は、体液ではないかと、単純ですが、
そんな風に想像します。
また、同じく
「ヨハネによる福音書」には、
十字架にかけられ、すでに死んでいるにも拘らず、
「しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、
すぐに血と水が出て来た」(第19章34節)
とありまして、
この場合、
血も水も、イエス・キリストの体液のことでしょう。
「ユーモア」の語源に「体液」があり、
人をゆるす、ということが『聖書』のたいせつな訓えであることからすると、
「ゆるすというユーモア」と『聖書』を関連させての想像、思考は、
それほど牽強付会でもないのでは、
と思います。

 

・気掛かりのなきも気掛かり春の月  野衾

 

正しい者はない

 

中野好夫さん訳の『デイヴィッド・コパフィールド』を読み終えましたので、
つぎに、中野さん訳の『自負と偏見』。
これも新潮文庫に入っています。
あともう少しで読み終りますが、
巻末に中野さんが書かれた解説があり、気になるので、
先に読んでみました。
こんなことが書かれています。

 

次にもう一つの魅力は、彼女の対人間態度であろう。
彼女の作品に登場する人物は、まず一人のこらずが弱点、欠点をもっている。
そしていかにも人間らしい愚考を演じて見せる。
しかもそうした人間の弱点を、
彼女はけっして怒らず、悲しまず、
むしろ人間本来のありようとして寛容の心で包んでいるといってもよい。
もちろん欠点は欠点だから、槍玉やりだまにあがる。
だが、
その風刺は、自然ユーモアの笑いになる。
槍玉にあがるまず筆頭は虚栄心と思い上りである。
次ぎには頭のわるいおしゃべり。
この小説でいえば、
キャサリン夫人、コリンズ牧師、母親ミセス・ベネットなどは、
まずいちばん恰好かっこうの対象だが、
さらに見逃してならないのは、
作者自身好意と愛情を注いでいる人物に対してさえ、
彼女はけっして人間放れのした完全人としては描かない。
ちゃんと人間らしい欠点をあたえている。
(オースティン[著]中野好夫[訳]『自負と偏見』新潮文庫、1997年、pp.603-604)

 

「いかにも人間らしい愚考」「ちゃんと人間らしい欠点」
というあたりに、
アラビアのロレンスや徳冨蘆花の伝記を書いた中野さんらしい人間の見方が
あるような気がします。
それはともかく。
オースティンさんのお父さんは僕死、いや、牧師なのに、
逆に、だから、かもしれませんが、
コリンズ牧師のトホホなところは、どうしようもない感じがします。
中野さんの言うとおり。
ところで『旧約聖書』「ミカ書」第七章二節には、
つぎのようなことばがあります。

 

神を敬う人は地に絶え、人のうちに正しい者はない。

 

「人のうちに正しい者はない。」一人もない、といったところでしょうか。
オースティンさんの作品、人生の背景には、
ディケンズさんと同様、
キリスト教というより、聖書的なものが活きて働いていると思います。

 

・土よりの白の苦さを野蒜かな  野衾

 

土と種

 

わたしは農家に生まれましたので、
それもあってか、ものを考えるときに、植物にたとえることが多いようです。
このごろ考えることの一つに、
種としてのことばや文字が人のこころに芽をだす前に、
見えない土の中でこころの根が育つのではないか、
ということがあります。
そして、
それを支えているのは、家庭や社会の雰囲気なのではないか。
雰囲気は、
たとえていうなら、
種が落ちる土のようなものではないか。
そんなことをつらつら思いめぐらすきっかけは、
カントさん。
学生のときに代表作を読んで以来、
それほど関心がなくこれまで過ごしてきましたけれど、
春風社で出した浩瀚な『カント伝
(マンフレッド・キューン[著]菅沢龍文/中澤武/山根雄一郎[訳]、2017年)
を読み、興味が再度浮上しました。
ところで、
1985年に刊行された『キリスト教大事典』(改訂新版第8版、教文館)
のカントさんの項目を見ると、

 

ドイツの哲学者。ケーニヒスベルクに生れ、家庭では両親の敬虔主義の信仰的雰囲気
の中で育った。
ケーニヒスベルク大学で哲学のほか神学・数学・自然科学等を学ぶ。

 

と書かれています。
「敬虔主義の信仰的雰囲気」の「敬虔主義」を、
さらに同事典で引いてみると、

 

1690年ごろから1730年ごろにかけてドイツのプロテスタント教会を支配した傾向。
宗教的生命を失ったルター派の正統主義(Orthodoxie)に対する改革運動で、
ルター派内部でのピューリタニズムともいうべきもの。

 

と書かれています。
カントさんは、1724年生まれですから、
カントさんはもとより、カントさんのご両親も
土としての「敬虔主義の信仰的雰囲気」のなかで、こころの根を育てたのではないか、
そんな気がします。
そういうフレームで考えると、
『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』が、
学生のときとは、
またちがった光芒を放ってきます。

 

・ここだここ居場所知らせる桜かな  野衾

 

行動の額縁

 

横浜は、今月七日の日曜日、さくらが満開になりました。
休日でしたが、午後から出社し、その日予定していた仕事に向かいます。
一時間ほど机上のゲラを読み、
少し休もうかと思い、
椅子を回して外の景色を見やりました。
若い頃、
こういう日には、読みたい本を買うのに、
伊勢佐木町にある有隣堂本店に向かったものでした。
探している本が見つかればよし、見つからなければ、それもまたよし。
インターネット書店がまだない時代のこと。
明るい外の景色を見ながら、
ふと思いました。
あの頃、
読みたい本を探しに、電車を乗り継いで、伊勢佐木町まで行ったけれど、
ほんとうに、本を探すために行ったのだろうか、
と。
ほんとうは、
さくらが咲く頃の、
なんとなく華やいだ気分の赴くまま、
そうだ、本屋に行こう!
買いたい本もあるし…。
ほんとうのところは、
そんなふうな順序で行動を起こしたのではなかったか。
だから、
目的の本があればうれしいけど、
たとえ見つからなくても、
本屋に行った時間が無駄だった、とは感じていなかった気がします。
むしろ、
目的の本が見つからなかったことで、
本を探しに行ったその日の行動を
一枚の絵にたとえるとしたら、
一日の行動の額縁の手ざわりをゆっくり味わっていた
ようにも思います。
さて10分が経過しました。
椅子を回転させ、
机上のゲラに目を落とします。

 

・何となく忘れてもなほ桜かな  野衾

 

きゃばの葉の赤飯

 

先だって、夕飯に赤飯をいただきました。とくに祝い事があったわけではありません。
塩加減が絶妙で、小豆の味がほんのり、それと薄紫に近い赤。
おいしくいただいているうちに、
子どもの頃に食べた、きゃばの葉に包んだ赤飯を思いだしました。
わたしの地元では「きゃばの葉」と呼んでいましたが、
朴葉のことだと思います。
かつて田植えは、地域の共同作業であり、
複数の人が横並びで田んぼに入り、手作業で稲の苗を植えていきました。
子どもは、苗の束を放る手伝い。
昼どきになると、
きゃばの葉にくるみ、
藁で十文字に結わえた赤飯がふるまわれた。
家に残っていた者が用意し、
頃合いを見計らって田んぼまで運んでいったのではなかったでしょうか。
共同作業となると、
そのための時間が貴重ですから、
田んぼの横の畦道で昼食を済ませるのは理にかなっていました。
あれは、ほんとうに美味しかった!
ほっかほかの、あたたかい赤飯をくるむので、
きゃばの葉の鮮やかな緑が茶色く変色しているところもあり、
それを見ると、
きゃばの葉の、あの何ともいえぬ風味が、ことさら赤飯に移っているような気がし、
まさに緑の自然、大地の贈り物をいただいている気がしたものです。
時代が移り、
共同でやる田植えがなくなり、
それとともに、
きゃばの葉の赤飯を食することもなくなりました。
が、
食べたいなぁ!
と、
こういうものを食べたくなるのも、
加齢現象の一つでしょう。

 

・渦を巻き傘を吹きやる春嵐  野衾

 

ラザロの復活

 

ドストエフスキーさんの『罪と罰』を初めて読んだのは、大学に入ってから
だったと思います。
ドストエフスキーさんを読み始めたのは
そりより前、
たしか高校一年生のときで、
最初が『虐げられし人々』だったことはよく憶えています。
「虐げられた」でなく「虐げられし」。
その流れで一連のものを文庫で読みましたから、
そのとき『罪と罰』も読んだような。
読まなかったような。
記憶が定かでありません。
ともかく。
『罪と罰』中、いちばん印象に残っているのが、殺人を犯したラスコーリニコフと、
ラスコーリニコフの恋人ソーニャが語り合う場面。
ソーニャは家計のために娼婦になっている。
そこで『聖書』「ヨハネによる福音書」にでてくる「ラザロの復活」
が取り上げられます。
ソーニャにとって、
「ラザロの復活」がいかに大切なものであるか、
日々こころの糧になっているかが切々と伝わってきます。
再読したときも、
そこがいちばん印象深かった。
デンマークの映画監督カール・ドライヤーさんの映画『奇跡』を観、
その印象はさらに深まりました。
さて。
ただいま中野好夫さん訳の『デイヴィッド・コパフィールド』
を読んでいるところですが、
この本にも
「ヨハネによる福音書」の同じ箇所を下敷きにしての物語が展開されます。
「ラザロの復活」そのものではありませんが、
あきらかにそのところを踏まえてい、
中野さんは訳注で、それを示しておられる。
主人公デイヴィッドの愛する妻ドーラが病気でだんだん衰弱していくシーン。

 

ドーラがやがていなくなる――私は、そのことがわかっているのだろうか?
みんなは、そう言う。
別に新しい、変ったことは、なんにも言ってくれない。
だが、私自身には、どうにもそのことがぴったりこないのだ。
自分のものにすることができないのだ。
今日は、何度か席をはずして、泣いた。
私は、
あの生者と死者との別れのために泣いた人
のことを思った。
(チャールズ・ディケンズ[著]中野好夫[訳]
『デイヴィッド・コパフィールド』新潮文庫(4)1967年、p.229)

 

「あの生者と死者との別れのために泣いた人」
とは、イエス・キリスト。
「ヨハネによる福音書」のその箇所を引くと、

 

マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、
その足もとにひれ伏して言った、
「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、
わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。
イエスは、
彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、
激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、
「彼をどこに置いたのか」。
彼らはイエスに言った、
「主よ、きて、ごらんください」。
イエスは涙を流された。

 

『虐げられし人々』から始まった欧米の小説の読書ですが、
若気の至りか、傲慢にも、
「なんだ、どれも『聖書』の解説書みたいじゃないか」と感じ、
それなら、本家の『聖書』を読むにかぎる、
なんてことを思ったっけ。
不遜な感じ方だったとは思いますけれど、
いま『デイヴィッド・コパフィールド』を読むと、
「ラザロの復活」はもとより、
この作家も、いかに『聖書』を読み込み、
自家薬籠中のものとし、
じぶんの作品に取り込んでいるかに改めて驚かされます。

 

・下り来たるビルの抜け道春嵐  野衾

 

隠されているもの

 

零余子と書いて、むかご。自然生と書いて、じねんじょう。自然薯(じねんじょ)
とも書きます。
自然生、自然薯は、ヤマノイモのこと。
むかご、じねんじょう、じねんじょ、ヤマノイモ、
語呂がよく、
平仮名、片仮名で書くと、やさしげな感じ。
いっぽう、
零余子、自然生、自然薯、
漢字で書くと、いろいろイメージが広がります。
このごろ、
零余子と自然生のことを、
つらつら考えます。
きっかけは、電車で読む本としてしばらく馴染んできた、
班固さんの『漢書』(小竹武夫さん訳)
を読み終え、
ただいま津田左右吉さんの
『文学に現はれたる我が国民思想の研究』を読み始めたこと。
全八冊のうちのまだ一冊目ですが、
車中たのしく、おもしろく読んでいます。
津田さんの本はこれが初めて。
むずかしげな本ですが、
書きっぷりが独特で、つい笑ってしまう箇所もあります。
『漢書』につづき、
これまた、
読み終るまでしばらくかかるでしょう。
書名が気に入っています。
この書名、
国民の思想というのは、目に見えて分かる、
ようなものでなく、
文学にそれは現れるよ、という考え方の表出であるような。
それで、
想像癖、連想癖のあるわたしは、
この書名を毎日見ているうちに、なんか、むかごとヤマノイモの関係みたいなもの
かな、
と考えるようになりました。
『零余子に現はれたる我が自然生の研究』
漢字で書くと、
なんか、
それなりの雰囲気があるぞ。
それはともかく、
自然生(=ヤマノイモ)は土のなかにあり、
それを見つけるには、零余子(むかご)が目印になります。
零余子(むかご)は土の外にありますので。
子どもの頃、
祖父か祖母について行って、
零余子を見つけ、蔓をたよりに、その下をここ掘れここ掘れ、
と、
掘るのをそばで見ていたような、
そんなことはなかった
ような。
むかしむかしのことで、
よく憶えていませんけど。
『聖書』の「ルカによる福音書」第8章17節の
「隠されているもので、あらわにならないものはなく」
というのも、
ひょいと念頭に浮びます。

 

・怒り飽き風に散りたる桜かな  野衾