コデマリ

 

毎年この時期になると目にするのがコデマリの花。
漢字で書くと小手毬。
たしかに白い手毬のようにも見えます。
と、こう書きだしましたが、
コデマリという名の花であることをこのごろ知りました。
名を知らずに愛でていました。
無手勝流に俳句をつくるようになって
十年たちましたが、
いちばんありがたいのは、
いろいろなものの名を知るきっかけになったこと。
とくに花の名、鳥の名、虫の名、気象の微妙なうつろい、
名を知ることで
よけいそこに目が行き、
変化を味わうようになった気がします。
コデマリはその一つ。

 

・白鷺の佇ちて眠さの勝りけり  野衾

 

フィロポイメン

 

ひきつづき、モンテーニュから引用。

 

大勢の家来の真中で「殿様はいずれに?」などと問いかけられるのは、
いや、髯剃(ひげそ)りや秘書などが受けた敬礼のおあまりをやっと頂戴するなんて、
とても癪(しゃく)にさわる。
可哀そうにフィロポイメンはそういう目にあった。
部隊に先んじて彼のおいでを待ちうけている旅籠(はたご)屋に第一番に到着したところ、
女主人は彼を知らなかったし、
見ると風采はなはだ上らぬ男なので、
「女どもがフィロポイメンをもてなすために水を汲んだり火をおこしたりしているから、
そっちへ行って手伝いなさい」
といいつけた。
やがてお供の侍たちが来て見ると、
大将がこの花々しいお役目にいそしんでいるので
(まったく彼はいいつけに違背しなかったのである)、
驚いてそのわけをきいた。
「わたしはわたしの醜さの罰をうけているのだ」
と彼は答えた。
(関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』国書刊行会、2014年、p.756)

 

それまでコオロギのようにしずかに読んでいたのですが、
引用した箇所の最後
「わたしはわたしの醜さの罰をうけているのだ」
のしずかなもの言いに
フィロポイメンのかなしさがそこはかとなく表れているようで、
カバのように大笑いしてしまいました。
そして、
紀元前ギリシアの大将フィロポイメンのことが
好きになりました。

 

・家出する少年の日の五月かな  野衾

 

欲望について

 

モンテーニュがこんなことも書いていたのをすっかり忘れていました。

 

牝馬の匂いをかぐとどうにも押えようのなくなる老いぼれ馬を、
わたしはとうとう種馬にやっちまったことがある。
容易にやれると、この馬はいつの間にかその牝馬どもにげんなりしたが、
でもよその牝馬が始めて彼の柵のわきを通るのをみると、
相変らずうるさくいななき、前と同じように昂奮した。
我々の欲望は、その手元にあるものには眼もくれず、
それを飛び越えて自分が持たないものを追いかける。
(関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』国書刊行会、2014年、p.724)

 

「我々の欲望は困難にあうと増加すること」の章のなかにあることば。

 

・しらさぎ飛翔妊婦の腹の和毛(のこげ)かな  野衾

 

夢のはなし

 

雨模様の道を静かにあるきながら、
障害者教育の専門家がインタビューに答えています。
インタビュアーはマイクを持ちながらさかんにうなずく様子。
わたしはたましいだけの存在で、
ふたりのうしろからふわふわ宙に浮いたまま
ついていきます。
とうとう雨が降りだしました。
道がどんどんぬかるんできます。
ふたりの足はすでにくるぶし辺りまで水に浸かり。
道は窪地にさしかかり、
雨がたまって沼のようになっている場所へ入っていきました。
ふたりとも傘は持っていません。
ずんずんずんずん水のなかに入っていき、
ずんずんずんずん、
ずんずんずんずん、
とうとう頭もすっぽり入って、
全身見えなくなってしまいました。
泡がぷつぷつ浮いてきました。
しばらくすると、
ふたつの頭が水面から現れ、
やがて首、肩、胸、腹、腰、脚、膝、脛、足。
専門家は何事もなかったかのように話しつづけています。
インタビュアーはなんだか必死。
頬を雨が伝わります。
汗だったかもしれません。

 

・海沿ひのうすむらさきの五月かな  野衾

 

ふわっふわ

 

食パンのことではありません。
本町小学校よこの階段を上って横断歩道を渡ろうとしたとき、
反対側から、
文庫本の読みさしのページに右手の親指をはさみ
あるいてくる男性がありました。
おどろいたのは、
持っていたその本が異様にふくらんでいたこと。
風呂につかりながら読んでいて
うっかり湯のなかに落としたかな。
あるいは雨にやられたか。
はたまた、
1ページづつくちゃくちゃにし、
それを全ページにほどこしたとか。
そんなことをあえてするひとはいないか。
いないよな。
いや、わからんぞ…
まあそんな感じで
ふわっふわにふくらんでいる文庫本に目が奪われたのでした。
ひと月ほど前のことです。
さて、おととい、
紅葉坂の交差点であの男性とすれ違いました。
前回同様、
読みさしページに右手の親指をはさみながら文庫本を携えています。
その本の状態はといえば、
やはりふわっふわ。
まえに見たときと同じ本なのか、
べつの本なのかまでは分かりませんでした。
もしべつの本だとすれば、
ふわっふわの状態にした本を読むのが好きなひと
なのかもしれません。
んー、
ミステリアス!

 

・いさぎよき天(あめ)の下なる五月かな  野衾

 

象の宗教心

 

我々にはまた、象が多少宗教心らしいものを持っていることも理解できる。
なぜなら、彼らが幾度もその身を洗い清めた後、
我々が腕をさしのべるようにその鼻を高くさしあげ、
眼には昇る朝日をうち拝みながら、
一日の内のある時刻に、全く自発的に、
誰に教えられたのでも命ぜられたのでもなく、
長く瞑想静観にひたるのを見るからである。…
(関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』国書刊行会、2014年、p.559)

 

三十年もまえのことながら、
訳者がちがうとはいえ、
こんなことをモンテーニュが書いていることをすっかり忘れていました。
おなじページには、
蟻たちが他の蟻たちと談判する様子を記した古代ギリシアの哲学者クレアンテス
の記事も引用されており、
「レーモン・スボン弁護」というタイトルを冠していますが、
モンテーニュの自然観、宗教観、
ひいては人間観が垣間見えるようです。

 

・隠れなし恥じ入るほどの五月の空  野衾

 

自然とともに

 

先月二十八日から今月四日まで秋田の実家に帰っていました。
なつかしいふるさとの自然に触れれば、
それだけでいっきに気分爽快となりますが、
自然がゆたかということは、
いいことばかりではありません。
鶏小屋のにわとりがイタチに殺(や)られたことは
先日この日記に記しましたが、
秋田にいる間にさらに大型の一匹が罠にかかりました。
あまりの大きさに父も母も唖然。
きけば、
わが家だけでなく
町内のいくつかの家でおなじ事件が発生していました。
また地元で通称あねこ虫というカメムシがいつもながら大発生しており、
捕っても捕っても
どこから湧いてくるのかと思うぐらいにつぎからつぎ。
キリがありません。
散歩に出れば、こんどは蛇。
水を張った田には白鷺。
ドキドキワクワクの自然がいっぱい。

 

・三尺の蛇を跨ぎてひきつれり  野衾

 

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