好きの種

 

どなたかと話をしていて、談たまたま子どもの頃に読んだ本におよぶことがあります。
なんでもいいですけど、
たとえば
『メアリー・ポピンズ』『ドリトル先生』『若草物語』『赤毛のアン』。
あげれば、いっぱいいっぱいあるでしょう。
歳をかさね、
おとなになった者同士が語り合い、
そのうちのひとりがたとえば『メアリー・ポピンズ』のことを話し始めるや、
目に光が宿り、
それまでの話題のときとはまったく異なる、
そういう場面にこれまで幾度か遭遇してきました。
けして長く話してくれるわけではない。
どこがどういうふうにおもしろかった、とか、そういうことでなく、
ほんのちょっとしたこと。
開けていない窓から風が吹いてくる気がしたとか、
ページをめくるときの紙のさわり心地とか、
いわばワクワク感の種。
でも、
『メアリー・ポピンズ』と口にするときの
その人のこころのふるえが、
こちらにも伝わり共振するようで、
気持ちよくなります。
わたしも読んでいるときは、共振が共鳴また共感となることがあり、
まだ読んでいないときは、
話をしてくれている目の前のひとの、
その本に対する興味と関心、
愛情の在り処、
好きの種に触れ、それを垣間見せてもらえた気になり、
ぜひ読んでみよう、
と思います。
じっさいに読んでみて、
本のなかの物語を堪能しつつ、
そこに、
物語のおもしろさも然ることながら、
その本について目を輝かし話してくれた友人・知人の子ども時代のこころの秘密、
また、
それが今のこころの芯になって息づいている
その元があると感じる。
本ていいなぁと思えるこれも瞬間です。

 

・六月の務め果たすや日の残る  野衾

 

気は心

 

秋田の幼なじみのSさんが、きゃばの葉でくるんだ赤飯を送ってくれました。
五十年ぶり、いやもっとか。
会社に届いたものを、タクシーで持ってかえり、
家人が帰宅するのを待たずに、
包みをほどいてみた。
赤飯をくるんだきゃばの葉が、ちゃんと藁で十文字に縛ってあるではないか!
そうだそうだ。なつかしい。
きゃばの葉は抗菌作用、殺菌作用があるとはいえ、
せっかくSさんが送ってくれたのに、
もしも傷んでいたら、もったいないと思って、一分一秒でも早く口にしたかった。
で、
で、
んめがったー!! こでらいねー(こたえられない)!!
感動しきり。な、なだ(涙)でできた!!
(注――「なだ」の「な」と「だ」のあいだに小さい「ん」が入る)
きゃばの葉の香りの青さ、みずみずしさ、すがすがしさ、もったいなさ。
さっそくSさんに電話。
そこで、改めて、
「んめがったー!! こでらいねー!! なだでできた!!」
と告げるや、
Sさん、
「あはは…。んめ、どごさいるじや? あははは…」
全国区のことばに置き換えると、
「あなたどこにいるの?」。
わたしが、もろに秋田弁でしゃべったので、Sさん、
思わず噴き出してしまった。
わざわざ山にきゃばの葉を採りに行き、
赤飯を炊いて、温かいうちにきゃばの葉にくるんで郵便局に持っていったのだとか。
局員から「クールにしますか?」
と訊かれ、
そうしたほうがいいか、とも一瞬思ったけれど、
きゃばの葉は抗菌作用があるし、
常温のまま食したほうがぜったいに美味しいと思い直し、
常温のまま送ってくれたのでした。
電話でその話を聞き、
やっぱりそうかと合点がいった。
会社に届いたとき、
おそらくそうだろうと想像できたので、
それもあって急ぎタクシーで帰り食したのでした。
かつて共同作業で田植えをしていた頃は、
昼の休みに家に帰る時間がもったいないので、
係りの者が、
家からきゃばの葉でくるんだ赤飯を田んぼの畦道まで運び、
そこで地面に座り皆で食べたものでした。
子どもだったわたしもおすそ分けに与りました。
その後、田植え機械が普及したことで、
共同の田植えがなくなり、
同時に、きゃばの葉でくるんだ赤飯を食することもなくなった。
ちなみに、
きゃばの葉は、朴葉のこと。
だから、ひょっとしたら、
「きゃば」の「ば」は葉を指しているのかもしれない。
そうすると「きゃば」の「きゃ」は何?
その辺り、
まだ調べが付いていません。

 

・きゃばの葉の赤飯皆で植田かな  野衾

 

本の旅

 

にんげんは、生まれてきたら死ぬことになっているので、
輪廻転生とか、霊魂不滅とか、
つまり、
にんげんは死んだらどうなるの? の疑問がついて回ることになります。
これについての古代エジプト人の考えを
ヘロドトスさんが紹介しています。

 

さてエジプト人のいうところでは、
地下界を支配するのはデメテルとディオニュソスの二神であるという。
また人間の霊魂は不滅で、
肉体が亡びると次々に生れてくる他の動物の体内に入って宿る、
という説を最初に唱えたのもエジプト人である。
魂は陸に棲むもの、海に棲むもの、そして空飛ぶもの、
とあらゆる動物の体を一巡すると、
ふたたびまた、
生れくる人間の体内に入り、三千年で魂の一巡が終るという。
ギリシア人の中には――人によって時代上の先後はあるが――この説を採り上げ
あたかも自説であるかのごとく唱道しているものが幾人もある。
それらの者の名を私は知っているが、
ここには記さない。
(ヘロドトス[著]松平千秋[訳]『歴史(上)』ワイド版岩波文庫、2008年、pp.276-277)

 

文中の、
「この説を採り上げあたかも自説であるかのごとく唱道しているものが幾人もある」
について、
訳者の松平さんは、訳注に、
「古くはオルペウス教徒、ペレキュデス、ピュタゴラスなど、
遅れてはエンペドクレスを指すものらしい。」
と記しています。
ということで、本の旅は止まず。

 

・夏草の香が蒸す空は鳥  野衾

 

これもちょっとした

 

よく見るテレビに『帰れマンデー見っけ隊!!』があります。
テレビ朝日系列の旅歩きの番組。
毎週月曜日にやっていて、
今週も見ました。
群馬県のみなかみ辺りをサンドウィッチマンと三人のゲストが歩きます。
ゲストの一人が、
お笑いコンビ錦鯉の長谷川雅紀さん。
相方の渡辺隆さんは今回は出ていませんでした。
見ていたら、
歩いている途中、
道の駅だったと思いますけど、
雅紀さんを見つけた小学三年生ぐらいかな、
ひとりの女の子が雅紀さんに向かって
駆けてきた。
雅紀さん、
しゃがんで両手を広げ。
そこに迎えられるようにして女の子が勢いよく跳びこみます。
サンドウィッチマンの伊達さんが
「映画のワンシーンみたい」
とか言ってました。
わたしがアッと思ったのは、
そのつぎの雅紀さんと女の子のすがた。
ふたりいっしょに雅紀さんの芸「こーんにーちはーー!!」
をやったあと、
女の子が、
「うるせーなー」と雅紀さんの頭をペシッ。
渡辺さんの「うるせーよ」を、
女の子は「うるせーなー」と言ったのですが、
雅紀さんの頭をペシッとやったときのその「ペシッ」がなんとも柔らかくやさしい。
台本がなくてやっているわけですから、
それは、
女の子の正直な気持ちの現れだったでしょう。
見ていて、この子は、
ほんとうに雅紀さんが好きなんだなと思いました。
駆けていって跳びこんだ姿もだけど、
ちいさな手のあの柔らかいしなやかな「ペシッ」に感動した。
雅紀さん、うれしかったろうなぁ。

 

・植田写す空中ブランコの揺れ  野衾

 

ちょっとしたことが

 

わたしが住むこの場所は小高い山の上、
ここから日々眺められる景色がいちばんの宝物だなと思っています。
数年前おそらく小学校に入学したであろう娘さんが、
ピンクのランドセルを背負って元気よく坂道を下りて行ったとき、
左右に揺れるランドセルが生きているように見えた、
それぐらい、
娘さんが小さかったのに、
年を重ね、ランドセルがちょうどの大きさに見えるようになり、
それはそれで印象に残ったことを先だって
このブログに書きました。
坂を下りて行く姿しか知りませんから、
その娘さんと町で会っても分からないでしょう。
きのう、
いつものランドセルでなく、リュックサックを背負い、キャップを被っていました。
わたしはルーティンのツボ板踏みを行いながら、
見るともなく見ていたのですが、
少しリュックのショルダーベルトの長さが気になるらしく、
歩きながら、長さを調整している
ようにも見えました。
ただそれだけのことですが、
遠足へでも行くのでしょうか、
分かりませんけれど、
なんとなく、
楽しいというのか、うれしいというのか、
娘さんの気持ちが糸電話で告げられたかのごとく、
こちらまでポッと明るくなった
気がしました。
飯島耕一さんの詩「ゴヤのファースト・ネームは」を思い出した。
ほんのちょっとしたこと。
大きなことでなく。
ちょっとしたことが、一日一日の糧になる。
娘さんのリュックサックであったり、
すれ違う人との目礼であったり、
白々と明けゆく空だったり、入り日であったり、
道端の名も知らぬ花であったり、階段を忙しそうにうごく蟻であったり、
開店したての居酒屋の扉に貼ってあるメニューであったり、
いろいろいろいろ。
ことばってなんだろう、
ことばでないことばが在るなぁ、と思います。

 

・散髪の窓の外なる夕立かな  野衾

 

ヘロドトス

 

洋の東西を問わず、なるべく古典を読むようにしてきましたが、
教科書に載るようなものなのに、まだ読んでいないものがいくつかありまして、
その代表格がヘロドトスさん。
いつか読もうと思い、ふつうサイズの岩波文庫ではなく、
文字の大きいワイド版岩波文庫で上中下三冊を購入し、
いつでも読めるように、自宅の目につく場所に置いてありました。
いよいよ読み始めるようになったきっかけは、
ヘロドトスさん本人のまえに、
中務哲郎さんの『ヘロドトス『歴史』――世界の均衡を描く』
を読んだことでした。

 

ヘロドトスを批判するのに「物語的である」とはよく言われることである。
その意味は一つには、
『歴史』には面白い物語が数多く収められているということ。
今一つは、
まるでドラマか小説のように登場人物が生彩ある対話を交わす場面が多いことである。
しかもヘロドトスは自分の思想を登場人物に語らせる場合が多いから、
そのような場面では、
ヘロドトスは
歴史的事実を再現するというより歴史の意味を述べ伝えようとしているのである。
詩作ポイエーシスは普遍的なことを語り
歴史ヒストリアーは個別的なことを語るから、
詩作は歴史に比べてより哲学的でありより深い意義をもつ、
とアリストテレスは述べたが、
ヘロドトスは『歴史』を物語的なものに作る(poiein ポイエイン)ことにより、
普遍に連なる哲学的な作品とした。
そこで語られるのは弱者が強者を倒すクーデターの歴史ではなく、
大国の自壊の歴史である。
人間の条件が変わらぬ限りいつかまた同じようなことが起こる、
その時に繙かれるべきものとしてトゥキュディデスは『歴史』を書いたが、
ヘロドトスも、
「ヒュブリスへと向かう人間の本性」と
「他に抽んでたものを切り平げる神の嫉妬」が変わらぬ限り
人も国も滅びる、
というメッセージを永遠の財産として残したのである。
(中務哲郎『ヘロドトス『歴史』――世界の均衡を描く』岩波書店、2010年、p.176)

 

中務さんのものを何冊かおもしろく読んでいましたから、
その流れで、手にとったところ、
この本、
ヘロドトスさんの『歴史』に対する熱量がすごく、
一気に読みました。
また、
このごろの世界をじぶんなりに考えるよすがになれば、
とも思い、
ようやくヘロドトスさん本人にたどり着いた次第です。

 

・遮断機を待つ間の会釈風薫る  野衾

 

漢字と平仮名

 

パソコンやスマホを使うようになってから、機械が勝手に判断し漢字に変換して
くれますので、
その漢字で合っているかどうかさえ間違わなければ、
けっこうな数の漢字を使って、文章を入力することになります。
しかし、
書いたあとで読み直したときに、
漢字が多いと、どうも自分でない気がする。
漢字が多いと、
ものを知っている感がつよくなって、自分が入力しているのに、
だんだんそこに現れる文章を見て緊張する具合。
それと、面で見たとき、黒いし、ごつい。
黒黒していて、厳めしい。
いけないいけない。
というふうで、
漢字でなく平仮名にすることにより、自分を取り戻す、
といったらいいでしょうか。
なるべく「です・ます調」で入力するのも、
そのこころかと思います。
ただ、
平仮名が多いと、それはそれで、自分でない感じがし出して、
けっきょく、
こんな感じかなぁ、
というところのバランスに落ちつく。
そういうふうに、いまも、なっていると思います。
なので、
この単語がどうして平仮名表記なの?
と訊かれても、
んー、なんとなく、と答えるしかありません。
ひとかたまりの文章で、
あるところは漢字、
べつのところは平仮名という場合もあるかもしれない。
きのう平仮名、きょう漢字、
とか。
気分ですかね。
文章を入力するとき、
その日その時の気分を消したくない。
きょうのこの文で言うと、
「つかう」を漢字にするか、平仮名にするか、
ちょっと迷います。

 

・ことばより空の青さにあくがるる  野衾