易と聖書

 

孔子は嘗て易を読んで、この損と益との卦に至つて、
喟(き)然として嘆息された。
其時に御弟子の子夏が、お側に居つてそれを見て、
夫子は何故に嘆息なさいますか、と問うた。
すると、孔子は、
夫れ自ら損する者は益し、自ら益する者は欠く、是(ここ)を以て歎ずるなり、
と仰せられた。
(公田連太郎[述]『易經講話 三』明徳出版社、1958年、p.303)

 

おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、
持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
(新約聖書「マタイによる福音書」第25章29節)

 

益と損、持つと持たない、
さわがしい口説にはない静かで謙虚な極意が語られている。

 

・なに喰ふて今は冬だぞ放屁虫  野衾

 

声に恋する その2

 

井土ヶ谷に住んでいた頃のこと、
すでにステレオ
(まだオーディオという言い方を、わたしはしていなかった)
を持っており
好きな音楽を聴いていましたが、
ラジオもあって、
休日、
たまたま聴いていた音楽番組で、
とんでもない声の女性歌手の歌を耳にした。
声がキラキラ光っているようであり、
光が七色に輝いて聴こえる。
まさに、
レインボーボイス!
若き日に、初めてオリビア・ニュートン=ジョンを聴いて昂奮した日
を思い出しながら、
歌い終わった後の、
進行役のひとの話を聞き逃すまいと耳を澄ました。
シンディ・ローパー。
こんどはそんなに長い名前ではない。
ラジオのスイッチを切り、
すぐに身支度をし、
小走りで井土ヶ谷駅まで急ぎ、
京浜急行の電車で横浜駅へ向かった。
都市は、
鄙とちがってこういうときのストレスが少ない。
あのとき買ったのがレコードだったか、
CDだったか。忘れてしまった。
いま手元にあって、
たまに取り出して聴くのはベスト盤のCD。
オリビア・ニュートン=ジョンが興奮の頂点で、
つぎの山がシンディ・ローパー。
ほかにもいるけれど、
昂奮度という点では、
だれのどんなひとの歌を聴いても、
齢とともにそのレベルが下がっていった。
昂奮度は下がっていったけれど、
それと反対に、
別の目盛りが静かに動き始めるようになった。

 

・くつさめの滑舌宜し律義者  野衾

 

声に恋する その1

 

その1、としたのは、その2があるから。
わたしがラジオを聴き始めたのは中学に入ってから。
出稼ぎに行っていた父の、
成績が1番になったら好きなものを買ってやろう、
との言葉につられ、
がむしゃらに勉強し1番になり、
忘れもしません、
ナショナル(いまパナソニック)のGXワールドボーイ
を買ってもらった。
うれしくて、
そのラジオがあまりにカッコよく、
鼻血がでるくらい喜んだ。
これには後日談があり、
その出稼ぎで父をはじめいっしょに行った数名は、
どの段階で騙されたのか分かりませんが、
働いた賃金を一円も受け取ることができなかった。
とはいえ、
息子に約束した手前、
出稼ぎ場所へ送ったわたしの手紙にあったナショナルの
GXワールドボーイを、
父は秋田に着いてから買った。
そのことを知ったのは、
何十年もたってから。
父から直接聞いて知ったのでした。
それはともかく。
宝物のGXワールドボーイを聴き始めてどれぐらい経っていただろう、
ラジオから、
この世のものとも思えない声が聴こえてきた。
初めて聴く声で、
歌が終ってからのアナウンサーの言葉に耳を澄ませた。
オリビアニュートンジョン。
オリビア、ニュートン、ジョン。
オリビア、ニュートン、ジョンというのか。
長い名前。
でも、暗記した。
休日、
秋田市に出かけ、
オリビアニュートンジョンのレコードを探し、見つけた!
買った。
買ったはいいが、
レコードを聴くための機械がない。
そんなことはどうでもよかった。
オリビアニュートンジョンのレコードを持つことは、
彼女の声を所有することだった。
ドキドキした。
わたしの家にはステレオがなかったけれど、
すぐ近くの叔父の家にステレオがあった。
叔父は、そのステレオで、
北島三郎を大音量でかけていた。
わたしは叔父に頼み、
ステレオの前に正座し、
オリビアニュートンジョンを聴いた。
胸が高鳴った。
あれを恋とよばずになんとよぶ!
まあそんな具合で、
若かった。
声に恋した初めての体験でありました。

 

・忍ぶれどキヤラ飛ぶほどの大嚏  野衾

 

良寛さんとおカネ

 

人曰、金ヲ拾フハ至テ楽シト。師自ラ金ヲ捨(すて)、自ラ試ミニ拾フ。
更ニ情意ノ楽シキナシ。
初メ人吾(われ)ヲ欺クカト疑フ。
捨ツルコト再三。遂ニ其(その)在ル所ヲ失フ。
師百計シテ是(これ)ヲ拾ヒ得タリ。
是ノ時ニ至リテ初テ楽シ。
而テ曰、人吾(われ)ヲ不欺(あざむかず)ト。
(東郷豊治編著『良寛全集』下巻所収「良寛禅師奇話」、
東京創元社、1959年、p.529)

 

おカネを拾うのはなんとも楽しいと人が言うから、
そんなものかいな?ということで、
良寛先生、自らおカネを捨て、
そんで拾ってみた。
別に楽しくもなんともないじゃないか。
あれは嘘だったのかと疑いつつ、
たびたび捨ててみた。
すると、
ついに捨てた場所を忘れてしまい、
それからあちこち探してみて拾ったら、
初めて楽しかった、嬉しかった。
わ~いわい。
おカネを拾うのは楽しいというのは、嘘ではなかったわい。

 

…てな感じでしょうか。
ほかのところにも、
人はおカネがなくて困るというが、
じぶんは、
おカネがあると使い道に困るという記述があるから、
こういう人を恬淡とよぶのでしょう。
良寛さんを読むと、
スッキリと、晴れやかな気分になります。
鼻くその話(!)は笑った。

 

・笹鳴きに引かれ訪ねし翁かな  野衾

 

良寛さんには敵わない

 

国上ノ葊(あん)ニ住(じゅうせ)シトキ、炉ノスミニ小壺ヲオキテ、
俗ニ云フ醤油ノミヲ貯ヘオキ、食残ノモノアレバ此壺中に投ズ。
夏日モ是ヲ食ス。人至レバ人ニモ進ム。
人ハ其(それを)食フニ不堪。
師ハ自若トシテ臭穢ヲ不知(しらざる)モノヽ如シ。
師自ラ曰、
虫生ズレドモ是ヲ椀中ニ盛レバ虫ハ自ラ去ル、
敢テ食フニ害ナシト。
(東郷豊治編著『良寛全集』下巻所収「良寛禅師奇話」、
東京創元社、1959年、p.525)

 

「良寛禅師奇話」は、
解良栄重(けらよししげ)の著。
実際に良寛さんに接したひとの記述であり、貴重な文献であるとのこと。
それにしても良寛さん恐るべし!
ただ者でない!
もうこうなると、奇人変人の域でしょう。
なのに、おとなも子どもも良寛さんに惹かれていく。
そこがなんとも愉快。
「さん」付けしたくなる。
言説でなく、
清廉な人柄から発する、
いわばオーラのようなものが
良寛さんに接する人を惹きつけたようだ。

 

・離れ来て祖母のにほひの日向ぼこ  野衾

 

高山仰止 景行行止

 

明治・大正の特異なキリスト者・新井奥邃(あらい・おうすい)
に師事した人物に秋田県出身の大山幸太郎がいる。
永久絶対平和を唱えた教育者であり、思想家だ。
下の写真は、
『新井奥邃著作集』の別巻に収載した奥邃の遺墨の一つで、
大山の求めに応じて書いたものである
と、
著作集第八巻に収めた大山の文章から知ることができる。
詩経にある文言とは知っていたが、
司馬遷の『史記』にある「孔子世家」
を読んでいたら、
これについて、
司馬遷が印象深く引用し、
この文言との関連で、
孔子の生き方に思いを馳せている箇所に遭遇した。
文章の最後を司馬遷は、
「天子・王侯をはじめ、中国の六芸を云々する者は、
すべて孔夫子を標準として、取捨折衷している。至聖といわねばならぬ」
と最大の敬意をもって締めくくっている。
『大漢和辞典』を書いた諸橋轍次の『中国古典名言事典』
にもこの文言が引かれている。
諸橋は、
「高山は仰ぎ、景行は行く。」
と読んでいる。
「止」は助詞。
「景行」は大道の意。

 

・祖父の手の炭火をほたと包むかな  野衾

 

悲しいワガメコ

 

小学校の遠足で、男鹿半島の入道崎へ行ったことがありました。
その後、
大人になってからも幾度か訪れていますが、
小学校の遠足のときがたしか初めてで、
そのせいもあり、
記憶に鮮やかに残っています。
バスから降り、
先生の注意を受けてから、
グループごとに海のほうへ向かって歩きました。
秋だったでしょうか。
日本海の雄大な景色を目の当たりにし、
水平線に目をこらし。
グループは次第に乱れ、
それぞれが好きな場所を求めてうろついていると、
遠くから手拭をかぶったおばあちゃんが近づいてきました。
ゆっくり近づいてきて、
「ワガメコいらねがぁ?」
「ワガメコ買ってけにゃがぁ?」
さいしょ何のことか分かりませんでしたが、
何度も何度も、
「ワガメコいらねがぁ?」
「ワガメコ買ってけにゃがぁ?」
子どもだったし、
少ないおカネでワカメを買って帰ろうという、
気のきいたこころもなかったので、
すぐに断りました。
すると、
また別のおばあちゃんがやって来て、
「ワガメコいらねがぁ?」
「ワガメコ買ってけにゃがぁ?」
だんだんイラついてきました。
要らないって言ったのに。
わたしの性格から、
イラ立つこころで断ったはずです。
三人目のおばあちゃんが来たかどうか、までは覚えていません。
けれど、
いま思い返せば、
あれは、寄せては返す波のようであったなぁ、
と。
気のきいた近代的な営業トークなどでなく、
ただただ、
まるで呪文のように、
「ワガメコいらねがぁ?」
「ワガメコ買ってけにゃがぁ?」
あのリアリティに敵うものはなかなか無いのでは、
と思えてきます。
いまも耳に残っているその声に意識を集中していると、
声だけが形を成して、
だんだん悲しくなってくるようです。

 

・祖父の手と祖母の手もあり炭火かな  野衾