アリストテレス

 

ステイホームということなので、
この間、古代ギリシアを訪ねていました。
なんて。
アリストテレスの『政治学』の最後の方に教育に関する記述がありまして、
そこを読んでいたら、
不思議な感覚にとらわれました。
2300年以上前に書かれた書物であり、
日本語に翻訳された言葉をとおして読むわけですが、
小学校に入ったころの気分がありありと
蘇りました。
国語、算数、理科、社会、体育、図工、音楽、…
このひとがせんせー、
学校って、
こういうことをするところなんだ、
なんのため?
なんでこういうふうに分かれているんだろ?
めんどうくさいな、
でもなんだかおもしろそう、
漠然とそんな気分に浸っていた気がします。
いちばんは、
なんといっても体育だったけど。
ボヨヨンの、小武海せんせいのあのお腹…
アリストテレスを読んでいると、
落ち着いた静かな語り口で、
勉強するのは、
幸福になるためなんだよと諭されている気になります。
幸福になりたいでしょ、と。

弊社は、本日より営業いたします。
よろしくお願い申し上げます。

 

・もう少しそこにいてくれ春の鳥  野衾

 

コロナ後

 

先日たまたま見たテレビ番組で、
ある経済学者と哲学者が、
コロナ前・コロナ後ということばを使っていて、
考えさせられました。
利潤追求のために効率性を優先させる考え方は、
予測不能のことが生じた場合
非常にもろく、
対応が後手後手に回ってしまう、
そのことが今回証明されたと。
利潤追求でない考え方を社会的に取り込んでおくことがいかに重要か。
またドイツの哲学者は、
中国を引き合いに出しつつ、
マルクスの思想は今も生きているとコメント。
マルクスときけば、
学校の教科書でならったぐらいにしか思わないけれど、
そんなことではどうやらないらしい。
マルクスのまえには例えばヘーゲルが、
カントがいて、
アリストテレスにまで直結している。
ほかの動物でない人間がつくりだす社会を考える際、
また、ほかの生物との共生を考える場合でも、
哲学・思想を無視するわけにはいかない。
コロナ後の世界の在り方について、
それぞれが構想するために、
いまこそ先人の知恵に学ぶ必要がありそうです。

弊社は、明日29日(水)より5月6日(水)まで休業とさせていただきます。
5月7日(木)から通常営業。
よろしくお願い申し上げます。

 

・とくとくの家郷の水や春の山  野衾

 

床屋に行くのは?

 

二週に一度のペースで頭を刈ってもらいに行きますが、
きのう、
散歩がてらいつもの床屋へ。
椅子に座ってから「はい。お疲れさまでした」まで、
一言も発しないこともありながら、
きのうは違っていました。
案にたがわず、
売り上げが落ちているようで、
問わず語りに融資申し込みの話をしていました。
床屋に行って頭を刈るという行為、
どうしても必要かと訊かれれば、
そんなこともないような。
たとえばわたしの場合、
短い髪の毛が伸びてきて耳にかかるのがうっとうしくて、
二週に一度のペースで床屋に足を運ぶものの、
少し我慢すれば、
二週に一度のところを三週に一度、
ひと月に一度にすることも
できないわけではありません。
そんなふうにみなさん考えているのでしょうか。
子どもなんかの場合、
家族に刈ってもらうこともありそうだし。
いずれにしても、
弊社のことを例に考えても、
商売をしている人はどこも大変。

 

・うららかや虻の羽音を友となし  野衾

 

不要不急の味

 

急ぐ必要のない、という意味の「不要不急」ですが、
先だって、NHKのニュース番組で、
たしか
「不要不急の場合をのぞく外出は控えるように」
みたいなことを言って、
あれ!?
てことは、
二重否定だから、
どうでもよくはない外出=緊急の外出
ってことになるのでは?
と思っていたら、
「さきほど「不要不急」の使い方が間違っていました。ただしくは~」
って訂正していました。
それはともかく。
弊社では三紙をとっていますが、
内館牧子さんと養老孟司さんが別々の新聞で、
同趣旨のコメントを開陳していました。
内館さんいわく、
「この状況下、人間の生活を豊かにする行動の多くは不要不急であることに気づいた」
養老さんいわく、
「いま起きていることを頭で考えるのではなく、体で感じてほしい。
芸術や文化が、どれほど生活する上で大切なものか」
弊社のなりわいとも関連しますが、
人文系の学問は、
文化と芸術に資するものであり、
役に立つ、立たない、のモノサシだけでは測れません。
四歳から知っている近所のりなちゃんは、
今月から大学生ですが、
小さいころから
「特別感」ということばをよく口にしていました。
このことばもこの時期噛みしめています。
不要不急と特別感。
内館さんは記事の最後に、
こう記しています。
「来年になっても再来年になっても今の暮らしが続くなら、何のための人生か」
と。
記事の見出しは「今は家にいよう」

 

・ふるさとの俯く影に初音かな  野衾

 

「私淑」について

 

この仕事をしていなければ知らなかったかもしれない、
知っていても、
正確な意味までは調べなかったかもしれない
と思う言葉がいくつかありまして、
そのひとつが「私淑」
広辞苑の説明によれば、
「[孟子(離婁下)](私(ひそか)に淑(よ)しとする意)
直接に教えを受けてはいないが、その人を慕い、その言動を模範として学ぶこと。
直接教えを受けている人に対しては「親炙(しんしゃ)」という。」
直に接しているかどうかの違いが分かれ目のこの言葉、
まちがえて使っているひとが少なくなく、
大学の先生たちの書く原稿にも少なからず見られます。
初校ゲラを精読する際に
それと気づきますから、
まちがえて使っていると思われれば、
鉛筆でそのことを指摘するようにしています。
詩人の田村隆一のものに、
「言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか」
と始まる詩がありますが、
そう感じるときもたしかにあります。
言葉を知ったために
いたく傷つくことがあり、
言葉なんかおぼえるんじゃなかったと不貞腐れる一方で、
意味を知ることを積み重ねることにより、
こころも学も深く、また高く、
視界が広がると感じられることもあり、
そんな日はありがたい。

 

・空山は人語の絶えて朧かな  野衾

 

霊魂歴程

 

世界は「解体して原子に」、無秩序な物質の分子と化し、
その形態も解体して永劫の変転世界となる挙句、
人は現にいまある姿のものではない。
恋し合う者たちの誓いが一向に不易不変でないということだけで
――恋に変らぬ点あるとすれば、
それは恋人たちが変り易いという一点、と詠ったのはダンその人である――
話は足りる。
恋人同士の誓い、
即ちその流動怖るべき肉体が発するものだからである。
(ロザリー・L・コリー[著]/高山宏[訳]『パラドクシア・エピデミカ
ルネサンスにおけるパラドックスの伝統』白水社、2011年、p.451)

 

文化史に関する名著とされているものの翻訳ですが、
この度の新型コロナウイルスのことがなければ、
読むのがもう少し後だった気もします。
日々、こころもカラダも、あたまも変化します。
本文中に紹介されているジョン・ダンの詩はこころに沁みます。
たしかに、
だれも孤島ではなく、
鐘はわたしのためにも鳴っているようです。

 

・包丁のさくりと春の厨かな  野衾

 

西村淳さん

 

料理人として南極観測隊に二度参加し、
2001年に春風社から『面白南極料理人』を上梓した西村淳さんの記事が、
きのうの神奈川新聞に載っていました。
南極料理人とコロナ、
どういうことかと思いましたら、
いつか必ず終わるから、
いまはなるべく家にいて、
ふだんなかなかできなかったことをやるのはいかがと。
南極では、
することのない時間があるときは、
氷上でソフトボールをしたり、
なかには、
聖書や源氏物語を読んだ人もいたのだとか。
こんかいのことを通して見えてきた
日本及び世界の社会、政治、経済の構造を教訓とし、
つぎの選挙に生かすべく、
不安はぬぐい切れないけれど、
じぶんを充実させていくしかないようです。

 

・世心の名残の紅や遠霞  野衾