狸御殿!?

 

おとといときのうの二日にわたり、部屋で本を読んでいたときに、
ベランダをタヌキが通っていきました。
餌でも探しているふうで、
鼻先をあちこち近づけては、
猫がするように体を平らにして隣との間仕切り板をくぐっていきました。
と、
しばらくしたら、
またやってきた。
急いで家人を呼び、「ほら、タヌキ」
と言うと、
家人もびっくり。
わたしが住むこの山は、御殿山といいますが、
かつて古墳があったことは調べると出てきても、
貴人やエラい人の住む御殿があったなんて聞いたことがない。
なんでなんだろ?
と思いつつ、
ちっちゃいことは気にしないできていたところ、
頻繁にタヌキを見るようになり、
(以前、日中、階段のところで見たことを、このブログに書きました)
そうか、ここは、
ひとの御殿でなくタヌキ様が住まいする御殿山なのか、
と一人納得。
写真を撮ればよかったのですが、
呆気にとられ、
意識が追いついてきませんでした。

 

・狸出で保土ヶ谷今ぞ夏に入る  野衾

 

ブルクハルトの人間観

 

ここでは種々古めかしい資料を持ち出すかわりに、
アリストパネスの喜劇に登場するピロクレオンに語らせるだけで十分であろう。
この男は
自分の陪審員としての役目の好ましい面を非常に嬉しげに強調している。
ここにおいてわれわれは、
一つ一つどの点を取ってもみな現実の行動から取られているのであり、
このようなとんでもない俗物が何千人も実際にいたのだという確信を持つのである。
つまりこの手合いは、
自分が恐れられ、
呻吟する被告人やその一族のものたちに取り囲まれているのを見出して
幸福感に浸っているのであり、
このような不幸な人たちや脅迫されている人たちが彼にへつらい、
道化たことをやって見せさえせずにいられないので、
公判をまるで上手な芝居でも見るように興がり、
無責任な気ままさと、
自分が皆に起こさせることのできる恐怖を楽しんでいるのである。
(ヤーコプ・ブルクハルト[著]新井靖一[訳]『ギリシア文化史 第一巻』
筑摩書房、1991年、p.319)

 

ペルシア戦争では連合軍として戦ったアテナイとスパルタが、
つぎに来るペロポネソス戦争では、
互いに敵対し、
アテナイはスパルタに敗れます。
上に引用した箇所はその時代を背景にしての記述。
腐敗はこうしてやって来ます。
2400年も前のことでありながら、
人間の行動パターンが、
いま目の前で起きている現実とあまりに似ている
ことに驚かされます。
こうした状況下において、
ソクラテスの告発と裁判が行われる。
高校時代に読んだ『ソクラテスの弁明』を再読する時期が来たようです。

 

・羅や角から清方の女人  野衾

 

さびしい少年の物語

 

渥美清は、あのタフそうな外見とは違って、
じつはいつも病気ばかりしている子どもだったという。
小学校も低学年の頃から、関節炎やら小児腎臓やらで、しょっちゅう寝てばかりいて、
ロクに学校へは行けなかった。
だから、
たまに学校へ行っても〝お客さま”だったし、
従って成績は極端に悪かった。
関節炎の痛みに耐えながら家で寝ていると、
家の外でカラスがぱっと飛び立つ影が障子にサアーッと映ったりする。
するとラジオのスイッチを入れたくなる。
こんな気持は健康な人たちには分って貰えないでしょうねえ、
と渥美清はつけ加える。
たしかにカラスの飛び立つ影が障子に映ることと、
ラジオのスイッチを入れたくなることとの間には直接の関連はないから、
分らないと言えば分らない。
しかし、
この情景描写ひとつで、
病いに寝ている子どもの孤独は鮮やかに理解できるし、
学校にも行けない淋しさに耐えながらラジオだけを友にして、
すがるようにそれに聞き入っている子どもの姿がくっきりと目に浮かぶ。
渥美清の話術の特色は、
こんなふうに、
理屈をぬきにして印象的な情景を描写するところにあり、
その情景ひとつで聞き手は彼の気持を理解できる、というところにある。
俳句のようなコミュニケーションと言うべきか。
そして、
これと同時に、
彼が演じている車寅次郎の話術の特長でもあることに改めて気づく。
(佐藤忠男『みんなの寅さん 「男はつらいよ」の世界』朝日文庫、1992年、pp.19-20)

 

先週の土曜日でしたか、
テレビで『男はつらいよ 旅と女と寅次郎』
をやっていました。
まえに観たことがあっても、なんとなく観てしまうのが『男はつらいよ』で。
マドンナは都はるみ。
そのまま演歌歌手として登場しています。
ただ、
さすがに名前は「都はるみ」ではなく「京《きょう》はるみ」。
まあ、
「京」も「みやこ」と読みますけれど。
公演を前に失踪した京はるみが旅先で寅さんに出会い、
意気投合。
寅さんは、京はるみが有名な演歌歌手であることに気づいたけれど、
そういうそぶりを一切見せずに、
淋しげなひとりの女性に寄り添い、やさしく声をかける。
また、
いつものことながら心底惚れる恋する。
そしてお決まりの失恋。
わたしが今回目をみはったのは、
京はるみが「とらや」を訪ねたときのこと。
まわりがみんなドヨめいて、
「京はるみだ!京はるみだ!京はるみだ!」
ドヤドヤドヤドヤ、ガヤガヤガヤガヤ集まってきた人たちを前にして、
とらやの縁側で京はるみが歌を歌う。
そのとき。
京はるみの歌う後ろ姿を、
寅さんが、とらやの家の部屋の中からジッと見据えている。
寅さんの顔のアップ。
その顔は、
映画のフレームから早くも抜け出し、
寅さんの顔を超え、
渥美清の顔を超え、
さびしい少年田所康雄の顔そのものであったと思います。
その凄み。怖さ。弱さ。強さ。
『男はつらいよ』のおもしろさの一端は、
こういうところにもあるのかと。
それは、
稀代の役者・渥美清を通しての、
闇をかかえざるを得ない人間と人間とのふれあい、
そこから生まれるちょっとした笑いであったり、哀しみであったり、
ホッとする温かみであったり、
そういうことかなと、
改めて思いました。

 

・はためくや鮨屋の幟夏来る  野衾

 

カメラのこと

 

記憶には全くない事ながら、
秋田にいたころ、
お盆や正月に親戚があつまると、
叔母や叔父から聞かされた、ごく幼い頃のわたしのエピソードがありまして。
だれかれとなく人に向かい、
カメラを手で持つ真似をしては、
「パッ」と口で言い、写真を撮る動作をして笑わせたらしい。
このごろ、
ふと、
そのことを思い出します。
実際のカメラを持って写真を撮っていた時期もありましたが、
このごろはもっぱら手軽なスマホ。
ほぼ毎日のことで、
毎日、
ということがどうやら意味があるらしく、
ひょっとしたら、
その反復によって、
写真を撮る行為の底にある何かが、
記憶にない記憶とリンクしているのかもしれません。
きょうの写真は、
ふだん使っているサイフォンに浮かぶ赤いチャッカマンが金魚に見えておもしろい
と思って撮った
わけではなく、
サイフォンのロートに上がったお湯と湯気を撮ったら、
曲がったガラスに映るチャッカマンが
まるで水槽に泳ぐ金魚のように見えた
というのが正直なところです。
文章にも言えることだと思いますけれど、
意識や計画を超えたところに現れるものに不思議な感動があります。

 

・サイフォンの湯舟のなかの金魚かな  野衾

 

朝の静けさ

 

このブログは早朝、四時起きして書くことが多く、
前日に、
そうだ明日はこのことを書こう
と思いついた場合は、
パソコンを立ち上げてすぐに始められますが、
そうでない日は、
ヤフーのニュースを眺めたり、
ただ、ぽけーと、目の前の壁のシミを眺めたり。
きょうはそういう始まりです。
そうすると、
いろいろな音が聴こえてきます。
ここは山の上にあり、
遠くから静かに車の音が聴こえます。
自動車、オートバイ、大型トラック。
乾いた道と雨で濡れた道では、音がちがっているみたい。
カラスの声、ウグイスの声。スズメの声。
声に惹かれるまま椅子を回転させ、
外を見やれば、
向こうの丘、三角屋根の家の手すりを台湾栗鼠が音もなく走ります。
木々の新しい緑がふかく揺れ。
目を戻すと、
こちらのベランダを猫が通る。
そうそう、
先日は、タヌキが堂々と通っていった。
堂々といえば、
クモ。
我が家のクモは、
追い払われないことを知ってか知らずか、
すぐそばまで寄ってきます。
たまにコテッと丸くなり動かなくなっています。
脚を、
しばられたカニのように縮め。
それぞれがそれぞれと、
ゆるく微かにかかわっているけれど、
それ以上ではなく、
無関心の朝の静けさです。

 

・新緑に鯉の尾びれの静かかな  野衾

 

単語カード

 

先週金曜日、横浜駅から東急東横線の電車に乗っていたときのこと、
シートに座って文庫本を読んでいたのですが、
目を上げると、
3メートルほど離れたところに、
中学一年生ぐらいでしょうか、
単語カードをめくっている少年がいました。
五月半ばですから、
中間テストの時期かもしれません。
かつてわたしもカードを使って英単語をおぼえた時期がありました。
半世紀が過ぎても変わらずにあることに、
ちょっと感動しました。
と、
少年の前に坐っていた男性が、
手を伸ばし、
少年の肘の辺りをトントンと。
少年はビクッ
と体をこわばらせましたが、
男性が目で合図をすると、
「トントン」の意味を了解したらしく、
シートから立ち上がった男性と入れ替わるように、
シートに腰かけ、
また単語カードをめくりはじめます。
おしゃれなネックレスをし、サマーニットに身を包んだ茶髪の男性は、
何ごともなかったかのごとく、
ドアにもたれてスマホをいじっています。
無言で少年に席を譲った若者をカッコいいと思いました。
コロナ下のほんの一こま。

 

・夏服が席を試験の子に譲る  野衾

 

書くことは

 

ものを書くということは、
思いついたことを単にちょっと書き留めておくこと
ではありません。
「何を書けばよいのか分からない、書いておくような考えは何もない」
と私たちはよく口にします。
しかし、
すばらしい書き物の多くは、
書くことそのものの中から生まれて来るようです。
一枚の紙を前にして座り、
頭や心に浮かんだことを言葉で表すようにしてみます。
そうすると
新しい考えが浮かんで来て
私たちを驚かせ、
その存在をほとんど知らなかったような内的空間へと私たちを連れて行ってくれる
でしょう。
ものを書くことの、
最も満足を与えてくれる側面の一つは、
他の人々の目に美しいばかりではなく、
私たちにとってもすばらしい宝物が隠された深い井戸を、
私たちに開き示してくれることです。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.160)

 

たとえばこのブログを書いていて、
書く前には思っていなかったことを、書いている途中で思いつき、
そのまま思考のめぐりに身を任せるように
ポツポツとキーボードを叩き、
ひとまず終ってみると、
へ~、
こんなところに着地したのか、
みたいな気になることがあります。
それから、推敲を二度、三度、四度。
どういうふうに読まれるかはひとまず置いといて、
書いているわたしが
他人事みたいに驚いている、
ということが
たまにあります。
ナウエンが言うほどすばらしくなくても、
そんなふうにして書き上がったものが、
人さまに読んでもらえたらうれしい。
ちなみに今日は、
そんなふうにではなく、
書こうと思って書いたものです。

 

・痒き背を掻いてそのまま裸かな  野衾