自画像は!?

 

ジョルジョ・アガンベンの『書斎の自画像』を
おもしろく読んだことが影響しているかもしれません。
自画像。じがぞう。
いま読んでいる『レンブラントの目』のなかで、
レンブラントが、
若いころからたびたび自画像を描いていた
ことに著者のサイモン・シャーマは触れています。
わたしはといえば。
小学校・中学校で描かされた以外、絵を描いたことがありませんし、
ましてじぶんを描いたことなどありません。
自画像について考えをめぐらすこともしてきませんでした。
自画像。
想像するだけですが、
不思議な気がします。
鏡を見ながら描いているのか?
と思いきや、
そういうことでもなく。
鏡を見ながら描く人がいてもいいわけですが。
だいたい鏡は、
右と左が逆になりますから、
それはたとえていえば、
西から上って東へ沈むお日様を描くようなもの(かな?)
真のじぶんの姿を現実に見ることは、
どんな天才でも叶いません。
レンブラントは、
いろいろな姿の自画像を描いています。
乞食姿の自画像まで。
見ることが叶わぬじぶんを描くという行為に、どんな意味があるのでしょう。
すぐに答えは見つかりそうもありませんけれど、
洋の東西を問わず、
画家が自身をどう描いてきたのか、
興味が湧いてきました。
自画像に関する本が何冊かでているようです。

 

・昼下がり現れ消えぬ冬の蝶  野衾

 

レンブラントの本

 

オランダ出身のカトリックの司祭でヘンリ・ナウエンという人がいる
ことを知ったのは、
会社近くにあるキリスト教書店でもらったPR誌
がきっかけでした。
どなたが書いた文章か、
すっかり忘れてしまいましたが、
その文章をきっかけにして、
ナウエンの書いたものを読んでいくなかで、
『放蕩息子の帰還─―父の家に立ち返る物語』に出合いました。
装画は、レンブラントの同タイトルのもの。
ナウエンは、
この絵がことのほか好きだったらしく、
わたしの記憶が間違いでなければ、
たしかこの絵の複製を自室に飾っていたのではなかったかと思います。
レンブラントへの興味が湧き、
サイモン・シャーマの『レンブラントの目』を読んでいたら、
こんな箇所があり、合点がいきました。

 

生涯を通してレンブラントの仕事は
強烈な文学愛、画像に劣らぬ文章への入れこみを特徴としている。
たしかにルーベンスとは対照的に、
雅びな人文学教養をこれ見よがしに見せつけたり、
ラテン語の詩をひねりだしたり、
手紙にウェルギリウスを薬味として引くといった芸は見せない。
一六五六年、
破産処理の裁判のために彼の財産目録がつくられたが、
立派な蔵書といった項目はなかった。
仮にそうだとしても、
同時代にレンブラント以上の本狂い、というかもっと正確に言えば聖書狂いの画家など、
いはすまい。
書物の重み、というか本の文字通りの重量、装丁、留金、資質、印字、
そして含まれた物語にここまであからさまに入れあげた画家は、
絶対にいない。
その本棚に本がないとしても、
その絵や版画のいずこにも本のない所がない。
(サイモン・シャーマ[著]/高山宏[訳]『レンブラントの目』
河出書房新社、2009年、p.213)

 

・毬栗の毬削ぎ落とす鎌の峰  野衾

 

 

じぶんだけの決めごとに過ぎませんが、
このブログには、散文の下に俳句一句と写真が一枚付いています。
たまにぽけーとしながら、
読むでもなく、
なんとなく、スクロールするときがありまして、
でてくる写真を見ながら、
気が付いたことがありました。
たいそうなことでなく、
被写体を仮に数か月単位で分類した場合、
ある傾向があるような。
やたらに花の写真がつづく時期。
テーブルクロスの上の水玉など、ごく身近にあるもの。
街のちょっとした風景。
空と雲。
このごろは、雲が多い。
夏から秋にかけての雲は、いろいろに変化しますから、見ていて楽しく、
ついスマホを空に向けることになります。
千変万化する雲の姿は、朝に、昼に、夕に、
目とこころを楽しませてくれます。
きのうは、
内科の定期検診の結果を聞きに行く日でした。

 

・石礫もて狙ひをり丹波栗  野衾

 

歴史はつながっている

 

まえに書いたことですが、
今回のコロナのことがなければ、
2009年に弊社が出版したクエンティン・スキナーの『近代政治思想の基礎』
を改めて読むことはなかったと思います。
スキナーの本の副題は、
「ルネッサンス・宗教改革の時代」となっており、
以後の世界史において、
ふたつのエポックがいかに駆動力になったかが分かりました。
モンテスキュー、ルソーに影響を与えたジョン・ロックの政治思想に、
急進的カルヴィニズムが響いている
ことが重層的に論じられており、
スリリングな歴史のダイナミズムを感じます。
また、
この本を読みながら、
ルネッサンス、宗教改革の時代の「きのう」「きょう」を生きた人びとは、
「いま起きている」ことが、
これからつづいていく長い歴史の礎をなすとは考えなかった
のでは?
ということ。
多くの人がそうだったのではないでしょうか。
ヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』
を訳した新井靖一さんは、
後記のなかで、つぎのように語っています。

 

「再生」という意味の「ルネサンス」(Renaissance)という言葉
(イタリア語のリナシタrinascita)は、
ヴァザーリの『美術家列伝』において初めて意識的に使われたものであり、
その後フランスの歴史家ジュール・ミシュレが
『フランス史』第七巻「ルネサンス」(一八五五年)において、
十六世紀のヨーロッパをそのような時代として捉えたことに由来している。
ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』において初めて
ルネサンスという呼称は特にイタリアと結びつけられ、
十四―十六世紀における歴史的現象を
人類史上の一つの特記すべき発展段階と捉えるものとなった。
(ヤーコプ・ブルクハルト[著]/新井靖一[訳]『イタリア・ルネサンスの文化』
筑摩書房、2007年、p.676)

 

歴史は、つながっていて、
にんげんは、喉元を過ぎれば忘れてしまいがちですが、
歴史のほうは、重要な事象をけっして忘れず、
歴史の名に値する理法をにんげんに示してくれるようです。

 

・靴底を手にして開く栗の毬  野衾

 

老年

 

今月が誕生月で、もうすぐ六十三歳。
六十になったとき、
へ~このおれが還暦かよ、まいったな、
みたいな、
じぶんの年齢を、他人事のようにからかう具合でしたが、
あれから三年がたち、
老年に入ったことをつくづく、また、しみじみ考えさせられます。
右手の高速道路に目をやりつつ、
百八十一段ある階段をゆっくり下りながら、
こころの中に、たしかに、
子ども、少年、青年、壮年のじぶんが息づいている
と感じます。
樹の年輪のように。
若いときに読む本は、
体験を読み込むための補助線でありましたが、
いまは、
本のほうが補助線となって、
ひとつひとつの体験が本によって読みこまれ、
体験が経験へと変えられていくようにも感じます。
あとは、
経験の意味を探り、
ただしく定め、日用の糧とし、
誤嚥せぬよう気を付け感謝して進みたい。

 

・冬の蠅近づく吾を飛び去りぬ  野衾

 

三権分立

 

日本では菅さんが総理大臣になり、
アメリカでは次期大統領選が予断を許さぬ状況にありますが、
政治思想の根幹にある三権分立の考え方
を蔑ろにしかねない傾向が、
二国に限らずこのごろ出て来ているように思われます。
三権分立といえば、モンテスキューであり、
そのまえのジョン・ロックであることは、
中学の社会の授業で習いますけれども、
その根底には、
理知的な歴史の理解と深い人間への洞察があったはず。
クエンティン・スキナーの『近代政治思想の基礎』のなかにこんな箇所があり、
目をみはりました。

 

一五五〇年代に急進的なカルヴァン派によって展開された人民革命理論は
近代立憲主義思想の主潮へと流れ込む運命にあった。
もし一世紀以上も先のジョン・ロックの『統治二論』
――急進的なカルヴァン派政治学の古典的なテキスト――
にちょっと目をやるならば、
同じ一連の結論が、
しかも意外なほど同じ一連の論拠によって、擁護されていることがわかるのである。
『第二論文』の最後のパラグラフで、
政府がその職務の責任を果たしているかいなかについて
「誰が審判者となるか」と問うとき、
ロックはそれに答え、
その合法的な限界を越える支配者に抵抗する権限は
単に下位の執政官や人民の他の代表者にばかりでなく、市民自身にもある、
なぜなら
「このような場合の適切な審判者は人民全体であるべきである」からだ、と主張する。
(クエンティン・スキナー[著]/門間都喜郎[訳]『近代政治思想の基礎――
ルネッサンス、宗教改革の時代』春風社、2009年、p.519)

 

目の前の政治状況の底には、
いわば地下水のように、人間が培った歴史の叡智が潺湲と流れている。
それを無視するわけにはいかない。
現代の政治思想の基礎をつくったひとりジョン・ロックの『統治二論』には、
宗教改革の時代の中心的な議論が流れ込んでいると、
スキナーは言う。
脈々と受け継がれる歴史のうねりを意識するとともに、
その流れを生じさせた要因のひとつに、
十四世紀を境に始まるペスト禍があったことを思わずにはいられない。

 

・崖つぷち光を揺する薄かな  野衾

 

思い込みを廃す

 

秋田魁新報文化欄「ひだまり」のコーナーに拙稿が掲載されました。
割とゆるい依頼で、
「ことばに関するエトセトラ」みたいなことでしたから、
よろこんで気軽に引き受け、
その六回目になります。
仕事が学術書の編集、出版ですので、
ふだん何気なくしていることを意識化する上でも、
ありがたい機会を与えてもらったと思います。
今回は、
過去の苦い経験を踏まえ日頃肝に銘じていることを書きました。
コチラです。

 

・蚯蚓鳴く地団太を踏む一日かな  野衾