眠りによる推敲

 

これまでも幾度か経験していることですが、
いろいろな種類の文章を書き、これでよし、と一旦は思うものの、
ひと晩ぐっすり眠り、
あらためて読み返してみると、
どうしてきのうは、これでよしとしたのかといぶかる箇所が、
かならず、
といっていいぐらい目につきます。
眠りによる推敲、
と勝手に呼んでいます。
「推敲」は、
唐の詩人である賈島(かとう)が
「僧は推す月下の門」の「推(お)す」を「敲(たた)く」にしようか
まよっていたとき、
韓愈(かんゆ)の助言を得て「敲」に決めたという故事
に基づくと辞書にでています。
結果がすでにでているわけですから
何をか言わんや、
ではありますけれど、

 

僧は推す月下の門

 

僧は敲く月下の門

 

ふたつをくらべてみると、おおきな違いは音にあるかと感じます。
月下の世界に、門をたたく音が清澄にひびきわたり
寥寥の瞑目したくなる詩の世界
がゆたかにひろがりゆくようです。
さくじつ、出社し、だいじな手紙を一通書きました。
ひと晩の眠りを経、
もう一度見直すことになります。

 

・電磁波止まずヘクトパスカルの冬  野衾

 

アリストテレスさん

 

『トポス論』を読むと、アリストテレスさんの本領発揮とでもいうのか、
理屈っぽいことこの上ないわけですけど、
たまに、ほんとうにたまにですが、
眉間にしわを寄せなくても読める箇所がでてきて、
ホッと安心する具合。

 

また、それぞれのものには、それがより大きな力をもつ時機があり、
その時機においてより望ましくもある。
たとえば、
苦痛のないあり方は、
若年よりもむしろ老年におけるほうが望ましい。
なぜなら、
老年におけるほうがより大きな効力をもつのだから。
その意味で、思慮もまた老年におけるほうがより望ましい。
なぜなら、
誰も若者たちが思慮をもっていることを要求しないために、
若者たちを指導者とすることを選択しないのだから。
しかし、勇気については事情は逆である。
なぜなら、
若いときのほうが、勇気にもとづいた活動は、より必要なのだから。
また節制も同様である。
なぜなら、
若者たちのほうが年配者たちよりも欲望によって
より多く困惑させられるからである。
(アリストテレス[著]『アリストテレス全集3』岩波書店、2014年、
p.112)

 

一読、たとえばキケロさんとかセネカさん?
と勘違いするような言いぶりで。
こういうことは、
いかに理屈好きのアリストテレスさんとはいえ、
理屈では測れないところかと。
だからこそ、
かえってアリストテレスさんの人生観を垣間見た気になります。

 

・冬晴れは凛と鳴りたる心かな  野衾

 

厳密になればなるほど

 

クルツィウスさんの『ヨーロッパ文学とラテン中世』のなかになんども
「トポス」という用語がでてきます。
アリストテレスさんのものは、
ひととおり読んだ気になっていたのに、
そういえば『トポス論』はまだ読んでいなかったな。
というわけで読んでみた。
もちろん日本語訳ではありますが、
アリストテレスさん、あいかわらず、言うことがこむずかしい。
ただ、愚直に、文字を舐めるように追っていると、
たま~に、
わらえる箇所に出くわすことがあって、
それはそれでおもしろくもあり。

 

また、定義する人が、関係的なもののそれぞれが
本来それに関係する当のものに関係させて提示したかどうか
も考察する
必要がある。
なぜなら、
若干のものは、
それが本来それに関係する当のものとの関係においてのみ用いることができ、
他の何ものとの関係においても用いることができないが、
若干のものは他のものとの関係においても用いることができるのだから。
たとえば、
視覚は見ることとの関係でのみ用いることができるが、
肌掻き具をワインを汲むために使う人もいる。
しかしだからといって、
誰かが肌掻き具をワインを汲むこととの関係において定義したら、
それは過ちなのである。
なぜなら、
本来的にそのことと関係しているわけではないのだから。
「本来的に関係するもの」の定義は、
「思慮ある人が思慮あるかぎりにおいて、
またそれぞれのものに関する固有の知識が、
それとの関係において用いるそれに当たるもの」
である。
(アリストテレス[著]『アリストテレス全集3』岩波書店、2014年、
pp.247-248)

 

この巻には「トポス論」と「ソフィスト的論駁について」が入っており、
「トポス論」は、山口義久さんが訳されています。
で、
文中の「肌掻き具」。
訳者の山口さんは、このことばに注を振っておられる。
いわく、
「肌掻き具とは競技者が肌から脂をとったり、女性が肌に付けたクリームを
落としたりするための道具。
アリストパネス『テスモポリア祭を営む女たち(女だけの祭)』556では、
この名前の道具がワインを汲むのに使われているので、
アリストテレスはこのことを念頭においていたかもしれない。」
こういうふうに解説されると、
もとにもどり、
その段落の記述において、アリストテレスさんが何を考えていたのかが、
すこし明確になる。
とはいうものの、わたしのアタマは、
もはやアリストテレスさんから離れ、
ひたすら「肌掻き具」に行っちゃう。
なにそれ?
はじめて知ったけど、
肌を掻く道具を、ワインを汲むのにつかうって、
どういうこと?
そんなことを脳裏に浮かべていたとして、
それなのに、
そのことを踏まえつつ、あのこむずかしい言い方になってしまう、
アリストテレスさんという人が、
なんだかおもしろく感じられてきます。

 

・ストーブや五年日記の農耕詩  野衾

 

人とでなく独りと

 

いろいろなきっかけから、初めての著者の本を読んでおもしろかった場合、
その本だけで終るということはほとんどなく、
ほかにあれば、読んでみようかな、
となりまして。
奥田弘美さんが聞き役となってまとめた中村恒子さんの
『心に折り合いをつけて うまいことやる習慣』
が、めっぽうおもしろかったので、
前著とおなじようにしてまとめられた
『不安と折り合いをつけて うまいこと老いる生き方』
を手にとりました。
二冊ともにある「折り合いをつけて」「うまいこと」
が胆のようです。
奥田さんも中村さんも精神科医。
奥田さんは、
中村さんとの出会いがきっかけで、精神科医に転科されたのだとか。
奥田さんは1967年生まれ。
中村さんは1929年生まれ。わたしの父より二歳上。
さて、二冊目となる本書も、
いまのじぶんと照らし合わせ、考えさせられることが多くありました。

 

中村 そうそう。繰り返すけど、他人さんには近づけば近づくほど、
同じだけストレスも生まれるからね。
家族だけは別物と言う人もいるかもしれんけど、
結局は同じことよ。
近づき過ぎないことがコツやないかな。
人付き合いのストレスを減らしたければ、他人さんじゃなく、
孤独と仲良くすることや。
(中村恒子・奥田弘美[共著]
『不安と折り合いをつけて うまいこと老いる生き方』
すばる舎、2021年、p.89)

中村 そうね。私も人生で大変な時期ほど、付き合う人には
けっこう気を付けてきた。
精神科医という仕事柄、色々な人の話を聞いてきたけど、
いつも不幸なことばかり上手に見つけ出して、それを他人と舐め合うことで、
連帯感をたしかめたい人がおる。
残念やけど、
こうした人と関わっていると元気が奪われてしまうね。
(同書、p.83)

 

じっさいのところはわかりませんが、
中村恒子さんの語り口調は、こういう感じなのかもしれません。
それがうまくハマっている気がして、
たよりになるおばあちゃんの話を縁側で聞いている、
そんな印象をもちました。

 

・雪しんしんと珈琲の香の揺らぎたり  野衾

 

あ、リスくん

 

きみ、そんなところにいると、それと知らずに踏みつぶしかねないから、
あっちに行っててよ。
なんてことを、現れたクモくんに言う。
すると、返事はしないが、そそくさと部屋の端のほうへ移動する、
そんなことは到底あり得ないように思うけれど、
いや、ときどきあって、
ことばは通じなくても、やはり、気は通じるのかな。
と。
けさは、
グレーのカーペットの上に、黒い点のようなものを見つけ、
もしや、と思ったら、案の定クモくんでした。
うごかない。
これまでもそうでしたが、
クモくんは、
うごかなくなると、
脚を折り曲げ小さくなってかたまります。
さて、きのうのこと。
部屋の窓から見える尖った三角屋根のほうを見ていたら、
すっかり冬構えを終えていて、
紅葉となった大きな木とのバランスも良く、ある風情をかもし出しています。
あ。
いまのは!?
と、今度は反対方向に。
冬囲いの上を往復で走ったから間違えようがありません。
あれは台湾栗鼠のリスくんです。
へ~、きみ冬眠しないの?
しないんだね。
このごろ目にしなかったので、
なんだか久しぶりの友に再会できたようでうれしくなった。
クモくん、リスくん、
とじぇねジッコの友だち。

 

・冬の星見えぬ無限の未知なる語  野衾

 

ソクラテスさんとペロポネソス戦争

 

教育哲学者の林竹二さんは、
わたしにとりまして、
いろいろな意味で忘れがたい方でありますけれど、
林さんの本に『若く美しくなったソクラテス』があります。
「若く美しくなったソクラテス」とは、
プラトンさんを指すわけですが、
こんかい林さんが若き日に翻訳されたA.E.テイラーさんの『ソクラテス』
を読み、
「若く美しくなった~」の発想のヒントが、
テイラーさんの本にあったのか
と感じました。
また、
ソクラテスさんから始まるギリシア哲学、
ひいてはその後の哲学史を考えるうえで、
ペロポネソス戦争を抜きには語れないということを、
トゥキュディデスさんの『戦史』と
訳者の久保正彰さんの解説で知りましたが、
その文脈で考えをめぐらせていたとき、
テイラーさんのこんなことばに目が留まりました。

 

初期の対話篇の言辞が、プラトンその人の意見を表白するものと解される
とすれば、
後期の対話篇に見られる、
より好意的な(民主主義に対する)判断は、
ソクラテスの運命によつて深く傷つけられた精神の上に、
時の何ものをも和げる力が作用した結果であるとして説明される。
或はさうであるかもしれない。
併し、
このより手厳しい評決がソクラテス自身のものである事の心理的な可能性も
つねに存在してゐるのである。
ペロポンネソス戦争の経過と共に雅典のデモクラシイの性格が
漸次偏狭に酷薄に成りまさるにつれて、
ソクラテスの幻滅は、
彼が戦前の偉大なる「五十年」に生ひ立ち、
そして恐らくは全く異つた事態を希望しかつ期待してゐたであらうだけに、
一層苦渋なものがあつたであらう。
最も晩年の作たる「ティマイオス」の中で、
プラトンはソクラテスをして、
政治的生活の実地の経験を欠くため自分は一箇政治の「空論家」
(doctrinaire)の如き存在であると告白せしめてゐる。
クセノフォン(「メモラビリア」)からして、
我々は、
籤で長官を選ぶといふデモクラシイの慣行を皮肉つた事が、
彼が今それに答へてゐる、
ソクラテスに対する訴訟事件に於ける告訴事由の一をなしてゐた事を
知りうるのである。
(テイラー[著]林竹二[訳]『ソクラテス』桜井書店、1946年、pp.243-244)

 

引用にあたり、漢字は新字にしてあります。仮名はそのまま。
雅典はアテネ。

 

・ふくら雀と見紛ふ空中の葉  野衾

 

ラーメンと孤独

 

今月13日に谷川俊太郎さんが亡くなられたとニュースで知り、
思い出をこの欄に記しましたが、
その後も谷川さんのことを思い浮かべながら、
あることを思い出しました。
拙宅にお招きし、
手づくりのラーメンを供したときのことです。
どういう話の流れだったのか
は忘れてしまいましたが、
谷川さん「だって孤独は前提でしょ」
とおっしゃった。
孤独は、わたしにとりましても、だいじなことではありますが、
そんなに好ましいものではなく、
できればあまり陥りたくない。
そんなふうに思ってきたし、
いまも少なからず思っています。
ヒトはひとりでこの世にやってきて、
去ってゆくときもまたひとり、
といわれれば、そのとおりで、異論はないのですが、
正直なところ、
気持ちが穏やかではありません。
とじぇねワラシはいつの間にか、とじぇねジッコになっていた。
そういうわたしに降ってきたことば。
「だって孤独は前提でしょ」
前提。ゼンテー。
孤独を擬人化して、向き合ったり、仲よくしたり、
するような言説はよく耳にし目にするけれど、
前提となると、
足もとにあって、
二足歩行をはじめたニンゲンがニンゲンであることと同義にちかい感じもし、
目から鱗が落ちるような衝撃を覚えた
ことを思い出しました。
谷川さんの詩も読んできたけれど、
これからも読むと思いますが、
声をともなった直接のことばが大きく足下を照らします。
谷川さんのご冥福をお祈りします。

 

・蓑虫や無限といまの狭間にて  野衾