気をつけたい

 

何事も入りたたぬさましたるぞよき。
よき人は、
知りたる事とてさのみ知り顔にやは言ふ。
かた田舎よりさし出でたる人こそ、
よろづの道に心得たるよしのさしいらへはすれ。
されば、
世に恥づかしきかたもあれど、
みづからもいみじと思へる気色、かたくななり。
よくわきまへたる道には必ず口重く、
問はぬ限りは言はぬこそいみじけれ。
(『徒然草』第七十九段)

 

「入り立つ」は物事に深く立ち入る、通じること。
「入りたたぬ」はその否定形で、
よく分からない、くわしくないこと。
田舎生まれであることは恥ではありませんが、
ここでいわれているいわゆる「田舎者」は
いかにも恥ずかしく、
そうならないよう気をつけたい。

 

・開花待つ空宇宙船地球号  野衾

 

ゲーテの老人力

 

「とにかく、私には、
自分の作品がぜんぜん見おぼえがなくなってしまっていることが、
よくあるね。
このあいだもあるフランスのものを読んで、
この人はなかなか気のきいたことを言うな、
私自身でもこうとしか言わないだろう、
などと読みながら考えたものだ。
ところが、よく見てみると、
私自身の書いたものからの翻訳じゃないか!」
(エッカーマン著/山下肇訳『ゲーテとの対話(上)』岩波文庫、1968年、p.255)

 

この会話がなされたのは、1827年1月14日、日曜日夜のこと。
ゲーテは1749年生まれだから、
このときすでに75歳を過ぎている。
年齢を考えると、さもありなん、ということだが、
あの文豪ゲーテにしてこうだったのか
と思うと、
ほほえましい気がする。

 

・俯きて旧知の友の春が来る  野衾

 

春は揚げ物!?

 

鮨屋の前を通っていたら、
「春は揚げ物」という文字と揚げ物の写真が目に飛び込んできた。
あけぼの、でなく、揚げ物。
上手い!と思って、
きょうのこの日記にたっぷり書こうと思ったが、
ネットで調べてみると、
けっこう前から、
お惣菜屋などのポップに書かれていたらしい。
さいしょ誰かが面白いと思って使ったのが広がったのか?
その辺よく分からないけれど、
面白いは面白い。
その伝で、
夏、秋、冬、と考えても、
「春は揚げ物」に匹敵するのはちょっと思いつかない。

 

・里山は何で顫へる垂れ梅  野衾

 

商品知識

 

どんな商売でも、
じぶんのところで扱っている商品について
どれだけ知っているかは
とても重要ですが、
そのことを近ごろ改めて気づかせてもらいました。
保土ヶ谷橋近くにある菓子舗「こけし」
のことは
すでにこの欄で紹介しましたが、
その後もちょくちょく寄っては好みのお菓子を買い、
その場で女将さんとしばらく話をします。
「これはどういうお菓子ですか?」
と問えば、
「それは○○製菓の△△です」
「これはどういうお菓子ですか?」
と問えば、
「それは☆☆製菓の□□です」
とすぐに答えが返ってきます。
「そこは昔からある会社で、つづいてほしいですね。
いい会社でも、つづけることが難しくて止めてしまうところもあります」
と女将さん。
なにか商売の基本を教えてもらったように思いました。

 

・天然色自転車乗りの春が行く  野衾

 

ゲーテの本歌取り

 

私のメフィストーフェレスも、シェークスピアの歌をうたうわけだが、
どうしてそれがいけないのか?
シェークスピアの歌がちょうどぴったり当てはまり、
言おうとすることをずばり言ってのけているのに、
どうして私が苦労して自分のものをつくり出さなければならないのだろうか?
だから、
私の『ファウスト』の発端が、
『ヨブ記』のそれと多少似ているとしても、
これもまた、当然きわまることだ。
私は、そのために非難されるには当らないし、
むしろほめられてしかるべきだよ。
(エッカーマン著/山下肇訳『ゲーテとの対話(上)』岩波文庫、1968年、pp.176-177)

 

ゲーテはこのように語りながらとても上機嫌だったらしい。
ほかの人の作品をじぶんの作品に取り込むのは、
容易ではないのだろう。
深くその作品を理解していないと、
水と油の関係になりかねない。
引用した箇所のすぐ前でゲーテは、
イギリスの詩人バイロン卿について触れながら、
「実生活から取ってこようと、書物から取ってこようと、
そんなことはどうでもよいのだ、
使い方が正しいかどうかということだけが問題なのだ! と言うべきだった」
とも語っている。
なるほどと思う一方、
それを言ったのが、
凡人でないゲーテであることを忘れるわけにはいかない。

 

・レジ袋転がり宙へ春一番  野衾

 

こころの友

 

ひとり燈火(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、
見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。
文は、
文選のあはれなる巻々、白氏文集、老子のことば、南華の篇。
この国の博士どもの書ける物も、
いにしへのは、
あはれなること多かり。

 

徒然草第十三段。
徒然草は、高校に入ってまず習う古文だったと思いますが、
語句の意味に終始し、
テストで点をとることにあくせくと、
味わうところまでは到底及びませんでした。
いま読むと、
付き合いのあるあの人この人よりも、
上の文章を書いた昔の人がなつかしく思えてきて、
兼好法師もそのような気持ちだったのかと想像されます。
そう思うのは、
この世のわずらわしさが身にしみ、
嫌気がさしている証かも知れず、
それもまたいつの世も変わらずなのだな
と思うことしきり。
南華の篇は、荘子。

 

・春去ればポニーテールの揺れて過ぐ  野衾

 

個性はあとから

 

秋田魁新報の文化欄「ひだまり」のコーナーに、
「個性はあとから」の題で、
日ごろ考えていることの一端を書きました。
コチラです。
さいごから一つ前のセンテンスに「表現の普遍性」
という言葉を用いましたが、
これは、
いま「ディルタイ全集」の『詩学・美学論集』を読んでおり、
そのなかで、
ゲーテに関しディルタイがつかっていて、
腑に落ちたもの。
こういう機会が与えられると、
ふだんあまり使わないアタマが巡り、
かすみが晴れていくようにも感じます。

 

・哲学書ページ進まぬ目借時  野衾