おなじ話を聴いたとき

 

ちょっとした言葉に傷ついたり、
誤解が生じて、
コミュニケーションがうまくいかなくなったりすることがある、
という前フリで、
いま話題になっている本の著者がテレビにでていました。
脚の三里に灸を据えながら、
しばらくふんふん、
と頷きつつ見ていたのですが、
え!? そうかなぁ。
それはちがうと思うなぁ、
と感じるコメントがあったり。
いくつかの例題のなかに、
「おなじ話を聴いたときに、そのことを指摘するか」
があり、
相手を傷つけないように、
言葉をえらんでやんわり指摘することを本の著者は推奨しているようでした。
そのとき、
コメンテーターとしてでていたヒロミさんが、
「おれは、いままで一度も指摘したことないなぁ」
と言いました。
ヒロミさんの対応は、
いまのわたしの対応とおなじもの。
ヒロミさんとちがうのは、
わたしの場合はこのごろということで。
以前は、
相手の気持ちを慮ってタイミングをみながら指摘していたと思います。
いつの間にか、それをしなくなりました。
ひとつには、
じぶんがおそらくおなじ話をするようになったから。
なぜそれが分かるかといえば、
相手に指摘されなくても、
それと気づくことがあるからです。
やがて相手に指摘されなければ、
自分で気づくことは無くなるでしょう。
ふたつ目の理由は、
「この話、前にも聴いたな」
と思いつつ、
だまって聴いていると、
微妙にニュアンスが違っていたり、
くり返しのなかから派生する話が初めてだったりするものですから、
「あ、おなじ話だ」と思った瞬間、
そのあとの展開が楽しみになったので。
たとえて言うなら、
即興演奏を肝とするジャズを聴いているときにちょっと近いか。
天才的サックス奏者といわれたソニー・ロリンズの、
どのアルバムだったか忘れましたが、
演奏の途中、
ぷぷッ、ぷぷッ、ぷぷッ、ぷぷッ、
の音が何度もくり返され、
いかにも次の展開のアイディアが浮かばないと感じられた、
と思いきや、
つぎの瞬間、
いきなり激しいブローにうつる場面があります。
くり返しの話は、
ジャズの即興演奏の前の慣らしのアイドリングみたいなもの、
とも感じられます。
って、
ここまで書いてきて、
ふと気が付いた。
細部はともかく、
この話って、まえにここに書かなかったか。

 

・吾の先をリレーしてゆく虫の声  野衾

 

守宮

 

守宮と書いてヤモリ。または、家守、壁虎。
とりあえず守宮。
この守宮をきのうも見ました。
きのう「も」というのは、これまでけっこう目にしてきたからです。
ゴミ出しの日、
早朝、ゴミの入った袋をもってでると、外はまだうす暗く、
いまならひんやりしていて気持ちよい。
わたしは早起きなので、
集合住宅なのに、
ネットの組み立てはだいたいわたし。
住人の多くはまだ夢のなかかもしれません。
と、
いたいた。
わたしに見つかり、サワサワとあわてて網目を這い降り路上に。
それからコンクリートの縁をのぼって藪のなかへと。
守宮は夏の季語。
十月も半ばを過ぎ、旧暦でいったら、
もう冬に近づいているというのに、
この季節になってもまだゴミネットに張り付いている。
ゴミネットが好きなのか。
壁や天井にいたりもする守宮の習性から想像するに、
強い重力を感じて気持ちいいのか。
蜘蛛でもあるまいに、
ネットにいて、
餌となる虫が近づくのを待っているとも思えず。
わからん!

 

・爽秋の守宮うす暗き朝の黙  野衾

 

天と地

 

縦書きと横書きとはどのように違うのだろうか。
本来の書き方である縦書きがどのような意味をひめているのかを示す次のような逸話がある。
筆者がかつて編集者としてかかわった本に、
現代アメリカの自然作家、キム・R・スタフォードの『すべてがちょうどよいところ』
というエッセイがある。
原題はHaving Everything Right
編集・制作作業を終えて、出来上がった日本語訳を著者に送ると、
しばらくして心のこもった礼状が届いた。
著者は漢字と平仮名の縦組みにされた訳文を眺めていて、
まるで雪の結晶が空からとめどなく降りそそいでくるイメージを思い浮かべたという。
いかにも自然作家にふさわしい美しい比喩だが、
ここで大切なことは、
日本語を知らない外国人作家にして、
紙面に縦組みされた文章に、
天地をつらぬく垂直の方向性を感じとったということではないだろうか。
ひらかれた本の上辺を天といい、下辺を地という。
白い紙面は天地であり、
文字はその広大な天地に配置される。
人が筆記具を手にして白い紙面に対峙するとき、
磁場のような天地をつらぬく方向性が意識に生じる……。
書くとはそのようなことだったと思える。
(鶴ヶ谷真一『紙背に微光あり 読書の喜び』平凡社、2011年、pp.171-2)

 

休日、たとえば、このごろ児童遊園地にいっていなかったな、
などと、急に思いつき、
さっそく用意して外へ出てみます。
晴れていると、西の方角に富士山がまぶしく聳え立ち、
葉を落とした木の枝にまだ少しは残っていて、
道々の緑が風にゆれていたりすると、
それだけで散歩のありがたさが身に沁みてきます。
歩きながら、ふと、
歩くことは、
横組みのエッセイを読んでいるときの感覚に近いなと思うときがあります。
この場合、
「お気に入りの」という限定つきではありますが。
児童遊園地にたどり着き、
そこでしばらくベンチに座ったり、
反対の丘の上の小さな農園にある花々を眺め。
ここまでが本でいえば、左から右へ読み始めての一行目。
しばらくして、
来た道を家に戻る歩みは右から左への二行目。
ここは、横組みのエッセイでも、
いまの読み方とはちがっています。

 

・さわがしきことも後ろへ秋の空  野衾

 

悪口を言わない

 

偉大な使徒が語った「だれをもそしらず」〔テトスへの手紙3章2節〕
という言葉は、
「殺してはならない」〔出エジプト記20章13節〕という言葉
と同じように明白な命令です。
しかし、
キリスト者の間であってもいったいだれがこの命令を尊重しているでしょうか。
この命令を本当に理解する人が何とわずかしかいないのでしょうか。
そしることは、
ある人が考えるように、噓をついたり中傷するのと同じです。
その人が語ることが聖書と同じように真実であっても、
それが悪口になるときもあるのです。
というのは、
そしることはそこに存在しない人の悪口を言うことだからです。
例えば、
ある人が酔って、ある人を呪い、悪口を言うとします。
特に、その人がいないときにそれを語るとします。
それがそしることになるのです。
それはまた、「陰口」を言うことでもあります。
このことは、
私たちが人の「悪評」を言いふらすことと同じことです。
たとえその悪評が優しく、穏やかな形でなされるとしてもです。
(その人に対して善意があり、事柄が悪くならないという希望を持ちつつ話されるにしても)
私たちは、それを「内緒話」と言うこともできるでしょう。
どのような作法でこれがなされるのであれ同じです。
状況がどのようであるかが問題なのではなく、
本質が大切なのです。
これは悪口です。
第三者がいないときに、その人の過ちを語るときには
「だれをもそしらず」ということが大切なのです。
(A.ルシー[編]坂本誠[訳]『心を新たに ウェスレーによる一日一章』
教文館、2012年、p.306)

 

ヤフーニュースを見ていましたら、
藤田ニコルさんのことが紹介されていました。
それによりますと、
昨年8月に公開された動画のなかで、
日々心がけていることについてコメントしたそうです。
九つ目の質問が「守ってきたこと」。
藤田さんはそれに応えて、
「人の悪口を言わないこと」
を挙げ、
「人の悪口、あんま言わないんで。最近思う、マジでウチ(悪口を)言わない。
人が悪口を言っていてもあんまり乗りたくないです」
と語ったそうです。
わたしはその動画を見ていませんが、
そういうことを心がけている藤田さんがステキだと思います。
いま読んでいる本に「悪口」にかんする文章がありました。
書名にあるウェスレーは、
ジョン・ウェスレー(John Wesley、1703-91)。
18世紀のイングランド国教会の司祭で、
メソジスト運動という信仰覚醒運動を指導した人物として知られています。

 

・しんしんと人間遠く虫すだく  野衾

 

椅子の位置

 

不世出の天才ピアニストとして著名なグレン・グールドは、
天才にふさわしく、
いろいろ奇想天外なエピソードに事欠かなかったようですが、
椅子の高さを微調整するのに三十分もかかり、
オーケストラをほったらかしにして指揮者を怒らせた、
なんていうのもあります。
このごろはグールドをあまり聴かなくなりましたけれど、
椅子のエピソードはちょくちょく思い出します。
というのは、
家で本を読むとき、
一人掛け用ソファーに深く腰を掛け、オットマンに両足をのせてのスタイルが多いのですが、
座ったとき、
ソファーの右手にある本棚との距離がいつも気になるからです。
グールドは、
腰掛ける椅子の高さが気にかかったようですが、
わたしの場合は、
高さでなく、本棚との距離、それと、東に切ってある窓に向かう椅子の位置と角度。
なんだか神経質な気がして、
そんなの気にしなくてもいいじゃん、
と、
気になるこころを我慢することも間々あるのですが、
我慢していると、
我慢していることが気にかかり、
とても本を読むどころではなくなり、
けっきょく、
じぶんが安心する位置と角度をさぐることになります。
そんなときです、
グールドがふと頭をよぎるのは。

 

・業果つや底へ底へと虫の声  野衾

 

あれから20年

 

しばしば述べたとおり、物語は小説と違うのであり、
物語のなかでもとくに物語的な『源氏物語』は、小説的な統一性をほとんど志向していない。
もし『源氏物語』に統一性を求めるならば、
それは、
現実生活どおりの統一でなくてはなるまい。
つまり、現実生活と同じ構造において、
周辺的な事象までこまごまと書いてゆくのである。
それは、中心的な主題から、ひどく遊離しているようにも見える。
しかし、
主題に直接関係しないことを書いてゆくのは、
じつは、主人公の生活を、いっそう広く深く暗示することになる。
主人公について一切を描きつくすことは、どうせできない相談なのだから、
周辺をこまごま書くことにより、
描かれない中心部分にも主人公の生活があることを暗示するのである。
(中略)
短篇物語の集積と見なしうる『源氏物語』は、
全体的な筋立てにおいてもいちじるしく無限定的だが、
それは、
この作品がもっとも物語的な性格をもつ物語であり、
物語の史的展開において頂点をなすものだという意味において理解されるべきだろう。
(小西甚一『日本文学史』講談社学術文庫、1993年、pp.69-70)

 

まもなく新しい『春風新聞』(第30号)が発行されますが、
ちょうど20年前、
『春風新聞』の前誌ともいえる『春風倶楽部』第6号の特集を、
「〈ものがたり〉の可能性」とし、
エッセイをお願いしたのでした。
ご執筆くださったのは、
谷川俊太郎、田口ランディ、山田太一、吉増剛造、中沢新一、しりあがり寿、
ウペンドラの七氏。
いま思い出せば、
特集のテーマを設定するにあたり、
小説と物語のちがい、
さらに物語の広がり、深さ、不可解さがわたしの胸にあって、
諸氏に尋ねてみたくなり、
原稿をお願いしたように記憶しています。
あの時点で小西さんの『日本文学史』を読んでいれば、
きっと小西さんにも原稿をお願いしていただろうと思います。

 

・金秋を来りたはむる雀かな  野衾

 

キーンさんと小西さん

 

ところで、作り物語は、一般的にいって、小説とたいへん違った特性をもつ。
それは、
小説が人生の「切断面」を描くものであるのに対し、
物語は人生の「全体」を述べるものだという点である。
つまり、小説は、
長篇小説にもせよ短篇小説にもせよ、
作者の描こうとする中心があり、
それを適切に描き出すため、いろいろな周辺的事実を配置してゆくのだが、
物語は、むしろ、
周辺的な事実をこまごま書いてゆくことが本体なのである。
構想の緊密な統一を要するはずの短篇物語においてさえ、
主題がどこに在るのかわからぬような散漫さが、
常に平然として存在する。
小説ならば、失敗として非難されるであろう無統一性が、
物語においては、かえって本来の性格となる。
小説をよむときの批判基準は、物語に適用できないのである。
(小西甚一『日本文学史』講談社学術文庫、1993年、pp.56-7)

 

この三連休、読みたい本が何冊かあり、計画を立てて朝からせっせと読みすすめ、
ほぼ計画どおりに読みすすんだのは良しとすべきですが、
三日目のきのうに至り、
さすがに、
疲れた。くたびれた。呆けた。
そうか。いいこと思いついた。そうだ。そうしよう。
夕刻風呂に入り、
湯舟につかっていい湯だな。
っと。
これでよし(なにが?)
風呂から上がり、乾いたタオルで体を拭き下着を替え。
さて。
和室にある文庫本の棚をひょいと見たら、
小西さんの本。
そうか。
この本まだ読んでなかったな。
ぶ厚い五冊ものの『日本文藝史』を読んだので、
小さいのはそのうちに、
なんて思って済ませていたのでした。
ちょうどいい(なにが?)
これにしよう。
と。
いきなり小西節全開! 抜群に歯切れがよい。
ドナルド・キーンさんと小西さんの縁をつくっただいじな一冊。
キーンさんはこの本の旧版(弘文堂「アテネ新書」の一冊として昭和28年刊)
を読むまで小西さんを知らなかった。
旧版のこの本を読んで感動し、
それがきっかけで小西さん本人の自宅を訪ねたことが、
講談社学術文庫版の解説に書かれています。
これがまたキーン節全開で。

 

・ゆかしきは風止む底の虫の声  野衾