或る日、或る時、講堂へ学生のことごとくが集められる。
毎月曜日の道話の時と同じであるが、
語るのは岡野校長ではなく、村井幽寂先生という白髪の老翁《ろうおう》である。
なにか学科を受けもっているわけではない。
それ故《ゆえ》つねは見たこともなければ、森のはずれの、
岡野校長の瞑想《めいそう》の場とされる「静庵《せいあん》」にいるのだ、
と聞いても、
いつごろ移り住んだのかも知らない。
しかしたいそう偉いお爺《じい》さんなのだという。
幕末、
徳川方の骨っぽい武士に殊《こと》に多かったアメリカへの脱走組の一人で、
また彼らを一般的に捉《とら》えたキリスト教への帰依《きえ》も、
この人を入信に導いた或る宗教団体の、
信仰と労働の合一、祈りつつ、働きつつを第一義とする主張が、
その信仰をも一般のキリスト者とは別なものにした。
そればかりではない。
村井老人は教養ある幕臣として漢学も、とりわけ老荘の書に精通しており、
それが彼においてはキリスト的なものと背反する代りに、
かえって渾然《こんぜん》と融合された独自の思想の持主にまでした。
このごろの「新女性」に掲げられる「洸瀾《こうらん》の記」が、
識者のあいだで評判になっているのはそのためだ。
ほとんどの場合そうである通り、
高等科の上級生からの伝聞が寄宿舎のとり沙汰《ざた》になるにつけ、
藤の間の仲間も話のたねにしなかったはずはない。
(野上弥生子『森』新潮文庫、1996年、p.343)
いまは新潮文庫に入っている野上弥生子さんの『森』、
もとは、箱入りの上製本でした。
前の出版社勤務時代、
『奥邃廣録』の複製版を編集した際に読んで以来のことになります。
岡野校長→巌本善治(いわもと よしはる)
村井幽寂→新井奥邃(あらい おうすい)
「新女性」→『女学雑誌』
「洸瀾の記」→「光瀾之観」
という置き換えが可能です。
『森』は、野上さんの自伝的な小説(未完)で、
小説に登場する菊地加根さんが野上さんと思われます。
(いまわたしの関心は何ごとによらず「根」でありまして、
野上さんがご自身の分身として登場させている人物の名を「加根」にしていることを、
おもしろく思いました。
小説の文章中にでてくる「地下茎」ということばにも目が行きます。
森の地下には、いろいろな根が張り巡らされていると想像され)
十代後半の少女の口ぶりがほうふつとなり、
「たいそう偉いお爺さん」としてとらえられる奥邃さんの立ち姿が目に浮かんでくるようです。
ちなみに「光瀾之観」は、
弊社が刊行した『新井奥邃著作集』の第一巻に収録されています。
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弊社は本日より通常営業。
よろしくお願い申し上げます。
・青空やきりんの首の鯉のぼり 野衾