い、い、

 

行きつけの鍼灸院でのこと。
施術してもらう空間はカーテンで仕切られているだけですから、
先生とほかの患者さんの会話はとうぜん聞こえてきます。
わたしもそうですが、
施術してもらいながら、
痛みやじぶんの体調についていろいろ漏らし、
先生はそれをふんふんと聞きながら、
なだめたりすかしたり、
適宜食事の指導をしたり
運動の指導をしたり。
じぶんのことではありませんが、
となりから聞こえてくる会話がとても参考になります。
天気の状態が乱れると
それに伴って体調を乱すひとが多くなるのだとか。
ことしはとくにその傾向が強いようです。
先日、
高齢の女性と思われるひとが
先生に導かれるまま奥の室に入ったようでした。
間もなく、
このごろの体の不具合について先生にうったえています。
先生はゆっくり、
ここはどうですか?
「痛い・です」
こっちはいかがですか?
「痛い・です」
ここは?
「い、痛い、です」
ここはどうですか?
「い、い、痛い!でございます」
……………
笑ってはいけませんが、
「でございます」がツボにハマり、
悪いと思いつつ
プッと笑ってしまいました。

 

【秋田県井内神社におはします火傷の御神体を参拝して】
・さつきあめ火傷の神の夢見かな  野衾

 

体温を感じる戦

 

龐徳は足軽に命じて口汚くののしらせたが、
関平はまるでかまいつけず、
要所をしっかと押さえ、
また手分けして間道の防備にあたらせるとともに、
敵が悪態(あくたい)をついて戦いをいどんでいることを関羽の耳に入れぬよう、
諸将に言いつけた。
(小川環樹・金田純一郎訳『完訳三国志』五、p.302、
ワイド版岩波文庫、2011年)

 

決死の覚悟で戦にのぞむ龐徳(ほうとく)との決戦をえがく場面において、
関羽の養子・関平のこころくばりを記す箇所。
なんでありますが、
三国志を読んでいると、
残酷なシーンがてんこ盛り
であるにもかかわらず、
クスっと笑ってしまうシーンがたびたび出てきます。
それは、
引用した箇所にもみられるように、
口汚くののしったり悪態をついたりして、
むかいあう敵将が怒るように
わざと仕向けていること。
戦闘場面ではそうするのがあたかも礼儀ででもあるかのごとく。
たとえば、
感情のないロボットによって
無差別に人を殺すようなことは
時代がちがうとはいえ絶対にありません。
それと、
その土地その土地に住む庶民の暮らしを気づかうのも、
なるほどと合点がいきます。

 

・五月雨や泥鰌の泡の五つ六つ  野衾

 

忘れ物

 

気を付けても気を付けても、
よく忘れ物をする子どもでありました。
なんでもよく忘れました。
高校生のとき、
新しいズボンを買い、
裾上げしてもらったのを包装してもらい支払いを済ませての帰宅途中、
それを、
公衆電話の下の棚へ置き忘れたことがあります。
緊張して電話していたせいか、
ズボンのことをすっかり
忘れていたのでした。
ハッと気づいて戻ったときには、
空虚な棚が
冷え冷えとそこにあるだけでした。
以来、
ゆっくりゆっくり、
なんども確かめて行動するようになって、
あまり忘れなくなった気もしますが、
よほど身に沁みているのか、
夢ではいまでも
よく忘れ物をして落ち込みます。

 

・とぼとぼと傘を忘れて夏の月  野衾

 

背中心

 

家人が着物の先生について勉強していることもあり、
休日、
和服を着て出かけることが多く、
ほとんどじぶんでちゃかちゃっと身支度し、
わたしはとなりの部屋でぼんやり本を読んでいますが、
しばらくすると、
家人わたしのところまで来て、
くるり。
「背中心ちゃんとなってる?」
さいしょはなんのことか分かりませんでした。
背中の中央にある上下の縫い目のこと
をそう呼ぶらしく、
そこだけは
じぶんで微調整するのがなかなかむずかしいようで、
ネコの手よりはヒトの手
のほうがましなので、
わたしがてきとうに直してやることになります。
どこをどうひっぱれば直るのか
おっかなびっくりやっていましたが、
ここというところを
グッと強く引くほうがどうやらいいらしいと
このごろ体で覚えました。
習うより慣れろということでしょうか。

 

・夏帯を直し背中をぽんとつく  野衾

 

サイフォンの1分19秒

 

保土ヶ谷にできた自家焙煎の店でコーヒー豆を購入し、
サイフォンで淹れて飲む。
これがひとつのたのしみですが、
蒸らしの時間によって微妙に味が変わり、
おもしろい。
だいたいは1分10秒でアルコールランプの火を止めますが、
先だって
ちょっと考えごとをしているうちに
時がたち、
気づいたら
1分19秒になっていた。
やばっ!
時間は、
スマホのストップウォッチ機能をつかって計ります。
いつもとくらべ気持ち濃く入ったかな
とも感じましたが、
うん、
悪くない!
ということで、
1分19秒もしばらく試してみようかなと…。

 

・七月十日母弟の誕生日  野衾

 

義の物語

 

水滸伝も三国志演義も若いときには、
切った張ったの
チャンバラみたいなものとして読んだように記憶していますが、
つとめていた会社の倒産や、
仲間と起こした会社のこれまでを振り返りながら
いま『完訳三国志』を読むと、
ひとがひとをつかうときの、
またつかわれるときの要諦とでもいったものが
短く、鋭く、描かれており、
読みすすむ目を一行一行にとどめることがしばしばあります。
岩波の『完訳三国志』は三国志となっているものの、
これは、
正史ではなく羅貫中の三国志演義のほうです。
いまは正史も翻訳されていますが、
日本で三国志という場合は、
演義をさすことが多いようです。
まだ途中ですけれど、
正史から千年以上の時間のなかで醸され、
三国志平話をへて成立した民衆の物語の根本は、
ひとことで言って「義」であるか、
との感想が浮かびます。

 

・雨模様雲を仰ぎて帰るかな  野衾

 

 

感動は

 

先週でしたかね、
桜木町駅で電車を降り、
地下道にもぐりエスカレーターで地上へ上がって、
くもり空の下てくてく歩いていると、
八十がらみでしょうか、
もう少しいっていたかな、
高齢の男性二人がゆっくり歩いてきました。
すれちがいざま、
「……ても、感動しなくなったね。……」
ドップラー効果よろしくそこだけしか聞き取れませんでしたが、
おそらく、
なにを見てもあまり感動しなくなった
ということではなかったかと想像されます。
さてじぶんはどうかとしばし反省。
ふりかえって二人を目で追うと、
駅へは向かわず、
野毛のほうへゆっくり曲がっていきました。

 

・七月や明と暗とのあはひにて  野衾