休日、自宅を出ていつもの階段を下りていくと、
坂の中ほどにあるアパートのドアが開いたままになっており、
タンクトップ姿の初老の男性が入口にしゃがみ、休んでいる風でありました。
引っ越し作業で疲れたのかもしれません。
思い起こせば、
わたしはこれまで九回引っ越しをしましたけれど、
いま住んでいるここがいちばん長くなりました。
ふるさと秋田の高校を卒業し、
初めて一人暮らしをしたのは、宮城県仙台市にある八木山という土地で、
山のなだらかな斜面に家々が立ち並び、
ひろびろした景観がこころを和ませてくれました。
大学と、住まいするアパートとのほぼ中間地点に八木山橋があり、
ふだんは50ccのバイクで通過するだけでしたが、
休みの日など、
ふと思い立って歩いてみると、
橋の上からのぞく渓谷は、
眩暈を起こすぐらいの深さをたたえ、
日常を忘れるにはもってこいの景色でした。
渓谷の急斜面には、自然の木々がひしめいていました。
桜もきっとあったでしょう。
「でしょう」というのは、
いまはっきりとは思い出せないからです。
桜を見れば、
今も昔も、きれいとは思いますけれど、
立ち止まって眺めることは、あまりしなかった気がします。
動かないものより、
激しく動くものに興味を奪われていたのでしょう。
齢をかさね、
動きが悪くなって来るにつれ、
どうやら、
動くものよりも動かないもの、
激しく動くものよりも静かに動くもののほうに興味が移っていくようです。
こういう気分になってみると、
思い出すのは、
『男はつらいよ』第一作冒頭の寅さんのセリフ。
「花の咲く頃になると決まって思い出すのは、
故郷のこと、
ガキの時分、洟垂れ仲間を相手に暴れ回った水元公園や
江戸川の土手や帝釈様の境内のことでございました。」
年齢が言わせた名台詞でしょう。
そして桜の名句といえば、
いろいろあるなかで、
芭蕉の句は忘れられません。
さまざまの事おもひ出す櫻かな
『男はつらいよ』第一作では、こんな場面もありました。
妹であるさくらの見合いの席で、
酒を飲んでひどく酔っ払った寅さんが、
さくらの名前を解説し、
「にかいの女が気にかかると読める」と口上を言い、
一同の爆笑を誘う。
これは、
木偏に貝が二つ、その下が女
という文字を解体したところから来るシャレで。
寅さんの口上をまた聴きたくなりました。
・花曇りよき思い出の湯に浸かる 野衾