いかなる表現も

 

先日、ネットを見ていましたら
(この頃は、テレビよりネットで知ることのほうが多くなりました)
韓国の歌手で作曲も手掛けているユ・ヒヨルさんという方の作った曲が、
坂本龍一さんの曲に似ているということで、
ユさんが謝罪したというニュースがありました。
ユさんいわく、
坂本さんのことが好きで、リスペクトしてきたらしく、
知らず知らず、
坂本さんのつくった曲に似てしまったと。
それに対して、
坂本さんいわく、
自分にも、
バッハやドビュッシーから強い影響を受けてつくった曲があり、
今回のユさんの曲は、
わたしのものに似ているところもあるけれど、
法的に自作を保護しなければいけないほどの案件とは思わない、
うんぬん。
概略、そのようなニュースでした。
〝よっ! さすが坂本龍一”
と思いました。
だけでなく、
今月19日に「新井奥邃先生記念会」が、
春風社が入っている横浜市教育会館の一階で行われたときの
わたしの講演の内容ともひびき合うものでしたから、
それもあって、
興味ぶかく読みました。
どういうことかといえば、
新井奥邃の文章を読んでいると、
聖書はもちろんですが、
四書五経をはじめ、
老子、荘子、
また、プラトンのものも読んでいたかもしれない、
カーライルやエマーソンのものも
ひょっとしたらと、
『新井奥邃著作集』別巻に付した索引を眺めることで、
想像されるからです。
カーライルのことでいえば、
新渡戸稲造の『武士道』の原文は英語ですが、
それを日本語に訳した矢内原忠雄いわく、
新渡戸の英語の文体は、カーライルに似ているのだとか。
英語の文体のことは分りませんけれど、
『武士道』の本文には、
カーライルの名前もでてきます。
新井奥邃が生まれたのが1846年、
新渡戸稲造が生まれたのが1862年、
同時代といえるでしょうから、
カーライルが当時、広く読まれていたということかもしれません。
ともかく。
新渡戸稲造といい、新井奥邃といい、
天才的と称される人物であっても、
その表現は、
先人、先覚がなしたものに基づき、それを踏まえていると考えられます。
そのことを、
今回の坂本龍一さんとユ・ヒヨルさんのことで、
あらためて考えさせられました。
わたしの講演のプロットはこちらです。

 

・万緑やうす暗きなかの階段  野衾