あつめること

 

世の中に、いろんな種類のものをあつめるのを趣味にしている人がいます。
いっぱいいます。
なんにもあつめたことがない、という人はいないのかも。
ともかく。
マニアックになにかあつめた人のコレクションを紹介するテレビ番組がいくつかあって、
リモコンをカチカチやり、
やってると、つい見てしまいますね。
なんでそんなものをあつめるの? と、いっしゅん思うものの、
待てよ、
ほかの人のことをとやかく言えない、言えない、
すぐにわが身をふり返ることになる。
社会人になって、ネクタイをするようになったら、
お! これカッコいい、ん! これシブい、へ~、このガラ、へ~、
とか…
ふと、こんなに買ってどうするの?
と思うけど、
ああいう気分て、
知らず知らず、だんだん高まるものなんですね。
レコードやCDもけっこうあつめた。
つらつら考えてみると、
さいしょは切手だったのかな。
ともだちがあつめてるのを見て真似したくなったような。
たしか小学生のころ。
それ用の切手帳まで買ったっけ。
あつめているうちにちょっとずつ知識がふえ、「見返り美人」がどうだとか、
文通週間の「東海道五十三次・蒲原」がほしいだとか、
とかとか、いっぱしに。
なつかしい。
なにかを見て好きになり、ほしいと思う気持ちの、
いちばん核のところというのは、
なんなんですかね。
好きになる人のこともおなじかな。
言うに言いがたく、
理屈ではないような。

 

「こない蒐あつめて何を入れはりますねん」と人にきかれるが、
私にとって箱は入れるためにあるのではない、
開け閉めするためにあるのである。
(田辺聖子[著]『上機嫌な言葉 366日』海竜社、2009年、p.118)
p.287)

 

ふり返れば、祖母もよく箱をあつめていました。
箱にかぎらず、きれいな包装紙だとか。ものをたいせつにするこころだったのでしょう、
生家が貧しかったそうですから。
でも、
訊いたことなかったけど、
田辺さんのような気持ちが、ちょっとはあったのかな?

 

・前持ちのリュック少年の頬は汗  野衾

 

文は人

 

文学史が割と好きなジャンルで、これまでその手のものをいくつか読んできましたが、
ただいま、津田左右吉さんのものを読んでいます。
小西甚一さんやドナルド・キーンさんのものもおもしろかったけど、
津田さんのは、また一味も二味もちがって、
おもしろい。
わたしはこう思う、こう考える、ということがくっきり書かれ
(小西さん、キーンさんのがくっきり書かれていない、という意味ではありませんが)
てあり、
人がらが文章に滲みでていると感じます。
小西さん、キーンさんよりも前の時代の人ですが、
おじいちゃんから傍で話を聞くごとく、
読んでいるうちに、だんだん親しみがわいてきます。

 

世事を謝して山林に隠れても、隠れるものが生きてゐる我である以上、
隠れたところにもやはり世界があり、人生がある。
背を向けた世をさへも、
心の上に絶つことが出来ないのは勿論である。
それを絶たうとするには、何よりも先づ我みづからを我が上に超脱させねばならぬ。
けれどもさうなれば、故らに山林に入るを要せずして、
煩はしと見た世事そのものが却つて面しろく眺められはしまいか。
世を煩はしと見るのは、
世に拘泥するからで、世に拘泥するほどならば、山林にも拘泥する。
支那趣味にも拘泥する。詩にも歌にも拘泥する。
自然の水の流れに枕流洞と名をつけ、岩の姿を群書巌(惺窩歌集)に至つては、
拘泥の最も甚だしきものである。
其の拘泥を脱離し一切の繫縛を放下し去つて、
自由な目で世を見れば、世は却つて笑つて彼を迎へる。
のみならず、
山林に生を営むことの出来るものは、
世に於いて生を営む必要の無いものである。
隠逸の民は畢竟徒手して遊食することの出来るものであり、
世を避けるのは固より一種の贅沢に過ぎぬ。
そんな贅沢のできないものは、
世の中の務を務としながら、其の世の中を心安く見る工夫をしなければならぬ。
其の工夫が出来れば故らに世を避ける必要は無い。
(津田左右吉[著]『文学に現はれたる我が国民思想の研究(四)』岩波文庫、1977年、
p.287)

 

武士の世の文学を鏡にして、津田さんの人生観が披瀝されていると思います。
この場合の「世」「世の中」は世間、ということでしょう。
わたしも、津田さんにならい、津田さんのように、世の中を見、
世の中の務めを務めとしながら、暮らしたいと思います。

 

・冬瓜煮箸でさくりと二つかな  野衾

 

予定があること

 

自宅でも会社でも、身の周りにいくつかカレンダーがあります。
二十四節気や七十二候ではきょうがなんの日かを説明してくれているものもあり、
日々の暮らしに彩りが添えられるようです。
秋田の実家のトイレには、
ながく付き合いのある店から毎年いただく大きなカレンダーがあり、
月ごとに金言のような訓えが記されていて、
「一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)」ということばは、
そのカレンダーで知りました。
卓上カレンダーは、
会社と自宅に同じものがあり、
会社のには仕事上の予定を、自宅のにはプライベートの予定を書き込むようにしています
が、
いまは、
すこしの予定があることがありがたい。
多すぎるのは困る。
なんにもない(ことは今のところないけど)
のも困る。
来月九十三になる父の口ぐせの一つ、
「なんにもやるごどがないようでも、なにがかしかがあるものだ」。

 

時によって、人生では、約束ごとは、
香辛料の役目を果すこともある。
(田辺聖子[著]『上機嫌な言葉 366日』海竜社、2009年、p.12)

 

・雀三羽夏をつんざく石つぶて  野衾

 

夏休みのこと

 

子どもたちは、そろそろ夏休み、かな。
夏休みといえば、忘れられない思い出があります。
冬休みの前もそうだったと思いますが、
休み前になると、
授業の時間に休み中の計画表なるものを各自書いた。
担任の先生から書くように指導されたのでした。
書いた後どうしたかといえば、
おそらく、
先生に見せたあとで、それぞれ家に持って帰ったんじゃなかったですかね。
そこのところは記憶があいまいですけど、
仮に提出しちゃうのだったとすると、
どういう計画を立てたのか分からないことになってしまうし、
コピーするとか、
そういう厳密なものではなかった気がします。
計画を立てて暮らすこと、ムダに時間を過ごさないようにしましょう、
ということだったようです。
ともかく。
その計画表を書いていたときのこと、
前の席にいたTくんの計画表の一日の終りのところに「とうみん」とあった。
「Tくん、とうみんじゃなくて、すいみんだよ」
と、わたし。
「そうか。まちがえた」
Tくん、消しゴムでガシガシやり、
「とうみん」を「すいみん」に直した。
以上。
たったそれだけのことですが、
忘れられない。
夏休み前というのは、実際の夏休みの日々とくらべ、
なおいっそうのワクワク感があった気がします。
子どものときに感じた、あの感じ、
ことばにしようとすると、なかなか思うようにいきません。
ムリっ! と、諦めてしまいそうになります。
そのときは、
ただ、たのしいだけだったのに、
時間がたてば、たつほどに、
たとえばあのときのTくんの受けこたえ、声、
あわてぶり、表情、消しゴムが紙をこする音までが聴こえ、
ひとつひとつがありありと目に浮かび、
かたまりとなって、光を放ちつづけています。

 

七月二十一日 夏やすみ

夏休みのはじまりは、いつもうれしかった。
時間がたっぷりあって、こわいぐらいで。
ほんとうの夏がはじまったようで、うれしかった。
そうして、七月はゆっくり時間が過ぎるのに、八月はあっという間。
あれは、どうしてだったんだろう。
夏休みのはじまりの日――。学校は、もうとっくに卒業してしまったけれど、
夏の時間がたっぷりあることを思い出させてくれるから、
今でもこの日は、わたしにとって特別な日。
(おーなり由子[絵と文]『ひらがな暦 三六六日の絵ことば歳時記』
新潮社、2006年、p.235)

 

・梅雨湿りこころ干したる灸かな  野衾

 

いい顔でいこう

 

四十代の終りから五十代にかけてうつ病を患い、
それからしばらく経って、また患い、そういう時間のなかで、
だんだんじぶんの傾向が見えてきた気もして、
なるべく医者にかからずに暮らしたいものだなぁと思うようになりました。
じぶんなりの工夫が如何ほどのものか分からない
けれど、
気分転換することや気晴らしがとてもだいじであると、
このごろますます思います。

 

若々しいのが、やはり「イイ顔」であろう。
物理的年齢のことではなくて、
「知ったかぶり」をしたり、人に教えたりしない、
(教えるということは含羞なくしてできることではない、
それを無意識に知っていること)
知らないことは「知らない」といい、
はじめて聞いて「えっ。ほーんと」とおどろく、素直な顔、
それから、
何かに興趣をもったり関心や欲望を持つと、トライしてみようと早速、
モリモリとエンジンのかかる顔
――そういうのがいい顔であって、
だから七十歳の若い顔もあれば、十七、八の年寄顔もいるわけである。
(田辺聖子[著]『上機嫌な言葉 366日』海竜社、2009年、p.65)

 

田辺さんにお会いしたことはありませんが、
田辺さんから田辺さんの
「サウイフモノニワタシハナリタイ」
を直にうかがっているような、そんな気になります。
なかなか、言うは易く行うは難し、
ではありますけど、忘れたくないとことばです。

 

・五月雨を抱いて腕《かひな》の空しずか  野衾

 

上機嫌でいこう

 

田辺聖子さんの本を、ときどき読みます。
さいしょは、『新源氏物語』。
原文に忠実な現代語訳というのではなく、
田辺さんが源氏を読み、消化し、自家薬籠中のものとしたうえで改めて書き起こした、
というようなふう。
だから、
古文の現代語訳を読んだときにおぼえる違和感のようなものが
ほとんどありませんでした。
それなら超訳的なものか
といえば、そういうことでもなく、
物語の展開はちゃんとおさえているようですし、
すごいなぁと思いました。
円地さんや寂聴さんの現代語訳とはまた異なる味わいがあり、
円地さん、寂聴さんのもいいけれど、
田辺さんのも好きです。
『むかし・あけぼの 小説枕草子』もよかった。
田辺さん、
ほんとうに古典が好きなんだなぁ、
と思います。
さてこんかい、『上機嫌な言葉 366日』を読んだ。
一日一ページものが好きなので、
これもそういうふうにして読もうかと思っていたのですが、
肩の凝らない言い回しについつい惹かれ、
さいごまで読んでしまった。付箋を何か所か貼りましたから、
気が沈みがちなときにまた読み返そうと思います。

 

ほんというと、上機嫌、なんていうハカナゲな気分は蜃気楼しんきろう
のようなもので、
手につかまえられないからすぐ消えてしまう。
だから多くの人は価値を与えないけど、
私は、ここだけの話、どんな財宝やどんな卓見や芸術よりも、
人間の上機嫌を上においている。
人間が上機嫌でいられるときときというのは、
この世では全く少い。
(田辺聖子[著]『上機嫌な言葉 366日』海竜社、2009年、p.149)

 

このことばは、七月二十七日のところにあります。
分かりやすいことばで、しみじみ深いことが書いてあると思います。
子どものときだって思い悩みはあったけど、
歳をかさねるとかさねた分だけ、また思い悩みがふえますから、
まさに田辺さんの言うとおり。
つくづく上機嫌でいきたいものです。

 

・あいさつを濁らぬ人と夏日かな  野衾

 

日日是好日

 

おもしろい本を読みました。『文にあたる』著者は、牟田都子(むた・さとこ)さん。
1977年生まれだそうですから、
わたしよりちょうど二十歳若い方です。
図書館員を経て出版社の校閲部に勤務。2018年より個人で書籍・雑誌の公正を行う、
とのこと。
わたしの場合は、編集者と校正者を兼ねているわけですが、
仕事上、教わることが多くありました。
わが身をふり返り、
自戒したり、へ~、そうなんだ~、と、あたらしい発見があったり、
悲喜こもごもに共感したりしながら
しずかに読み終えました。
いちばん感動して何度も読み返し、
付箋を立てた文があります。
同じ仕事をされていたというお父さまとのエピソード。

 

同じ仕事をしていた父に、小さい頃テストをされたのを覚えています。
買ってもらったばかりの国語辞書を渡され、
いくつかの単語を引いてみなさいといわれました。
見当をつけて辞書を開き、ページをめくること一回、二回……
父はにやりと笑って「貸してみろ」
と辞書を手に取りました。
親指の腹で小口こぐちをなぞり、
ぐいと食い込ませると辞書は貝のようにぱっくりと口を開いて、
求める単語が真珠のように光っていました。
集中して仕事ができているときには自分でも、
辞書を手に取って当たりをつけ、
親指の腹に力を込めて開くと、目的のページを開けることができます。
あの頃は
父と同じ仕事をすることになるとは思ってもみませんでしたが。
(牟田都子[著]『文にあたる』亜紀書房、2022年、p.159)

 

これはわたしの偏見かもしれませんが、
どういうたぐいの本でも、
仮に何百頁もある本のなかでたった一行であっても、
親について、親との関係についてどういう書き方がされているか、
に、こころの深いところが現れていると感じます。
引用した文を読むと、
情景がありありと浮かぶだけでなく、
そのときのこころのふるえが伝わってくるようで、
本全体が細やかなこころくばりがされていて
いいわけだけど、
この文はとりわけ深い光を放ち、本の光源になっていると思います。

 

・夕涼み百年前の百年後  野衾