人間と土地(ある観念連合)

 

サン=テグジュペリに『人間の土地』という本がありますが、
こんかいはその本のことではなく、
「の」でなく「と」。
大学の後半、日本経済史のゼミをとり、有賀喜左衛門 や中村吉治の本を読みました。
おもしろいとおもったのは、封建主義、封建社会、封建体制の「封建」てなんだ、
ということ。
ちなみに関係ないけど『男はつらいよ』で寅さんが、
「それはちょいとフウケンシュギってもんじゃないかい」といって笑わせていた
っけ。
それはともかく。
封建主義、封建社会、封建体制の「封建」について、
わたしがなるほどとおもったのは、
人間(日本でいえば、まずは在地武家)を掌握すれば土地をも掌握できるのが「封建」のそもそもの意味である、
ということでした。
なるほどなぁ。
ながい時間をかけ人間が土地から遊離し始めると、
人間を掌握しても、土地を掌握することにはならない。
日本の場合は、
秀吉の検地、明治の地租改正、第二次世界大戦後の農地改革を経て、
人間は完全に土地から引っぺがされた。
土地から人間が引っぺがされたということは、
国家所有をも含めて、
土地はかならずだれかの所有物であることが決定的になり、
それを疑う者すらいなくなった。
しかし、考えてみれば、
言わずもがなのことながら、土地はもともと地球表面の意であって、
そもそもだれのものでもない。
それがだれか特定の所有に帰せられる
という幻想が資本主義社会を歴史的に登場させたといっても過言ではない。
原始的蓄積と自己の労働力しかもたない人間が登場して初めて、
資本主義社会は血を滴らせて歴史に登場してくる。
話は飛んで、フランスの哲学者ドゥルーズとガタリの著作に、
『資本主義と分裂症』というのがあります。
タイトルを見た瞬間、ピンと来るところがありました。
ふたりは、
1968年の五月危機とよばれる時期を経験しています。
五月革命、五月危機とよばれる反体制運動。
パリの道に敷きつめられた石(パヴェ)を引きはがしバリケードをつくる。
ブロックの下のパリはもともと浜辺の砂地であった。
(フーコー『言葉と物』の最後のことば
「人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろう」も思いだされる)
そのことをある本で知り、
さらにピンと来るところがあった。
人間はそもそも土地に結びついている。土地は本来だれのものでもない。
それがだれかのものであるというのは、単なる幻想にすぎないのではないか。
しかし人間は土地から離れてはそもそも生きていけない。
さらにいえば、
土から生まれて土に還るのが人間だ。
これは、都市と地方という枠組みの問題とはちがう。
98歳で他界したわたしの祖父が最後に見たがったのは、
田植え前の稲の苗だった。
そこにも、人間存在の根源と通底するものがあるのではないか。
人間が土地から引っぺがされたとき、
人間存在の根底において、なにかが大きく変ってしまったのではないか。
ドゥルーズ、ガタリ、中井久夫など、
その辺りを問題にしていたような気がする。

 

・新緑や見知らぬ人とお辞儀せり  野衾

 

あたらしいスマホ

 

つかいつづけてきたスマホが、いろいろ不具合(入力途中で固まったり、
充電がすぐになくなったり、充電口の蓋が閉まらなくなったり、等々)
が生じ、かつ、これからますますレアアースが入手困難になり、
スマホの価格が上昇するだろうとの情報が聴こえてきたりしたため、
機械が苦手なわたしが、
シニア向けのBASIO(これまで使ってきたもの)
のあたらしいバージョンのものを買うことにし、先日、auショップに出向き、
目的のものを入手しました。
機械が苦手なので、どこがどうというよりも、手に持ったとき、
なんとなく、ふわりとあたらしさが指先に感じられます。
聖書に「新しいぶどう酒は新しい革袋に」ということばがありますが、
あたらしい思考はあたらしいスマホで、のこころ。
auショップの店員さんのいうところによれば、
まえのBASIOをわたしは10年と3か月使っていたことになります。
おどろいて、「えっ! そんなにですか?」
と尋ねるや、
ちょっとこまった顔をし、
「ええ。はい」
「そんなに長く使う人、ひょっとして、いないんじゃないんですか?」
「かなり少ないとおもいます」
10年ぶりに買い替えたスマホとはいえ、
おなじBASIOなので、あまりストレスなく使いはじめました。

 

・残る桜にやわらかき風が吹く  野衾

 

ゴミを拾う大谷と響存的世界

 

大リーガー大谷翔平の姿を見ない日はありませんが、以前、なんどか
グラウンドを歩きながら、落ちているゴミを拾い、
ユニフォームの後ろポケットに押し込む場面をテレビで見たことがあります。
その姿を見て、感じるところがありました。
新井奥邃(あらい おうすい)のことです。
奥邃は清潔ということをだいじにしたひとでもありました。清潔は天国への第一歩、
ということばも残しています。
奥邃に直接会ったことはないにもかかわらず、
終生の師としたひとに哲学者であり教育者である森信三がいます。
その森信三を、
元WBCの監督栗山英樹は、自著のなかで不世出の思想家
(いま、手もとに本がないので正確でないかもしれません)
と呼んでいます。
栗山さんが、森信三をつうじて奥邃を知っているかどうかは分かりませんけれど、
知っているいないにかかわらず、
奥邃の清潔の精神は、森信三の精神と響き合い、栗山英樹と響き合い、
ひいては、大谷翔平と響き合っているとおもうのです。
そういうことは、
本人の知らないところでの出来事かもしれない。
見える世界ではなく、裏面史ともちがう。
響き合いはだれにも分からない。場合によっては本人ですら。
金子みすゞの、見えぬけれどもあるんだよ、
ハイデッガーの顕現的秘匿、
哲学者鈴木亨の、響き合うことによる存在を規定する「響存的世界」、
さらに林竹二の「天国への道普請」と関連づけて考えることもできる
かとおもいます。

 

・尿酸値高めなれども春うらら  野衾

 

漢字と平仮名

 

「平日毎日更新」をうたい文句にしていたこのブログ、
このごろは「たまに更新」というふうにしています。
「さん付け」の有無とはちがって、漢字と平仮名の表記の区別は、
以前とあまり変っていないようにおもいます。
いま「おもいます」を平仮名で表記しましたが、
もちろん「思います」でもいいわけで。
ではなぜあえてひらがなで表記するのか?
身も蓋もないいい方をするなら、平仮名が好きだから。
は?
はい。平仮名って、曲線でしょ。やわらかいじゃないですか。
漢字は漢字で、平仮名とは別の感覚で好きですよ。
一個一個の漢字がふか~い歴史を秘めていて、
それぞれのひびき合いで漢詩が成立するようにもおもうし。
でも、それはそれ。
このブログに書く文章は、
意味を取りちがえやすい単語以外は、なるべく平仮名をつかうようにしています。
一人称の「私」も、なんとなく「わたし」でいきたい。

 

・古今集なる名を今に梅の花  野衾

 

「さん付け」の有無

 

しばらくまえまで、このブログに登場する人物名に、ほとんど例外なく「さん付け」
していました。たとえば「プラトンさん」のように。
たまたま、まえに書いたものを見る機会があって、
あらためて読んでみると、じぶんの書いた文章なのに、違和感のほうがつよい。
じぶんで書いたものなので、書いたときの気持ちは分かる。
プラトンといえども、
となりのおじさんが語ったことに耳を傾けるように、
「肩の力を抜いて」とおもうこころが、わたしにそうさせていました。
それでいい、と。
が、そこにはやはり、無理がありました。
「肩の力を抜いて」は悪くないとはおもうけれど、
時間的にも空間的にも、
プラトンとわたしでは、どうしたっておおきな隔たりがある。
となりのおじさんではない。
それと、
プラトンをプラトンさんと書くことで、
わたしの気持ちとは別に、拙文を読んでくださる読み手の方に違和感のほうをつよく
与えかねない。
与えかねないどころか、きっと与えてしまう。
それでは、ただの自己満足になってしまうなぁ。
ということで、
肩の力を抜きつつ、プラトンは「プラトンさん」ではなく、
これからは「プラトン」で、
「ヴァージニア・ウルフさん」でなく「ヴァージニア・ウルフ」で
いきたいとおもいます。

 

・梅の花愛でて立ち去る人の影  野衾

 

ルーシー・モード・モンゴメリ

 

稀代の哲学者であり教育者である森信三のことばに、

 

人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、
一瞬遅すぎない時に。

 

というのがあります。
なるほどなぁと思いますね。それはまた、読むべき本にもいえるかな、
という気もします。
昨年の春、
モンゴメリの『赤毛のアン』シリーズを村岡花子訳
(『アンの想い出の日々』は村岡美枝訳)で読み終えました。新潮文庫で全12冊。
体調をくずす前のこと。
『赤毛のアン』の作者としてモンゴメリの名を知ってはいても、
読む機会がありませんでした。
女の子が読む本でしょ、
ぐらいの軽薄なこころでながめていただけ。
シリーズをとおし、これほどの作品、これほどの作家だとは、
まったくもって知らなかった。
もちろんシリーズ初期の、
若鮎のようなアンと子どもたちが活躍する物語はすばらしい。
しかし、
いまのわたしの年齢も関係しているとはおもいますが、
たとえば、
寝たきりの、ある年老いた女性の若き日に、
まるで火のでるような恋物語があったということを、
モンゴメリは、ふくざつにからみ合った糸の束を解きほぐすように、
ひとのこころの奥をていねいに描いています。
また、
頑固な人物がでてきたとして、
なぜそんなふうにひねくれてしまったのかを、フラッシュバックの手法で、
なるほどと思わせてくれます。
またたとえば、
なんのとりえもないような人が、ある場面で、慈愛に満ちた行為をし、
本人が語らないので、だれもそのことを知らない。
そういう話がちりばめられていて、
アンと夫のギルバート、子どもたちは背景に退きますが、
違和感なく読むことができ、うならされます。
そして、ふと、
2026年の現実に戻ってまわりに目をやるとき、例外なく、ほんとうに例外がなく、
人間でない何ものか(神とよぶひとがいてもおかしくない)
しか知らないような、
そういう物語をだれでもが、
どこかに秘めているのではないかと思えてきます。
『赤毛のアン』シリーズは人生の綾をていねいに描いて、
心地よい風を感じさせてくれます。
くり返しになりますが、
どんな人にも例外なく、
年輪の芯のように、目に見えない珠玉の物語が、
個性の質を決定するように仕舞われていて、
見えるところでは、ただ薄緑の葉が風に揺れあいさつしている、
そんな風景が目に浮かんできます。
「おはよう」「おはよう」
「こんにちは」「こんにちは」
「またね」「またね」
葉擦れのようにくりかえし。

 

・日用のあれこれ済ませ探梅行  野衾

 

梅の花

 

梅の花があちこちで咲きはじめました。
梅の句といえば、松尾芭蕉の高弟服部嵐雪の

 

梅一輪 一輪ほどの 暖かさ

 

が有名ですが、じっさいに梅林の近くを散策していると、
「わかる。わかるなぁ」という気になります。
せんじつ関東でも降雪がありましたが、
梅の枝からほろほろと雪が落ち、
梅の花がパッと顔をのぞかせます。
ほんとうに、一輪ほどのあたたかさ、
だな。
おいらの不調も一気に、と、ぜいたくなことはゆめゆめ申しませぬ。
ただただ、
一輪ほどのあたたかさでけっこうでごぜえますから、
どうぞ恵んでくださいませ。
そんな気持ちなんでございます。

 

・凩を抱いて空行く鳶かな  野衾