漢字の淵源

 

古代の社会は、ある意味では巫術(ふじゅつ)の社会であった。
すべてのものに霊があり、
互いに感応し、影響する関係があって、
つねに識(し)られざるものの攻撃に備え、
その攻撃を打破しなければならぬという状態にあった。
そのような事態に対応する方法は巫術であった。
その巫術的な世界をどの程度に理解するかは、
古代文字の理解の一の関鍵(かんけん)となる。
そのような世界観への理解がなくては、古代の文字の理解は不可能である。
(白川静『漢字の体系』平凡社、2020年、p.188)

 

白川さんが遺作のようにして書いた『漢字の体系』。
一文が短く、
漢字に籠められている精神を後世に伝えたい
との気迫が各所に感じられる。
白川漢字学のエポックは、
なんといっても「サイ」
(「口」に似ているが、「口」でなく。パソコンで入力しても出てきません。
祝詞を入れる容器を表す。
「口」の縦棒二本が、上の横棒の端から少し上にはみ出している)
の発見だと思われるが、
そのことを含め、この本では、
漢字の由って来たるところが体系的に説明されていて面白い。
ここに東洋の祈りの淵源があると思われる。

 

・眺むれば今あけぼのと山笑ふ  野衾

 

宿題

 

このブログ、楽しんで書くときもありますが、
いつでも、
というわけにはいかず、
しかし、
だれから頼まれたわけではなく、
幾つかの理由から書くことの意味があると信じ、
じぶんで決めたことなので、
悶々しながら書くときもあるけれど、
してみると、
自らに課した宿題みたいなものかもしれません。
宿題といえば、
わたしは、
対談や鼎談、座談会の折に、
事前にプロットを用意し参加される方にお見せし、
打ち合わせをするようにしていますが、
考えてみれば、
これを作成するのも、
自らに課した宿題のひとつ。
また、お話しくださる方への礼儀だと考えています。
プロットができ、
打ち合わせが済むと、
六割がた、対談、鼎談、座談会は終わったようにも感じられ。
あとは本番で、
相手の方の話に耳をかたむけ、
相手の方の表情に同機しながら自由に遊ぶだけ。
今月七日(日)に、
教育のリーダーシップとハンナ・アーレント』の訳者お三方と
座談会を行うことになっています。
テーマは、
「「悪の凡庸さ」とリーダーシップ」
内容は、
後日『図書新聞』に掲載予定。

 

・図書館を出でてとつぷり月おぼろ  野衾

 

母の同じ話

 

週に三回、とくに用事がなくても、
ご機嫌うかがいを兼ね、秋田の家に電話を入れます。
先日こんなことがありました。
電話には、
居れば必ずといっていいほど父が出る
のですが、
その日は母が出て、
かかりつけの病院に入った折、
いつも診てもらっている院長先生から、
息子たち(わたしと弟)のことを訊かれたと言い、
声が弾んで、
それはそれは嬉しそうでした。
「そうか。そうか」
とだまって聴いて、
それから電話を切りました。
つぎに電話をしたとき、
この日も、父がちょっと離れたところに居たらしく、
母が出た。
そして、
二日前に聴いた話を、
また嬉しそうに語り始めました。
若い時ならすぐに、
「かあさん、その話、このまえ聴いだよ」
と遮っていたかもしれません。
いや、
きっと、そうしていたでしょう。
ところが、
母があまりに嬉しそうに話すので、
遮るタイミングを逸した、
というよりも、
嬉しそうに話す母の声を聴くのが、嬉しく、また楽しいので、
だまって聴いて「そうか。そうか」
と相槌を打ちました。
情報としては繰り返しでも、
それを話すときの体と心は日々に変化します。
このブログにしても、
遡って見ればずいぶん繰り返しが多い。
それだけ深く心に残っているということでしょう。
ましてそれが母の語る話となれば
味わいは一層深く、
華やぐ母の心に寄り添い共感を覚えます。

 

・高速道時は後ろへ花万朶  野衾

 

変化を読む

 

クイズ番組や旅番組、きのうのプレバトもよく見ますが、
毎日欠かさず見るのは天気予報。
なにが面白いかというと、
人工知能が人間の知能を超えるときがそこまで来ている、
いや、
すでに乗り越えられた
とまで言われるこのご時世、
いたってシンプルな案件である天気の予測がなんとも難しいらしく、
翌日、翌々日ぐらいは的中しても、
一週間のスパンで見たとき、
まず当たらないこと。
それが面白く、
いろいろ考えさせられる。
いうまでもなく、天気は時時刻刻変化する。
なにが原因で、いつ、どう変化するか。
ぬるぬるする鰻を素手で捕まえるようなものか、
ちがうか。
それはともかく。
移りゆくものは気象にかぎらない。
世の中も、ひとの心も、
一瞬たりとも留まることがない。
留まらないものにどう対処するのか。
『易』を読む面白さがそこにある気がします。

 

・春の宵洩れ来るピアノ華やげり  野衾

 

眠ること

 

かつて体調を崩していたころ、
眠れない日々がつづいたことがありました。
医者にかかっていましたから、
睡眠薬、睡眠導入剤を処方してもらうことも可能だった
とは思いますが、
そうしませんでした。
じっと天井を見て一時間、
寝返りを打って一時間
と、
眠れない時が過ぎていきました。
そうした体験があったから尚のこと、
眠ること、眠れることのありがたさがつくづく思われます。
いまは九時過ぎに床に就きますが、
知らぬ間にスッと眠っているようです。
夏目漱石の小説に、
登場人物が、
眠りの境い目を確認しようと図る場面があったと記憶していますが、
そんなことを意図すれば、
眠れるはずなどありません。
「ここが境い目」
と感じることは、
覚醒の意識がまだ残っていることの証でしょうから。
眠りというのは、
「いつの間にか」「自然に」
であって、
がんばって眠るというのは語義矛盾以外の何ものでもありません。
がんばるの語源は「我を張る」
だそうで、
我を張っていては、とてもじゃないが眠れない。
我を張らず、
「一日の苦労は一日にて足れり」
と、
身を横たえるしかなさそうです。

 

・春光やカーテンの影濃くなりぬ  野衾

 

垂直のピーク

 

人生をマラソンにたとえ、折り返し地点を過ぎた、
あるいは、
山登りにたとえ、ピークを過ぎた、
というような言い方をし、
加齢とともにそういうたとえがしっくりくる年齢にわたしもなりまして、
そうだな、との感慨がないではないけれど、
それは、
人生をいわば水平にとらえての見方か、
とも感じられます。
時間は不可逆ですし、能力には限界があり、
まわりの植物、動物を見れば、
ニンゲンだけ例外というわけにはいきません。
しかし、
軸を水平から垂直にもってくると、
時間や能力とは一切関係なく、
いのちあるそのときどきでピークがあるのではないか、
という気がします。
道元なら「而今」というでしょうか。
いま、このとき。
『聖書』なら、
「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ」
でしょうか。
感覚でとらえることではない気もしますが、
前方を見ていても、
下を向いていても、
いのちが上に向いていると実感する、
あるいは実感したい、
そういう時が確かにあって、
今の年齢でもあるし、
ことばをよく知らない幼い頃もあった気がします。
これからもそうでありたい。
水平のピークは、
たとえば競技場のメダルですが、
垂直のピークは、
謙虚による大和(たいか)、共生、
ということになるでしょうか。
生死に関係なくゴールはなさそうです。

 

・春泥を待ちて佇む農夫かな  野衾

 

好きなテレビCM

 

吉岡里帆がきつね役で登場する「日清のどん兵衛」は、
きつねが可愛くて好きなCMですが、
いちばんは何といってもイエローハット
ですかねぇ。
鼓動にも似た音を発するエンジン室のシーンから始まりますが、
これが流れるたび、
いつも食い入るように見ています。
さいしょ、なんて言ってるのかなぁと思いましたが、
「めちゃめちゃたくさんめちゃたくさん」
と言っているようで。
はぁ。
タイヤがいっぱいあるよ、
ってことか。
なるほど。
音楽も好きだし、女の子の踊りも。

 

・司馬遷のまなうらや光瀾の春  野衾