ことしの作は

 

秋分の日のきのう、
夕刻になって固定電話が鳴り、なにかの営業か?と思いながら受話器を取ると、
秋田の父からでした。
聴けば、
稲刈り、籾摺りを終え、
ことしの米づくりはすべて終了したとの報告で。
収量も昨年にくらべ、
さらに多かったらしく。
叔父のアシストあればこそではありますが、
齢九十にして1.4ヘクタールの稲を育て収穫するというのは、
なかなかのギネスものかもしれません。
先年亡くなった父の姉が
「おまえは、仕事をするために生まれてきたような人だな」
と言っていたのを思い出します。

 

・爽やかや学の始めの漢詩読む  野衾

 

ジル・ドゥルーズ

 

先だって、
学習院大学の中条省平先生、東京学芸大学の末松裕基先生をお招きし、
拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』
について鼎談を行った際、
終りに近づいたころ、
中条先生が、
ジル・ドゥルーズの『シネマ』の最後の方に、
「世界への信頼」ということばがでてくることを引き合いに出されました。
ドゥルーズの著書は、
かつて『差異と反復』を読んだだけで、
そのときの印象しかありませんでしたから、
映画が
「世界への信頼を回復するためにある」
とドゥルーズが捉えていたことに興味を持ち、
さっそく法政大学出版局からでている『シネマ1*運動イメージ』を求め読みましたら、
あっ!と目をみはる箇所に出くわしました。

 

わたしたちを破滅させ、劣化=堕落させるのはまさに反復なのだが、
しかしその反復こそがまた、
わたしたちを救済しうるのであり、
わたしたちをそれとは別の反復の外へ出すことができるのである。
キルケゴールがすでに、
過去の反復すなわち拘束し劣化=堕落させる反復と、
信仰の反復すなわち未来に向けられた反復とを対立させており、
そして後者の反復こそが、
〈善〉の力ではなく不条理なものの力のなかで、
すべてをわたしたちに再び与えてくれる反復であるとしていた。
つねにすでになされてしまったものの再生としての永遠回帰に対して、
復活して新しくなることとしての永遠回帰、
新たなものそして可能なものの新たな贈与としての永遠回帰が対立するのだ。
(ジル・ドゥルーズ[著]財津理/齋藤範[訳]『シネマ1*運動イメージ』
法政大学出版局、2008年、p.232)

 

いろいろな読み方ができる文章ですが、
単語の選びを含め、
聖書及びキリスト教の世界観を抜きに理解することは不可能であると思います。
この本と、
この本の肝になることばを紹介してくださった中条先生に感謝します。

 

・虫の声過ぎてまたする虫の声  野衾

 

詩はだれのもの

 

古くは、
詩の制作・受容において作者という概念は存在しなかったと考えていいだろう。
清・労孝輿《ろうこうよ》『春秋詩話《しゅんじゅうしわ》』は、
『詩経』の詩が作者名を欠いているいることを論じて、
「当時はただ詩だけが存在して、詩人は存在しなかった。
古人の作を自分の作とすることができたし、
誰か別の人の作を自分の作とすることもできた。
……誰もある特定の作品の作者ではなかったし、
作品は誰か特定の人が作ったものでもなかった。
……誰も作者を名乗ろうとはせず、
詩は作らずして作られていたのである」と述べている。
『詩経』の詩、
特に民歌を収める国風の詩について言えば、そこにうたわれるのは男女間の恋情や
悪政の苦しみなど誰もが了解可能な心情や出来事であって、
ある特定の個人の内面や特殊な出来事がうたわれるわけではない。
(川合康三・富永一登・釜谷武志・和田英信・浅見洋二・緑川英樹[訳注]
『文選 詩篇(五)』岩波文庫、2019年、p.405)

 

中学、高校の国語教科書に、有名な中国詩がいくつか載っていて、
試験の前ともなれば、暗記したものでした。
五言絶句、七言律詩、
といっても字数にすればたかが知れていますので、
それになんといっても若かった
ですから、
それほど苦もなく暗唱できました。
込み入った現代国語、にょろにょろ鰻のような日本の古文と違い、
すっきり、くっきりとしていて、
潔い感じがした。
屈原のエピソードも、
中国詩に対する印象を色付けていたかもしれません。
引用した箇所は、
浅見洋二さんが書いていますが、
なるほどと合点がいき、ふかく共感するところです。

 

・駄菓子屋を過ぎて小闇へ虫の声  野衾

 

稲作と地すべり

 

もう一つこういうところが古く開かれ、
原始農業といっては少しいいすぎかもしれませんが、
それに近いような古い農業開発が行なわれたについては、もう一つ用水が簡単にえられ、
鉄の道具がなくても、
開田と耕作ができるということも大切なことであろうと思います。
その例が新潟県東頸城郡牧村の神野《かみや》という地すべり地帯にあります。
ここは非常におもしろい稲作をやっておりますが、
地すべり地帯には水たまりがいたるところにできる。
その水たまりにはアシやヨシなどが一面に生えます。
農家はそのヨシやアシを手で抜いて、裸になって飛び込んでかきまわし、
いきなり籾をまきます。
つまり直播をする。
肥料は全然やりませんが、
こういう原始的な栽培でも平均二石六斗くらいの米がとれるのであります。
それも、
あまり早く直播をすると伸びすぎてしまいますから、
だいたい七月半ばごろから終りにまきつけると、ちょうどいいとのことであります。
新潟の地すべり地帯には、
こうしたところがちょいちょいあります。
ですから、
こういうところにまいりますと、
畑の中に一坪、二坪、
あるいは、もっと小さい三尺四方くらいの水田がポツンポツンとある。
水田といっても、水たまりにそういう方法で稲を植えている。
畑の中に大小さまざまの、丸い形をした一群の稲が植わった水たまりがあり、
二石五斗、六斗もとれるというわけで、
驚くほど簡単な稲作が行なわれております。
(柳田国男・安藤広太郎・盛永俊太郎ほか『稲の日本史 下』1969年、筑摩書房、p.237)

 

引用した箇所の発言は、小出博さん。昭和32年5月25日のもの。
小出さんは、東京農業大学で教鞭を取られた方で、
農学博士、理学博士。
この発言の前に、
棚田を作ると地すべりが起きやすいのではないかと、
なんとなく考えられているけれど、
実際はそういうことではないとの具体例として披露された話。
水と、水によって運ばれる肥沃な土によって稲が育つということであってみれば、
ヘロドトスの有名なことばも連想される。
まさに、
「水と緑と土」の恩恵ということになりそうだ。

 

・うつつより忘れ得ぬ夢花野かな  野衾

 

ヤッシャ・ハイフェッツ

 

中学時代の音楽担当は、小林恒子(こばやし つねこ)先生。
拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』
に、
先生の思い出を取り上げましたが、
ほかにもいくつか忘れられないエピソードがありまして。
一年生のときだったでしょうか、
聴いた途端、
のけぞったことがありました。
サラサーテというひとが作曲したツィゴイネルワイゼン。
サラサーテ、
ツィゴイネルワイゼン。
音楽の衝撃とともに覚えましたので、以来、忘れたことがありません。
その後、
高校、大学を経て社会人となり、
ときどき耳にすることがありました。
なつかしく、
ただなつかしく。
あるとき、ふと、疑問が湧いてきました。
恒子先生が聴かせてくださったツィゴイネルワイゼンは、だれのものだったろう。
その疑問が湧いてからというもの、
それまでなつかしい気持ちで聴いていたツィゴイネルワイゼンが、
ちょっとちがって聴こえてくるようになった。
母をたずねて三千里、
はたまた、
名探偵コナンの、真実はいつもひとつ、
とでもいうのか、
恒子先生が教えてくれたツィゴイネルワイゼンの衝撃の度数を知りたくて、
事あるごとに耳を澄ませた。
ちがう。
ちがう。
これではない。これもちがう。
何年、いや、もっと。
あるとき、
ラジオだったか、なんだったか、
とんと忘れてしまったけれど、
息が止まるように感じた。こ、これだっ!!
ヤッシャ・ハイフェッツ。
きいたことのない名前。
しかし、
記憶のなかのツィゴイネルワイゼンの衝撃にぴたりと一致した。
恒子先生が聴かせてくださったのは、
これにちがいない。
まちがいない。
そう信じていますが、
真実かならずしも事実でないように、
そうでなかったかもしれません。
ただ、
ヤッシャ・ハイフェッツが演奏するツィゴイネルワイゼンは、
あのときの衝撃をたしかに再現してくれます。

 

・田仕事を生きて楽しも初穂かな  野衾

 

ロックのルーツ

 

理想はバッファロー・スプリングフィールドだということをふたりは理解していた。
けれども、
そのサウンドを単にコピーするだけではない、
しっかりと深く張られた根のようなものを見つける
ことが新たなバンドには必要だった。
それにはいくつかのヒントがあった。
細野が念頭に置いたのは、
バッファロー・スプリングフィールドのセカンド・アルバム『アゲイン』
の裏ジャケットに記された、膨大なサンクス・クレジットだ。
オーティス・レディング、ハンク・ウィリアムズ、ベンチャーズ、ジミ・ヘンドリックス、
エリック・クラプトン、
ビートルズ(ナーク・ツインズ&ジョージ、リンゴと記載されている)、
バーズ、フランク・ザッパ、ストーンズ、ドノヴァン、ジェファーソン・エアプレイン、
ロバート・ジマーマン(ボブ・ディラン)――。
影響を受けたミュージシャンの名前が七十とちょっと羅列されるなかに、
細野はカナダの政治家(レスター・B・ピアソン)や
イギリスの画家(ジョージ・ロムニー)の名が混じっているのを見つけた。
そしてそういった強固な土台を自分たちも築かなければならないと考えた。
音楽的なものだけではない、
自分たちの本質的なルーツと言える土台を。
(門間雄介『細野晴臣と彼らの時代』2020年、文藝春秋、pp.98-9)

 

2013年に亡くなった著名な民俗学者、地名学者で
作家、歌人でもある谷川健一さんと対談する機会があったとき、
対談本番の前に、
谷川さんの著書について感想を述べたところ、
谷川さんがいたく喜んでくださり、
笑いながら、
いまの歌人たちが、じぶんの短歌が掲載された雑誌は見るけれど、
ほかの本をあまり読まないと仰った。
『細野晴臣と彼らの時代』をおもしろく読んでいて、
そのときのことを思い出した。
どのジャンルでも、
個性はだいじだろうけれど、
ほんものの個性があるとすれば、
それは根を持っているということかもしれない。
たとえば、
バッファロー・スプリングフィールドがその例であり、
細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂の四人で構成された日本のロックバンド、
はっぴいえんど、
ということになるだろう。

 

・天高し千歳の農の仕事かな  野衾

 

和気あいあいの議論

 

何ゆえに水田における稲作を中心にしたのか、
さきほども申しましたように大陸においてはいろいろな農作物があったにちがいない
のに、
日本においてはどうして水稲を選んだのであろうか
ということを問題にしたわけでございますが、
わたくし自身としては、
当時の日本では割合に現在よりも湿地が多かった
ということは地形史の方からもいわれておりますし、
おそらくはそのような自然現象、環境を利用したということと、
これはおしかりを受けるかと思いますが、
水田において稲を作ることが当時としては割合に安定度の高いものであったので、
それでそういう結果になったのではないかと
わたくしはひとりでそのような判断をしているわけでございます。
いずれにしても、
弥生時代というものは、
稲を作ることが水田においておこなわれたということで、
もう一つ特徴づけられると思います。
(柳田国男・安藤広太郎・盛永俊太郎ほか『稲の日本史 下』1969年、筑摩書房、p.69)

 

引用した箇所の発言は、
1947年の静岡県登呂遺跡発掘調査において中心的役割をはたし、
明治大学で教鞭をとられた杉原荘介。
発言自体は、
昭和35年10月15日で、
いまから60年以上前のことであり、
現在の知見からいえば、
古びたところがいろいろあるかもしれない
けれど、
この本のおもしろいのは、
参加者それぞれが専門領域を持ちつつ、
けっこう自由に、ばちばちと議論をたたかわせていること、
ときに笑いが起きたりもし。
柳田國男が安藤広太郎に向かい、
「先生があまり本ばかり、
テキストばかりに重きを置きすぎることに抗議します。(笑声)」
と発言しているところなど、
柳田さんの口吻を想像して楽しくなります。

 

・稲刈りの父九十の齡かな  野衾