人とでなく独りと

 

いろいろなきっかけから、初めての著者の本を読んでおもしろかった場合、
その本だけで終るということはほとんどなく、
ほかにあれば、読んでみようかな、
となりまして。
奥田弘美さんが聞き役となってまとめた中村恒子さんの
『心に折り合いをつけて うまいことやる習慣』
が、めっぽうおもしろかったので、
前著とおなじようにしてまとめられた
『不安と折り合いをつけて うまいこと老いる生き方』
を手にとりました。
二冊ともにある「折り合いをつけて」「うまいこと」
が胆のようです。
奥田さんも中村さんも精神科医。
奥田さんは、
中村さんとの出会いがきっかけで、精神科医に転科されたのだとか。
奥田さんは1967年生まれ。
中村さんは1929年生まれ。わたしの父より二歳上。
さて、二冊目となる本書も、
いまのじぶんと照らし合わせ、考えさせられることが多くありました。

 

中村 そうそう。繰り返すけど、他人さんには近づけば近づくほど、
同じだけストレスも生まれるからね。
家族だけは別物と言う人もいるかもしれんけど、
結局は同じことよ。
近づき過ぎないことがコツやないかな。
人付き合いのストレスを減らしたければ、他人さんじゃなく、
孤独と仲良くすることや。
(中村恒子・奥田弘美[共著]
『不安と折り合いをつけて うまいこと老いる生き方』
すばる舎、2021年、p.89)

中村 そうね。私も人生で大変な時期ほど、付き合う人には
けっこう気を付けてきた。
精神科医という仕事柄、色々な人の話を聞いてきたけど、
いつも不幸なことばかり上手に見つけ出して、それを他人と舐め合うことで、
連帯感をたしかめたい人がおる。
残念やけど、
こうした人と関わっていると元気が奪われてしまうね。
(同書、p.83)

 

じっさいのところはわかりませんが、
中村恒子さんの語り口調は、こういう感じなのかもしれません。
それがうまくハマっている気がして、
たよりになるおばあちゃんの話を縁側で聞いている、
そんな印象をもちました。

 

・雪しんしんと珈琲の香の揺らぎたり  野衾

 

あ、リスくん

 

きみ、そんなところにいると、それと知らずに踏みつぶしかねないから、
あっちに行っててよ。
なんてことを、現れたクモくんに言う。
すると、返事はしないが、そそくさと部屋の端のほうへ移動する、
そんなことは到底あり得ないように思うけれど、
いや、ときどきあって、
ことばは通じなくても、やはり、気は通じるのかな。
と。
けさは、
グレーのカーペットの上に、黒い点のようなものを見つけ、
もしや、と思ったら、案の定クモくんでした。
うごかない。
これまでもそうでしたが、
クモくんは、
うごかなくなると、
脚を折り曲げ小さくなってかたまります。
さて、きのうのこと。
部屋の窓から見える尖った三角屋根のほうを見ていたら、
すっかり冬構えを終えていて、
紅葉となった大きな木とのバランスも良く、ある風情をかもし出しています。
あ。
いまのは!?
と、今度は反対方向に。
冬囲いの上を往復で走ったから間違えようがありません。
あれは台湾栗鼠のリスくんです。
へ~、きみ冬眠しないの?
しないんだね。
このごろ目にしなかったので、
なんだか久しぶりの友に再会できたようでうれしくなった。
クモくん、リスくん、
とじぇねジッコの友だち。

 

・冬の星見えぬ無限の未知なる語  野衾

 

ソクラテスさんとペロポネソス戦争

 

教育哲学者の林竹二さんは、
わたしにとりまして、
いろいろな意味で忘れがたい方でありますけれど、
林さんの本に『若く美しくなったソクラテス』があります。
「若く美しくなったソクラテス」とは、
プラトンさんを指すわけですが、
こんかい林さんが若き日に翻訳されたA.E.テイラーさんの『ソクラテス』
を読み、
「若く美しくなった~」の発想のヒントが、
テイラーさんの本にあったのか
と感じました。
また、
ソクラテスさんから始まるギリシア哲学、
ひいてはその後の哲学史を考えるうえで、
ペロポネソス戦争を抜きには語れないということを、
トゥキュディデスさんの『戦史』と
訳者の久保正彰さんの解説で知りましたが、
その文脈で考えをめぐらせていたとき、
テイラーさんのこんなことばに目が留まりました。

 

初期の対話篇の言辞が、プラトンその人の意見を表白するものと解される
とすれば、
後期の対話篇に見られる、
より好意的な(民主主義に対する)判断は、
ソクラテスの運命によつて深く傷つけられた精神の上に、
時の何ものをも和げる力が作用した結果であるとして説明される。
或はさうであるかもしれない。
併し、
このより手厳しい評決がソクラテス自身のものである事の心理的な可能性も
つねに存在してゐるのである。
ペロポンネソス戦争の経過と共に雅典のデモクラシイの性格が
漸次偏狭に酷薄に成りまさるにつれて、
ソクラテスの幻滅は、
彼が戦前の偉大なる「五十年」に生ひ立ち、
そして恐らくは全く異つた事態を希望しかつ期待してゐたであらうだけに、
一層苦渋なものがあつたであらう。
最も晩年の作たる「ティマイオス」の中で、
プラトンはソクラテスをして、
政治的生活の実地の経験を欠くため自分は一箇政治の「空論家」
(doctrinaire)の如き存在であると告白せしめてゐる。
クセノフォン(「メモラビリア」)からして、
我々は、
籤で長官を選ぶといふデモクラシイの慣行を皮肉つた事が、
彼が今それに答へてゐる、
ソクラテスに対する訴訟事件に於ける告訴事由の一をなしてゐた事を
知りうるのである。
(テイラー[著]林竹二[訳]『ソクラテス』桜井書店、1946年、pp.243-244)

 

引用にあたり、漢字は新字にしてあります。仮名はそのまま。
雅典はアテネ。

 

・ふくら雀と見紛ふ空中の葉  野衾

 

ラーメンと孤独

 

今月13日に谷川俊太郎さんが亡くなられたとニュースで知り、
思い出をこの欄に記しましたが、
その後も谷川さんのことを思い浮かべながら、
あることを思い出しました。
拙宅にお招きし、
手づくりのラーメンを供したときのことです。
どういう話の流れだったのか
は忘れてしまいましたが、
谷川さん「だって孤独は前提でしょ」
とおっしゃった。
孤独は、わたしにとりましても、だいじなことではありますが、
そんなに好ましいものではなく、
できればあまり陥りたくない。
そんなふうに思ってきたし、
いまも少なからず思っています。
ヒトはひとりでこの世にやってきて、
去ってゆくときもまたひとり、
といわれれば、そのとおりで、異論はないのですが、
正直なところ、
気持ちが穏やかではありません。
とじぇねワラシはいつの間にか、とじぇねジッコになっていた。
そういうわたしに降ってきたことば。
「だって孤独は前提でしょ」
前提。ゼンテー。
孤独を擬人化して、向き合ったり、仲よくしたり、
するような言説はよく耳にし目にするけれど、
前提となると、
足もとにあって、
二足歩行をはじめたニンゲンがニンゲンであることと同義にちかい感じもし、
目から鱗が落ちるような衝撃を覚えた
ことを思い出しました。
谷川さんの詩も読んできたけれど、
これからも読むと思いますが、
声をともなった直接のことばが大きく足下を照らします。
谷川さんのご冥福をお祈りします。

 

・蓑虫や無限といまの狭間にて  野衾

 

文学史の基盤

 

文学史というジャンルが割と好きで、日本のことでいえば、
小西甚一さんの『日本文藝史』や
ドナルド・キーンさんの『日本文学史』をこれまで読んできました。
じぶんとしては、
古典とされているものをけっこう読んできたけれど、
とてもじゃないが、膨大な作品を読み切れるわけではなく、
またそのつもりも時間もありません。
でも、
信頼できる文学史のすぐれたものを読むと、
は~、そういう内容のものでしたか、
と、おしえてもらえる、
それも楽しくおしえてもらえる気がして、
つい手にとることになります。
いま電車では、
岩波文庫に入っている
津田左右吉さんの『文学に現はれたる我が国民思想の研究』
の七巻目を読んでいて、
「文学に現はれたる~」という観点が、
いまのわたしの興味にマッチします。
クルツィウスさんの主著を手にとったのも、
奥のところで、そのこころが働いていた気がします。

 

モンテスキューとディドロにかんする余論は,
ラテン中世にたいする関係がみられぬという点では,
本書の設問の範囲には入らない.
しかし本書の主題は
「ヨーロッパ文学と各時代におけるラテン的文学との関係」
という拡大された設問へと有機的にみちびく.
私は「ラテン的文学の諸時代」については別の場所で論じたいと思う.
私が
モンテスキューとディドロについての論文を本書の余論のなかに採用したのは,
近代の文学史がもし人文主義的な基盤を足下に失う
ならば,
それは誤謬におちいる危険のあることを
これらの論文が示しているからである.
(E.R.クルツィウス[著]南大路振一・岸本通夫・中村善也[共訳]
『ヨーロッパ文学とラテン中世』みすず書房、1971年、p.846)

 

モンテスキューさんもディドロさんも、いまとても関心があり、
クルツィウスさんがこのように考えていた
ことを知ってうれしくなりました。

 

・着ぶくれて長き階段下の影  野衾

 

世界劇場としての人生

 

クルツィウスさんの『読書日記』
(この本には片仮名で「クルティウス」となっていましたが、
このごろは「クルツィウス」と表記されることのほうが多いようです)
がおもしろかったので、
主著とされる『ヨーロッパ文学とラテン中世』を手にとりました。
ぶ厚い本ですが、視座が広く、深く、
「文学に現はれたるラテン中世の精神」
というふうな観点から読了しました。
下に引用した箇所に共感を覚え、
『ドン・キホーテ』を読み直したくなりました。
同時に、
若き日のクルツィウスさんがシュヴァイツァーさんとともに過ごした時間へも
想像の羽がひろがります。

 

『ドン・キホーテ』の結末はこのことをよく表わしている.
才気ある郷士はその短い重病のあいだ深い眠りにおちいり,
その眠りから別人となって目覚める.
彼は正気のみならず,
その本当の名前,「善人」(el bueno)のアロンソ・キハーノをも
ふたたび見出した.
肉体的解体は同時に精神的回復であり,この回復において瀕死の病人は
「大声で叫びながら」神の憐みの証明をそこに認める.
癒された者としてドン・キホーテはおのが魂を手ばなす.
そして彼の生みの親,
「高齢になり死の苦しみにあっても,なお愛想がよく,
繊細な機知にみちた気高いセルバンテス」(フリードリヒ・シュレーゲル)
は死の床で,終油を受けたあと,
レモス伯に宛てて彼の最後の小説の献辞をつくった
――いくつかのcoplas antiguas[旧い詩句]にからんで彼の書くところでは,
「すでに片足をあぶみに載せながら」.
ロペやカルデロンの演劇におけると同様に、
ここでも現世的なものは超現世的なものと和解している.
この偉大なスペイン芸術は自然を少しもないがしろにしなかったが,
超自然もまたないがしろにしなかった.
フランス古典主義がボワローの口をかりて次のような指図をするとき,

 

[キリスト教(徒の信仰)の恐ろしい秘蹟は,
心たのしい飾りを受け入れなどしない].

 

それは文学を信仰から,またキリスト教を文化から解きはなつ.
そのことは精神世界の内部における一つの破綻を意味し,
次いでその破綻は個々の魂――パスカルの,ラシーヌの魂のなかで反復される.
神秘の厳粛さを
あまたの「心たのしい飾り」でつつむカルデロンの秘蹟劇は,
われわれには
ボワローによって法典化された芸術以上に人間的であるとともに
神的であるように思える.
アリストテレスを遵奉する古典主義は世界のみならず,
芸術そのものを狭める.
すべての芸術がその根源をけっきょく神に有する
のならば,
それによって芸術自体があらたな自由と無邪気さをかち得る.
芸術は神の前でなされる遊戯
であるとともに,
神が役柄をわりあてるgran teatro del mundo[世界大劇場]としての人生
そのものの象徴である.

(E.R.クルツィウス[著]南大路振一・岸本通夫・中村善也[共訳]
『ヨーロッパ文学とラテン中世』みすず書房、1971年、pp.808-809)

 

上の引用文中[  ]でくくった箇所は、
[  ]のすぐ上にフランス語が記されていますが、
ここでは省略しました。
また引用文中、
「レモス伯に宛てて彼の最後の小説」とあるのは、
『ペルシーレスとシヒスムンダの艱難』のことだと訳注にあります。
日本語訳が出ていますので、さっそく注文しました。

 

・冷え性の人に良いクスリあります  野衾

 

敵も味方も

 

敵の敵は味方、というようなことをどこかで読んだか聞いたか
して、
なるほどと思う節があります。
敵の反対語は味方。
たとえば、
わたしが敵対する人がほかのだれかと敵対している
とする。
そうするとわたしは、
敵対する人が敵対している(ややこしい)その人と味方になる、
そういうことでしょうか。
こういうことが往々にしてありそうなので、
いつのころからか、
味方をつくらないことをじぶん自身の教訓とするようになりました。
味方をつくるから敵ができてしまう。
しかし、ひとりぼっちが高じて、
こころが不安になると、
どうしても味方をつくりたくなる。
でもそこで踏んばって
味方をつくりたいこころをこころのままにしない。
味方をつくらなければ、敵、という観念も生じないのでは。
そんなふうに考えるようになりました。
友だちは味方とはちがいます。
ひととの関係で、敵、味方の尺度を用いないとなると、
なんだかよけいに寂しく、
日々、孤独になってゆくような気もしますが、
そうすると、
がぜん読む本の味わいがちがってくる
ようでもあります。
たとえば五百年前、千年前、それ以上むかしの本でも、
そこに記されていることばから、
その筆者のこころが
ゆっくりと静かにこちらに及んできて、
なるほどなぁ、
こういうことばを記すということは、
きっとこういうこころもちだったんだろう、
と感じ、しみじみ、
生きることのむつかしさと味わいを思わずにはいられません。

 

・綿入や読み終えし書をそつと閉づ  野衾