「さん付け」の有無

 

しばらくまえまで、このブログに登場する人物名に、ほとんど例外なく「さん付け」
していました。たとえば「プラトンさん」のように。
たまたま、まえに書いたものを見る機会があって、
あらためて読んでみると、じぶんの書いた文章なのに、違和感のほうがつよい。
じぶんで書いたものなので、書いたときの気持ちは分かる。
プラトンといえども、
となりのおじさんが語ったことに耳を傾けるように、
「肩の力を抜いて」とおもうこころが、わたしにそうさせていました。
それでいい、と。
が、そこにはやはり、無理がありました。
「肩の力を抜いて」は悪くないとはおもうけれど、
時間的にも空間的にも、
プラトンとわたしでは、どうしたっておおきな隔たりがある。
となりのおじさんではない。
それと、
プラトンをプラトンさんと書くことで、
わたしの気持ちとは別に、拙文を読んでくださる読み手の方に違和感のほうをつよく
与えかねない。
与えかねないどころか、きっと与えてしまう。
それでは、ただの自己満足になってしまうなぁ。
ということで、
肩の力を抜きつつ、プラトンは「プラトンさん」ではなく、
これからは「プラトン」で、
「ヴァージニア・ウルフさん」でなく「ヴァージニア・ウルフ」で
いきたいとおもいます。

 

・梅の花愛でて立ち去る人の影  野衾

 

ルーシー・モード・モンゴメリ

 

稀代の哲学者であり教育者である森信三のことばに、

 

人間は一生のうちに逢うべき人には必ず逢える。しかも、一瞬早すぎず、
一瞬遅すぎない時に。

 

というのがあります。
なるほどなぁと思いますね。それはまた、読むべき本にもいえるかな、
という気もします。
昨年の春、
モンゴメリの『赤毛のアン』シリーズを村岡花子訳
(『アンの想い出の日々』は村岡美枝訳)で読み終えました。新潮文庫で全12冊。
体調をくずす前のこと。
『赤毛のアン』の作者としてモンゴメリの名を知ってはいても、
読む機会がありませんでした。
女の子が読む本でしょ、
ぐらいの軽薄なこころでながめていただけ。
シリーズをとおし、これほどの作品、これほどの作家だとは、
まったくもって知らなかった。
もちろんシリーズ初期の、
若鮎のようなアンと子どもたちが活躍する物語はすばらしい。
しかし、
いまのわたしの年齢も関係しているとはおもいますが、
たとえば、
寝たきりの、ある年老いた女性の若き日に、
まるで火のでるような恋物語があったということを、
モンゴメリは、ふくざつにからみ合った糸の束を解きほぐすように、
ひとのこころの奥をていねいに描いています。
また、
頑固な人物がでてきたとして、
なぜそんなふうにひねくれてしまったのかを、フラッシュバックの手法で、
なるほどと思わせてくれます。
またたとえば、
なんのとりえもないような人が、ある場面で、慈愛に満ちた行為をし、
本人が語らないので、だれもそのことを知らない。
そういう話がちりばめられていて、
アンと夫のギルバート、子どもたちは背景に退きますが、
違和感なく読むことができ、うならされます。
そして、ふと、
2026年の現実に戻ってまわりに目をやるとき、例外なく、ほんとうに例外がなく、
人間でない何ものか(神とよぶひとがいてもおかしくない)
しか知らないような、
そういう物語をだれでもが、
どこかに秘めているのではないかと思えてきます。
『赤毛のアン』シリーズは人生の綾をていねいに描いて、
心地よい風を感じさせてくれます。
くり返しになりますが、
どんな人にも例外なく、
年輪の芯のように、目に見えない珠玉の物語が、
個性の質を決定するように仕舞われていて、
見えるところでは、ただ薄緑の葉が風に揺れあいさつしている、
そんな風景が目に浮かんできます。
「おはよう」「おはよう」
「こんにちは」「こんにちは」
「またね」「またね」
葉擦れのようにくりかえし。

 

・日用のあれこれ済ませ探梅行  野衾

 

梅の花

 

梅の花があちこちで咲きはじめました。
梅の句といえば、松尾芭蕉の高弟服部嵐雪の

 

梅一輪 一輪ほどの 暖かさ

 

が有名ですが、じっさいに梅林の近くを散策していると、
「わかる。わかるなぁ」という気になります。
せんじつ関東でも降雪がありましたが、
梅の枝からほろほろと雪が落ち、
梅の花がパッと顔をのぞかせます。
ほんとうに、一輪ほどのあたたかさ、
だな。
おいらの不調も一気に、と、ぜいたくなことはゆめゆめ申しませぬ。
ただただ、
一輪ほどのあたたかさでけっこうでごぜえますから、
どうぞ恵んでくださいませ。
そんな気持ちなんでございます。

 

・凩を抱いて空行く鳶かな  野衾

 

音楽の発見

 

せんじつ、弟から電話があり、要件をわたしに告げ、いったん話を終えた後、
また電話がかかってきました。
「さっき、いい忘れたけど、兄貴、美空ひばりの「みだれ髪」知ってる?」
「うん。知ってる」
「あれ、あらためて聴いてみると、いい歌だねぇ。いちにち何度も聴いてるよ。
なるべくボリュームを上げて聴いてみてよ」
「そうか。わかった」
というような会話をしましたが、
そういうことって、音楽にかぎらず、いろいろな場面、ジャンルで
起こりうるもののようです。
知ってはいるけれど、あるとき、襲われるように、
いきなりその世界観にわしづかみされるように感動する。
弟の場合、たまたまそれが、美空ひばりの「みだれ髪」だった
ということなのでしょう。
かつてわたしが勤めていた東京の出版社にIさんという営業職のひとがいました。
ひとをからかうのを趣味にしているような、
けして品のいいひととはいえないキャラの部長さんでした。
あるとき、そのひとがいきなりわたしのところに来て、
「みうらちゃん、NHKのテレビドラマ「阿修羅のごとく」で流れている曲、
あれ、みうらちゃん知らない? みうらちゃん、音楽も詳しいから、
知ってるかなと思って…」
わたしは、Iさんの「みうらちゃん」呼ばわりが気になり、
気に入らなかった(ひとによっては、「みうらちゃん」と呼ばれるのが、
ほかのどの呼ばれ方よりも心地いい場合もあります、念のため)
のですが、
それはそれとして、
NHKの「阿修羅のごとく」で流れている曲、
のほうに興味がいき、実際にテレビを観、聴いてみた。
そして、それが、トルコの軍楽隊が演奏する「ジェッディン・デデン」
であることを突き止めた。
「突き止めた」というほど大げさなことではないですけどね。
それで、その曲が収録されたCDを求め、
Iさんにプレゼントしたように記憶しています。
おもしろいなあ、と、おもいました。
Iさんと「ジェッディン・デデン」、
向田邦子脚本による内容と相まってのことだとはおもいますが、
ふだんのIさんの立ち居振る舞いから、どうしても結びつかなかったからです。
CDをプレゼントしたこともあってか、
Iさんはわたしをご自宅に招き、ごちそうしてくれました。
弟は美空ひばりの「みだれ髪」を発見し、
ふだん、ドゥァハハハハ…と品わるく笑うIさんは、
トルコの軍楽隊の「ジェッディン・デデン」を発見したのでしょう。
それからちょっと、
わたしのIさんを見る目が変ったような気がします。
ほんとうはIさんは極めてまじめな人で、
たとえばドゥァハハハハ…の笑いは、意図してつくったものではないのだろうか。
Iさんの自宅に招かれたときの、ご家族を紹介する姿は、
会社でのIさんとはまったく別人格のようにも思えました。

 

・梅に雪ほろりと落ちて梅が香よ  野衾

 

食欲のこと

 

体調をくずして以来、料理したものを食べれば美味しいとは感じるものの、
みずから、あれを食べたい、これを食べたい
という欲求がまったくと言っていいほどなくなっていました。
たとえば、好きなキンキの塩焼きなどは、
若いときから、
想像するだけでよだれが口中に広がったものでした。
それが、不調のせいで、そうならない。
キンキの塩焼きですらそうなのに、ましてほかのものは推して知るべし、
でありました。
ところが先日のこと、鍼灸の施術をしてもらったあと、
横浜駅から保土ヶ谷の自宅まで歩いてみようと考え、歩いてみた。
歩いているうちに、だんだん疲れてきた。
そりゃそうだな。
元気なときでもかなりの距離なのに、
いまの状態でこの距離を歩くのは、
無謀ではないにしても、すこし無理があったかもしれない、
そりゃそうだ、
などと思いながらも、てくてく歩いていたら、
こんどはむしょうにおなかが空いてきた。はらへったーーー!!
この感覚、なんだか久しぶりな気がして、うれしくなった。
とりたててなにを食べたいというわけではないけれど、
とにかくおなかが空く感覚というのが、大げさにいえば、生きてるーーー!!
みたいな。
食欲、性欲、睡眠欲というけれど、
どれも生きている感覚、生きる欲望に直結しているものなんだなぁ、
と改めて実感した次第。

 

・家々の竈のけむり雪しんしん  野衾

 

ここだけの話

 

といういい方が、かつて(いまも?)会話のなかでつかわれていた頃がありました。
テレビドラマでは、つかわれることがあっても、
実際の生活の場面でそうそう遭遇するチャンスはありません。
先日、ある場面である方が、「ここだけの話」を枕に話し始めたので、
「ここだけの話」のあとにつづいた話よりも、
「ここだけの話」の味にひたって、たのしくなってきたのでした。
だいたい「ここだけの話」というのは、
「そこだけ」にとどまっていることはない気がします。
「ここだけの話」を耳にした瞬間、
これは相当な範囲に流布している、あるいは、流布する可能性の高い話にちがいない、
そうおもえてきてしまいます。
さらに、
5W1H(昔習ったような)的に要約すると同じ話でも、
味わいということになると、要約はそうとうむつかしい。
その人がその場で、手振り身振りを交えながらする「ここだけの話」は、
ひょっとしたら、内容よりも、その人と、
向き合っているこちらとの関係性の妙を表現していて、
替えがたく「いま、ここ」に立ち会っているとおもわされます。

 

・吾の道の先を転がる落ち葉かな  野衾

 

木と声

 

体調をくずしてから何人かの方に、「みうらさん、声がかすれているね」
と指摘され、そうか、じぶんでは気づかなかったけど。
そうすると、わたしの悪い癖で、なにかまた病気が潜んでいるのじゃないかと恐れ、ネットで調べてみました。すると、
加齢と水分の不足で声がかれることがあると書かれていた。
ハッとした。
体調の悪さを理由に、なまけ癖が付いて、このところ、水をはじめ、
お茶など水分の補給を怠っていた。
それで、声を出さずに「あ、い、う、え、お」を繰り返し行ったり、
意識して水分を取るようにしました。
すると、けさのこと、
家人が「ヤダ、声が治ってるじゃない」。
「ヤダ」は余計ですが、ひとまず安心。
敬愛する詩人・長田弘さんの詩集に『ひとはかつて樹だった』
がありますが、
声にかんするかぎり、いまもって、ひとは樹と似ているとおもった次第。
人も樹も、水をやらないと枯れるよう。

 

・日は西に寒烏の影に覆はるる  野衾