祈るこころ

 

また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、
会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。
よく言っておく。
彼らはその報いをすでに受けている。
あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、
隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。
(「新約聖書 マタイによる福音書第6章5-6節」聖書協会共同訳『聖書』、2018年)

 

この箇所を読むたびに連想するいくつかのことがありまして、
そのひとつが長谷川町子の『いじわるばあさん』
主人公である伊知割石(いじわるイシ)は、およそ祈りとは程遠いように見えて、
なかなかそうでないかもしれない。
イシさん本人に訊けば、
そんなことがあるもんか、なんて言われかねないけど。
もう一つは、池波正太郎の『鬼平犯科帳』。
いっぱいおもしろい話があるなかで、
街道で安くておいしい団子屋だったか茶店だったか忘れましたが、
ひとの噂にのぼる店があり、
そこに主人公の長谷川平蔵が犯罪の臭いを嗅ぎつける。
ニンゲンは、百パーセント悪いことはなかなか出来ないものだ、
どこかでバランスを取りたがる、
そんな人間観察、洞察を、
たしか漏らす場面があったと記憶しています。

 

・寒卵利かぬ指もて割りにけり  野衾

 

歌うこころ

 

『書』に「詩は志を言い、歌は言を詠ながくす」とある。
ゆえに哀楽の心が物に感ずるとき、それは歌詠の声となって外にあらわれる。
それを言ことばに表わして誦むのを詩といい、
その声を詠く節づけるのを歌という。
それゆえ古代に採詩の官があり、
王者はそれによって風俗を観、政治の得失を知り、そしてみずから考え正したのであった。
孔子はもっぱら周の詩を採取したが、
上は殷の詩、下は魯の詩をも採取し、都合三百五篇とした。
秦の焚書の禍わざわいに遭いながらも完全に残ったのは、
その諷誦ふうしょうがただ単に竹帛《ちくはく》にだけ残されたのでないからである。
(斑固[著]小竹武夫[訳]『漢書3』ちくま学芸文庫、1998年、p.519)

 

司馬遷の『史記』につづき、電車通勤の行き帰り、班固の『漢書』を読み始めて
しばらく経ちます。
いま読んでいるところは「芸文志」で、
歴史書が扱う時代の図書目録が記されています。
引用した文章中『書』は書経。
『古今和歌集』の「仮名序」ともひびき合い、時空を飛び、広やかな気持ちになります。
秦の焚書坑儒は有名ですが、
焚書の禍いに遭いながらも詩が残ったのは、
その諷誦がただ単に竹簡や布帛にだけ残されたのでないから、
とする班固のもの言いに、
しずかではあるけれど、
歴史家としての反骨の精神が鳴っているように思います。

 

・白濁のなかの青さや蜆汁  野衾

 

恋するこころ

 

『古今和歌集』の1038番は、

 

思ふてふ人の心の隈ごとに立ち隠れつつ見るよしもがな

 

「隈」は「くま」。片桐洋一さんの通釈は、

 

「お前のことを、いとしく思っている」と言うあの人の心の中の、
見つかり難い場所にこっそり入り込み、姿を隠しつつ、
お心がほんとうにそうなっているのか、この目で確かめたいことでありますよ。
(片桐洋一『古今和歌集全評釈(下)』講談社学術文庫、2019年、p.541)

 

千百年以上前の、恋したときの人のこころを歌った歌ですが、
まったく古びていません。
というより、
人間のこころが、千年どころか、万年たっても、
そうそう変るものではない、
ということになるでしょうか。
一昨年十一月に斉藤恵子さんのライフワークである夏目漱石の論稿を編集し、
弊社から出版しましたが、
斉藤さんの快諾を得、
タイトルを『漱石論集こゝろのゆくえ』としました。
漱石の代表作である『こゝろ』が、これからどのように読み継がれていくのか、
それと、
そもそもの人間のこころが、
これからどんなふうに変貌を遂げていくのか、
そのダブルミーニングをタイトルから感じてもらえれば、
と願ってのことでした。
「隈」は、
引用した歌の場合、
「人から見えにくい場所」の意ですが、
もともと、
「川や道の曲がりくねった場所」というのが原義だそうで、
こちらもなかなか味わい深いと思います。
川や道と同じように、
人のこころも真っ直ぐであることはなかなか難しく、
くねくね曲がりくねっていそうです。

 

・どんどの火四大の天を降り来る  野衾

 

こころのあり様

 

私たちが一人ぼっちの寂しさから行動する時、
私たちの行動はいとも簡単に暴力的なものになってしまいます。
多くの暴力が、愛を求めてのことであるというのは、
悲劇です。
一人ぼっちの寂しさから愛を探し求める時、口づけは容易に噛みつくことになり、
抱擁は殴打となり、心にかけて見ることが疑いの目で見ることになり、
聴くことが立ち聞きに、
身を任せることが強姦になってしまいます。
人間の心は愛を切に求めています、
条件や限界、制約のない愛を。
しかしどのような人もそのような愛を与えることは出来ません。
私たちがそのような愛を求める度に、
私たちは暴力の道へと向かってしまうでしょう。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.52)

 

むかし、『林檎殺人事件』という変ったタイトルの歌が流行りました。
樹木希林と郷ひろみが、
海賊船の船乗りみたいな衣装を身にまとい、
くるくる踊りながら歌っているのをテレビで見ました。
歌の内容はといえば、
殺人現場にリンゴが落ちていて、
そのリンゴには、がぶりと齧った歯形が付いていた。
捜査員は頭をひねったけれど、
そこにパイプをくわえた探偵が現れ、男の女の愛のもつれだよ、なんてことを言う。
アダムとイブがリンゴを食べてから、跡を絶たない、なんてことを言う。
作詞は阿久悠。
歌のはじまりとおわりは、
「アア、哀しいね、哀しいね」で、
まさに悲劇。
コミカルな歌を、当時のわたしは、変な歌と思って聴いていましたが、
人間のこころのあり様を鋭く突いていた歌であったなぁ
と思います。

 

・太平山雉鳴く空の青さかな  野衾

 

拙句集『暾』の書評

 

ことばについて勉強し考えてきた今の時点での証、とでもいいましょうか、
昨年10月に句集を上梓しました。
季語があり、五・七・五、
十七音に収めていますので、伝統的な有季定型の俳句です。
句集のタイトルは『暾』。
ま~るい朝日が昇るさまを表す語で「とん」と読みます。
書評が『図書新聞』に掲載されました。
評者は、敬愛する中条省平さん。
中条さんと『図書新聞』の担当者の了解を得ましたので、
紹介したいと思います。
コチラです。
中条さんは、学習院大学の先生ですが、
文芸評論をはじめ、映画、音楽、マンガなど、
さまざまな表現行為に関してこれまで鋭い分析を行ってきました。
「鋭さ」は、時に「冷たさ」にもなりがちであるとわたしは考えていますが、
中条さんの書くものは、
スパパパパン!!!
と、いかに鋭くても、
その底に「温かみ」(ときに「可笑しみ」)がある、
と感じています。
これは稀有なことだと思います。
血のかよった世界観が関係しているのでしょう。
拙句集についての書評を読ませていただき、
作者として驚いたのは、
いろいろなところに埋め込みちゃんと隠したつもりで、
果たして気づく人があるかな、
おそらく、
あまり気づかれないのでは、
と想像していたものが、
ことごとく見つけられてしまったことです。
鋭い! なのに温かい!
また頑張ろう! と勇気が湧きます。
とくに「見送りの父母淡き肩に雪」に関する評には舌を巻きました。
雪合戦で思いっきり放った雪の玉を、
胸のところ両手でバシッと受け止めていただいた、
そんな感じ。
ありがとうございました。

 

・褻にもある晴れを愛でるや松の内  野衾

 

とくに理由はないけれど

 

高校時代、世界史を教わった先生(お名前を失念してしまいした)
のことで、
記憶に残っていることが二つあります。
そのひとつが、バブーフ。
バブーフは、
フランス革命期の革命家で、共産主義者。総裁政府転覆の陰謀を企て、
1796年に逮捕、翌年処刑された。
と、
辞書的にはそういうことになりますが、
世界史の先生、
バブーフを何度も何度も、そんなに口にする必要があるかと思うぐらい口にしました。
しかも、よく聴いていると、バブーフの「バ」と「フ」のあいだに、
促音の「ッ」を入れ、バッブーフと発音した。
バッブーフ、バッブーフ、バッブーフ、バッブーフ。
いま思えば、
「バ」も「ブ」も唇を触れ合わせて発音するので、
「バッブーフ」は、唇が微妙にバイブレーションし、気持ちよかったのではないか。
その先生のもう一つの思いでは、
修学旅行の際(京都の何寺か忘れてしまった)、
弥勒菩薩について先生に質問した際のことですが、
きょうのこのブログの主旨から離れますので、
世界史の先生に関しては、バッブーフひとつで切り上げます。
つぎに、詩人の西脇順三郎。
西脇さん本人が書いていたのか、西脇さんについて他のだれかが書いていたのか、
忘れましたが、
西脇さんは、「労働問題」がお好きだったとか。
「労働問題」が好き、というのは、変な言い方ですけれど、
中身のことでなく、
音の響きとしての「ロードーモンダイ」。
意味をとりあえず取っ払って、
ロードーモンダイ、ロードーモンダイ、
さらに、
ローードーーモンダイ、ローードーーモンダイ、
というふうに発音すると、
キレがよくなり、たのしさが倍増します。
西脇さん、きっと、そんなことを体感していたのではないかと想像します。
最後に、
わたし個人のことですが、ボガズキョイ。
トルコのアンカラ東方にあるヒッタイトの王宮址の名称ですが、
わたしにとりまして、中身よりも響き。
ボガズキョイ。
口にすると、気持ちがいい。ボガズキョイ。
「ボ」も「ガ」も「ズ」も濁音なのに対し、「キョイ」はシュッとしている。
「ボ」と「ガ」と「ズ」を意識的に強く発し、
「キョイ」は小さく「キョイ」。
ボガズキョイ。
世界史の先生にとっての、バッブーフ。西脇順三郎にとっての、ローードーーモンダイ、
わたしにとってのボガズキョイ、
共通しているのは、口にするときの、
音の響きの心地よさ。
世界史の先生と西脇さんには確かめようがないけれど、
おそらく、
そういうことだったのではないか。

 

・正月の悲と喜を黙す故郷かな  野衾

 

人生と文学

 

『回想録』を読みつづけていくと、巻を追うごとに、次第に人生の悲哀がにじみ出てくる。
人生には寂しさがつきまとうものだから、
悲哀がにじみ出たからといって不思議はないと言ってしまえばそれまでだが、
精力の浪費家であり、現世謳歌のルネッサンス人の後裔でもあるカザノヴァの場合には
何かしら残酷な印象を与えられる。

 

時ならねども、すぎゆくものは我らなり

 

四十前後のカザノヴァの人生には、
男ならば誰しも羨望の念を抱かずにはいられないだろうが、
四十歳以後のかれには憐れをもよおされもする。
そこにはもはや、
プロン脱獄や二人の修道女を同時に相手としたような華やかなロマンはない。
超人的な精力絶倫男としての能力の喪失。老醜。性的機能の退化と金力の欠如……
ツヴァイクは、
こうした骨抜きとなったカザノヴァとはいったい何者かと問いただす。
そして、
それはわびしく孤独を守る肉体だと答え、
その隠れ家には諦めという危険な要素が、自信に代わって一種の哲学として忍び込んでくる
と断言する。
『回想録』のひとつの面白さは、
次第にその濃さを増してくる後半の影の部分である。
少なくとも私には、前半の絢爛とした冒険譚以上に興味深い。
広い意味での文学が語られているからである。
(ジャック・カザノヴァ[著]窪田般彌[訳]『カザノヴァ回想録 5』河出書房新社、
1969年、p.561)

 

引用した文章は、
『カザノヴァ回想録 5』の巻末に付されている訳者・窪田般彌の解説の末尾。
わたしはまだ四巻目の途中なので、先走りではありますが、
四巻目を読みながら、
コーヒーを口にし、
ふと右手にある五巻目に目が行き、
自動運動のごとく手を伸ばして、巻末を開いてみたら、目を吸い寄せられた。
わたしの愛読書に中野好夫の『文学の常識』(角川文庫)
がありますが、
その本ともひびき合う内容で、
つまるところ、精神と肉体の問題、人間とは何か、
を書くのが文学ということになりそうです。

 

・いらつきの母に寂しみ三が日  野衾