本の手ざわり

 

これも加齢によるところ大の気がしますけど、
物に触れたときの感触、
また、
それによって引き起こされる気持ちのあり様が以前と比べ、
すこし変化してきたようです。
指紋の山の出っ張りが取れ、
山があるにはあるけれど、
だんだん平らに近づいているとでも申しましょうか、
それと関係があるか、
ないか。
定かではありませんが、
ともかく変ってきた。
本を読む際に、内容はもちろんですが、
若いときから、おおむね、少しざらついた紙の感触を楽しんできました。
すぐに思い出すのは、
中村吉治さん編著の『村落構造の史的分析――岩手県煙山村』。
わたしが読んだのは、
御茶の水書房版だったと記憶しています。
表紙が藁みたいな手ざわり、
日本経済史のゼミにいたこともあって、
おもしろかったけど、
あの藁みたいな表紙の感触は、
内容をはるかに超えて好きだった気がします。
本を読むとき、
手ざわりはとっても大事、
このごろ、とみに感じるようになってきました。
筑摩書房から出ていた箱入りの臼井吉見さん著『安曇野』もたしかそうだった。
ところが、
このごろ表面がつるつるの
PP(ポリプロピレン)加工された文庫本が、
あれ!? この感じ悪くないな、
と思えてきた。
そのときの気持ちをいえば、
エスカレーターの横のベルトをつかんだときの少し冷んやり
とした感触に近く。
指紋が取れてきたので、
じぶんのからだ以外の物との密着度が高まった、
そんな気もし、
文庫本を手にしているとき、
とくに、
左の片手で持って読んでいるときの感触が若いときと明らかに
ちがっている。
このごろの小さい発見です。

 

・さざなみのひかり四月の三渓園  野衾

 

季節の恵み

 

秋田のわたしの実家では、おととい、稲の種蒔きが終りました。
種蒔きの「蒔」は、
くさかんむりに時(とき)。
まさに蒔くに時があり、ということになるでしょうか。
二十四節気では先週金曜日、
19日が穀雨の始まり。
ことしは、
4月19日から5月4日までが穀雨の期間です。
穀雨とは、
春の雨が百穀をうるおす、の意。
また、
二十四節気とはべつに、七十二候というのがありますが、
それでいけば、
4月19日から24日までは第十六候の葭始生(あしはじめてしょうず)。
葭(あし)は、
葦(あし)のまだ穂の出ていないもの。
葦(あし)・蘆(あし)・葭(あし)はイネ科の多年草。
世界でもっとも分布の広い植物のひとつ
とされています。
この季節のめぐりに思いをいたせば、
じつに巧くできているものと感動せずにいられません。
春の雨が降り、慈雨となって地に浸み込む。
それが百穀をうるおし、
しているうちに、やがて芽を出し始める。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の働きでありましょうか。
『旧約聖書』「イザヤ書」第11章1節には、
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」
とあります。
自然の恵み、季節の恵みを十分に量り知ることは、
人間には不可能な気がします。
きのう『春風新聞』第33号ができました。
写真は「角ぐむ葦」。
どうぞご覧くださいませ。

 

・新緑に古民家カフエの華やぐよ  野衾

 

お銭《あし》のこと

 

中野好夫さん訳『デイヴィッド・コパフィールド』のなかに、
「お銭」また「お金」と書いて、
「銭」や「金」に《あし》と振り仮名が付されている箇所がありました。
それを目にし、
学生のころのことが、俄かに思い起こされました。
芳賀先生とおっしゃったかな、
大教室の講義の初回だったと思います。
はじめての回ですから、
自己紹介的な、やわらかい話のなか、
かつての学生が、外国語の文献を日本語に訳しながらの授業だかゼミだか
のなかで、
ある単語を「おあし」と訳したのだとか。
芳賀先生、ニコニコしながら、
「おあしはまずいでしょう。おかねでもちょっとね」。
芳賀先生は、
そのことばにつづけて、経済学の本なので、
「貨幣」「金銭」と訳してほしかった、
みたいなことをおっしゃったのかもしれませんが、
そこのところの記憶はあいまいで、
ああ、
おかねのことを「おあし」というのか、と思ったことだけ
憶えています。
「おあし」なんて言い方、
そのころは知りませんでしたから。
『広辞苑』で「足」を引くと、
うしろのほうに、
「(足のようによく動くからいう)流通のための金銭。ぜに。おかね。」
という説明があります。
『デイヴィッド・コパフィールド』を
中野さん訳で読んでいなければ、
芳賀先生のあのエピソードは、
思い出されずじまいだったかもしれません。

 

・飛び立つ鳥や川面にさす緑  野衾

 

ピンクのランドセル

 

きのうのことです。朝のルーティンを終え、コーヒーカップを持ち、
ぼんやり外を眺めていたら、
ランドセルを背負った少女が、坂を下りて行きます。
少女がどこのどなたか知りませんが、
彼女が背負っているピンク色のランドセルは、数年前から目にしていますから、
よく知っています。
かわいいピンクのランドセル。
初めて目にしたのは、
小学校に入学したときだったかもしれません。
小走りで坂を下りて行くと、
ランドセルがユッサユッサ、逆さの小さな放物線を描いて揺れますから、
その逆さ放物線のかたちが笑ったときの人の口元
に見えたものです。
はは、ピンクのランドセルが笑っているよ!
以来、何度見たでしょう。
見れば、
これから学校か、と、送り出すような気持ちになりました。
きょうの授業は何かな?
好きな教科は?
コロナのときはどうだっただろう。
休校になったことがあったかもしれない。
彼女自身はどうだったでしょう。
コロナの猛威が一段落し、
友だちとも笑って会えるようになったかな。
昼休みにドッジボールをしてるかな。
きのう、
ピンクのランドセルを目にしながら、
いろいろ想像がふくらみました。
少女の背は高くなり、
ランドセルは、左右に揺れることなく、
ピッタリのサイズ感で少女の背に負われ坂を下りて行きました。

 

・暁烏鳴く蕭条に花の雨  野衾

 

小説の効能

 

仕事柄、学術書を読むことが多く、個人的にも好きなものですから、
むつかしくて、どれだけ理解できているか心もとないのに、
わたしなりの小さい発見があったりすると、
ああ、きょう生きてて良かったなぁ、
と思える瞬間がたまにあり、
椅子の横に、
ついつい、
その類の本がつみ重なっていきます。
そういう日常のなかで、
いろいろ思考が折り重なった結果、ここひと月ばかり、
小説を読んできました。
ディケンズさんとオースティンさん。
月並みですが、
小説は、いいなあ、って思いました。
笑ったり目頭を熱くしながら、
こころの凝りがほぐれていくと申しますか、とかされていく感じ
とでもいうか。
だいぶ前になりますけれど、
しりあがり寿さんの漫画を読んだとき、
そのなかに、
歳をとると、しょっぱくなる、みたいな文言があった
と記憶しています。
しりあがりさんのことばを借りれば、
小説は、
しょっぱくなった老いの塩気を薄くしてくれる
ようにも思いますので、
眉間に皺を寄せないためにも、ときどき小説を読もうと思います。

 

・万象が薄むらさきの四月かな  野衾

 

ただ読む

 

読書法というほど大げさなものではありませんが、
わたしの本の読み方を強いてあげれば、
ただ読む、
これに尽きるか、と思います。
子どものころ、本を読まなかったこと、
入った高校の生徒たちがやたら勉強ができて、
上には上がいるとの実感により、井の中の蛙の鼻っ柱をへし折られた、
そんな思い出がありまして、
ああ、ああ、
おれはもう、これからの人生を、ただただ愚直に行くしかない、
それしかないよ、
そんな風に思い定めたのでした。
それで、
本を読むのでも、そうしてきました。
いまも、そんな風です。
何冊もあって長くつづく本は、途中飽きることも。
飽きたら、無理せずしばらく放っておく。
眠くなることもある。ならば寝る。
でも止めない。
すると、
途中で投げ出さなくって良かったよ~と思うことがしばしばで。
投げ出さなかったことのご褒美みたいに、
おもしろい箇所がでてくるから不思議。
こんなことがありました。
どちらも大学の先生。
研究領域からして関連があると思ったので、
それぞれの先生に『マハーバーラタ』『サミュエル・ジョンソン伝』
の読後感を申しあげた。
もちろんわたしが読んだのは、日本語訳。
『マハーバーラタ』のほうの先生は、
後日、
わたしが全巻読んだことに疑念を持ったことを詫びるメールを送ってくださった。
拙著を読んでくださり、
ほんとうに全巻読破したことを知った、
とのこと。
『サミュエル・ジョンソン伝』については、
べつのある先生曰く、
「わたしは、必要に応じて読むぐらいで、全部は読んでいません」。
アタマのいい人は、全部読まないのかな。
ほんとうにすぐれた本ならば、
ただ読むだけだけど、
わたしのような人間にも、
よき感化を与えてくれるに違いない、
そんな助兵衛な根性が働いているかもしれません。
卑下するつもりはないが、
個性はどうでも、
脈々と伝えられるもののほうこそ大事、
との思念から、
かぎられた時間のなかで、
すぐれた先人にすこしでも近づければ本望です。

 

・幾曲がり石段上の桜かな  野衾

 

オースティンさんの小説

 

中野好夫さん訳の『自負と偏見』がおもしろかったので、ひきつづき『エマ』を。
こちらは、阿部知二(あべともじ)さんの訳。
学生のころ阿部さん訳(だったはず)で
メルヴィルさんの『白鯨』を読み、
阿部さんの日本語に親しんでいたからかもしれません、
だいぶ前に中公文庫のものを購入し、そのままになっていました。
タイミングとしては、いまか、
と。
『自負と偏見』は、笑ったり、目頭を熱くしたりし、
小説のおもしろさを堪能しましたが、
『エマ』はどうかというと、
会話文がものすごく多く、多いな~、長いな~、と若干食傷気味に感じていたところ、
途中で、アレッ、となりました。
というのは、
会話のことばから、
それを話している人の、性格というか人物像というか、
それがジワリ浮かび上がってきたからです。
阿部さんの日本語訳の賜物でもあると思います。
はは~、
って思いました。
地の文で、この人はこういう性格、
と説明する(そういうところもあるにはありますが)
のでなく、
その人が話すことばそのものから
その人の性格や人物像を、
説明でなく表現する、そんな風に見えてきましたので、
だんぜん『エマ』がおもしろくなってきた。
オースティンさんは『エマ』で、
そういうことをやろうとしたのかな?
そんなことを想像してみたり。
ということで、
こちらはこちらでおもしろい。

 

・子をつれて無言の道や花曇  野衾