ことばの海

 

きのうにひきつづき、義母と家人の電話から。
家人から間接的に聞いた話によれば、
義母は会話のなかで、
「本をパッと開いて、つと見たら、三橋美智也のことが書いてあり…」
ということばがでてきたと。
この「つと見たら」の
「つと」、
義母の用法では、「つ」にアクセントがあるらしい。
現在の国語辞書にも載っているけれど、
わりと由緒正しきことばのようで、
たとえば、
枕草子の第百二十二段に、
「げに、いとあはれなりなど、ききながら、涙のつと出で来ぬ、いとはしたなし」
とあり、
「急に、さっと」
の意味で使われているから、
義母の使い方に近い。
ことばは生きて、
とどまることなく変化していき、
齢を重ねたひとの嘆きの対象にもなるけれど、
その一方で、
古くからあることばが息づき、
日常的になお使われている場面に接すると、
なんとなく気持ちが落ち着き、
うれしくなる。
ことばの海の波頭の下には、
深い青をたたえてどっぷりと静かな水が流れている。

 

・苦瓜苦し後悔に二つあり  野衾

 

物の楽しさ

 

義理の母から家人に電話がありました。
わたしは本を読みながら、片耳で家人の受け答えを聴いていましたが、
どうやら、
送った拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画
のお礼のようです。
家人、
母との会話をしばし置き、
「おかあさん、分厚い本だこと、読みづらいんではないかしら、と思ったら、
開いたら180度、平らになるじゃない、びっくりしちゃった、だって」
と話の一端を告げてくれました。
それを聞いて、
嬉しくなりました。
たとえば、
本を読んでいてほかの用事を急に思い出したり、
トイレに立ったりすることが間々ありますが、
そんなとき、
読んでいた本に栞を挟んだり、
栞がないときには、
読みかけのところを見失わぬよう本を裏返しにし、
開いたまま伏せたりします。
が、
こんかい、
そういう手間が要らぬよう、
また、
六〇〇ページを超える本ですから、
それなりの重さがありますので、
手に持たなくても、
机の上やテーブルの上に本を置き、
指先で、開いた本の両端をちょんと押さえるだけで読み進められるよう、
コデックス装を採用したことを、
義母が、驚きを以て楽しんでくれたと思いました。
まことに「本は物である」。
七月に亡くなられた装丁家の桂川潤さんにもお見せしたかった。
昨日、
依頼している業者の倉庫に入りましたので、
明日以降、
市場に持ち込まれるはずです。
いったん告知したのに、製作が延び延びになり、
予約注文くださった方には申し訳ないことでした。
届きましたら、
そういうことですので、
開いたところから読んでいただければ嬉しいです。

 

・秋の雲別れしひとの懐かしき  野衾

 

天地始粛

 

七十二候のうち、きょうを挟む五日間は「天地始粛」てんちはじめてさむし。
暦どおり、きょうあたりから少し気温が下がる気配。
外を歩いていると、
蟬の死骸をよく目にするようになりました。
それと並行して、
蜻蛉のホバリングに目が行きます。
野良猫たちの動きが少しだけ活発になったような。

 

・なにとなく日がなゆかしき浴衣かな  野衾

 

世界への信頼

 

学習院大学の中条省平先生、東京学芸大学の末松裕基先生をお招きし、
拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画
について鼎談を行いました。
足柄山の仏師に依頼し作ってもらった弊社の木のテーブルは、
かなりデカいものですが、
末松先生、
これまで上梓した拙著をはじめ、
『文の風景~』で紹介した本、中条先生の本、中条先生の本のなかで紹介されていた本など、
そうとうな数の本をお持ちくださり、
テーブルの上に並べたところ、なんとも壮観!
この暑い中、
よくぞこの大量の本(重量何キロあったんだろう!)を、
と驚くやら、嬉しいやらで、
一気に気分が高揚し、
おかげさまで、
土曜日のあの時間と場は、まさにカーニバル、
夏祭と化しました。
拙著についての鼎談なので、
なるべくしゃべらないようにしようと思い、
そう宣言もしたのですが、
祭なのに黙っているわけにもいかず、
こころがうずき、火照り、
やっぱり、かなりの量、しゃべってしまいました。
二時間半の祭の最後にちかく、
中条先生がドゥルーズの『シネマ』の中の文言「世界への信頼」
ということばを引き、
お話しくださいました。
その話を伺いながら、
毎日ブログを書き、駄句をアップしているのは、
「世界への信頼」を失くしたくないという、細やかであっても、
切実なこころの現れ、また足掻き、
かも知れないと思いました。
土地褒め、国誉め、あいさつ句、の用語は、
「世界への信頼」があって初めて成り立つ世界であるとも感じます。
また、
詩経を初めとする中国の詩において、
「興」とよばれる発想法は呪儀に起原する修辞だそうで、
地霊を興《おこ》すことばとしてあり、
わが国の序詞や枕詞とその起原的性格において通ずる、
ということが白川静さんの本に書いてある。
ちなみに「興」の字は、
酒器である同を、上下よりもつ形。
酒をふりそそいで地霊をよび興《おこ》すことが「興」。
世界への信頼が無い処では、
興も、詩も、俳句も、歌も、無い。
日記を書くことと合わせ、俳句を作ることは、
世界への信頼を確認し、回復し、感謝して生きるための工夫かも知れません。

 

・新涼や恋は脳内麻痺ならん  野衾

 

正誤表

 

明日予定されている鼎談の準備のため、
拙著『文の風景 ときどきマンガ、音楽、映画』を読んでいましたら、
いくつか誤りがあることに気が付きました。
「万葉集約四五〇〇首のうちで~」
とすべきところ、
ブログではちゃんと四五〇〇と表記されていたのに、
なぜか五が抜け落ちていたり、
白川静さんの『漢字の体系』からの引用中、
「牡」とすべきところが「牝」になっていたり。
これは、
ブログのときから入力ミスを犯していました。
まだ市場には出ていませんので、
正誤表を用意して本に挟むつもりです。
すでにお送りした方には、追って正誤表を送りたいと思います。
どの本も、
初版のものは誤りがつきもので、
拙著も例外ではないということですが、
すこしがっくりしました。
と。
ただ。
ふと思いました。
本はいいな。
正誤表をつけられるから。
人生となると、そういうわけにはいきません。
あのとき、ああすればよかった、なんであのとき、あんなことをしてしまったんだろう、
後悔は尽きず。
が、
後悔しても始まらないし、
そのときどきで精一杯生きていたとも思いたい、
なので、
振り返れば過ちと思えることも、
正誤表を付けるわけにはいきませんから、
いまのじぶんをつくっている大切な要素の一つなのだと認め、諦め、
記憶にとどめておくしかないようです。

 

・指差喚呼終えて戸外は秋の暮  野衾

 

編者の意

 

「軍戎《ぐんじゅう》」は軍事の意で、「戎」は兵器、戦争のこと。
軍事に関する詩の部立てであるが、
収められるのは魏・王粲《おうさん》「従軍詩」のみ。
戦《いくさ》に関わる詩は中国では、
「従軍行《じゅうぐんこう》」「苦寒行《くかんこう》」
「飲馬長城窟行《いんばちょうじょうくつこう》」といった楽府《がふ》
を除いても決して少なくはないが、
『文選』に採られた詩が少ないのは、
編者の意を反映したものか。
(川合康三・富永一登・釜谷武志・和田英信・浅見洋二・緑川英樹[訳注]
『文選 詩篇(四)』岩波文庫、2018年、p.319)

 

『文選』の編者は蕭統《しょうとう》、死後の諡《おくりな》は昭明太子。
西暦501年に生まれ、531年に亡くなっている。
文章家として知られているが、
なんといっても『文選』の編者として後世に名をとどめた。
杜甫の愛読書であり、
日本にも早くに伝えられ、
『日本書紀』『万葉集』にも影響を与えた。
たとえば『万葉集』の編者である大伴家持が『文選』を傍らに置き、
つねづね目を通し、
じぶんの国でも、このような集を編纂したいと願い、構想したのかもの想像はたのしい。
編者は黒子であるけれど、
詩の取捨選択に編者の好悪と意思が反映し、
また願いがこめられ、
それが取りも直さず編者の表現になる、ということかもしれない。

 

・天の川宇宙のことを知らぬころ  野衾

 

鳳凰のやうなる

 

今週月曜日の朝でした。パソコンに向かいブログを書いている時に、
東の空がしらしらと明けてゆき、
ひかりが射してきました。
入力の手をしばし止め、
ふと見ると、
見たことのない風景が展開しています。
その日にアップする写真として予定していたものが
すでにあったのですが、
急遽取りやめ、
朱く輝く空の写真に切り替えました。
下の写真はそのとき撮った三枚目。
自然は物を言いません
けれど、
ゆっくり羽を広げ飛翔する、鳳凰のやうなるかたちにしばらく見惚れているうちに、
中国の神話に登場する瑞兆の鳥が、
カネにまみれたこの世を見下ろしているかと思えてきました。

 

・枝豆にをのこらつどふ胡坐かな  野衾