カストリ新聞

 

和田誠さんの『五・七・五交遊録』を読んでいたら、
カストリ雑誌のことがちょこっとでてきて、
なつかしくなりました。
カストリ雑誌とは、
第二次世界大戦後の数年間に刊行された、
セックス記事や読物を中心とするエンタメ系印刷物で、
雑誌の形のものもあれば、
新聞の形のものもありました。
「カストリ」とは、
酒粕からつくられる「粕取り焼酎」を指し、
三合飲めばつぶれるぐらいの粗悪品のこと。
三「合」に三「号」をかけ、
三号で廃刊するような安直・劣悪な雑誌を
カストリ雑誌と呼びましたが、
戦後のどさくさ感がよく現れています。
なつかしくなったのは、
前に勤めていた出版社で、
膨大なカストリ雑誌のコレクション(コレクターの方から借り受けた)
から、
これはと思われるエログロなものを選び出し、
『カストリ新聞――昭和二十年代の世相と社会』のタイトルで
出版したことがあったからです。
その編集を任されたのでした。
夏の暑い時期に、
古い病院を借り受けた社屋(幽霊を見たという人もいたっけ)
で、
狭い一室に閉じこもり、
戦後まもなく
雨後の筍のように出されたエログロ雑誌から、
わたしのまったくの個人的な趣味嗜好
だけを頼りにセレクトしました。
表紙の絵は新しく友人の画家に依頼しました。
いまも『カストリ新聞』で検索すると、でてきます。
あれ、けっこう売れました。

 

・春の日の機の一息のひと踊り  野衾

 

銭湯の思い出

 

二十代のころ、
相鉄線の西谷駅近くのアパートに住んでいたことがありました。
白壁を軽くたたくとポロポロ剥がれてくる安いアパートで、
風呂が付いていませんでしたから、
銭湯に通いました。
かぐや姫の『神田川』の世界を地でいくような。
秋田から母と祖母が出てきたのは、
そのころ。
横浜駅の構内で、
祖母は背中に米の袋を背負っていました。
それから三人で西谷まで。
いま思えば、夢のような生活。
夢だったのか…
けさ、
夢を見ました。

 

・懸崖に羚羊の佇つ夏来る  野衾

 

汗が出る日は

 

このごろの天気予報で、夏日、真夏日が言われるようになりました。
25℃を超え30℃に近づいています。
もうそういう季節か。
先日、
仕事を終えて帰宅しましたら、
汗がじんわり滲んでいるのに気が付きました。
そういえば、
きょうはたしかに暑かった、かもな。
と。
ん!?
なんか変だな。
若い時なら、
汗が出るまえに敏感に気温の変化を感じて、
あぢー! なんて口走り、
それから汗が出る、
こういう順番だったはず。
ところが、
歳を重ねるにつれ、その順番がどうやら入れ替わったらしい。
つまり、
「汗の出る日は気温が高い」
ふむ。
熱中症に気をつけようっと!

 

・青東風や潟に帆舟の浮かぶ見ゆ  野衾

 

文の風景

 

『森田療法の誕生 森田正馬の生涯と業績』の著者・畑野文夫さんと対談した折、
むかしのエピソードとして、
本を読めなくなったことをお話ししてくださいました。
本を読んでいて
ページをめくって読み進めていくうちに、
あれ、
前の行になんて書いてあったっけ?
気にかかり、前の行に戻る、
と、
あれ、
前のページになんて書いてあったっけ?
というふうになっている自分に気づいたのだとか。
その話をうかがいながら、
ああ、
そんなことがわたしにもあったなぁ、
あったあった、
いや、いまもときどきあるなぁという気もしました。
ところで、
そういう感覚とはまた別の感覚が、
このごろ芽生えてきたようにも思います。
ひとことで言えば、
文は歩くときの風景に似ているということ。
たとえば、
わたしは家を出て保土ヶ谷駅まで歩いて電車に乗り、
横浜駅で根岸線に乗り換え桜木町で降り、
紅葉坂を上って会社へ向かいます。
毎日同じコースですから、
どこに何があるかだいたいは分かる。
ところが、
途中の商店街が改装工事をしたりしていると、
あれ? ここってなんの店だっけ?
思い出せない。
でも、
思い出せなくても別に問題はない。
散歩でもそうですが、
歩きながら、
目に触れるものをその都度意識しているわけではない。
目に触れてはいても、
多くのものはスルーしています。
むしろ、
スルーするものがあって、反対に、立ち止まって眺めたり、
空を仰ぐということをしたりします。
本を読むことは、
そういう体験に似ているという気がしてきました。
単語の意味が分からなくて辞書で調べる
ということがあってもいいとは思いますし、
実際にもそうしていますが、
だいたいは一定のスピードで文を目でなぞっていくだけ。
頭で読むのではなく、目で読む。
文意がつかめないのは、
わたしのいまのところの器が文の内容を容れられないからなのだ、
あるいは、
いまの感性のわたしでは文と出合えないのだ、
そう思って、
ある種の諦めを伴いながら読んでいると、
ハッと立ち止まらされる箇所に遭遇したりして、
うれしくなる。
そんなところも、
歩くことに似ている気がします。

 

・春風や四海浩蕩寒風山  野衾

 

諸橋さんのエピソード

 

かつて山形県の講習会に出講した。会場はある山頂であったが、
会を終えて帰る時、
土地の人が乗馬を用意してくれた。
馬上ゆたかに四方の里を見おろす気分は格別であった。
山麓に近づくと村の子供が六、七人どやどやとかけ集まり、
路傍に整列して私に敬礼してくれた。
よほど素朴な土地がらであったのであろう。
ところがその中の一人、
六つか七つの児童だけは、何を考えたものか、
舌を出してあっかんべをしている。
明らかに私に対する反抗であり侮蔑(ぶべつ)であった。
しかるにその瞬間、
私はただその児童がかわゆくてかわゆくてたまらなかった。
馬から飛びおりて抱きあげたいような気持ちさえした。
話はただそれだけのことだが、
あとになってつくづく考えた。
相手をわが胸の中にとり容(い)れた時のみ感化は及ぶ。
「容(い)るれば乃ち公なり」
……
「善なるものは吾之を善とし、不善なるものも吾亦之を善とせん」。
もし自分が、いつもあの時のような気分になり得たら、
自分もいま少しはりっぱな教育者になれたであろうにと。
(諸橋轍次『誠は天の道』麗澤大学出版会、2002年、p.261)

 

わたしもかつて教師をしていた時期があり、
この文を読み、
いろいろ思うところがありました。
過去はどうすることもできませんが、
教訓として今日に明日に
つなげていくことはできるかもしれません。
諸橋さんは、
このエピソードをほかの所でも語っていますから、
よほど印象に残ったのでしょう。
書き下しの引用文は『老子』にでてくる言葉。

 

・早蕨をたずねフの字の老婦かな  野衾

 

博論の書籍化について

 

1999年10月1日の創業以来、
約800点の書籍を刊行してまいりましたが、
一部の一般書を除き、
ほとんどが学術書です。
そのなかには、博士論文を書籍化したものも相当数ふくまれます。
ここ数年の体験からですが、
博論の書籍化にあたり、
担当編集者としてひとつ気づいたことがありました。
それは、
論文のジャンル、テーマはいろいろでも、
なんどか精読しているうちに、
著者がどうしてそのテーマを選び研究しようとしたのか、
ひょっとしたら、
本人も気づかないことがあるのではないか。
それが行間から見えてくるような、
そんな気がしました。
たとえていえば、
テーマを追いかける言説、論考の底に、
著者の声が眠っていると。
その声が聞こえてくるような気がしたのです。
これは面白い!
文章を通じて、
著者のこころの奥に住む、いわば子どもの魂と対話する、
そんな世界が見えてきたようにも感じます。
そういう感慨をふくめ、
このたび、
「無限の声を」というタイトルでポスターを作りました。
コチラです。

 

・春晝に東圃草除(と)る農婦かな  野衾

 

永田耕衣俳句集成

 

何年か前に買ってあって、
ぽつぽつちりちり読み進めていましたが、
この連休、思い立って一気に最後まで。
とは言い条、
根源俳句とか言われてもあまりピンと来ず、
「夢の世に葱を作りて寂しさよ」
をはじめ、
三つ四つ、五つ六つぐらいは、好きな句もありましたが、
それぐらいで。
それよりも、
巻末の、
自筆の年譜がめっぽう面白く、
たとえば、

 

昭和53年(79歳)8月31日、
早朝狭庭隅で野猫のウンコを踵で踏む惨事あり。臭気これに如くもの無し。
幼児生家の畑にて手掴みしたるよりはマシか。

 

とか、

 

昭和54年(80歳)1月12日、
黒赤色めく自糞におどろき、ユキヱと千恵子に見て貰ったが異常色に非ずという。安心。

 

ユキヱというのは奥さんで、千恵子は、同居していた長男の妻。
また、
知っている名前が多く登場し、
その点でも面白かった。
森信三、飯島耕一の名前がでてきたり、
宇多喜代子から手作りのゴマ豆腐を贈られたり。

 

・あけぼのの湖を霞の罩むるかな  野衾