かけがえのない一日

 

パソコンを立ち上げこのブログを書こうとして少し静かにしていると、
鶯の声が聴こえてきました。
二度。三度。
いい声に、聴き惚れてしまいます。
ただいま朝の四時三十七分。
連休が始まる少し前に、
四歳の時から知っている近所のりなちゃんからメールがあり、
それに刺激され、
わたしもコーヒーグラインダーを求めました。
コーヒーの味は、
いろいろな要因によって決まりますが、
なかでも、
挽いた豆の大きさが均一であることがとても重要です。
十年近く使っているミルは、
重宝し、
気に入っていますが、
経年変化もあってか、
いくら粒度調整をしても、
もはや限界というところに至っていました。
これまで使っていたミルでコーヒー豆を挽く音がガリガリガリガリ
だとすると、
もとめたグラインダーで挽く音は処理処理処理処理。
いや、
ショリショリショリショリ。
あきらかに違います。
挽くときの腕にかかるストレスがほとんどありません。
せっかくなので、
サイフォンの布フィルターも替えてみました。
淹れ方は前と全く同じ。
さて味は。
むむ。
す・ば・ら・し・い・!・!
こんなに違うか、
というぐらいに違います。
これまでが不味かったわけではありません。
けれど、
どう言ったらいいんでしょう。
コーヒーは苦い、
ということを改めて知ったというか…。
あたりまえといえばあたりまえ
ですが、
これまで、
苦さをなるべく回避するように工夫してきた、
それが自分でコーヒーを淹れるときの要諦だと思ってきた節がないではありません。
それが今回、
初めてといっていいぐらい、
苦いことが美味しいことと隣り合わせである
ことに気づかされた、
とでもいいましょうか。
まるで人生のような。
人生コーヒー!?
いや、
冗談でなく。
そんなふうに一日をおくれたらいいなぁ。

弊社は本日より営業再開です。
よろしくお願いいたします。

 

・新緑や井の頭線池ノ上  野衾

 

カッコいい老人

 

鍼灸の日は、朝、暗いうちに家を出ます。
東急元住吉駅で降り、
ホームであたたかい黒豆茶を買い、
待合室の椅子に座って持参の文庫本を開きます。
五分ほどで、
いつものおじいちゃんが来ます。
おじいちゃん…、
じゃないなぁ。
いや、
おじいちゃんなんだけど、
いわゆる「おじいちゃん」という雰囲気じゃない。
キリリとした身なりで、
カッコいい!
鞄から黒いカバーのかかった分厚い本を取り出し、読み始めます。
ページのぶさぶさ加減から、
いかに読み込んできたかが想像されますが、
のぞき見するわけにもいかず、
なんの本かは分かりません。
先だっての雨の日、
ベージュのコートを身にまとい、椅子に腰かけ、いつもの本を取り出した。
そのとき、
コートの裾がかすかにめくれ、
すぐにバーバリ製であることが判明。
バーバリのコートが、いかにも普段着の感じで、
露ほども意識していない。
身のこなしからそれが分かって、
なんともカッコいい!!

弊社は、明日4月29日(金)~5月8日(日)を休業とさせていただきます。
5月9日(月)から通常営業となります。
よろしくお願いいたします。

 

・新緑や三渓園は今になほ  野衾

 

異端の系譜

 

その宗教批判を越えても、スピノザはヘーゲル左派の人々を魅了した。
彼のいわゆる汎神論は、
この地上の現世的な生活と自然な(肉体を持った)存在としての人間に価値と堅固さを
回復させるもの、と理解されたからだ。
物質と精神の統一はヘーゲル左派の謳い文句であり
理想であって、
それを満たすのはヘーゲルではなくスピノザだと目されたのである。
ヘーゲルは根本において人間を、
その感覚的自然を乗り越えこれを圧倒する精神と見なしていた。
この点でヘーゲルはキリスト教的思想家にとどまっていた。
近代の思想家のなかでスピノザただひとりが、
物質と精神、延長と思惟、
身体と知性を同じ次元に置き、
同じ内在的な人間性の二つの同等の表現と見なし、
互いに同じように必要なものと説いたのである。
これは人間存在の自由な自己解放を訴える強固な使信だった。
ヘーゲル左派はこのような使信を
彼ら自身のキリスト教批判から引き出すとともに、
それがスピノザのなかで明確に語られているのを見出した。
二世紀も前にあらゆる超越的宗教を放棄していたこの反体制派ユダヤ人思想家が、
現代の新たな英雄となり、
ハイネの呼び方を用いれば「未来の哲学者」
となった。
彼は新たなモーセであり、ナザレのイエスと同等で、
この二人の預言者と同様に、
新時代の告知者だった。
(イルミヤフ・ヨベル[著]小岸昭・エンゲルベルト ヨリッセン・細見和之[訳]
『スピノザ 異端の系譜』人文書院、1998年、p.354)

 

引用した箇所につづくつぎの段落がまたわくわくする内容でありまして、
著者のヨベルは、
スピノザが救済の過程における聖ヨハネだとすれば、
真の新しい救済者、救済の科学的預言者は、
ほぼ二世紀後に、
スピノザが生まれたアムステルダムではなく、
ドイツのトリアーに生まれたカール・マルクスであると言っている。
思想というものがいかに深く人間を突き動かし、
ひいては社会と歴史を動かしていくものであるかを、
あらためて思い知らされます。

 

・風光るうつむく吾の影に影  野衾

 

ばがくしゃ

 

先日、電話しているときに父の放った言葉。
「ばがくしゃ」は、
馬鹿臭い、馬鹿らしいの意。
齢九十の父は、迷った挙句、近くに住んでいる叔父のサポートもあり、
今年も米を作っています。
しかし、
気力、体力の衰えは、一年前とは比べ物にならないらしく、
また、今年に入り
歩行が難しくなった母を支えながらの懸命に送る日々は、
米づくりをやってよかったのかを反芻する日々
でもあるのでしょう。
わたしから見て何よりも深い喜びの源泉であるはずの米づくりを「ばがくしゃ」と言うのは、
並大抵のことではないと想像されます。
父の子であっても、
父の思いの深さは理解を超えており、
推し量ることしかできません。
まえにここに書いた「なとでもえ」(「どうでもいい」の意)
もそうですが、
父はいま、
生き死にを含め、
深く、深く、
いわば精神のたたかいをたたかっている気がします。
父が少年のころ、
とつぜん死ぬことが恐ろしくなり、
身も世もないほどの体験をしたと、
わたしに語って聞かせてくれたことがありました。
わたしは、
いまの父を励ます言葉を持ち合わせません。
だまって聴くだけ、
寄り添うだけです。
しかし、
逆に、
わたしは父の言葉から、
深く励まされます。
日々、面白いこと、ワクワクすることなど、
そんなにあるものではありません。
それでも、おもしろくなくても、生きなければならない。
忍従し、努力し、行為しなければならない。
父はきょう、
どんな言葉を発するだろう。

 

・風光る瀬戸ヶ谷古墳丘に立つ  野衾

 

『アラビアンナイト』の魅力

 

古典古代の文学作品との類似点に注目すれば、
「シンドバッド航海記」中に
ホメロスの「オデュッセウス」とよく似た場面が描かれていることは
かねてより指摘されてきた。
また、
アラビアンナイト中には、
ローマの劇作家プラウトゥスの作品に出てくるプロットと
まったく同じものが登場する話もあれば、
ヘロドトスが記録した泥棒のエピソードとよく似た話もある。
なお、
このヘロドトスによる泥棒話は『今昔物語』にも収録されている。
インドやギリシア以外にも、
古代オリエントの叙事詩「ギルガメシュ」からの影響も指摘されているし、
コブト教徒を通じて伝わったと思われる古代エジプトの話もある。
ソロモン王伝説をめぐるユダヤ系の話もあれば、
ビザンツのロマンス(恋愛物語)から影響を受けたと思われる部分もある。
時代をくだれば、
ボッカチオの『デカメロン』、
チョーサーの『カンタベリー物語』などにも
アラビアンナイト中の物語と非常によく似た話が入っている。
また、
羽衣説話の系統に属する話(「バスラのハサン」)
のように、
世界中の民話や口承の中に類型を求めることができるものもある。
アラビアンナイトに含まれている個々の物語の発生場所や伝播経路を確定する
ことは困難だが、
この一大物語集はまさに東西説話の宝庫であるといえるだろう。
(西尾哲夫『アラビアンナイト――文明のはざまに生まれた物語』岩波新書、
2007年、pp.39-40)

 

『アラビアンナイト』の魅力を、これでもかというぐらいに、
さまざまな角度から縦横に論じ、紹介してくれてあり、
ふんふん、
うなずきながら、
おもしろく読み終りました。
前嶋信二さんがアラビア語原典(カルカッタ第二版)
から訳された『アラビアンナイト』
(平凡社の東洋文庫に収められている。全18巻。前嶋さんは第12巻まで。
第13巻目以降は、池田修さん。ほかに別巻あり)
が六巻目までで中断しているので、
しばらくあいだが空いてしまいましたが、
ぼちぼち七巻目を開こうかと思っているところであります。
こんかい読んだ西尾さんの本で目から鱗だったのは、
『アラビアンナイト』が、
とくていの誰かが書いた物語というよりは、
東西交流の文化現象とみる方がいいだろうとのご指摘でした。
もともとアラビア語で「物語」を意味するヒカーヤ
という言葉は、
本来、物真似芸を表すそうです。
ちいさいことは気にしない、
おもしろければ何でもいいじゃん、
という伸び伸び広々したところにつよく惹かれます。

 

・新緑や海の青さをあくがるる  野衾

 

『わたしの学術書』座談会

 

詩人の佐々木幹郎さん、東京堂書店の人文フロアを担当されている三浦亮太さん、
こんかい『わたしの学術書』の装丁を担当してくださった中本那由子さん、
装画を担当してくださった市川詩織さんをお招きし、
『わたしの学術書』をめぐっての座談会を行いました。
弊社からは、下野、久喜、わたしの三人が出席。
この本は、
博士論文を春風社から上梓した58名が、
その経緯と今後を含めての、
いわばライフヒストリーをつづったエッセー集ですが、
座談会に出席した方々から、
とても有益なことばをお聞かせいただき、
いろいろな意味で今後の本づくりに役立てたい、
考えつづけたいと強く思いました。
会の模様は、
5月20日(金)発売号の『週刊 読書人』に掲載予定です。
ただ、
二時間半たっぷり、
濃密な話を伺うことができた会でしたので、
ロングバージョンのものを、
いずれ何らかの形でまとめ、ご紹介できればと思います。

 

・春風や自転車を漕ぐ堤まで  野衾

 

葦の字の読み

 

パスカルの「人間は考える葦である」で有名な葦ですが、
わたしが愛用している山と渓谷社のカレンダー『七十二候めくり 日本の歳時記』
の十六候「葭始生《あしはじめてしょうず》」
の写真の下に、
「天に向かってまっすぐ伸びる水辺の葦。
「悪し」を転じて「ヨシ」としたのは好案でした」
とありまして、
へ~、そうだったの~!!
と、
ややビックリ。
てえことは、
くだんのパスカルの名言は、
「人間は考えるヨシである」になる、
か。
我がことを振り返ってみれば、
さほど、というか、
まったく疑問に思わずにこれまで来ましたが、
そんな裏話があったとは。
ところで。
きょうのこの文を書くのに、
山と渓谷社のカレンダーにある文言を引用していて気づいたことがありました。
それは、
「好案」の熟語。
好案?
こうあん?
こんな熟語あったかな?
「妙案」の間違いじゃないかしら?
というわけで、
手元の電子辞書やら白川さんの『字通』を引いてみましたが、
「妙案」はあっても「好案」は出てきません。
ふむ。
山と渓谷社に電話して訊いてみようかな。

 

・春風や奥邃の気の触れ来り  野衾