タイプライターのこと

 

もう四十年も前のこと。勤めた学校の職員室にタイプライターがありまして。
使い方を教えてもらい、
試験問題だったか、
夏休みの課題図書のリストだったか、
とにかく、
用意した手書き原稿をパチパチ打ち込みました。
すると、
ふにゃふにゃだったり、また金釘流の、
けして自慢できないじぶんの文字たちが
立派な活字になって神に、いや、紙に印字されるではありませんか!
あの感動。あの興奮。
文字の世界に初めて受け入れてもらえた気がした。
しばらく忘れていました。
そのことを思い出したのは、
きのう、
わたしの操作が間違っていたのか、
ブログの管理者ページにうまく入ることができなくて、
出社後に会社のパソコンから入ったことがきっかけでした。
わたしにとりまして、
このブログ、
一日の始まりの大事なルーティンでありまして、
「外なる人」は衰えても、
「内なる人」は日々新たにされていく、
そんな感じなんであります。
なんの不具合か、
それがふだん通りできなくなったとき、
あらためて、
日々の習慣がいかに大事であるかということを思い知らされました。
敬愛していた詩人の長田弘さんは、
おっしゃいました、
習慣がふるさとだと。

 

・真人も踏みしふるさとの春山  野衾

 

フーコーと聖書

 

ミシェル・フーコーの遺作『性の歴史 Ⅳ 肉の告白』が、
フーコー没後三十数年経ってようやく
二〇一八年にフランスで出版され、
その日本語訳が昨年一二月に出版されました。
わたしはかつて『性の歴史』のⅠ~Ⅲまでを買っていたのですが、
まぁ、Ⅳが出たらまとめて読むわ、
と、
棚に並べて置いていた
のですが、
いくら待ってもいっこうに出る様子がなく、
そのうち興味関心もとこへやら、
古本屋を呼んでどっさり売ったとき、
『性の歴史』三冊も、
読まずに処分してしまいました。
あれから三十年、
綾小路きみまろめきますが、
ぐるぐる興味関心が経めぐり、
そうしているうちにわたしはとっくに還暦を過ぎ、
じぶんことを振り返ったとき、
またこの間の読書を通じて
人類の歴史を振り返ってみたとき、
性の歴史は、
いわば人間と人類の背骨であるな
と感じるわけで、
ようし、
せっかくだから、まとめて読んでみよう、
という気持ちになり、
Ⅳは新刊で、
Ⅰ~Ⅲは古書で求めました。
ゆっくり、味わいながら読みたいと思います。
ところで、
Ⅳの巻末にある引用文献索引を見て驚きました。
聖書からの引用がふんだんになされていることが分かります。
アーレントを読んだときも感じましたが、
フーコーもまた、
じぶんの勉強と思索の基礎に聖書を置いている。
そうか。
フーコーは、
一巻目を書いた後、
執筆の構想において大きく舵を切ったそうですが、
その要因の一つが聖書にあったか、
との想像も湧いてきます。
そのことも含め、
じっくり読みたいと思います。

 

・意識はあれど春眠の眼裏  野衾

 

 

パラダイムという色眼鏡

 

カール・バルトとの関連で、
ハンス・キュンクの『キリスト教 本質と歴史』(福田誠二[訳])を
おもしろく読んでいるところですが、
浩瀚な本のページを捲るごとに、
目から鱗が落ちるとはこういうことかと感じることしきりで。
目次を見ると、
大分類がA.本質への問い、B.中心的な事柄、C.歴史
とありまして、
このC.歴史の記述がすこぶる面白い!
Cの分類はさらに、
Ⅰ.原始キリスト教のユダヤ教的・黙示的パラダイム
Ⅱ.キリスト教古代のエキュメニズム的・ヘレニズム的パラダイム
Ⅲ.中世のローマ・カトリック的パラダイム
Ⅳ.宗教改革のプロテスタント的・福音主義的パラダイム
Ⅴ.近代の理性志向的・進歩志向的パラダイム
となっており、
要するに、
歴史の変化をパラダイムシフトとして捉えていることが分かります。
なかの具体的な記述を、
ふんふん、ふんふん、へ~、ほ~、そうなん、
と、
偉いお坊さんのお話を聴く具合に読み進めているうちに、
パラダイムという思考の枠組みを通してしか私たちは歴史を見ることができない
のではないか、
さらに、
いま現在の私たちも、
やがては過ぎていくいま現在の虹色パラダイムによってしか
自己を、他者をとらえることができない
のではないか、
パラダイムという色眼鏡を取り外して真実に向かうことは叶わない、
太陽を裸眼で凝視できないように、
そういう感情が湧いてきて、
こういう思考は、
どこかミシェル・フーコーと重なる気もし。
本が分厚いという事もありますが、
印象としては、
大河小説、たとえばトルストイの『戦争と平和』
とか、
あるいは、
小説でなければ、
マルクスの『資本論』を読んでいたときの体験・感覚
に近いような。
しばらく楽しめそうです。

 

・花曇り蒼穹の下止まらず  野衾

 

倦まず弛まず

 

神農氏沒して、黄帝・堯舜氏作《おこ》り、其變を通じて、
民をして倦まざらしめ、神にして之を化して、
民をして之を宜しとせしむ。
……………
人間の心は、まことに奇妙なものであつて、
勿論、亂世が長く續くときは、
亂世に飽き厭ふことは申すまでも無いのであるが、
泰平安樂が長く續き、文化が爛熟すると、これにも飽きるやうになり、
何か事有れかしと思ふやうになる。
然うなると、恐るべき結果ともなるのである。
(公田連太郎『易經講話 五』明徳出版社、1958年、pp.346-348)

 

編集者生活がだいぶ長くなりましたが、
一冊一冊緊張を強いられ、それを持続しなければならず、
経験は生きるけれど、
一冊一冊がどれも、いつも新しいので、
飽きるということがなく、
じぶんの性格を考えてみたとき、
この仕事がことのほかありがたく感じられ、
ほかの仕事であれば、どうだったかと思うことしきり。
公田連太郎の『易經講話』は最終巻、
繫辭下傳に入りました。
諄々と説かれ、これも飽きない。
公田さん曰く、
明治維新のときの五箇條の御誓文
「人心をして倦まざらしめん事を要す」の一句は、ここから出たものであろう。

 

・春光や鎮守の森の陰あえか  野衾

 

「独」ってそういう意味!?

 

朝、コーヒーを淹れるときの隙間時間を利用し、
いまは、
白川静先生の『漢字の体系』を少しずつ読んでいますが、
本家の中国における最初の漢字字書『説文解字』と
ことごとく違って
(と言っていいでしょう)
おり、
目をみはることが多い。
たとえば「独」という字。元の字は「獨」

 

蜀は屬(属)が尾(牝獣《ひんじゅう》)と
蜀(虫《き》は牝獣《ぼじゅう》の性器の形)と相属する形で、
獣の交尾する形であることからいえば、
蜀は牡獣をいう。
蠲《けん》は牡器を縊《くく》り取り、
」に「」[入力してもでてきません]《たく》は牡器を殴《う》って去勢することをいう。
獨(独)とはひとり者の獣をいい、
一般化して孤独、副詞として「ただ」の意となる。
(白川静『漢字の体系』平凡社、2020年、p.331)

 

ふむ。深く感じ入るところあり。
また「独」との関連というわけでもないですが、
「美」という字についても、
白川先生の説明を読んで以来、
女性の後ろ姿を見ると、そうとしか見えなくなった。

 

・地上まで急ぐともなし桜かな  野衾

 

いのちの鈴

 

月曜日はだいたい『帰れマンデー見っけ隊!! 』を見ることが多く、
きのうもそうしていましたが、
このごろは、
コマーシャルの時間がやたらと長いので、
その時は、チャンネルを変えます。
ところが、
パチパチやっているうちに、
おもしろそうな番組にたどり着くこともありまして。
きのうがそうでした。
NHK・BS『国際共同制作 パーフェクトプラネット(4)「気象」』
がそれ。
気象の変化と同調するようにして、
さまざまな動物の美しい姿をとらえていました。
亀の大群とか、跳ねない蛙とか、かたまって筏のように川を下る蟻の群れとか、
つい見入ってしまい、
ふと、
昆虫が好きだった子どものころを思い出しました。
本を読まない子どもが、
ただ一冊、
子ども向けの『ファーブル昆虫記』だけは、
学校の図書室から借りて読んだ。
返してまた借りた。
当時は理由など考えもしませんでしたが、
いま思えば、
さびしい子どもでしたから、
昆虫などの小動物に、
裸で動いているいのちを感じ取ったのかもしれません。
裸のいのちは、
たとえていえば、
小さな鈴が鳴っているようでもあり、
いのちの鈴に耳を澄ませば、
さびしさがまぎれた。
強がりかもしれないけれど、
さびしさのおかげで、
いのちそのものに同調できた気がします。

 

・渓谷の空を見渡し落下かな  野衾

 

玄鳥至

 

七十二候、今週は、第十三候「玄鳥至」つばめきたる。
そういう時期になりました。
ここ保土ヶ谷でも、
たとえばラーメン屋の軒先で目にすることがあり、
飛び回るツバメの姿に季節を感じます。
秋田に住んでいたころ、
この時期になると、
ツバメが玄関から入って来て、
庭の天井にある巣の辺りをホバーリングし始め、
まるで家族が帰ってきたようにも感じたものでした。
気持ちがウキウキし、
理由もなく、
よし! と気合いが入りました。

 

・風光る原始人らの海眼下  野衾