なりふりかまわず

 

きのうの夕刻、
JR保土ヶ谷駅の改札を出るや否や、
改札に向かって猛スピードで駆けてくる若い女性の姿が目に入りました。
ミニスカートで
腿を90度ちかく上げています。
うで振りもすばらしい。
おそらく、
いや、きっと
かつて陸上部に所属し、
短距離走の選手だったにちがいありません。
駅構内でのできごとながら、
かのじょの足裏の着地点はあきらかに
400mのトラック。
さわやかなフォームを目の当たりにし、
つかれが一気に吹き飛びました。

 

・天來のいま山頂に春霰  野衾

 

澁澤さんの論語 3

 

子曰、其身正、不令而行、其身不正、雖令、不従、

子曰く、その身正しければ、令せずして行はれ、その身正しからざれば、令すと雖も從はず。

 

論語「子路第十三」の六にある言葉です。
令和の時代をまえに
新札の肖像として澁澤榮一さんのものがつかわれることになりましたが、
うえの言葉について澁澤さん、
こんなことを語っています。

 

人民は政に從はずして君に從ふ。
故に人を正しうする者は、宜しく先づ己を正しうせざるべからず。
正は中正、偏なく黨なきなり。
子曰く「その身を正しうせざれば、人を正すを奈何(いかん)せん」。
大學に曰く「その令する所、その好む所に反すれば、民從はざるなり。
民はその令する所に従はず、しかしてその行ふ所に従ふ。
故に牧民の道、身を以てこれに先んずるより善きはなし」と。
これを詳言すれば、
在上の君相、倫理を盡くし、言動を愼しみて、その身正しければ、
則ち教令して民を驅(か)らざるも、民自ら感化して善に趨く。
これと逆に、
君相自らその身の行ひを正しくせずして、徒らに言のみを以てすれば、
いかほど命令すと雖も、政令行はれずといふが、
これ孔子の政治の根本義なり。
政を言ふ諸章はみなこの根本義より出でざるはなし。
(澁澤榮一述『論語講義』二松學舍大學出版部、1975年、pp.667-668)

 

「令和」は万葉集からということですけれど、
俗に、命令に従って和する、と読めないこともありません。
それはただの邪推にすぎませんが、
令と民と政治について
新時代の新札に登場することになる澁澤さんの考えが目にとまり、
備忘録として
きょうの日記に引用しました。

 

・文庫本かわやの窓の蝶(はびら)かな  野衾

 

幸福な一冊

 

ジョージ・ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』
を再読しようと思い、
たしかこの辺にあったはず、
と、
くまなく探した
はずなのになかなか見当たらず、
あきらめて古書を求めたところ、
本がとどく前の日に探していた本が見つかりました。
えてしてこんなものですね。
さてこの『ヘンリ・ライクロフトの私記』
これを好きだ
という人はけっこういるようで、
小説家の阿部昭さん(1934-1989年)もそのひとり。
朝日新聞学芸部編『読みなおす一冊』(朝日新聞社、1994年、pp.343-346)

その本にかんする阿部さんの文章が載っています。
末尾に
「私とほぼ同世代で相当な「本の虫」である女性、
英国で暮らした経験もありブロンテ姉妹の愛読者でもある女性にきくと、
彼女は高校三年の時以来、毎年元旦には原文でこれを読む、
正月でなくてもゆっくりした時にはついこの本に手がのびる、
そしていつも慰められる、
と答えた。
薄倖だったらしい著者の幸福な一冊である。」
とあります。
その『ヘンリ・ライクロフトの私記』
二冊持っていても宝の持ちぐされなので、
弊社のO編集長がもし持っていなければもらってもらおうかと思い
声をかけたところ、
二種類でている日本語訳を両方読んだのはもちろん、
大学院時代は上の女性のように
原文でも読んだとのこと。
その話をきいて、
わたしもうれしくなりました。

 

・はらを見せ煽らるるまま燕かな  野衾

 

ドリトル先生に会いたい

 

『ドリトル先生のサーカス』に
年老いた馬車引き馬のベッポーという馬がでてきます。
ベッポー、ベッポー、
はて、
どこかできいたことがあるような、
つらつら考えていましたら、
ミヒャエル・エンデの『モモ』に
道路掃除をなりわいとするベッポじいさんというひとがでてきた
ことを思い出しました。

 

いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、
わかるかな?
つぎの一歩のことだけ、
つぎのひと呼吸のことだけ、
つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。
いつもただつぎのことだけをな。
……………

 

ベッポじいさんがモモに語る言葉ですが、
これはまた三十五年も馬車をひき
いまやすっかり老衰した馬ベッポーの考えでもあるような気がしてきました。
エンデもドリトル先生を読んでいたかな?
そんなことを想像したり…
それはともかく。
ベッポーをはじめ、
にんげんのために働いて働いてきた馬たちのために、
ドリトル先生は有り金ぜんぶをはたき、
借金してまで牧場を買いいれ、
開放しました。
野山をのびのび走りまわる馬たちの姿が目に浮かぶようです。

 

・花ぐもり日のなごり浴び本をおく  野衾

 

ヤスケンさん

 

『本の虫の本』という、
本好きにはちょっと気になる本を
パラパラめくっていたら、
二〇〇三年一月に亡くなった
スーパーエディターこと安原顯さんのことがでていました。
この本は五人の共著ですが、
ヤスケンさんに触れているのはオカザキフルホンコゾウムシ(=岡崎武志さん)

 

私が接した中では『海』『マリ・クレール』を
独自のカラーで塗り替えた安原顯が印象深い。
毀誉褒貶あった人だが、
話していて真性の本好きであることが伝わって来た。
その一点で、私はこの編集者を信用した。
(『本の虫の本』創元社、2018年、p.324)

 

安原顯さんを、
ちかくで接したひとたちは
したしみを込めヤスケン、ヤスケンさんと呼んでいました。
ヤスケンさん、
晩年はオーディオ、
それも高級なハイエンド・オーディオに凝り、
高価なものを購入し
自宅につぎつぎセッテンング。
好きなCDを持ってきたら掛けて聴かせてあげるよといわれ、
若い編集者をつれ訪ねたことがありました。
何枚か持参したなかに、
パキスタンのミュージシャンにして
カッワーリの名手ヌスラト・ファテー・アリー・ハーンのCDをわたすや、
にこにことCDプレーヤーにセットしてくれた
までは良かったのですが、
音が鳴りだし、
10秒、
20秒はおそらく経過していなかったと思いますが
「これは、宗教音楽のようなものか?」
といいながら、
止めてしまいました。
ヤスケンさんにはどうも合わなかったらしく。
そのヤスケンさんの本、
春風社からは二冊、
『ハラに染みるぜ!天才ジャズ本』
『乱読すれど乱心せず ヤスケンがえらぶ名作50選』
を上梓しました。
装丁はいずれも矢萩多聞さん。

 

・吾と空をつんざくごとく玄鳥かな  野衾

 

かすれどこまで

 

雑誌はなるべく買わないようにしていますが、
どうしても読みたい記事があって買うことがたまにあります。
気になる記事を読んだあとは
捨ててしまうことがほとんどですが、
たまたま捨てずにいた雑誌を
コーヒー豆を挽くときミルの下に置いたり、
淹れたコーヒーをカップに入れ
雑誌の上に置いたりしているうちに、
表紙の文字と写真が
だんだんかすれてきました。
それでさすがに、
捨てようかとも思ったのですが、
ふと、
このかすれ
どこまで進化(?)していくだろうかと、
へんな好奇心がわいてきて、
捨てずに
毎日かすれ具合を確かめるようになってから
はや一年と数か月。
爪や髪の毛を切らずに伸ばしている仙人
みたいな人がたまにいますが、
その感覚に近いのかもしれません。

 

・花万朶ながめせしまに五十年  野衾

 

ンパのだたふ

 

ふだんあまりパンを食べませんので、
たまに食べるといっそう美味しく感じられます。
このあいだ、
パンを食べながら
ふと思い出したことがありました。
子どものころ、
「ふただのパン」というパン屋さんがありました。
いまあるかは分かりません。
さかさに読むと
「ンパのだたふ」
「ンパ」がおもしろく、
また
「だたふ」というのが
だぶだぶ感があってなんとなく愉快な気持ちになり、
ンパのだたふンパのだたふ。
まるでお念仏。
子どもってふしぎです。
面白いとなったら、
もう、なんでもかんでも。
わたしのなまえをさかさにすると
「るもまらうみ」
弟は「るとさらうみ」
じぶんたちの前にまだ見たことのない海がひろびろ広がっているような。
山は「まや」で川は「わか」
馬は「まう」犬は「ぬい」猫は「こね」
先生は「いせんせ」
伊藤陽子せんせい、川上景昭せんせい、小武海市蔵せんせい。
さかさにすると…
がっこうは「うこっが」
とじぇねわらしはいろんなことを工夫し
こんなことでも面白がった。

 

・養花天たのしきことをさがしをり  野衾