さまざまのこと 1

 

ふるさとは思い出にみちていて、こんかいの帰省でも、道を歩いていると、
いろいろなことが思いだされてきます。
秋田の桜はこれから満開を迎えるようです。

 

さまざまの事思ひ出す桜かな  松尾芭蕉

 

Yくんとのこともそのひとつ。
中学一年の冬だったと記憶しています。
試験の前日、一夜づけの勉強で寝不足をし、翌朝、自転車で学校に急ぎました。
学校に着くことは着いたのですが、
寝不足に加え、寒いなかを自転車を激しくこいだせいか、
着いて早々、靴置き場のところでフラフラとなり、
床にくずおれてしまいました。
と、
うしろから声をかけられた。
ふり向くと、Yくん。
二言三言ことばを交わしたと思いますが、おぼえていません。
Yくんはわたしを抱え(あるいは背負って)保健室まで連れていってくれた。
保健室の先生に事情を話し、ベッドに横になり、
しばらく休ませてもらいました。
Yくんに、もうだいじょうぶだからと告げ、Yくんは教室へ。
10分ほど横になっていたでしょうか、
息もととのい、
めまいも落ち着いたようですから、
そのことを先生に話し、荷物をもって教室へ向かいました。
試験はすでに始まっていましたが、
それほど遅れずに臨むことができたのは、
Yくんのおかげです。
何年かぶりで八月に同期会があるそうですから、
Yくんが参加したら、きいてみようかな。
忘れているかな。

 

・千年の記憶を今を新樹光  野衾

 

納骨式

 

ことし1月22日に他界した母の納骨式のため、秋田に帰省しました。
あいだが空いたのは、冬が終り、
あたたかくなってからにしようと申し合わせていたためです。
12日の秋田は、最高気温16度で空は晴れわたり、
すがすがしい一日でした。
弟が事前に準備し、お寺さんをよび、くるま三台で墓地へ。
丘の上の墓地は、春の清新な気に満たされ、小さな蛙が畑地をとび跳ねます。
遠くで雉がどくとくの声をひびかせています。
墓石を洗い、石をずらしてお骨を納めます。その間、
おごそかな読経の声。すべてを納めて、
石をもどします。
あらためて花をそなえ線香を立て、ろうそくに灯をともします。
一同合掌。
お寺さんを見おくり、
墓の周りをととのえ帰路につきます。
弟がぽつり、
「かあさんはここにはいないよ」
弟の発したひと言は、わたしの気持ちでもありました。
横浜に帰ってき、
部屋に置いてある母の小さな写真に向かい、
「かあさん、いま帰ったよ」といえば、
母は、いつものごとく両手をあげ、「ああ、帰ってきたが」
と迎えてくれます。

 

・日を浴びて風と菜花のつづくかな  野衾

 

さくら散る

 

わたしの住んでいるところは、山のうえというか、崖のうえにあり、
そこから南のほうへ向かい、
それほど広大ではありませんけれど、
崖が、ちょうど伊良湖岬を思わせるように湾曲しており、
その先に鋭くとんがった三角屋根の家があります。
横に大きな桜の木。
ときどき台湾リスが遊び回ります。
咲きはじめから満開に至るまで、ことしもずいぶん楽しませてもらいました。
三日まえから散りはじめました。
螺鈿につかわれる、
たとえば夜光貝の殻のうすいかけらをさらに薄くしたような切片が、
オモテ、ウラ、オモテ、ウラと、
まるで時を惜しむかのように、キラキラ、キラキラ、
舞い落ちます。
時を忘れ、しばし無音の舞を眺めていました。

 

散る桜残る桜も散る桜

 

良寛さん辞世の句とされていますが、そんなことばも連想されます。
さくらが散る姿を、
これまで幾度となく目にしてきましたが、
母がいなくなった世界で初めて目にするさくらでした。

 

・春光や昔に潟の帆掛舟  野衾

 

追悼・横須賀薫先生

 

ながいあいだお世話になった横須賀薫(よこすか かおる)先生が今月7日に
お亡くなりになりました。享年88。
先生と初めて会ったのは、
わたしが横須賀の高校で教員をしている頃でした。
四十年以上前のことになります。
林竹二さん、斎藤喜博さんと親しくされ、また教えを受け、
おふたりの教育思想を統合し実践することを念願とされているとお見受けし、
講師としてお招きしたのでした。
勤めていた学校の教員たちのまえで、
「横浜生まれの横須賀です」
と、横須賀先生は自己紹介されました。
その後、わたしは学校を辞め、東京の出版社に身を置きました。
そうしたら、
そこでも横須賀先生とのご縁がありました。
斎藤喜博校長のもとで研鑽をつんだ先生たちによる研究報告の冊子「島小研究報告」
を書籍化する仕事を、横須賀先生監修のもと、
させていただきました。
宮城教育大学の学長を退任されたあと、
先生は十文字学園女子大学の学長を務められましたが、
先生に乞われ、半年間、大学で講義を受け持ったこともありました。
いつも気にかけてくださいました。
出版人であることの特徴を生かし、
詩人、文学者、画家、書店員、装丁家を招いて、
話をしてもらったり。
仲間と春風社を起こしてからも、ご縁はつづき、
新版 教師養成教育の探究』(2010年)
斎藤喜博研究の現在』(2012年)
教育実践の昭和』(2016年)
を出させていただきましたが、
昨年10月に刊行した『教師教育五十年 「ひよことたまご」の教育実践
がさいごになりました。
会えば、いつもにこにこされ、
先生には申し上げませんでしたけれど、
先生を思うときは、
わたしはいつも、『となりのトトロ』に出てくる猫バスを連想しました。
茶目っ気があり、
チャーミングなお人柄がそう思わせていたのかな、
と思います。
ながきにわたるこれまでのご縁に感謝し、
つつしんでご冥福をお祈りいたします。

 

・潟を行く寒風山へ桜かな  野衾

 

花見

 

先週土曜日、なじみのそば店へ向かう途中、掃部山(かもんやま)公園に立ち寄り
ました。
よく晴れていましたから、
井伊直弼像の下をはじめ公園のあちこちにブルーシートが敷かれ、
花見客がにぎわいを見せています。
わたしと家人は、さくらを見あげ、ゆっくり通りすぎるだけでしたが、
そこにつどう方々の華やいだ雰囲気が伝わってくるようでした。
ふと思い出しました。
まえに勤めていた会社で、
一度か二度、
場所と日を決め花見をしたことがありました。
社員はもちろん、
行きつけの居酒屋の主人やスナックのママさんも招いて。
そういうことの好きな社長でした。
川が近くに流れていたようでもありますが、
はっきりと思い出せません。
たのしかったことだけ、参加した人の声と笑顔だけ、おぼえています。
横浜近辺のさくらは、そろそろ散り始めました。
この時期の風情も、
これはこれでなかなかの味わいです。

 

・伐られずの畑の横の桜かな  野衾

 

ゲーノさんの『ルソー伝』4

 

ゲーノさんの『ルソー伝』からそろそろ離れようと思います。

 

われわれが二人いっしょに、奇妙な、ときには幻想的な親密さのなかで暮らすように
なってから、かれこれ十年の月日がたつ。
私は彼に無礼を詫びたいほどの好奇心、あつかましさ、苛酷さで、
彼のすべてを眺め、すべてをほじくりかえした。
というのも、私はなにもかも知りたかったからだ。
それ以来、
私には自分の人生より彼の人生のほうがはるかによくわかるようになった。
人には自分自身の人生はわからないものだ。
あるいは少なくとも、
われわれのうちのなにかがつねに知られることを拒むのである。
私は彼の内部で生きることができた。
それも、すべてが混じり合い、誠実が偽善に変わるのが見えるあの深み、
自分が問題の場合には、
人が見つめたがらないあの深みにおいて。
このおそらくは無謀な企てを手がけるにあたって、
私のいだいた野心の一つは、要するに、人間とはなにかを知ることであった。
いまでは私は、
まえよりいくらかよく人間のことがわかるようになったと思う。
われわれはたえず虚栄心、利害心、自己保存の本能によって欺かれるため、
自分自身から出発しては人間のことはわからない。
しかし、
だれか他人の人生を愛情と厳しさをもって見つめるならば、
やがてはいくらかわかるようになる。
まして相手が自分自身について冗舌であって、
彼の人生のさまざまな情況が彼に関する多くの資料を積みあげた場合には。
(ジャン・ゲーノ[著]宮ヶ谷徳三・川合清隆[訳]
『ルソー全集 別巻1 ジャン=ジャック・ルソー伝』白水社、1981年、p.675)

 

じぶんも人間の端くれなのに、じぶんでじぶんを知ることはむずかしい。
人間を知ることは、ほとほとむずかしいようです。
いつ、何をしたかをこまかく並べても、
それ(はだいじなことですが)だけでその人間を知る
ことにはなりません。
こころの問題がありますので。
教育哲学者の林竹二さんの本に『若く美しくなったソクラテス』
があります。
ソクラテスについて、いろいろな人が書いているけれども、
わたしが問題にしたいのは、
他の人でなくプラトンにとってのソクラテスなのだ、
ということを林さんは述べていますけれど、
ゲーノさんの『ルソー伝』(原題:ジャン=ジャック)は、
『若く美しくなったソクラテス』をほうふつとさせる、
愛情と厳しさをもった伝記であると思いました。

 

・何事も早口になる新学期  野衾

 

ゲーノさんの『ルソー伝』3

 

ゲーノさんがどうしてジャン=ジャック・ルソーさんの伝記を書こうとしたのか、
それについて、はっきりと記された箇所があります。

 

翌朝になると私はまた彼に出会っていた。私は謎につきあわされていた。
歳月が流れ去った。
たえず人を裁いていては、人といっしょに暮らすことはできない。
ところが、困ったことに彼のほうがどうしても裁いてほしいと言うのである。
われわれのたどりついた1760年代、
彼はこの時代から、
けっして開かれることのない訴訟の被告人として裁きを要求し続けている
のである。
彼は無罪放免か、さもなくばまったき有罪を請求している。
早く決めろと、彼はわれわれをせかしている。
ドストエフスキーの主人公であった彼は、いまやカフカの主人公である。
けれど私は人を裁く性癖などなくしてしまった。
私には理解すれば十分である。
しかし、この男のすべてを理解することなどけっしてできはしない
ということも私にはわかっている。
おもしろいことに、彼は、聖者を別にすれば、
人々がその姓よりむしろ名によってジャン=ジャックと呼びならし、
彼を自分たちの身近な存在にしようとした、思想史全体を通じて唯一の人物である。
どんな理由から私がこの本の標題〔本書の原題は『ジャン=ジャック』〕
を選んだかも、これではっきりした。
私が書きたかったのは、「ルソー」ではなく、
あくまで「ジャン=ジャック」である。
彼の時代の人たちがその名をリフレインにして歌った、
あの同じ皮肉の入りまじった、
そしてわれわれがだれかある他人のうちにもう一人の自分を見出すときに感じる
あの親しみのこもった「ジャン=ジャック」である。
文学者、政治理論家のルソーという問題が別にあるが、
私がもっとも心をくだいたのはこの点ではない。
ジャン=ジャックが私の興味をひくのは、
ほかならぬ、
彼が作家でありたいと思っていなかった、別の言い方をすれば、
心ならずも作家であったからである。
万人と同様、彼も一人の哀れで偉大な人間であった。
そしてまさに、
彼は彼のうちのこの玉石混交によって、
われわれのもっとも真正な証人の一人となったのである。
私が明らかにしたかったのは、その彼の証言である。
多くの悲惨とともにいかにして偉大さは形成されるものか、私はそれを
彼のうちに確かめることができると考えていた。
(ジャン・ゲーノ[著]宮ヶ谷徳三・川合清隆[訳]
『ルソー全集 別巻1 ジャン=ジャック・ルソー伝』白水社、1981年、pp.405-406)

 

じぶんのことは、じぶんがいちばん分かっているようでいて、
けしてそんなことはないようです。
だれか気になる人を見、声をかけ、じっくりつきあうことで、その人を鏡にして、
じぶんが、さらに人間が見えてくる、
ということがあるかもしれない。
ゲーノさんにとってのジャン=ジャック・ルソーさんは、
まさにそういう人だったのだと思います。

 

・花曇り眼下無音の高速道  野衾