謙虚について

 

秋田の父から電話があり、JAに収めた米がすべて一等米であったとの晴れやかな声。
ただ夏の日照りが影響し、例年に比べ、収穫量は二割減であったと。
このごろは、父と母の姿に、いろいろなことを感じ、
また、考えさせられることが多くありますが、
収穫した米の質と量を告げる父の声は、
晴れやかであると同時に、
それだけではない、
たとえば、ミレーの「晩鐘」を連想させるような響きを含んでいたと思います。
ことし92歳の父は、
六十年ほど日記をつけており、
農業の日々の労働に関してとくに役立てているようですが、
それが功を奏したのか、
二度ほど、
多収穫で表彰されたことがあったはず。
父が謙虚を学ぶのは米づくりを通してであるか
と感じます。
わたしの場合、
それにあたるのは装丁、ということになるでしょうか。
装丁に関する希望を著者に尋ねても、
とくに無いとの答えが多い。
ではありますけれど、
ことばの端端に、
薄い膜が掛けられてでもいる如く、
好き嫌いの好みがなんとなく感じられることが間々あり、
そういうときは、
直接お目にかかって面談するのがいちばん
のようです。
それが叶わないときは電話。
なにが好きで、なにが嫌い、
さらに、
どんなところが好きで、どんなところが嫌い、
また好きの理由、嫌いの理由、
それらについて、
慌てずに、ゆっくり、ていねいに相手の話に耳を傾けていると、
たとえばご本人が、
そうか、
いままで気づかなかったけれど、
自分はこんなことを感じつつ、
好きだったり嫌いだったりしてきたのか、
と話してくださる場合もある。
それは、
装丁についての好みが初めて開かれる瞬間とも言えるでしょう。
しかし、
すべてがそのように進むわけではありません。
努力、精進は大切ですが、
それが100パーセント通用するわけではない
ところに難しさと面白さがあります。

 

・沼を越え一歩一歩の秋を踏む  野衾

 

ふるさとを歩く

 

例年、八月にしているところ、ことしは進めておきたい仕事があったりで、
今月半ば、ようやくの帰省となりました。
実家の稲刈りは終っていましたが、
刈り入れの済んでいない田んぼが少なくなく、
風にゆれる稲穂に郷愁を誘われることしきりでありまして。
このごろの楽しみの一つに、
帰省しての散歩、ウォーキングがあります。
家からバス通りに出、左に折れれば井内方面、右に折れれば、旧小学校への通学路。
さてと。
というふうに歩き出す。
見慣れた風景ではありますが、
子どもの頃も含め、
いまほどじっくり味わいながら歩いたことはなかった気がします。
年を重ねたからこそかもしれません。
風と光が千変万化し、
ほーと息が漏れます。
仲台、寺沢、大麦、葹田、赤沢、八田大倉、坂本、大野地…
一歩一歩景色に見とれ、
穫れ立て炊き立ての新米をいただくように歩く。
はじめての細い道があり、
へ~、この道、こことつながっていたのか、
なんてことも…
思い出した。
農道をてくてく歩いていたときのこと、
はるか遠くに豆粒ほどの大きさの自転車を押してくる老人の姿がありました。
わたしも歩く。
だんだん近づいてきたとき、
あ!
ぱたり自転車が倒れた。
老人は自転車を起こすことなく、傍の縁石に腰かけた。
すぐそばまで辿りついたので、
「自転車、起ごしましょうか?」
と尋ねると、
「んにゃ。まだ、倒れるがら…」
との返事。
「あんだ。どごの人だ?」
と老人。
「はい。仲台のススムの息子のマモルです」
「ああ。そうですか。いづもいづも孫が世話になりまして…
今度、結婚するごとになりました。
そうですか…」
老人はどうやら、
わたしと弟を間違えているようだ。
しばらく、
よもやまの話をした後、
もう一度、
「自転車、起ごしましょうか?」
今度は、
「んだば、起ごしてもらうがな」
と言うので、
自転車を起こしてあげた。
老人は、
「どうも」とひとこと言って、帽子を取り一礼、
また自転車を押して遠のいていった。
さくら駅まで行くと言っていたけれど…
井内の人か、
はるばる大台からやってきたのか、
駅まで自転車を押して行ったのだろうか。
自転車の前の籠に小さなバッグが入っていたけれど…

 

・稲穂揺るる少年の六十年  野衾

 

人間と思想

 

大学の講義とは別に、こころざしをもって、じぶんで『資本論』を読もうと決意し、
友人といっしょに『資本論』を読む自主ゼミナールを始めました。
どうしてこんな小難しい言い方をするのだろうか。
それが、
読み始めてまず最初に感じた疑問でした。
半世紀ちかく前の話。
はは~、そういうことだったのね、と、自分なりに納得したのは、
マルクスさんの生涯を紹介してくれる本を読んだからでした。
大内兵衛さんの『マルクス・エンゲルス小伝』
だったかと思います。
ああ、こういう少年らしい疑問、義憤が、ああいう大著を書く原動力になったのね、
そう思いました。
むつかしい理論、思想といえども、
それが思想であるかぎり、人間のものですから、
人間を離れて存在するわけではありません。
思想を、
それを生み出した人間の伝記的事実から読み解こうとする方向に対し、
批判があるようですが、
それも一理あるとは思いますけれど、
伝記的事実を知ることによって、
思想の射程をとらえるのに役立つこともある気がします。

 

無についての思索としての『精神現象学』は、
ヘーゲルの自伝的要素が底音にこの上なく強く響いている著作である。
成立の状況から考えるとそれも当然であって、
これが書かれたのは、
イェーナにおける生活の危機状況が絶頂にあったときで、
貧困に苦しみ、
いつ職を失うかもしれないという不安に苛まれ、
将来の見通しが立たないために見当識を失い、
私生児の誕生を間近にしてじわじわと窮地が身辺に迫っていて、
こうしたことが重なり合って、
ヘーゲルはイェーナを離れようと考えていた。
ここ数カ月の悲惨な状況にヘーゲルは身ぐるみ剥がれた形になってしまっていた。
自殺を考えた瞬間もあった。
一八〇六年十月十四日にはイェーナとアウエルシュテットの戦いが始まって、
戦争はその恐ろしい顔を見せつけてきた。
戦場のどよめきがイェーナの町にまで聞こえてきた。
(ホルスト・アルトハウス[著]山本尤[訳]『ヘーゲル伝 哲学の英雄時代』
法政大学出版局、1999年、p.199)

 

・病院へ雲行く空の残暑かな  野衾

 

『嵐が丘』読んだどー!!

 

わたしが小学四年のとき、母が買ってきてくれた漱石さんの『こゝろ』を
二、三ページ読んで面白さを感じられず、
放っておき、
高校生になってから改めて、
持ち運びに便利な文庫本をじぶんで買って読み
衝撃を受けたことは、
これまで書いたり話したりしてきましたが、
それとちょっと似ているのがエミリー・ブロンテさんの『嵐が丘』。
『こゝろ』と同様、数ページ読んでは止め、
しばらくあいだを置いて手にとり、
パラパラページをめくっては、
読まずに本棚に収め、
そんなことを繰り返しているうちに幾星霜、
還暦をとっくに過ぎてしまいました。
読みました。
ついに。
じっさいに読んでみてどうだったかといえば、
おもしろかった。
翻訳の日本語との相性が良かったこともあったかもしれません。
小野寺健(おのでら たけし)さんの訳です。
陰陰滅滅のくら~い小説かと勝手に想像していたのですが、
そういう雰囲気がないこともないけれど、
そればかりではなく、
人情の行き交いにほろりとさせられるような場面が随所にありました。
また今回初めて読んで感じたのは、
聖書からの引用が少なくないことでした。
エミリーさんの父親が牧師で、
牧師館で人生のほとんどを過ごしたという経歴からすれば、
当然かもしれませんが、
聖書のことばがエミリーさんの人生観にどれほど影響していたかを想像し、
考えさせられました。
あと、
これはまったくのわたしの勝手な想像ですが、
春風社から刊行した
『わしといたずらキルディーン』の作者であるマリー王妃は、
ひょっとしたら、
ひょっとして、
『嵐が丘』を読んでいたのではないか
ということ。
マリー王妃は、1875年、
イギリス王室の生まれです。
1893年、ルーマニアのフェルディナンド皇太子に嫁ぎました。
『わしといたずらキルディーン』と併せ、
作者が孤独で本好きな少女だったのではないか
と想像されます。
エミリー・ブロンテさんが亡くなったのは1848年。
時系列からいえば、
マリー王妃が『嵐が丘』を読んでいてもおかしくありません。
おなじイギリスでもあるし。
キャサリンの性格描写がキルディーンに似ている気がし、
また、
リントン家のスラッシュクロス屋敷で五週間過ごしてきたあとの、
行儀のよくなった少女の描写が、
わしといっしょに過ごしたあとのキルディーンにそっくり
と感じました。
勝手な想像ですけれど。
そんなことも含め、
じつにたのしい読書でした。
し残していたこの世の務めを一つ果たしたような
そんな気持ちにもなり、
安堵しました。

 

・酷暑の行列や駅蕎麦再開  野衾

 

コツコツ型

 

母校である秋田高校の創立150周年にあたり、
『秋田高校同窓会だより 創立150周年記念臨時増刊号』に拙稿が掲載されました。
種を植え、苗を育て、時を得て収穫する農業のイメージでコツコツと。
それがどうもわたしのやり方のようで。
父も母も祖父母もそうやってきた気がします。
土井晩翠さんが作詞した秋田高校校歌の二番の歌詞に
「わが生わが世の天職いかに」
とありますけれど、
編集の仕事に就いて34年が経過しましたから、
これがわたしの天職なのでしょう。
不思議。
拙稿は以下の通りです。

 

 

張り巡らされる樹木の根

 

本を読まない子どもだった。
小学校の参観日に、ほかの子の日常を耳にした母は、あるとき、本を買ってきた。
夏目漱石の『こゝろ』。函入りの立派な本だった。
数ページで読むのを止めた。
どうしてその本だったのか、のちに尋ねたことがあるけれど、
母は、そのことをすっかり忘れていた。しかし、本の種は、このとき蒔かれた。
高校入学後、母にもらった本のことを思い出し、『こゝろ』を読んだ。
今度は読み終えた。衝撃を受けた。
『こゝろ』には友人を裏切り、
死に追いやった罪を生涯もちつづける「先生」が登場する。
この本を読んでいなければ、
その後のわたしの人生は、いまと違ったものになっていたかもしれない。
秋高の生徒たちは、みな勉強ができた。ついて行くのがたいへん。
勉強がそれほど得意でないわたしは、
これからは、なんでも、コツコツやろうとこころに誓った。
先輩や友の話に耳を傾け、語らいにこころを熱くし、
友情を知ったのも高校時代だった。
大学に入り、第二外国語としてドイツ語を選択。
定評のあるキムラ・サガラの『独和辞典』を購入。キムラ・サガラのキムラが、
木村謹治という、
大川村(現在は五城目町)出身で、
秋田高校の前身・秋田中学の卒業生であることを、あとで知った。
また、
秋高の校歌を作詞した詩人・土井晩翠も敬愛した特異なキリスト者の著作集を、
みずから出版することになるなど、当時のわたしは、知る由もない。
勤めていた出版社が倒産し、
自分で学術書の出版社を起こして二十年が過ぎたころ、
夏目漱石の研究をライフワークとする著者の本を編集し出版、
書名を『漱石論集 こゝろのゆくえ』
とした。
程なくして、同窓会から声をかけていただき、
いま、母校の百五十周年を記念する『新先蹤録』の編集に携わっている。
高校の三年間は、あとから思えば短いけれど、
その後の人生を指し示し、
やがて寛ぎと安らぎの影をなす樹木の根が、
大地の各所に張り巡らされ始めていたと思わずにいられない。

 

・鰯雲むしやくしや腹に収まらず  野衾

 

先蹤について

 

今月初めに『新先蹤録 秋田高校を飛び立った俊英たち』を刊行しました。
秋田高校は、わたしの母校。
同校の創立150周年を期して、同窓会からの依頼により、
編集に加えさせていただきました。
同窓会に納めたものと内容は同じですが、
装丁を変え、市販もしています。
コチラ
38名のライフヒストリーをまとめたもので、
先蹤(せんしょう)は先人の事跡。
「蹤」は足あと。
先人、先輩の足あとを辿りながら自分の人生を考えてみよう、
との気持ちが書名に表れています。
「新」が付いているのは、
130周年の際に『先蹤録』が刊行されているから。
一般に、
ライフヒストリー、伝記のたぐいを読んでおもしろいのは、
それぞれジャンルは違えども、
なにをどのように選択していったのか、
そこに個性があらわれている気がするから、
かな?
自分だったらどうするだろうと、
ページをめくる手をしばし止めて考えたり。
小学校、中学校の図書室には伝記のコーナーがあったような。
自慢になりませんが、
一冊も借りたことがありません。
本を読まない子どもでした。

 

キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、
その足跡に従うようにと、
あなたがたに模範を残された。
(『新約聖書』「ペテロの手紙 第一」第2章21節)

 

・赤とんぼ顔を傾げて滝の上  野衾

 

ふるさと散歩

 

例年なら八月にするところ、仕事上、進めておきたいこともあり、
ひと月ほど遅れての帰省になりました。
ふるさとに帰って楽しみなのが散歩でありまして、
本でいうなら、再読にちかいでしょうか。
九月のこの時期はまさに稲刈りのシーズンで、
青空の下、みのった稲穂が風にゆれ、黄金色に広がっています。
家を出て、左へ行くもよし、右へ行くもよし、風の吹くまま気の向くまま。
一歩一歩がうれしく、たのしく、
気がはずんできます。
山崎さんの家を過ぎれば、あとは建物がなく、
記憶のなかの坂道、沼、蛇行する道の景色が目の前に展開し、
すきな詩を読みかえすような味わいは、
たとえようがありません。
ひかり、ひかり、ひかり、どこもかしこも、
なにもかも、
ひかりに溢れ、ひかりに満ちています。
ひかりを浴び、ひかりをすくい取り、ひかりをいただきます。
景色が景色でなくなる瞬間、
わたしは呆然と立ちすくみます。

 

・棒を離れまた棒の先赤とんぼ  野衾