「あべ」について

 

今回の帰省中、もう一つ気になった秋田のことばがありました。
それは、「あべ」。
「あべ」って何?
安部さんや阿部さんの「あべ」でなく、
動詞としての「あべ」。
歩行が困難になった母を誘い家族でドライブを、
という弟の考えを、
はじめは了解していたのに、
当日の朝になって、じぶんは行きたくない、行かない、と渋りはじめた。
弟とわたしが懸命に説得し、計画どおり、
けっきょく行くことになり、
結果、
とてもたのしい二時間のドライブになりましたが、
ゴネる母の気持ちを変えようとして、
不意に出たことばが
「あべあべ!」。
共通語に訳すと「行こう行こう!」となるでしょうか。
辞書に載っているとすれば終止形のはずなので、
それと睨んで「あぶ」を『秋田のことば』で調べてみたら、
ありました。
「あ」と「ぶ」の間に「ん」が小さく記載されています。
意味は、
「歩(あゆ)む」。
「幼児が歩き出すことをいう」ともあります。
それで合点がいった。
「幼児が歩き出す」ですから、
ただ「歩く」ではなく、
いままで這っていた幼児が「やっと」「ようやく」歩き出す、
そのようなニュアンスを含んでいると思われます。
ですから、
あの日、母を誘って外へ連れ出そうとしたとき、
家でじっとしていないで、
重い腰を上げ、いっしょに行こうよ「あべあべ!」となったのだと思います。
ことばを置き換えるとき、
ニュアンスがとてもだいじであることを改めて思い知らされた。
ニュアンスに「こころ」が潜んでいるようです。

 

・老父の寝息や蜂の羽音止まず  野衾

 

「ごしゃぐ」について

 

これまた今回の帰省の際、耳にのこったことばに「ごしゃぐ」があります。
母が朝食後の薬を飲んで、ほどなく、
「あれ! クスリ、飲んだけが?」と口にした。
すかさず父が、
「なだど。いま飲んだねが! えっちに忘れだぢが?!」
ちなみに、
「えっちに」とは「早くも」「もうすでに」
ぐらいの意。
父のことばがけっこうきつく響いたらしく、
母は
「そたにごしゃぐなよ」。
そういう場面で「ごしゃぐ」が使われていた。
意味は「怒る」。
秋田県教育委員会編、無明舎出版刊の『秋田のことば』によると、
「ごしゃぐ」の語源は「後世を焼く」。
後世とは、この世に対しての「あの世」。
ですから「後世を焼く」とは、
自身のあの世の生を焼き滅ぼす、という意味になるでしょうか。
つよく怒ると、あの世の生を失くしてしまうよ、
だから、あんまり怒りなさんな…。
そんなニュアンスの、
怒る行為に対しての戒めを含むことばのようです。
ところで。
ある方から質問されましたので、
注記しておきます。
きのうのブログ中の「尻子玉」は「しりこだま」
と読みます。

 

・鷺ゆく夏母の忘れをごしやぐなよ  野衾

 

「だんこ」について

 

歩行が困難になった母が、お尻を床にズリズリさせながら進むようになって以来、
おのずと、お尻のことが母の会話に上るようになりました。
いわく、
こうやって進むので、ズボンのお尻の辺りが破けてしまうこともある、云々。
秋田弁では、
こうやって進むがら、ズボンのだんこのあだりがやぶげでしまうごどもある、云々。
ということで、
わたしの地方では、お尻=だんこ。
秋田県教育委員会編、無明舎出版からでている『秋田のことば』
に、
ちゃんと載っていました。
いわく、
「「玉こ」。人の肛門の口にあると想像された玉が「尻子玉」で、
水中でこれをカッパに抜かれると臓腑まで食われると信じられた。
方言では省略形「だまこ」を採用し、さらに「だんこ」に変じたものであろう。
一説、「脱肛」からの変化だという。」
記憶で恐縮ですが、
尻子玉が河童に抜かれる話は『和漢三才図会』にもあったような。
尻子玉⇒「尻」脱落⇒子玉⇒逆転⇒玉子⇒だんこ。
こういうことでしょうか。
一説にある「脱肛」からの変化というのは、
音としては「だんこ」に似ているけど、
わたしとしては、
尻子玉説のほうが好きだなぁ。
好奇心旺盛だった少年時代の父が、
学校近くを流れている川に河童が棲んでいるらしいといううわさが本当かどうか、
それを確かめに川べりを探索した、
そんな話を以前父から聞いたことがあります。
そういうわけで、
子どもの頃からあたりまえに使ってきたことばに、ある時、
ふと、立ち止まるように、
その語源をさぐると、
思わぬ発見があり、なんだか楽しくなります。

 

・ぽつかりの雲行く蜂の羽音かな  野衾

 

母からのメッセージ

 

GWの後半、3日からきのうまで帰省しました。
92歳の父と88歳の母は、日々の一つ一つの行い、判断に奮闘しています。
歩行が困難になった母が、
お尻を床にズリズリさせながら進む姿は、
かわいそうでありますけれど、
賢明なこころの形を無言で示してくれているようです。
わたしの半生を振り返るたびに思うのは、
小学四年生のときに、
母が買ってくれた夏目漱石の『こゝろ』のこと。
のちに、
どういう理由から、どこで、
ほかの本でなく、なぜその本にしたのか、母に尋ねたことがありますが、
母は、一切記憶していませんでした。
夏目漱石がどういう人物なのか、
おそらく母は知らないはず。
こたえのない問いであり、
ここに人生の不思議を感じるわけですけれど、
ほとんど終日、
ソファに座っているいまの母の姿は、
本人も意識しない、
「こころ」そのもののようにすら思います。
たびたび体をねじり、
ソファのすぐ後ろの障子を開け、
外の景色を見やる姿は、かぎりなく少女に近づいていくようです。

弊社は、本日より通常営業となります。
よろしくお願い申し上げます。

 

・ふるさとの新緑や山々に雲  野衾

 

人に向かうに

 

新井奥邃(あらい おうすい)さんは「謙虚」ということば、おこない
をたいせつにされました。
己を虚しくしてへりくだることを「謙虚」といいますが、
これに関して『聖書』にいくつか記事があります。
たとえば、
「マタイによる福音書」の第23章11節と12節に、

 

あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

 

「長」のつく人が偉いわけではないけれど、
「長」がつくと、他人はともかく、おごったこころで自ら偉いと思いがち
なところがありそう。
ですので、
こころすべきことばだと思います。
とくに、
引用した文言の、
「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされ」
ということばは胸に刺さります。
一言でいえば「謙虚」
ということでしょうけれど、
まさに「言うは易く行うは難し」でありまして、
なかなかむつかしい。
仕事でもプライベートでも、
このごろ、
つぶやくように心がけていることがあります。
それは、
「ひとを恐れず、嘆かず、我を張らず」。
恐れなければいけないものは
ほかにあるでしょうし、
『新井奥邃著作集』を出版している会社の「長」として、
まず肝に銘じておく必要を感じます。

弊社は、4月27日(土)より5月6日(月)までGW休業とさせていただきます。
よろしくお願い申し上げます。

 

・種よこころ開けよ満天星の花  野衾

 

仕事を時間で割らない

 

以前勤めていた出版社にちょうど十年いました。
その間に習い覚えたことが、いろいろな面で今につながっています。
社長は、いくつかの職種を経て出版社を起こした人で、
仕事とは何か、働くとは何か、
をつねに考えているようなところがありました。
印刷や製本にかかわる人へ社長が書いた指示書をあるとき見せてもらった
ことがありますが、
それを見、読んだ人がもしミスするとしたら、
それは、
指示した側でなく、
明らかに指示された側のミスであると考えざるを得ない、
そういう徹底した指示書で、
驚きました。
ミスするときの人のこころへの洞察があった
と思います。
社長の発したことばで憶えているものに、
「仕事を時間で割ってはいけない。時間を仕事で割りなさい」
があります。
大切な訓えであると、今もときどき思い出します。
アレもしたいコレもしたい、
ということがあれば、
仕事に割ける時間は限られてきます。
そうすると、
目の前の仕事を何時間でこなせるか、
というようなアタマの働き方になってしまいがち。
そんなとき、何をどう考えるか。
考えなければいけない問題、工夫は、一つではないと思います。
残業すればいい、
というものでもないでしょう。
仕事とは何か、働くとは何か、余暇とは何か、自分とは何か、人のこころはどうか。
ほかにもいろいろありそうです。
そうだ。
月一回のペースで行われていた宴席で発した社長のことば
も忘れがたく憶えています。
「あたながたは、文学とか芸術とかを深いと思っているかもしれないけど、
仕事もけっして浅くない。
音楽や美術や建築と同じように深いものだと思う。」

 

・四月来ペンキぬりたてペンキの香  野衾

 

本の手ざわり

 

これも加齢によるところ大の気がしますけど、
物に触れたときの感触、
また、
それによって引き起こされる気持ちのあり様が以前と比べ、
すこし変化してきたようです。
指紋の山の出っ張りが取れ、
山があるにはあるけれど、
だんだん平らに近づいているとでも申しましょうか、
それと関係があるか、
ないか。
定かではありませんが、
ともかく変ってきた。
本を読む際に、内容はもちろんですが、
若いときから、おおむね、少しざらついた紙の感触を楽しんできました。
すぐに思い出すのは、
中村吉治さん編著の『村落構造の史的分析――岩手県煙山村』。
わたしが読んだのは、
御茶の水書房版だったと記憶しています。
表紙が藁みたいな手ざわり、
日本経済史のゼミにいたこともあって、
おもしろかったけど、
あの藁みたいな表紙の感触は、
内容をはるかに超えて好きだった気がします。
本を読むとき、
手ざわりはとっても大事、
このごろ、とみに感じるようになってきました。
筑摩書房から出ていた箱入りの臼井吉見さん著『安曇野』もたしかそうだった。
ところが、
このごろ表面がつるつるの
PP(ポリプロピレン)加工された文庫本が、
あれ!? この感じ悪くないな、
と思えてきた。
そのときの気持ちをいえば、
エスカレーターの横のベルトをつかんだときの少し冷んやり
とした感触に近く。
指紋が取れてきたので、
じぶんのからだ以外の物との密着度が高まった、
そんな気もし、
文庫本を手にしているとき、
とくに、
左の片手で持って読んでいるときの感触が若いときと明らかに
ちがっている。
このごろの小さい発見です。

 

・さざなみのひかり四月の三渓園  野衾