プルタルコスさんとロフティングさん

 

秋田のわたしの家にはかつて馬がいて、子どもの頃は、馬も家族の一員でした。
わたしの弟は、
馬に餌をやるとき、指をピンと伸ばしていなかったせいで、
指先を噛まれ、もがれてしまったことがありました。
馬が悪かったわけではない。
弟もそれはじゅうぶん知っていて、
もがれた指の痛さより、
家族に知られたくなくて必死にこらえたのではなかったか。
いまでは、むかしむかしの思い出だけど、
ことほど左様に、
馬は、弟にとっても、わたしにとっても、かけがえのない存在でした。
なので、
春風社を起こしてから、
近所の女の子から薦められ、
ロフティングさんの『ドリトル先生』を読んだとき、
そこに出てくる年取った馬の話は、
とても印象に残って忘れることができません
けれど、
プルタルコスさんの『英雄伝』を読んでいたら、
馬の話が出てきて、
主役のマルクス・カトーさんよりも、
プルタルコスさんの馬に対する思いの強さ深さとして、
きっと忘れられず、
これから何度も思い出すことになるだろう
と思います。

 

そもそも生命あるものを、履物や道具のように使うべきではない。
さんざん使って擦り切れたからといって、
捨ててしまうのはよろしくない。
ほかに理由がないにしても、博愛の精神を養うために、
こういう事柄に関して温和、かつ情け深い心を抱く習慣をつけるべきである。
少なくともこの私は、
働き手だった牛を、もう年だからといって手放したりはしない。
ましてや、
年をとった人間を、
その人が育った所や、慣れ親しんだ生活という、
言わばその人の祖国とも言える所から、
わずかばかりの金のために引き離すとか、
売り手にとって役に立たないものなら買い手にとっても役に立つはずがないものを売る
とか、
そういうことはしたくない。
しかるにカトーは、
この件に関しては若者のようにいきり立って、
執政官としていくたびかの戦いに使った馬をイベリアに遺した。
そして、これは、
この馬の運賃を国家に払わせないようにするためだった
と言った。
これを彼の誇りと見るか、
それとも吝嗇りんしょくの現われと見るか、
各自納得の行く論議に従えばよい
と私は考える。
(プルタルコス[著]柳沼重剛[訳]『英雄伝 3』京都大学学術出版会、2011年、
pp.60-61)

 

訳された柳沼さんは解説で、プルタルコスさんを
「常識に富んだ教育者」とされており合点がいきます。
上で引用した箇所も、プルタルコスさんにとって「常識」のひとつかもしれません。
そして、
こういう文章を読むことにより、
翻訳してくださった柳沼さんの仕事により、
生成AIのよくわからない時代に生きているわたしは、
二千年ちかく前の時代に生きたプルタルコスさんを身近に感じることができ、
そのこころ根に感動を覚えます。
これも大きな読書の喜びです。

 

・冬凪や良き地へ招く汽笛かな  野衾