十年ほどまえ、いや、十年は経たないか。数年まえ。
カルヴァンさんの『キリスト教綱要』を読みました。ぶ厚い立派な本で、
三巻ありました。
アタマでも読みましたが、カラダでも読んだ。
カラダでも、というのは、訳がありまして、
読んでいるうちに、なんだか、胸苦しくなり具合が悪くなった。
なので、
読んだ本、読んでいる本について、
ほかの本と同様に、
なんらかこのブログに書いてもよさそうなのに、
『キリスト教綱要』については、触れなかった気がします。
触れたかもしれないけど、
忘れた。
忘れていいと思っています。
わたしには合わなかったのでしょう。
『キリスト教綱要』は、組織神学の書物として、たしかに優れているかもしれないけど、
体調がおかしくなったことは事実。
いまの時点で振り返って、
あのときのじぶん、
じぶんのこころと体が感じたことをことばにすれば、
あの本は、
「正しさ」にこだわり過ぎている
ように思います。
「正しさ」を前にすると、
こわい先生の面前で、
緊張し起立しているじぶんを想像してしまう。
勉強したり、学んだり、修行するのは、
「正しさ」を求めてのことが大きいと思いますけど、
それを求めているうちに、
「正しさ」よりも、「正しさ」を求めるじぶんが可愛くなる。
だもんだから、
「正しさ」に執着し、しがみつく。
これがいちばん危ないよ。
そんな気がします。
「正しさ」を求めるのはいいとして、
「正しさ」を超えた正しさがあるかもしれないのに。
じぶんが正しいと思っても、
確信はしない。
盲信はしない。どこかで諦める。
それは、たとえば、
綿密な授業案をつくって授業に臨み、しかし、授業本番では、授業案を捨ててかかる、
ことに似ているかもしれない。
ワークショップに臨んだピーター・ブルックさんが、
予定してきたアイディアを捨ててかかって、はじめて目の前の参加者の顔が見えた、
ことに似ているかもしれない。
またマルティン・ブーバー少年が、
馬と一心同体だったのに、
あるとき馬の毛並みというのは、なんて気持ちいいんだろうと、
じぶんの気持ちを意識し始め、それからというもの、
馬にそっぽを向かれた、
ことと関連しているかもしれない。
すべて、
「正しさ」にしがみつくことの落とし穴を指し示し、
「正しさ」にしがみつかない極意と響いている気がします。
道端のたんぽぽさんに、
こんにちは。
・遠回りしてやうやくの五月かな 野衾