たとえについて

 

たとえのことを比喩といったり、譬喩といったりします。
読みはどちらも、ひゆ。
『新約聖書』を読むと、
イエスが、たとえをもって話をする場面がたびたび出てきます。
弟子たちが、
このたとえはどういう意味でしょうか、
とイエスに質問すると、
イエスは、
「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、
ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、たとえで話すのである」
なんてことをおっしゃる。
こういう箇所を読むと、
ちょっと意地悪な印象を持つわけだけど、
なるほどと納得したり、おもしろくも感じます。
奥義を悟られないためにイエスがたとえをもって語っても、
奥に隠された意味を
イエスは説き明かしてくれますから、
なるほどそうか、そういう意味か、
と腑に落ちる。
しかし、
そこで、ふと思う。
世にいろいろなたとえがあるじゃないか。
そうすると、
たとえには、『聖書』を離れ『聖書』とは関係なく、
隠された意味があるかもしれない、
あるのではないか、
だとしたら、
どんな意味が隠されているのだろう。
それを考えるのは、
たのしいことなのではないか。
漢字の譬喩(ひゆ)の「譬」も「喩」も一字で「たとえ」と読むけれど、
「喩」には、
「さとす」「さとる」の意味があり、
さらに
「こころよい」「たのしむ」「やわらぐ」「やわらぎよろこぶ」
という意味もある。
だとすると、
たとえ、もっと広くいうと、ものがたり
というのは、
味わい楽しみ
(それで十分なわけだけど)
欲ばって、
たとえに隠された意味をさぐり、さとる、
そういうこころや楽しみ方も譬喩にはありそうだ。

 

・夏の空神話と譬喩を産む日かな  野衾