ちょっとまえ、と言っても、だいぶ経ちますが、
大川栄策さんが歌う「さざんかの宿」がヒットしました。
大川栄策さんは、好きな歌手の一人ですが、
「さざんかの宿」をカラオケで歌ったことはありません。
わたしの義理の叔父が、よく酒の席で朗々と歌い上げていました。
応援歌を歌うような、その朗々たる歌い方が、
歌詞から受けるイメージとちがっていて、笑った。
「さざんかの宿」の歌いだしは、
「くもりガラスを手で拭いて」であります。
手で拭いて、ですから、内と外の気温差によって曇ったガラスのことを言っている
のでしょう。
歌いだしのその歌詞を、ふと思い出しました。
というのは、
人と接していて、
相手のことばを耳にするとき、
ことばは、内にあるものを垣間見せてくれる窓のようなものかな、
と思ったからです。
人と人とのつながりは、
内と外の気温差によって曇らされたガラスのようなもの?
そんな気もします。
一般に、人間と人間との関係のなかには、
わたしたちが通常みとめているよりも、はるかに多くの神秘がひそんでいる
のではないだろうか?
何年もまえから毎日いっしょにくらしている相手であっても、
ほんとうにその人を自分が知っているとは、
わたしたちのだれも主張するわけにはいかない。
わたしたちはどんなに親密な人たちにも、
自分の内的体験をつくりあげているものの断片しか伝えることができない
のである。
全体を示すというようなことはできないことだし、
できたとしても、
相手がそれをとらえることはできないだろう。
わたしたちは、
互いに相手の顔形をはっきり見わけることのできない薄暗がりのなかを、
いっしょに歩いているのだ。
ただ、ときおり、
わたしたちが道づれとなにかを経験したり、
互いにことばをかわしたりすることによって、
一瞬のあいだ、
稲妻に照らし出されたように、わたしたちのそばにその道づれのいることがわかる。
そうしてそのときわたしたちは、
相手の様子を見てとる。
が、
それからまた、
おそらく長いあいだ、暗がりのなかを、ならびあって歩いて行く。
そして相手の顔形を思いうかべようとしても、
それができない。(生い立ちの記)
(アルベルト・シュヴァイツァー[著]浅井真男[編]『シュヴァイツァーのことば』
白水社、1965年、pp.307-308)
・映画館出でてこの世の新樹光 野衾