人に向かうに

 

新井奥邃(あらい おうすい)さんは「謙虚」ということば、おこない
をたいせつにされました。
己を虚しくしてへりくだることを「謙虚」といいますが、
これに関して『聖書』にいくつか記事があります。
たとえば、
「マタイによる福音書」の第23章11節と12節に、

 

あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

 

「長」のつく人が偉いわけではないけれど、
「長」がつくと、他人はともかく、おごったこころで自ら偉いと思いがち
なところがありそう。
ですので、
こころすべきことばだと思います。
とくに、
引用した文言の、
「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされ」
ということばは胸に刺さります。
一言でいえば「謙虚」
ということでしょうけれど、
まさに「言うは易く行うは難し」でありまして、
なかなかむつかしい。
仕事でもプライベートでも、
このごろ、
つぶやくように心がけていることがあります。
それは、
「ひとを恐れず、嘆かず、我を張らず」。
恐れなければいけないものは
ほかにあるでしょうし、
『新井奥邃著作集』を出版している会社の「長」として、
まず肝に銘じておく必要を感じます。

弊社は、4月27日(土)より5月6日(月)までGW休業とさせていただきます。
よろしくお願い申し上げます。

 

・種よこころ開けよ満天星の花  野衾

 

仕事を時間で割らない

 

以前勤めていた出版社にちょうど十年いました。
その間に習い覚えたことが、いろいろな面で今につながっています。
社長は、いくつかの職種を経て出版社を起こした人で、
仕事とは何か、働くとは何か、
をつねに考えているようなところがありました。
印刷や製本にかかわる人へ社長が書いた指示書をあるとき見せてもらった
ことがありますが、
それを見、読んだ人がもしミスするとしたら、
それは、
指示した側でなく、
明らかに指示された側のミスであると考えざるを得ない、
そういう徹底した指示書で、
驚きました。
ミスするときの人のこころへの洞察があった
と思います。
社長の発したことばで憶えているものに、
「仕事を時間で割ってはいけない。時間を仕事で割りなさい」
があります。
大切な訓えであると、今もときどき思い出します。
アレもしたいコレもしたい、
ということがあれば、
仕事に割ける時間は限られてきます。
そうすると、
目の前の仕事を何時間でこなせるか、
というようなアタマの働き方になってしまいがち。
そんなとき、何をどう考えるか。
考えなければいけない問題、工夫は、一つではないと思います。
残業すればいい、
というものでもないでしょう。
仕事とは何か、働くとは何か、余暇とは何か、自分とは何か、人のこころはどうか。
ほかにもいろいろありそうです。
そうだ。
月一回のペースで行われていた宴席で発した社長のことば
も忘れがたく憶えています。
「あたながたは、文学とか芸術とかを深いと思っているかもしれないけど、
仕事もけっして浅くない。
音楽や美術や建築と同じように深いものだと思う。」

 

・四月来ペンキぬりたてペンキの香  野衾

 

本の手ざわり

 

これも加齢によるところ大の気がしますけど、
物に触れたときの感触、
また、
それによって引き起こされる気持ちのあり様が以前と比べ、
すこし変化してきたようです。
指紋の山の出っ張りが取れ、
山があるにはあるけれど、
だんだん平らに近づいているとでも申しましょうか、
それと関係があるか、
ないか。
定かではありませんが、
ともかく変ってきた。
本を読む際に、内容はもちろんですが、
若いときから、おおむね、少しざらついた紙の感触を楽しんできました。
すぐに思い出すのは、
中村吉治さん編著の『村落構造の史的分析――岩手県煙山村』。
わたしが読んだのは、
御茶の水書房版だったと記憶しています。
表紙が藁みたいな手ざわり、
日本経済史のゼミにいたこともあって、
おもしろかったけど、
あの藁みたいな表紙の感触は、
内容をはるかに超えて好きだった気がします。
本を読むとき、
手ざわりはとっても大事、
このごろ、とみに感じるようになってきました。
筑摩書房から出ていた箱入りの臼井吉見さん著『安曇野』もたしかそうだった。
ところが、
このごろ表面がつるつるの
PP(ポリプロピレン)加工された文庫本が、
あれ!? この感じ悪くないな、
と思えてきた。
そのときの気持ちをいえば、
エスカレーターの横のベルトをつかんだときの少し冷んやり
とした感触に近く。
指紋が取れてきたので、
じぶんのからだ以外の物との密着度が高まった、
そんな気もし、
文庫本を手にしているとき、
とくに、
左の片手で持って読んでいるときの感触が若いときと明らかに
ちがっている。
このごろの小さい発見です。

 

・さざなみのひかり四月の三渓園  野衾

 

季節の恵み

 

秋田のわたしの実家では、おととい、稲の種蒔きが終りました。
種蒔きの「蒔」は、
くさかんむりに時(とき)。
まさに蒔くに時があり、ということになるでしょうか。
二十四節気では先週金曜日、
19日が穀雨の始まり。
ことしは、
4月19日から5月4日までが穀雨の期間です。
穀雨とは、
春の雨が百穀をうるおす、の意。
また、
二十四節気とはべつに、七十二候というのがありますが、
それでいけば、
4月19日から24日までは第十六候の葭始生(あしはじめてしょうず)。
葭(あし)は、
葦(あし)のまだ穂の出ていないもの。
葦(あし)・蘆(あし)・葭(あし)はイネ科の多年草。
世界でもっとも分布の広い植物のひとつ
とされています。
この季節のめぐりに思いをいたせば、
じつに巧くできているものと感動せずにいられません。
春の雨が降り、慈雨となって地に浸み込む。
それが百穀をうるおし、
しているうちに、やがて芽を出し始める。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の働きでありましょうか。
『旧約聖書』「イザヤ書」第11章1節には、
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」
とあります。
自然の恵み、季節の恵みを十分に量り知ることは、
人間には不可能な気がします。
きのう『春風新聞』第33号ができました。
写真は「角ぐむ葦」。
どうぞご覧くださいませ。

 

・新緑に古民家カフエの華やぐよ  野衾

 

お銭《あし》のこと

 

中野好夫さん訳『デイヴィッド・コパフィールド』のなかに、
「お銭」また「お金」と書いて、
「銭」や「金」に《あし》と振り仮名が付されている箇所がありました。
それを目にし、
学生のころのことが、俄かに思い起こされました。
芳賀先生とおっしゃったかな、
大教室の講義の初回だったと思います。
はじめての回ですから、
自己紹介的な、やわらかい話のなか、
かつての学生が、外国語の文献を日本語に訳しながらの授業だかゼミだか
のなかで、
ある単語を「おあし」と訳したのだとか。
芳賀先生、ニコニコしながら、
「おあしはまずいでしょう。おかねでもちょっとね」。
芳賀先生は、
そのことばにつづけて、経済学の本なので、
「貨幣」「金銭」と訳してほしかった、
みたいなことをおっしゃったのかもしれませんが、
そこのところの記憶はあいまいで、
ああ、
おかねのことを「おあし」というのか、と思ったことだけ
憶えています。
「おあし」なんて言い方、
そのころは知りませんでしたから。
『広辞苑』で「足」を引くと、
うしろのほうに、
「(足のようによく動くからいう)流通のための金銭。ぜに。おかね。」
という説明があります。
『デイヴィッド・コパフィールド』を
中野さん訳で読んでいなければ、
芳賀先生のあのエピソードは、
思い出されずじまいだったかもしれません。

 

・飛び立つ鳥や川面にさす緑  野衾

 

ピンクのランドセル

 

きのうのことです。朝のルーティンを終え、コーヒーカップを持ち、
ぼんやり外を眺めていたら、
ランドセルを背負った少女が、坂を下りて行きます。
少女がどこのどなたか知りませんが、
彼女が背負っているピンク色のランドセルは、数年前から目にしていますから、
よく知っています。
かわいいピンクのランドセル。
初めて目にしたのは、
小学校に入学したときだったかもしれません。
小走りで坂を下りて行くと、
ランドセルがユッサユッサ、逆さの小さな放物線を描いて揺れますから、
その逆さ放物線のかたちが笑ったときの人の口元
に見えたものです。
はは、ピンクのランドセルが笑っているよ!
以来、何度見たでしょう。
見れば、
これから学校か、と、送り出すような気持ちになりました。
きょうの授業は何かな?
好きな教科は?
コロナのときはどうだっただろう。
休校になったことがあったかもしれない。
彼女自身はどうだったでしょう。
コロナの猛威が一段落し、
友だちとも笑って会えるようになったかな。
昼休みにドッジボールをしてるかな。
きのう、
ピンクのランドセルを目にしながら、
いろいろ想像がふくらみました。
少女の背は高くなり、
ランドセルは、左右に揺れることなく、
ピッタリのサイズ感で少女の背に負われ坂を下りて行きました。

 

・暁烏鳴く蕭条に花の雨  野衾

 

小説の効能

 

仕事柄、学術書を読むことが多く、個人的にも好きなものですから、
むつかしくて、どれだけ理解できているか心もとないのに、
わたしなりの小さい発見があったりすると、
ああ、きょう生きてて良かったなぁ、
と思える瞬間がたまにあり、
椅子の横に、
ついつい、
その類の本がつみ重なっていきます。
そういう日常のなかで、
いろいろ思考が折り重なった結果、ここひと月ばかり、
小説を読んできました。
ディケンズさんとオースティンさん。
月並みですが、
小説は、いいなあ、って思いました。
笑ったり目頭を熱くしながら、
こころの凝りがほぐれていくと申しますか、とかされていく感じ
とでもいうか。
だいぶ前になりますけれど、
しりあがり寿さんの漫画を読んだとき、
そのなかに、
歳をとると、しょっぱくなる、みたいな文言があった
と記憶しています。
しりあがりさんのことばを借りれば、
小説は、
しょっぱくなった老いの塩気を薄くしてくれる
ようにも思いますので、
眉間に皺を寄せないためにも、ときどき小説を読もうと思います。

 

・万象が薄むらさきの四月かな  野衾