いのち短し

 

「人生100年時代」ということばを、このごろ耳にするようになりました。
人生が50年ぐらいのときと比べると、
いろいろ違いが出てきそうではありますが、
こころがまえとしては、
あまり変わらないのじゃないか、という気もします。

 

多数の人々が次のように言うのを聞くことがあろう。
「私は五十歳から暇な生活に退しりぞこう。六十歳になれば
公務から解放されるだろう。」
では、
おたずねしたいが、君は長生きするという保証でも得ているのか。
君の計画どおりに事が運ぶのを一体誰が許してくれるのか。
人生の残り物を自分自身に残しておき、
何ごとにも振り向けられない時間だけを良き魂のために当てることを、
恥かしいとは思わないか。
生きることを止める土壇場どたんばになって、
生きることを始めるのでは、時すでに遅し、
ではないか。
有益な計画を五十歳・六十歳までも延ばしておいて、
僅かな者しか行けなかった年齢から始めて人生に取りかかろうとするのは、
何と人間の可死性を忘れた愚劣なことではないか。
(セネカ[著]茂手木元蔵[訳]『道徳論集(全)』東海大学出版会、1989年、p.241)

 

セネカさんは、紀元前4年ごろに生まれ、紀元後65年に亡くなっており、
当時にしてみれば、けして短命とはいえないでしょう。
自殺に追い込まれていなければ、
もっと長生きだったかもしれません。
上で引用した文章は、
他人に向けて書いているようで、
実は、セネカさん本人に向けて発したことば
であるようにも思います。

 

・新しき年度の自戒急ぐなよ  野衾