ラザロの復活

 

ドストエフスキーさんの『罪と罰』を初めて読んだのは、大学に入ってから
だったと思います。
ドストエフスキーさんを読み始めたのは
そりより前、
たしか高校一年生のときで、
最初が『虐げられし人々』だったことはよく憶えています。
「虐げられた」でなく「虐げられし」。
その流れで一連のものを文庫で読みましたから、
そのとき『罪と罰』も読んだような。
読まなかったような。
記憶が定かでありません。
ともかく。
『罪と罰』中、いちばん印象に残っているのが、殺人を犯したラスコーリニコフと、
ラスコーリニコフの恋人ソーニャが語り合う場面。
ソーニャは家計のために娼婦になっている。
そこで『聖書』「ヨハネによる福音書」にでてくる「ラザロの復活」
が取り上げられます。
ソーニャにとって、
「ラザロの復活」がいかに大切なものであるか、
日々こころの糧になっているかが切々と伝わってきます。
再読したときも、
そこがいちばん印象深かった。
デンマークの映画監督カール・ドライヤーさんの映画『奇跡』を観、
その印象はさらに深まりました。
さて。
ただいま中野好夫さん訳の『デイヴィッド・コパフィールド』
を読んでいるところですが、
この本にも
「ヨハネによる福音書」の同じ箇所を下敷きにしての物語が展開されます。
「ラザロの復活」そのものではありませんが、
あきらかにそのところを踏まえてい、
中野さんは訳注で、それを示しておられる。
主人公デイヴィッドの愛する妻ドーラが病気でだんだん衰弱していくシーン。

 

ドーラがやがていなくなる――私は、そのことがわかっているのだろうか?
みんなは、そう言う。
別に新しい、変ったことは、なんにも言ってくれない。
だが、私自身には、どうにもそのことがぴったりこないのだ。
自分のものにすることができないのだ。
今日は、何度か席をはずして、泣いた。
私は、
あの生者と死者との別れのために泣いた人
のことを思った。
(チャールズ・ディケンズ[著]中野好夫[訳]
『デイヴィッド・コパフィールド』新潮文庫(4)1967年、p.229)

 

「あの生者と死者との別れのために泣いた人」
とは、イエス・キリスト。
「ヨハネによる福音書」のその箇所を引くと、

 

マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、
その足もとにひれ伏して言った、
「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、
わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。
イエスは、
彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、
激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、
「彼をどこに置いたのか」。
彼らはイエスに言った、
「主よ、きて、ごらんください」。
イエスは涙を流された。

 

『虐げられし人々』から始まった欧米の小説の読書ですが、
若気の至りか、傲慢にも、
「なんだ、どれも『聖書』の解説書みたいじゃないか」と感じ、
それなら、本家の『聖書』を読むにかぎる、
なんてことを思ったっけ。
不遜な感じ方だったとは思いますけれど、
いま『デイヴィッド・コパフィールド』を読むと、
「ラザロの復活」はもとより、
この作家も、いかに『聖書』を読み込み、
自家薬籠中のものとし、
じぶんの作品に取り込んでいるかに改めて驚かされます。

 

・下り来たるビルの抜け道春嵐  野衾