コーヒーの音

 

朝、このブログを書いて、ルーティンのツボ踏みをやったら、つぎはコーヒー。
ほかの方式でも淹れたことはありますが、
理科の実験みたいで楽しくもあり、
いまはもっぱらサイフォンで淹れています。
ツボ踏みを終えてもまだ外は暗く、遠くにクルマの走る音が聞こえたり、
朝早い烏が鳴いたりしますが、
総じていたって静か。
奥邃先生は静黙を尊びましたが、真似したいと思います。
このごろ気づいたことがありまして。
挽いた豆をロートのお湯の中に投入してから、
竹べらで二度かき回し、
二分三十秒でアルコールランプの火を止め、
ロートからフラスコにコーヒーが落ち切るのを待って出来上がり
となるわけですが、
カップに移した出来立てのコーヒーを口にする前に、
サイフォンを洗います。
サイフォンを持って台所に向かうとき、文字で書くと、サワサワサワ、
みたいな音が聴こえて立ち止まりました。
ロートに耳を近づけます。
サワサワサワサワ。
淹れたあとの砕けたコーヒー豆から、その音が出ています。
しばらく耳を傾けます。
は~。
香りと味、だけでなく、コーヒーには音もあるのか。
え~と、
いまは、ブラジルの農園で栽培した豆とケニアの農園で栽培した豆
をつかっているので、
行ったことのない国の風土を想像してみます。
しばらくコーヒーの音を堪能し、
サイフォンを洗ってから部屋に戻り、
やっとカップを手にし、
じぶんで淹れたコーヒーを口にする。
あっちっち。
猫舌か?
ブレンドされたコーヒーを味わい、
さらに想像の色は濃くなっていくようです。

 

・朝ぐもり小さきアウラを聴く日かな  野衾

 

屋根の上の葦

 

きょうもこれを書くまえに見てみたら、ちゃんと見えます。
わたしのいるところから外を眺めると、
ここは小高い丘というか、山の上にありますので、
いろいろ見えるわけですけど、
ここを峰だとすると、
伊良湖岬のようにゆっくりカーブした峰の先のほうに一軒の家があり、
その屋根の上に、ちょっとまえ、
あるものを発見しました。
すこし距離があるので、
それが何なのか、分かりかねた。
しばらくじっと眺めていると、動くようにも見えます。
屋根から少し浮いている
ようにも見えるし、
糸でつながれた小さな風船のようにも見える。
妖精?
なんだろう? 気になる。
気になるので、窓のカーテンを開ける度に目をやる。
そうしたら、
だんだん大きくなっていく
みたい。
遠目なので、はっきりとは分かりませんが、
どうやら植物のようです、屋根の上に生え出て成長した。
そこで、な~んだ、
となってよさそうですが、
そうでもなく、風が吹くとかすかに揺れ、見ていてなんとなく楽しい。
しばらくじっと見ていられる。
屋根の上の葦、そんな感じ。
飽きない。
子どもの頃、外をじっと眺めていると、
よく祖母から叱られた。

 

・緑かと否むらさきの五月かな  野衾

 

もう一人

 

おとといのブログに、
「イタリアでは、もう一人、気になる人がいるんだよなぁ」
と書きました。
それはアリオストさん。
おととしから去年にかけて窪田般彌(くぼた はんや)さん訳による
『カザノヴァ回想録』を読みましたが、
そのなかになんども、
アリオストさんの『狂えるオルランド』がでてきました。
記憶では、
短く引用している箇所もあったはず。
稀代のモテ男カサノヴァさんの愛読書だったのでしょう。

『カザノヴァ回想録』では、
笑わせてもらったり、
しみじみと人生を考える機会を与えてもらったりし、
カサノヴァさんに興味を持ちましたので、
そのうち『狂えるオルランド』も読もうと思ってはいました。
ところが、
「そのうち」が割と早くやって来た。
ボッカッチョさんの『デカメロン』を読んでいたら、
話のなかに騎士が幾度か登場し、
へ~、
なんて思ったことが第二のきっかけ。
調べたら、
『狂えるオルランド』はルネサンス期イタリアの叙事詩で、
騎士道文学の傑作と紹介されています。
あのカルヴィーノさんも愛読していたのだとか。
これは読むしかないでしょう!
てなことで、
きのうから読み始めた。
上巻巻頭には、
ルーブル美術館所蔵、
アングルさんの恰好いい「アンジェリカを救うルッジェーロ」(部分)
がカラーで掲載されていたりもして、
いたくイメージを喚起されます。
わたしが手にしているのは、
名古屋大学出版会からでている脇功(わき いさお)さん訳によるものです。

 

・エルサルバドル珈琲の旅五月  野衾

 

「正しさ」にしがみつかない

 

十年ほどまえ、いや、十年は経たないか。数年まえ。
カルヴァンさんの『キリスト教綱要』を読みました。ぶ厚い立派な本で、
三巻ありました。
アタマでも読みましたが、カラダでも読んだ。
カラダでも、というのは、訳がありまして、
読んでいるうちに、なんだか、胸苦しくなり具合が悪くなった。
なので、
読んだ本、読んでいる本について、
ほかの本と同様に、
なんらかこのブログに書いてもよさそうなのに、
『キリスト教綱要』については、触れなかった気がします。
触れたかもしれないけど、
忘れた。
忘れていいと思っています。
わたしには合わなかったのでしょう。
『キリスト教綱要』は、組織神学の書物として、たしかに優れているかもしれないけど、
体調がおかしくなったことは事実。
いまの時点で振り返って、
あのときのじぶん、
じぶんのこころと体が感じたことをことばにすれば、
あの本は、
「正しさ」にこだわり過ぎている
ように思います。
「正しさ」を前にすると、
こわい先生の面前で、
緊張し起立しているじぶんを想像してしまう。
勉強したり、学んだり、修行するのは、
「正しさ」を求めてのことが大きいと思いますけど、
それを求めているうちに、
「正しさ」よりも、「正しさ」を求めるじぶんが可愛くなる。
だもんだから、
「正しさ」に執着し、しがみつく。
これがいちばん危ないよ。
そんな気がします。
「正しさ」を求めるのはいいとして、
「正しさ」を超えた正しさがあるかもしれないのに。
じぶんが正しいと思っても、
確信はしない。
盲信はしない。どこかで諦める。
それは、たとえば、
綿密な授業案をつくって授業に臨み、しかし、授業本番では、授業案を捨ててかかる、
ことに似ているかもしれない。
ワークショップに臨んだピーター・ブルックさんが、
予定してきたアイディアを捨ててかかって、はじめて目の前の参加者の顔が見えた、
ことに似ているかもしれない。
またマルティン・ブーバー少年が、
馬と一心同体だったのに、
あるとき馬の毛並みというのは、なんて気持ちいいんだろうと、
じぶんの気持ちを意識し始め、それからというもの、
馬にそっぽを向かれた、
ことと関連しているかもしれない。
すべて、
「正しさ」にしがみつくことの落とし穴を指し示し、
「正しさ」にしがみつかない極意と響いている気がします。
道端のたんぽぽさんに、
こんにちは。

 

・遠回りしてやうやくの五月かな  野衾

 

寄り道

 

ディケンズさん、オースティンさん、チョーサーさんと、イギリスの小説を読み、
さて、つぎはドイツに行こうかな、
と思っていたのですが、
チョーサーさんの『カンタベリー物語』を読んだら、
チョーサーさんは、
ボッカッチョさんの『デカメロン』を下敷きにして『カンタベリー物語』を書いた
ということなので、
あとへ延ばさずこのタイミングで読むのがいいか
と考え直し、
平川祐弘さん訳による『デカメロン』を。
『カンタベリー物語』が「物語」といっている割に、
さいごは、
チョーサーさんの信仰告白かよ、
と思えないこともない書きっぷりで、
ああ、やっぱりそうなるかぁ、と感じました。
一方『デカメロン』。
第十日第九話でサラディンさんは出てくるわ、魔法使いは出てくるわ、
サラディンさんがかつて世話になったキリスト教の騎士を、
魔法使いにたのみ、空を飛ばせて故郷に帰す、
なんていうのは、
なんだか『千夜一夜物語』だよ。
へ~、なんていうか、
のびのびしてる。
ボッカッチョさんの父親が商人だったことも関係してるかな。
ともかく。
ダンテさんをリスペクトしているのはよく分かるけど、
ダンテさんとずいぶんと違う。
イタリアでは、もう一人、
気になる人がいるんだよなぁ。

 

・寄り道の味を知りたる五月かな  野衾

 

方言と古語

 

ゴールデンウイークの帰省中、気になった秋田のことばを三つ取り上げました。
三つ目が動詞の「あべ」で、
秋田県教育委員会編、無明舎出版刊の『秋田のことば』で調べてみたら、
それには、
「あべ」の終止形「あんぶ」(「ん」は小さく表記)について、
「歩(あゆ)む」。
「幼児が歩き出すことをいう」との記載があり、
先週金曜日の「よもやま日記」に書いたとおりです。
「あんぶ」が「あべ」になったのだな、
と思い、
いったんは納得したのですが、
こんどは「あんぶ」が気になりだした。
そこで、
佐伯梅友・馬淵和夫編、講談社刊の『古語辞典』をパラパラめくっていたら、
「あゆぶ【歩ぶ】」に出くわした。
いわく、
〔「歩む」の転〕あるく。歩む。「杖にかかりて、つかれ歩ぶ」〈今昔・一・三〉。
「あゆぶ」→「あんぶ」か。なるほど。
数年前、
伊藤博さんの『萬葉集釋注』を読み、
方言と古語の関係についていろいろ思いを巡らせることができ、
たのしい読書になりましたが、
今回も、
こういうかたちで古いことばが残っているのだな、
と腑に落ち、
小さい感動を覚えました。
子どもの頃から馴染んできたことばが、
古い日本語とリンクしていて、
不思議な感覚にとらえられます。
むかしのひとと心を共有しているようにも感じます。

 

・やはらかく桜蘂降る山の道  野衾

 

「あべ」について

 

今回の帰省中、もう一つ気になった秋田のことばがありました。
それは、「あべ」。
「あべ」って何?
安部さんや阿部さんの「あべ」でなく、
動詞としての「あべ」。
歩行が困難になった母を誘い家族でドライブを、
という弟の考えを、
はじめは了解していたのに、
当日の朝になって、じぶんは行きたくない、行かない、と渋りはじめた。
弟とわたしが懸命に説得し、計画どおり、
けっきょく行くことになり、
結果、
とてもたのしい二時間のドライブになりましたが、
ゴネる母の気持ちを変えようとして、
不意に出たことばが
「あべあべ!」。
共通語に訳すと「行こう行こう!」となるでしょうか。
辞書に載っているとすれば終止形のはずなので、
それと睨んで「あぶ」を『秋田のことば』で調べてみたら、
ありました。
「あ」と「ぶ」の間に「ん」が小さく記載されています。
意味は、
「歩(あゆ)む」。
「幼児が歩き出すことをいう」ともあります。
それで合点がいった。
「幼児が歩き出す」ですから、
ただ「歩く」ではなく、
いままで這っていた幼児が「やっと」「ようやく」歩き出す、
そのようなニュアンスを含んでいると思われます。
ですから、
あの日、母を誘って外へ連れ出そうとしたとき、
家でじっとしていないで、
重い腰を上げ、いっしょに行こうよ「あべあべ!」となったのだと思います。
ことばを置き換えるとき、
ニュアンスがとてもだいじであることを改めて思い知らされた。
ニュアンスに「こころ」が潜んでいるようです。

 

・老父の寝息や蜂の羽音止まず  野衾