土と種

 

わたしは農家に生まれましたので、
それもあってか、ものを考えるときに、植物にたとえることが多いようです。
このごろ考えることの一つに、
種としてのことばや文字が人のこころに芽をだす前に、
見えない土の中でこころの根が育つのではないか、
ということがあります。
そして、
それを支えているのは、家庭や社会の雰囲気なのではないか。
雰囲気は、
たとえていうなら、
種が落ちる土のようなものではないか。
そんなことをつらつら思いめぐらすきっかけは、
カントさん。
学生のときに代表作を読んで以来、
それほど関心がなくこれまで過ごしてきましたけれど、
春風社で出した浩瀚な『カント伝
(マンフレッド・キューン[著]菅沢龍文/中澤武/山根雄一郎[訳]、2017年)
を読み、興味が再度浮上しました。
ところで、
1985年に刊行された『キリスト教大事典』(改訂新版第8版、教文館)
のカントさんの項目を見ると、

 

ドイツの哲学者。ケーニヒスベルクに生れ、家庭では両親の敬虔主義の信仰的雰囲気
の中で育った。
ケーニヒスベルク大学で哲学のほか神学・数学・自然科学等を学ぶ。

 

と書かれています。
「敬虔主義の信仰的雰囲気」の「敬虔主義」を、
さらに同事典で引いてみると、

 

1690年ごろから1730年ごろにかけてドイツのプロテスタント教会を支配した傾向。
宗教的生命を失ったルター派の正統主義(Orthodoxie)に対する改革運動で、
ルター派内部でのピューリタニズムともいうべきもの。

 

と書かれています。
カントさんは、1724年生まれですから、
カントさんはもとより、カントさんのご両親も
土としての「敬虔主義の信仰的雰囲気」のなかで、こころの根を育てたのではないか、
そんな気がします。
そういうフレームで考えると、
『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』が、
学生のときとは、
またちがった光芒を放ってきます。

 

・ここだここ居場所知らせる桜かな  野衾