零余子と書いて、むかご。自然生と書いて、じねんじょう。自然薯(じねんじょ)
とも書きます。
自然生、自然薯は、ヤマノイモのこと。
むかご、じねんじょう、じねんじょ、ヤマノイモ、
語呂がよく、
平仮名、片仮名で書くと、やさしげな感じ。
いっぽう、
零余子、自然生、自然薯、
漢字で書くと、いろいろイメージが広がります。
このごろ、
零余子と自然生のことを、
つらつら考えます。
きっかけは、電車で読む本としてしばらく馴染んできた、
班固さんの『漢書』(小竹武夫さん訳)
を読み終え、
ただいま津田左右吉さんの
『文学に現はれたる我が国民思想の研究』を読み始めたこと。
全八冊のうちのまだ一冊目ですが、
車中たのしく、おもしろく読んでいます。
津田さんの本はこれが初めて。
むずかしげな本ですが、
書きっぷりが独特で、つい笑ってしまう箇所もあります。
『漢書』につづき、
これまた、
読み終るまでしばらくかかるでしょう。
書名が気に入っています。
この書名、
国民の思想というのは、目に見えて分かる、
ようなものでなく、
文学にそれは現れるよ、という考え方の表出であるような。
それで、
想像癖、連想癖のあるわたしは、
この書名を毎日見ているうちに、なんか、むかごとヤマノイモの関係みたいなもの
かな、
と考えるようになりました。
『零余子に現はれたる我が自然生の研究』
漢字で書くと、
なんか、
それなりの雰囲気があるぞ。
それはともかく、
自然生(=ヤマノイモ)は土のなかにあり、
それを見つけるには、零余子(むかご)が目印になります。
零余子(むかご)は土の外にありますので。
子どもの頃、
祖父か祖母について行って、
零余子を見つけ、蔓をたよりに、その下をここ掘れここ掘れ、
と、
掘るのをそばで見ていたような、
そんなことはなかった
ような。
むかしむかしのことで、
よく憶えていませんけど。
『聖書』の「ルカによる福音書」第8章17節の
「隠されているもので、あらわにならないものはなく」
というのも、
ひょいと念頭に浮びます。
・怒り飽き風に散りたる桜かな 野衾