荒木ちえ

 

梅谷心愛さんともう一人、
歌が上手いなぁと思えるひとをテレビで見ました。
荒木ちえさん。
漫画家志望の名古屋出身の方で、
東京に出てきたところ、
ご縁があったのでしょう、
新宿で流しで歌うようになったのだとか。
流しで歌っていた店にたまたま小椋佳がいて、
小椋さんが荒木さんのノドと歌に惚れ、
詞と曲を提供し、
この度アルバムをつくったとのこと。
アルバム名は
「泣かないよ」
徳光さんの歌番組にふたりが登場し、
なれそめについて話した後、
タイトル曲の『泣かないよ』を荒木さんが歌いました。
堂々とした歌いっぷり、
ゆっくりしたテンポとリズムながらノリが良く、
昭和の風情がどことなくただよい。
とてもなつかしく感じ、
なにかの曲に似ているなぁと考えあぐねていたところ、
ハタと思い当たりました。
テネシー・アーニー・フォードの
渋いあの曲『16トン』
どちらもつい体がうごいてしまいます。

 

・冬の山顫へる空の青さかな  野衾

 

ジージ泣かせ

 

『サンドウィッチマン&芦田愛菜ぶっつけ教室博士ちゃん』
というテレビ番組で見たのが最初。
梅谷心愛、
心愛と書いて「こころ」と読むようです。
その心愛さんですが、
いま小学六年生。
美空ひばりの熱烈なファンというだけでなく、
歌がすこぶる上手い!
サンドの番組で見て印象にのこっていましたら、
こんどは
徳光さんの歌番組にゲスト出演し、
『みだれ髪』を熱唱。
その立ち姿のすがすがしいこと!
徳光さん、
目をつむりじっと聴き惚れている様子でしたが、
心愛さんが歌い終わると、
ゆっくりしずかに拍手を送り、
「ジージは涙がでたよ」
と。
テレビを見ていたこちらのジージも
涙がでた。
涙が出たのは
ひとりふたりではなかったのではと思われます。

 

・御降(おさが)りや昭和平成窓の外  野衾

 

発行年

 

あたらしく出た本を読むことも
あるにはありますが、
圧倒的にふるい本を読むことが多いいわけで。
じぶんの興味関心から
ネットで検索し
古書で求めていざ読もうとして、
いつ出た本なのだろうと興味が湧き、
ひょいと奥付を見れば、
たとえば
わたしが生まれた翌年だったりして、
へ~、
ものごころもつかない頃に、
わたしとは関係なくこんな本が出ていたのかと
ちょっと不思議な気がします。
わたしと関係なく出ていた本を、
還暦を過ぎてやっと手にして読むのは、
玉手箱を開けるようでもあり。
箱入りの本、
それもホチキス止めのものでなく
貼り箱(パーツを糊で接着した箱で、つくるのに手間がかかる)入りの本

箱を逆さに二三度振って本を取り出す
ときなど、
封じ込められていた時間が目の前で解凍されていくようで、
煙こそ出ませんが
出てもおかしくないぐらい。
紙に印刷された本は、
音楽が奏でられる土地のようなものかもしれません。

 

・凧(いかのぼり)物思(ものも)ふ空の青さかな  野衾

 

幸福と幸福感

 

幸福感は主観的なものである。
どういう条件が整えば幸せか、と論じること自体ナンセンスなことなのだろう。
そうだとしてもその主観のもち方として、
それぞれの状況すなわち欲望充足度の歪さを受容する姿勢をもつこと
が得策であるとはいえそうである。
……話をぶち壊すようであるが、
私個人としては、
「幸福」、
つまりは「幸福感に浸ること」を最高のターゲットとして暮らす生き方そのものが、
実は、大変危ういことだと考えていると書き添えておきたい。
(『小椋佳 生前葬コンサート』朝日新聞出版、2013年、p.43)

 

11日の土曜日、鎌倉を歩いていたとき、
知人が
「昼から焼き鳥をつまみに飲めるなんて幸せね」
と。
見れば、
店の前のテーブルに外国からの旅行客だろうか、
数名がパイプ椅子に腰かけ、
あつあつの焼き鳥を頬張りながらビールを飲んでいた。
幸せか…。し・あ・わ・せ。
シワとシワを合わせて…なんてCMもあったな。
シアワセってなんだっけってCMも。
上の引用は、
たまたま読んでいた小椋佳の本に出てきた言葉です。
小椋さんは、
「幸福」=「幸福感に浸ること」を前提に考えているようですが、
そのことに同感するわたしがいる一方で、
そうではないだろうと抗いたい気持ちもあります。

 

・農の手の栞紐置く初日記  野衾

 

解釈学への誘い

 

上下で2400ページを超えるディルタイの『シュライアーマッハーの生涯』を
ようやく読み終わりました。ふ~。
下巻の解説は、
竹田純郎さんと三浦國泰さんのふたりで執筆していますが、
三浦さんの解説のなかでとくに目を引き、
つぎの読書へのきっかけをいただいた
と思える箇所を引用します。

 

今、われわれがディルタイの『シュライアーマッハーの生涯』に対峙するとき、
たとえシュライアーマッハーやディルタイに対して批判的、対決的な立場にあるにせよ、
ガダマーの思索の基盤がディルタイの
『シュライアーマッハーの生涯』にあることは歴然としている。
ガダマーの『真理と方法』がプラトンの対話術、
ヘーゲルの弁証法と合流しながら、
解釈学の本流として現代に引き継がれているのは明白である。
(『ディルタイ全集 第10巻 シュライアーマッハーの生涯 下』法政大学出版局、
2016年、pp.1190-91)

 

ディルタイによる「シュライアーマッハー研究」は、
われわれに存在の忘却を警告していると言っても過言ではない。
なぜなら、
むしろ体系から漏れた未完の断章の部分にこそ、
ディルタイの「生の哲学」が生動的に息づいているからである。
われわれはディルタイの息づかいに、
繊細かつ慎重に聞き耳を立てなければならない。
解釈学的文献学の循環的な真髄はそこにあるはずである。
(同書、p.1192)

 

・読初の寄り来る一語一語かな  野衾

 

ビーチサンダル祭

 

このごろはけっこう夢を見ます。
初夢はもうすっかり忘れてしまいましたが、
きのうも見ました。
矢沢永吉さんがけっこう出ずっぱりで、
夢の中でもいいひとぽかった、
じっさいに会ったことはありませんけれど…。
そんで、
こうして目が覚めてみると
変だなと思えるのは「ビーチサンダル祭」
その会場に入るには、
ビーチサンダルを履いていることが条件らしく、
若いひとは
事前にそれと知っていて、
かわいらしいじぶんに合った色とりどりのビーチサンダルを履いています。
わたしのようなオジサンは、
あわてて会場近くの店で調達。
上はふつうの恰好なのでいかにも似合わない。
とはいっても、
会場に入りたい気持ちに負け、
不本意ながら似合わないビーチサンダルを履いて会場入り。
場面はそれからころころ変わりました。
のこっているのは、
あぁ面白かった! の記憶だけ。

 

・洗ひ馬背に湯気の立つ冬の馬屋  野衾

 

長嶋監督とモーツァルト

 

岡田暁生さんの『音楽と出会う 21世紀的つきあい方』を読んでいたら、
指揮者の井上道義さんのエッセイについて触れていて、
おもしろいので、
孫引きになりますが、
紹介したいと思います。

 

最近あるコンサートのプログラムでたまたま、
指揮者の井上道義によるモーツァルトについてのエッセイに出会った
(サラ・デイヴィス・ビュクナーによるモーツァルト・ピアノ・ソナタ全曲演奏会、
二〇一八年九月、京都府民ホール・アルティ)。
まさにモーツァルトの音楽のこの二重底性について語った、
素晴らしい文章である。
いわく
「彼の音楽を演奏するとき、一番大切なのは『多くの表現が二重底の内容を秘めていること』
を知ることだ。
以前、
元気なころの長嶋監督と読売交響楽団のコンサート後の対談の時、
立教時代や巨人に入ったばかりの時、
よくモーツァルトを聴いていて、
同じ曲が、
ある時は自分を元気づけ、
ある時はあちらから悲しげに共感を求めてくるのが不思議だったと言って、
そのあまりに当を得たモーツァルト像に驚嘆した。
そう、
楽しいのに寂しい、強いのに壊れそう、
得意げなのに自信なげだったりする……」。
究極の絶望が至福の表情を浮かべる、
楽しいのに寂しい、強いのに壊れそう――
こうした音楽の深淵をまじまじのぞき込むのは怖いことだ。
(岡田暁生『音楽と出会う 21世紀的つきあい方』世界思想社、2019年、pp.126-127)

 

・読初の古書の誤植の逆さかな  野衾