『嵐が丘』読んだどー!!

 

わたしが小学四年のとき、母が買ってきてくれた漱石さんの『こゝろ』を
二、三ページ読んで面白さを感じられず、
放っておき、
高校生になってから改めて、
持ち運びに便利な文庫本をじぶんで買って読み
衝撃を受けたことは、
これまで書いたり話したりしてきましたが、
それとちょっと似ているのがエミリー・ブロンテさんの『嵐が丘』。
『こゝろ』と同様、数ページ読んでは止め、
しばらくあいだを置いて手にとり、
パラパラページをめくっては、
読まずに本棚に収め、
そんなことを繰り返しているうちに幾星霜、
還暦をとっくに過ぎてしまいました。
読みました。
ついに。
じっさいに読んでみてどうだったかといえば、
おもしろかった。
翻訳の日本語との相性が良かったこともあったかもしれません。
小野寺健(おのでら たけし)さんの訳です。
陰陰滅滅のくら~い小説かと勝手に想像していたのですが、
そういう雰囲気がないこともないけれど、
そればかりではなく、
人情の行き交いにほろりとさせられるような場面が随所にありました。
また今回初めて読んで感じたのは、
聖書からの引用が少なくないことでした。
エミリーさんの父親が牧師で、
牧師館で人生のほとんどを過ごしたという経歴からすれば、
当然かもしれませんが、
聖書のことばがエミリーさんの人生観にどれほど影響していたかを想像し、
考えさせられました。
あと、
これはまったくのわたしの勝手な想像ですが、
春風社から刊行した
『わしといたずらキルディーン』の作者であるマリー王妃は、
ひょっとしたら、
ひょっとして、
『嵐が丘』を読んでいたのではないか
ということ。
マリー王妃は、1875年、
イギリス王室の生まれです。
1893年、ルーマニアのフェルディナンド皇太子に嫁ぎました。
『わしといたずらキルディーン』と併せ、
作者が孤独で本好きな少女だったのではないか
と想像されます。
エミリー・ブロンテさんが亡くなったのは1848年。
時系列からいえば、
マリー王妃が『嵐が丘』を読んでいてもおかしくありません。
おなじイギリスでもあるし。
キャサリンの性格描写がキルディーンに似ている気がし、
また、
リントン家のスラッシュクロス屋敷で五週間過ごしてきたあとの、
行儀のよくなった少女の描写が、
わしといっしょに過ごしたあとのキルディーンにそっくり
と感じました。
勝手な想像ですけれど。
そんなことも含め、
じつにたのしい読書でした。
し残していたこの世の務めを一つ果たしたような
そんな気持ちにもなり、
安堵しました。

 

・酷暑の行列や駅蕎麦再開  野衾

 

コツコツ型

 

母校である秋田高校の創立150周年にあたり、
『秋田高校同窓会だより 創立150周年記念臨時増刊号』に拙稿が掲載されました。
種を植え、苗を育て、時を得て収穫する農業のイメージでコツコツと。
それがどうもわたしのやり方のようで。
父も母も祖父母もそうやってきた気がします。
土井晩翠さんが作詞した秋田高校校歌の二番の歌詞に
「わが生わが世の天職いかに」
とありますけれど、
編集の仕事に就いて34年が経過しましたから、
これがわたしの天職なのでしょう。
不思議。
拙稿は以下の通りです。

 

 

張り巡らされる樹木の根

 

本を読まない子どもだった。
小学校の参観日に、ほかの子の日常を耳にした母は、あるとき、本を買ってきた。
夏目漱石の『こゝろ』。函入りの立派な本だった。
数ページで読むのを止めた。
どうしてその本だったのか、のちに尋ねたことがあるけれど、
母は、そのことをすっかり忘れていた。しかし、本の種は、このとき蒔かれた。
高校入学後、母にもらった本のことを思い出し、『こゝろ』を読んだ。
今度は読み終えた。衝撃を受けた。
『こゝろ』には友人を裏切り、
死に追いやった罪を生涯もちつづける「先生」が登場する。
この本を読んでいなければ、
その後のわたしの人生は、いまと違ったものになっていたかもしれない。
秋高の生徒たちは、みな勉強ができた。ついて行くのがたいへん。
勉強がそれほど得意でないわたしは、
これからは、なんでも、コツコツやろうとこころに誓った。
先輩や友の話に耳を傾け、語らいにこころを熱くし、
友情を知ったのも高校時代だった。
大学に入り、第二外国語としてドイツ語を選択。
定評のあるキムラ・サガラの『独和辞典』を購入。キムラ・サガラのキムラが、
木村謹治という、
大川村(現在は五城目町)出身で、
秋田高校の前身・秋田中学の卒業生であることを、あとで知った。
また、
秋高の校歌を作詞した詩人・土井晩翠も敬愛した特異なキリスト者の著作集を、
みずから出版することになるなど、当時のわたしは、知る由もない。
勤めていた出版社が倒産し、
自分で学術書の出版社を起こして二十年が過ぎたころ、
夏目漱石の研究をライフワークとする著者の本を編集し出版、
書名を『漱石論集 こゝろのゆくえ』
とした。
程なくして、同窓会から声をかけていただき、
いま、母校の百五十周年を記念する『新先蹤録』の編集に携わっている。
高校の三年間は、あとから思えば短いけれど、
その後の人生を指し示し、
やがて寛ぎと安らぎの影をなす樹木の根が、
大地の各所に張り巡らされ始めていたと思わずにいられない。

 

・鰯雲むしやくしや腹に収まらず  野衾

 

先蹤について

 

今月初めに『新先蹤録 秋田高校を飛び立った俊英たち』を刊行しました。
秋田高校は、わたしの母校。
同校の創立150周年を期して、同窓会からの依頼により、
編集に加えさせていただきました。
同窓会に納めたものと内容は同じですが、
装丁を変え、市販もしています。
コチラ
38名のライフヒストリーをまとめたもので、
先蹤(せんしょう)は先人の事跡。
「蹤」は足あと。
先人、先輩の足あとを辿りながら自分の人生を考えてみよう、
との気持ちが書名に表れています。
「新」が付いているのは、
130周年の際に『先蹤録』が刊行されているから。
一般に、
ライフヒストリー、伝記のたぐいを読んでおもしろいのは、
それぞれジャンルは違えども、
なにをどのように選択していったのか、
そこに個性があらわれている気がするから、
かな?
自分だったらどうするだろうと、
ページをめくる手をしばし止めて考えたり。
小学校、中学校の図書室には伝記のコーナーがあったような。
自慢になりませんが、
一冊も借りたことがありません。
本を読まない子どもでした。

 

キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、
その足跡に従うようにと、
あなたがたに模範を残された。
(『新約聖書』「ペテロの手紙 第一」第2章21節)

 

・赤とんぼ顔を傾げて滝の上  野衾

 

ふるさと散歩

 

例年なら八月にするところ、仕事上、進めておきたいこともあり、
ひと月ほど遅れての帰省になりました。
ふるさとに帰って楽しみなのが散歩でありまして、
本でいうなら、再読にちかいでしょうか。
九月のこの時期はまさに稲刈りのシーズンで、
青空の下、みのった稲穂が風にゆれ、黄金色に広がっています。
家を出て、左へ行くもよし、右へ行くもよし、風の吹くまま気の向くまま。
一歩一歩がうれしく、たのしく、
気がはずんできます。
山崎さんの家を過ぎれば、あとは建物がなく、
記憶のなかの坂道、沼、蛇行する道の景色が目の前に展開し、
すきな詩を読みかえすような味わいは、
たとえようがありません。
ひかり、ひかり、ひかり、どこもかしこも、
なにもかも、
ひかりに溢れ、ひかりに満ちています。
ひかりを浴び、ひかりをすくい取り、ひかりをいただきます。
景色が景色でなくなる瞬間、
わたしは呆然と立ちすくみます。

 

・棒を離れまた棒の先赤とんぼ  野衾

 

出会いはスローモーション

 

中森明菜さんの歌に『スローモーション』があります。
歌詞のなかに「出逢いはスローモーション」という文言がでてきます。
恋愛の歌ですから「逢」の字がつかわれているのでしょう。
さてこちらは、
時代を代表する哲学者と、
劇作家、小説家、自然科学者、博学者、政治家にして法律家でもある天才
との出会いですから「会」でいいかと。

 

一八〇一年十月十八日、
教授資格取得手続きは『惑星軌道論』を学部長に提出することで形式的には完了した。
二日後の十月二十日、
彼はシェリングに頼んで
ワイマール公国宰相ゲーテに会えるよう計らってもらっていて、
ゲーテの日記には二十一日の日付で
「十一時、ヘーゲル博士来訪」とある。
この初めてのゲーテとの出会いについては詳しいことは分かっていないが、
まったく形式的な表敬訪問だったらしい。
ゲーテの『ファウスト』第二部はまだ完成していなかったが、
ゲーテはすでに『ファウスト』の詩人として名声を高めていて、
官職に就きたいと望んでいるこの無名の訪問者が後日、
ファウストに始まるとも言える世界史を叙述し、
詩人が姿と形で捉えるものを「理念」に置き換えることになろうとは、
そのときは予想もしていなかった。
ヘーゲル自身にしても予想してはいなかっただろう。
それはまったく性質の違う二人の人物の出会いであった。
一方は、
思弁に不信を抱く視覚型の人間で、彼にとって経験とは身をもって体験すること、
対象を感覚的に手探りすることを意味し、
自然科学者であるとともにあらゆる意味で世馴れていて、
自然と技巧が体内に渾然と調和しているのに対し、
他方は、
抽象をこととする人間で、
対象の形態をその理論上の状態に還元し、
対象の基礎にある力の法則性を探り、それを熟考し、
その影響するところを追求する。
一方は、
かつてのシュトゥルム・ウント・ドラングの詩人で、
ドイツの天才の中でも第一人者とも言えるやみくもに前進する奇人、
他方は、
じっくりと思索に耽り、前進しても次に後戻りする傾向の持ち主、
一方は芸術家にして芸術的なかけひき上手、
他方は世事にうとくぎごちない動きをする書斎学者。
こうした二人がそのとき初めて向い合ったのであった。
(ホルスト・アルトハウス[著]山本尤[訳]『ヘーゲル伝 哲学の英雄時代』
法政大学出版局、1999年、p.151)

 

伝記を読んでいておもしろいのは、こういうところ。
へ~、この人がこの人とこんな形で出会ったの、
と、
いきなりその現場に立ち合っているかのような錯覚にとらわれます。
ヘーゲルさんとゲーテさん、
肖像画で知っているふたりの風貌を思い浮かべると、
なんだか楽しくなってきます。

帰省のため、19日(火)のブログはお休みします。
よろしくお願いします。

 

・にぎやかもけふをさかひの虫の声  野衾

 

夢二さんと新古今

 

竹久夢二さんの作詞した歌に『宵待草』があり、
一番の歌詞をなんとなく憶えています。

 

待てど暮らせど 来ぬ人の
宵待草の やるせなさ
今宵は月も 出ぬそうな

 

これをふと思い出したのは、いま『新古今和歌集』を読んでいるからでありまして。
1283番、有家朝臣(ありいへのあそん)の歌。

 

来ぬ人を待つとはなくて待つ宵の更けゆく空の月も恨めし

 

宵待草は出てこないとはいうものの、
「来ぬ人」「待」「宵」「月」が重なります。
夢二さんの歌詞には、原詩があり、実体験を踏まえて作られたそうですが、
体験をことばに置き換えるときに、
読んできたものが不意に思い出されたり、
意識的に思い出し、
本歌取りすることは考えられます。
上のふたつ、
無関係ではない気がします。
それについて、
すでにちゃんと調べが付いていて、
単にわたしが知らないだけかもしれません。

 

・信号待ちいづ方よりの虫の声  野衾

 

収穫の時

 

両親ともに高齢なので、週に三度電話をします。
一日おきぐらいですから、具体的な用事はほとんどなく、朝の食事は終ったか、
けさの天気はどうか、稲の具合は、そんな程度のことではありますが、
親子ですので、
声の質やトーンで、体調や気持ちの張りが分かります。
電話にはだいたい父が出ます。
きのうは電話をする日でしたが、
明らかに声の張りがちがっていました。
力がみなぎっているというのか、
若々しい声なので、
すぐに予測がつきましたが、
父の語りをだまって聴いていると、予測的中。
家の稲刈りが半分終ったとのこと。
あと半分をすぐに収穫できればいいのだけれど、コンバインの調子が悪く、
いま業者を呼んでいる云々。
九十二歳の稲刈りがいよいよ始まりました。

 

あめが下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。
うまるるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
殺すに時があり、いやすに時があり、
こわすに時があり、建てるに時があり、
泣くに時があり、笑うに時があり、
悲しむに時があり、踊るに時があり、
石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、
抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、
捜すに時があり、失うに時があり、
保つに時があり、捨てるに時があり、
裂くに時があり、縫うに時があり、
黙るに時があり、語るに時があり、
愛するに時があり、憎むに時があり、
戦うに時があり、和らぐに時がある。

 

旧約聖書にあることばですが、引用した日本語は、わたしが十代で購入し、
もっともながく親しんできた1955年改訳の口語訳。
「伝道の書」第三章にある文言です。
うれしいときも、悲しいときも、
こころがどんより曇ってなかなか晴れないときも、
事あることに思い出しては
口にしてきましたから、
いまはそらで言うことができます。
それはともかく。
帰宅後、テレビを見ながら夕飯を食べていたとき、
電話が鳴りました。
これはきっと、
と、予測がつきました。
電話に出ると、父の明るい声がする。
「稲刈り、終った!! 安堵した。やああ、えがった!」
「そうが、えがったな。疲れだべ。おつかれさん。あど、ゆっくり休め!」
九十二歳の稲刈りが終りました。

 

・雲は動かずおとなしき秋となる  野衾