拙句集『暾』の書評

 

ことばについて勉強し考えてきた今の時点での証、とでもいいましょうか、
昨年10月に句集を上梓しました。
季語があり、五・七・五、
十七音に収めていますので、伝統的な有季定型の俳句です。
句集のタイトルは『暾』。
ま~るい朝日が昇るさまを表す語で「とん」と読みます。
書評が『図書新聞』に掲載されました。
評者は、敬愛する中条省平さん。
中条さんと『図書新聞』の担当者の了解を得ましたので、
紹介したいと思います。
コチラです。
中条さんは、学習院大学の先生ですが、
文芸評論をはじめ、映画、音楽、マンガなど、
さまざまな表現行為に関してこれまで鋭い分析を行ってきました。
「鋭さ」は、時に「冷たさ」にもなりがちであるとわたしは考えていますが、
中条さんの書くものは、
スパパパパン!!!
と、いかに鋭くても、
その底に「温かみ」(ときに「可笑しみ」)がある、
と感じています。
これは稀有なことだと思います。
血のかよった世界観が関係しているのでしょう。
拙句集についての書評を読ませていただき、
作者として驚いたのは、
いろいろなところに埋め込みちゃんと隠したつもりで、
果たして気づく人があるかな、
おそらく、
あまり気づかれないのでは、
と想像していたものが、
ことごとく見つけられてしまったことです。
鋭い! なのに温かい!
また頑張ろう! と勇気が湧きます。
とくに「見送りの父母淡き肩に雪」に関する評には舌を巻きました。
雪合戦で思いっきり放った雪の玉を、
胸のところ両手でバシッと受け止めていただいた、
そんな感じ。
ありがとうございました。

 

・褻にもある晴れを愛でるや松の内  野衾

 

とくに理由はないけれど

 

高校時代、世界史を教わった先生(お名前を失念してしまいした)
のことで、
記憶に残っていることが二つあります。
そのひとつが、バブーフ。
バブーフは、
フランス革命期の革命家で、共産主義者。総裁政府転覆の陰謀を企て、
1796年に逮捕、翌年処刑された。
と、
辞書的にはそういうことになりますが、
世界史の先生、
バブーフを何度も何度も、そんなに口にする必要があるかと思うぐらい口にしました。
しかも、よく聴いていると、バブーフの「バ」と「フ」のあいだに、
促音の「ッ」を入れ、バッブーフと発音した。
バッブーフ、バッブーフ、バッブーフ、バッブーフ。
いま思えば、
「バ」も「ブ」も唇を触れ合わせて発音するので、
「バッブーフ」は、唇が微妙にバイブレーションし、気持ちよかったのではないか。
その先生のもう一つの思いでは、
修学旅行の際(京都の何寺か忘れてしまった)、
弥勒菩薩について先生に質問した際のことですが、
きょうのこのブログの主旨から離れますので、
世界史の先生に関しては、バッブーフひとつで切り上げます。
つぎに、詩人の西脇順三郎。
西脇さん本人が書いていたのか、西脇さんについて他のだれかが書いていたのか、
忘れましたが、
西脇さんは、「労働問題」がお好きだったとか。
「労働問題」が好き、というのは、変な言い方ですけれど、
中身のことでなく、
音の響きとしての「ロードーモンダイ」。
意味をとりあえず取っ払って、
ロードーモンダイ、ロードーモンダイ、
さらに、
ローードーーモンダイ、ローードーーモンダイ、
というふうに発音すると、
キレがよくなり、たのしさが倍増します。
西脇さん、きっと、そんなことを体感していたのではないかと想像します。
最後に、
わたし個人のことですが、ボガズキョイ。
トルコのアンカラ東方にあるヒッタイトの王宮址の名称ですが、
わたしにとりまして、中身よりも響き。
ボガズキョイ。
口にすると、気持ちがいい。ボガズキョイ。
「ボ」も「ガ」も「ズ」も濁音なのに対し、「キョイ」はシュッとしている。
「ボ」と「ガ」と「ズ」を意識的に強く発し、
「キョイ」は小さく「キョイ」。
ボガズキョイ。
世界史の先生にとっての、バッブーフ。西脇順三郎にとっての、ローードーーモンダイ、
わたしにとってのボガズキョイ、
共通しているのは、口にするときの、
音の響きの心地よさ。
世界史の先生と西脇さんには確かめようがないけれど、
おそらく、
そういうことだったのではないか。

 

・正月の悲と喜を黙す故郷かな  野衾

 

人生と文学

 

『回想録』を読みつづけていくと、巻を追うごとに、次第に人生の悲哀がにじみ出てくる。
人生には寂しさがつきまとうものだから、
悲哀がにじみ出たからといって不思議はないと言ってしまえばそれまでだが、
精力の浪費家であり、現世謳歌のルネッサンス人の後裔でもあるカザノヴァの場合には
何かしら残酷な印象を与えられる。

 

時ならねども、すぎゆくものは我らなり

 

四十前後のカザノヴァの人生には、
男ならば誰しも羨望の念を抱かずにはいられないだろうが、
四十歳以後のかれには憐れをもよおされもする。
そこにはもはや、
プロン脱獄や二人の修道女を同時に相手としたような華やかなロマンはない。
超人的な精力絶倫男としての能力の喪失。老醜。性的機能の退化と金力の欠如……
ツヴァイクは、
こうした骨抜きとなったカザノヴァとはいったい何者かと問いただす。
そして、
それはわびしく孤独を守る肉体だと答え、
その隠れ家には諦めという危険な要素が、自信に代わって一種の哲学として忍び込んでくる
と断言する。
『回想録』のひとつの面白さは、
次第にその濃さを増してくる後半の影の部分である。
少なくとも私には、前半の絢爛とした冒険譚以上に興味深い。
広い意味での文学が語られているからである。
(ジャック・カザノヴァ[著]窪田般彌[訳]『カザノヴァ回想録 5』河出書房新社、
1969年、p.561)

 

引用した文章は、
『カザノヴァ回想録 5』の巻末に付されている訳者・窪田般彌の解説の末尾。
わたしはまだ四巻目の途中なので、先走りではありますが、
四巻目を読みながら、
コーヒーを口にし、
ふと右手にある五巻目に目が行き、
自動運動のごとく手を伸ばして、巻末を開いてみたら、目を吸い寄せられた。
わたしの愛読書に中野好夫の『文学の常識』(角川文庫)
がありますが、
その本ともひびき合う内容で、
つまるところ、精神と肉体の問題、人間とは何か、
を書くのが文学ということになりそうです。

 

・いらつきの母に寂しみ三が日  野衾

 

まるで、どぶろっく

 

お笑いで、どぶろっく、というコンビがいます。
コンビ名の由来は「どぶのような男」と「ろくでもない男」から、
とのことで、
くだらねー、と思いながら、
テレビを見つつ大声を出している自分に気付くことがあります。
どぶろっくのネタに、
「もしかしてだけど」というギターの伴奏とともに歌う歌があり、
意識過剰の男が
「もしかしてだけどもしかしてだけど、…………。それってオイラを誘ってるんじゃないの」
と、意識過剰に妄想します。
これがアタマに焼き付いていたのでしょう。
『カサノヴァ回想録』を読んでいたら、
「もしかしてだけど」のフレーズが頭蓋のなかで響きわたり、
だれもいない部屋でただ一人、
大声を上げて笑っていた。

 

多くの聴衆のなかでわたしが心を打たれたただひとりの婦人は、若く大柄で、
つつましげな様子の娘だった。
かの女は褐色の髪をし、
大変姿もよく、極めて飾らない身なりをしていた。
そして、
このひどく心をひかれた娘は、
その美しい目を一度だけわたしのほうにちらと向けたが、
その後は二度と見向こうとしなかった。
わたしは虚栄心から、
すぐにこの娘の態度は
その整った美しさを全く自由にわたしに観察させるためにほかならない
と考えた。
(ジャック・カザノヴァ[著]窪田般彌[訳]『カザノヴァ回想録 4』河出書房新社、
1969年、pp.22-3)

 

これなど、
「もしかしてだけどもしかしてだけど、…………。それってオイラを誘ってるんじゃないの」
の歌詞にピッタリです。
超インテリ、冒険家で稀代のモテ男のジャック・カサノヴァですが、
こういう笑える箇所がちらほらとあり、
それがいい香辛料となって、
長編なれど、胃にもたれることがありません。

 

・冬沈み無音の朝のぬくみかな  野衾

 

坂本畳店

 

自宅へも会社へも、このごろは営業の電話がかかってくることがあります。
数年前から、そうですね、
年に一、二度、
「○○畳店と申します。畳替え、いかがでしょうか」
と、女性の声で、
電話がかかってくることがありました。
そのつど、
「今のところ考えていません」と応えてきました。
ほかの営業の電話と違うのは、
断りの返答をすると、
すぐに、
「そうですか。それでは、機会がございましたら、おねがいします」
スッと、女性はことばを引きました。
その引き際が爽やかで、印象にのこっていました。
さて、
わたしが住まいする家には、六畳の和室があり、
ここに住むようになって以来ですから、二十八年が経過しており、
年々、畳表が赤茶け、畳の目が波打ち、果ては破れ目が生じるようになりました。
破れ目がこれ以上広がらぬよう、ネットで検索し、
破れたところに、修理用のシールを貼ってごまかしたり。
ところが、
やはり気になっていたのか、
和室が歪み、崩壊していく夢を幾度か見るようになりました。
これはいけない!
なんとかしなければ…。
たまに電話がかかってくるあの畳店、なんていう名前だったかなぁ?
控えておけばよかったなぁ。
と思っていた矢先に、
な、なんと、
電話がかかってきた!
「坂本畳店と申します。畳替え、いかがでしょうか」
そうか。坂本畳店。
そうだそうだ。
電話をかけてきた女性に、料金、修理の時間等いくつか質問し、電話を切った後、
家人と相談して、畳を替えることにし、
改めて坂本畳店に電話をし、
見積もりをお願いした。
その日の夕刻、畳店の方が来られ、
こちらの質問にていねいに答えてくれました。
修理の日にちを決め、帰っていった。
驚いたのは、畳替えは、
朝、寸法を測りに来て、その日の夕刻には新しい畳が持ち込まれるということ。
結果、新しい畳が設置され、きょうで四日目。
満足花マル二重マル。
きょうも、すがすがしく朝を迎えました。
すがすがしいといえば、
営業で電話をかけてきたNさん、見積もりに来たKさん、
実際に畳替えの作業をしてくれたYさん、
三人とも実に清々しく、
こちらの質問にこたえ、ていねいに、わかりやすく説明してくれました。
畳替えの作業を終えたYさんに、
たまに営業でかかってきた電話での話しぶりから始め、
見積もりのKさん、
実際の仕事をしてくれたYさんへの感謝と感想を伝えると、
Yさんはだまって、耳を傾けるように、わたしの話を聞いてくれました。
その姿が、印象にのこっています。
坂本畳店、
ホームページを見ました。
きめ細かく、見やすく行き届いた、いいホームページです。

 

・読初の書を閉づ一杯の珈琲  野衾

 

人生の時間

 

庭園で一時間ほど過ごしてから、わたしは管理人の家へいった。
大変な大家族で、娘たちも見すてたものではなかった。
かの女たちと二時間ほど雑談したが、ありがたいことに、みんなフランス語を話してくれた。
わたしは自分の家をすっかり見たかったので、
管理人の妻にくまなく案内してもらった。
それから、自分の住居に帰ってみると、ルデュックが荷物をあけていた。
わたしはかれに、下着類はデュボワ夫人に渡すようにと命じ、
そのあとで手紙を書きにいった。
その部屋は、窓がひとつしかない、北向きのきれいな小室だった。
見晴らしは素晴しく、詩人の心に、さわやかな空気と、
美しい田園の中にあって気持よく耳にふれる、
身にしみるような静けさから生まれた世にも恵まれた詩想をかもし出してくるように思われた。
ある種の喜びの単純さを味わうために、人間は恋をし、
幸せになる必要があるとわたしは感じ、
そしてわが身に満足した。
(ジャック・カザノヴァ[著]窪田般彌[訳]『カザノヴァ回想録 3』河出書房新社、
1968年、p.291)

 

事実は小説よりも奇なりを地で行くジャコモ・カサノヴァのまさに疾風怒濤、
めくるめく人生にも、凪のような一日があり、
読んでいてホッとします。
「庭園で一時間ほど過ごし」たという、
その時間、
管理人の娘たちと「二時間ほど雑談した」という、
その時間、
それを回想し書いているのが、
七十歳を超えた現在の時間であることに思いを馳せると、
カサノヴァにとって、
ひりひりするような、生きていることの、恋の味を実感できる瞬間もさることながら、
(だからこそと言うべきかもしれませんが)
時を経、時を経たことによって、
「身にしみるような静けさ」が抜き差しならないものとして、
身に迫ってきたのか、
とも想像されます。
現実を生きている時にはあまり感じなかった意味を、
回想する老境に至り、初めて味わっているのかもしれません。

 

・正月や労を忘れぬ父の指  野衾

 

稀代のモテ男の面目躍如

 

わたしは何の遠慮もなく、わたしにできると思うことなら何でもかの女のためにすると申し出た。
かの女は溜息をつきながら、
もし全面的にわたしの友情を当てにすることができたら、
どんなに幸福だろうと答えた。
わたしは心の炎を燃やしながら、五万エキュを御用だてしましょうと言い、
かの女の心を捉える権利を手に入れるためなら、
危険なことがどんなにはっきりしていても
命を投げ出す覚悟でいると語った。
この言葉を聞くと、
かの女はわたしに最も優しい感謝の気持を示し、
しっかりとわたしを腕に抱きしめ、
自分の口をわたしの口に合わせてきた。
この瞬間に、
もしそれ以上のものを求めたらわたしは卑怯者のそしりを受けただろう。
かの女はしばしば会いに来てほしいと言い、
そうすれば、
必ず二人だけで数時間を過ごすと断言した。
それこそわたしの願いのすべてだった。
わたしは、
翌日一緒に夕食をすることを約束してからかの女と別れた。
(ジャック・カザノヴァ[著]窪田般彌[訳]『カザノヴァ回想録 3』河出書房新社、
1968年、p.135)

 

『人類史上最高にモテた男の物語』という本のタイトルになるぐらいのカサノヴァですが、
引用した箇所などを読むと、
彼の本気度が、なるほど、と分かる気がします。
ときどき彼特有の恋愛観、また性愛感、人生観が吐露され、
ぐんぐん読まされてしまい、
待てよ、これって小説じゃないんだよな、
と、
疑ってしまいたくなります。
でも本当なのでしょう。
実名でヴォルテールは出てくるは、ルソーは出てくるは、ポンパドゥール夫人は出てくるは、
で、
この本が実録であることを思い知らされます。
だけど、とりわけ修道女との恋愛は、
なんとも信じがたい。
ほんとか?
ともあれ、
カサノヴァは、
女性にこころを籠め、いのちまでかけ、
本気でサービスすることを何よりの至福と感じ考える男ですけれど、
たまに顔を出す「読者はご存知のとおり…」
的な言い回しに、
女性サービスと似た読者サービスの心情を垣間見ることができる
ように思います。
窪田さんの日本語訳でひとつ気になるのは、
「かの女」。
「かの女」は「彼女」で「かのじょ」なのですが、
つい「かのおんな」と読んでしまいます。

 

・雪しんしんと繰りかへす母の語り  野衾