興味や関心のおもむくまま、一気に読む本もありますが、
なかには、
途中まで読んで、
じぶんが電池切れみたいになって、
あるいは、
ほかの本へ興味がうつり、そちらの本をつい読んでしまう、
ということも間々。
それで、
途中までで止めていた本を再度取りだしては、
ためつすがめつ眺め、
おもむろに読み始めることになる
わけですが、
こまかいことは忘れているのに、
記憶の容器の底の方に、
しばらく前に読んでいたことの経験が滴り、
それが透明な水になって残っているようにも感じられ。
そんなイメージが浮かんだのは、
さきごろ、
ハイデッガーさんに関する伝記を読んでいた
のですが、
途中で止めて、
きのうここに引用した、
渡邊二郎さん訳のハイデッガーさん著『「ヒューマニズム」について』
を読みだし、
そちらの方を先に読み終え、
ふたたびこの伝記に戻ってきたら、
読み始めのところの文が、ぐっとこころに沁みてくるようで、
予期せぬ連関が生じ、
これは『「ヒューマニズム」について』を挟んだことによる効果かとも感じられ、
最後まで読まないで、
寝かせておくのも悪くない、おもしろいと思いました。
存在を経験するとは
――これまでにわれわれはそれが何かを見てきているのだが――
より高い世界を経験することを意味するのではなく、
現実が汲み尽くせないものであることを経験すること、
人間のいる現実の真中に自然がその目を見開き、
自分がそこにあることに気づく「開かれた場所」が開かれるのに驚くことを意味する。
存在を経験することによって、
人間は自らを活動空間として発見する。
人間は存在するものの中に捕らわれ、虜になっているのではない。
車輪が動くためには轂の部分に「遊び」がなければならない
ように、
人間ももろもろの事物のただ中に「遊び」をもつ。
存在の問題は結局、
「自由の問題」だとハイデガーは言う。
(リュディガー・ザフランスキー[著]山本 尤[訳]
『ハイデガー ドイツの生んだ巨匠とその時代』法政大学出版局、1996年、p.446)
ところで。
片仮名のハイデッガーとハイデガー。
どちらかというと、わたしとしては、ハイデッガーと促音の「ッ」を入れたい。
なぜならば、
ハイデガーだと、どうしても、
わがふるさとことばの「歯、いでがー(痛いか)?」
のイメージがもたげてくるから。
・パイナツプル飴の友や半夏生 野衾