文は人

 

文学史が割と好きなジャンルで、これまでその手のものをいくつか読んできましたが、
ただいま、津田左右吉さんのものを読んでいます。
小西甚一さんやドナルド・キーンさんのものもおもしろかったけど、
津田さんのは、また一味も二味もちがって、
おもしろい。
わたしはこう思う、こう考える、ということがくっきり書かれ
(小西さん、キーンさんのがくっきり書かれていない、という意味ではありませんが)
てあり、
人がらが文章に滲みでていると感じます。
小西さん、キーンさんよりも前の時代の人ですが、
おじいちゃんから傍で話を聞くごとく、
読んでいるうちに、だんだん親しみがわいてきます。

 

世事を謝して山林に隠れても、隠れるものが生きてゐる我である以上、
隠れたところにもやはり世界があり、人生がある。
背を向けた世をさへも、
心の上に絶つことが出来ないのは勿論である。
それを絶たうとするには、何よりも先づ我みづからを我が上に超脱させねばならぬ。
けれどもさうなれば、故らに山林に入るを要せずして、
煩はしと見た世事そのものが却つて面しろく眺められはしまいか。
世を煩はしと見るのは、
世に拘泥するからで、世に拘泥するほどならば、山林にも拘泥する。
支那趣味にも拘泥する。詩にも歌にも拘泥する。
自然の水の流れに枕流洞と名をつけ、岩の姿を群書巌(惺窩歌集)に至つては、
拘泥の最も甚だしきものである。
其の拘泥を脱離し一切の繫縛を放下し去つて、
自由な目で世を見れば、世は却つて笑つて彼を迎へる。
のみならず、
山林に生を営むことの出来るものは、
世に於いて生を営む必要の無いものである。
隠逸の民は畢竟徒手して遊食することの出来るものであり、
世を避けるのは固より一種の贅沢に過ぎぬ。
そんな贅沢のできないものは、
世の中の務を務としながら、其の世の中を心安く見る工夫をしなければならぬ。
其の工夫が出来れば故らに世を避ける必要は無い。
(津田左右吉[著]『文学に現はれたる我が国民思想の研究(四)』岩波文庫、1977年、
p.287)

 

武士の世の文学を鏡にして、津田さんの人生観が披瀝されていると思います。
この場合の「世」「世の中」は世間、ということでしょう。
わたしも、津田さんにならい、津田さんのように、世の中を見、
世の中の務めを務めとしながら、暮らしたいと思います。

 

・冬瓜煮箸でさくりと二つかな  野衾