きのうにひきつづき、渡辺善太さんの著作から引用します。
このブログを読んでくださる方に向けてというより、
わたし自身が、
このことをいつも意識していたいがための引用である気もしますが、
とてもだいじなことが書かれてあると思います。
旧約聖書の創世記をみますと、そこには人間の堕落の根源が、
「神のようになろう」(3・5)としたことであるとしるされております。
すなわち人間が宇宙の主たる神に対して「自我を立て」、
宇宙の主たらんとする気持ちが、
この堕落の根源であったとするのであります。
近代の神学はこれを人間の「自己神化」と呼んでおります。
つまり
人間がこの堕落した存在としての「自我」を肯定し、拡充するということは、
それがつきつめられれば、
神に対立して宇宙の主たらんとする「自己神化」となることをいうのであります。
もちろんギリシア哲学の黄金時代における哲学者が、
この「自己神化」を自覚的に哲学したというのではありませんし、
またそれ以後数千年にわたる間に続出した哲人らがかくしたという意味でもありません。
それはこれらの人々の謙虚なる哲学的思索の基底に、
この気持ちが潜在していたというのであり、
そしていかなる哲人であろうとも、
彼が堕落せるアダムのすえであるかぎり、
彼の存在の基底にこの気持ちが横たわっているというのであります。
原子爆弾と水素爆弾とが発明せられたその瞬間に、
すでにこの宇宙破壊の危機がはらまれていたというのであり、
否、
その発明の根源にこの危機がはらまれていたというのであります。
ここに用いられている、「ギリシア人」とは、
一言で言えば、
この人間性とその到達せんとする目標とが象徴せられている呼称であります。
ゆえにこの「時の到来」とは、
この人間の「自己神化」または「自己肯定」の精神が、
それ自身不十分性を自己暴露して、
「イエスにお目にかかりたいのですが」と申しいでた「時」をさしたものであります。
ですからこれに対してイエスは
「人の子が栄光を受ける時がきた。
よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、
それはただ一粒のままである。
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
自分の命を愛する者はそれを失い、
この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう」
(ヨハネによる福音書 12・23~25)
という、
全的な「自己犠牲」の福音の原理を語りたもうたのであります。
すなわち
「ギリシア人」が「イエスにお目にかかりたいのですが」
と申しだすまでは、
この自己犠牲の福音的原理は語られてもむだであり、
それこそ実に豚に真珠であった
のであります。
しかしいまやこの「申しいで」がせられた時こそ、
この原理が解明せられる時となったというので、これが、
「時至れり」であったのであります。
(渡辺善太[著]『渡辺善太著作選 1 偽善者を出す処 偽善者は教会の必然的現象』
ヨベル新書、2012年、pp.183-184)
引用した文章を読んだとき、すぐに、中井久夫さんのことを思いました。
中井さんは、
著名な医学者・精神科医で2022年にお亡くなりになった方ですが、
弊社のPR誌『春風倶楽部』にかつてエッセイをお書きくださってもいます。
中井さんは晩年、カトリックに入信されましたが、
なぜ洗礼を受けるのかと問われときに、
「驕りがあるから」と答えたということを
最相葉月さんの『中井久夫 人と仕事』(みすず書房、2023年)
で知っていたからです。
謙虚であることの難しさを改めて思い知らされます。
・時々刻々夏の雲に吸はれゆく 野衾