講演だったり、対談・鼎談だったり、
かつての授業もそうでしたが、
ひと前でしゃべる機会がけっこうありまして、
じぶんの決め事として、ずっと続けてきたことがあります。
それは、
しゃべることを計画し、構想を練り、柱を立ててプロットを作成し、
ガチガチに、
どの場でどういうことば遣いでしゃべるかまで考え、
これでヨシ!
という状態にまでテンションを上げ、
そうして、
その場に臨んだら、
予定していたことを捨てて、講演だったら、会場にいらっしゃる方の、
対談・鼎談だったら、お相手の、
授業だったら生徒たちの、
それぞれの顔と表情を見て、
そのとき思いついたことをしゃべる。
だったら計画を立てることの意味ないじゃん、
と、
じぶんにツッコミを入れたくもなりますが、
立てた計画を捨てた瞬間に、
目の前にいらっしゃる方の顔がよく見える気がし、それはずっと変りませんので、
いまもそのやり方を続けています。
それで、
顔が見えたら、
予定していたこと、ものを後から取り出し、
復帰させ、
しゃべりに活かしていく、
そんな感じです。
そうすると、
けっきょく、何がいちばん大事かというと、
言い古された感がありますけれど、「ひとの目を見て話す」的なことで。
ひと前でしゃべることは緊張を強いられますから、
強いられた緊張から逃れ、
相手の顔を見るために、
立てた計画をいったん捨てる、は、けっこう有効かな、
と。
プライベートの場面では、
そんな面倒なことをしなくても、
ちゃんと相手の目を見てしゃべります。
ん。
こうしてこの文を入力してきて、いま思いついたのですが、
「人の目を見て話」していると、
そこで何が起きているかといえば、
こちらの素の状態を相手にさらしているのかな。
以上でも以下でもなく、
これだけのニンゲンです。
みたいな。
そんな気がしてきた。
きのうは、
哲学者の小野寺功先生との対談を弊社で行いました。
四時間ほどの長丁場。
聞き書き集として、
いずれまとめたいと思います。
・新緑や葉裏くすぐる風の音 野衾