これもこころ

 

同時並行で読んでいるセネカさんの本にも、しばしば、こころに関することばが
でてきます。
『古事記』をふまえての日本語の語源をたどる言説は、
とても興味ぶかくおもしろく読みましたけれど、
国はちがえ、時代はちがっていても、
ストア派のセネカさんの言説は、
こちらはこちらで強く訴えてくるものがあります。

 

必要から生ずるのではなくて、欠陥から生ずる欲望には、
どれにもみな同様の性質があります。
その欲望ゆえに、
どんなに沢山のものを積み上げても、貪欲には限りがなく、あるのは次々の段階です。
それゆえ自己を自然の限界内に留める者は貧困を感じないでしょう。
しかし自然の限界を逸脱する者は、
たとえ最高の富の中にあっても、貧困に付きまとわれるでしょう。
追放の地といえども必要品には足りていますが、
王国といえ不必要品にも足りることはありません。
われわれを富ましめるもの、
それは心です。
心は追放の地にまで付いて来ます。
そして荒れ果てた荒野の中においても、肉体を支えるに足るだけのものを見つけると、
それ以後は心自体が自己の財産の中にいっぱいに満ち溢あふれ、
喜び楽しむのです。
金銭は心には何の関わりもありません。
それが不死の神々に関わりのないのと同じです。
(セネカ[著]茂手木元蔵[訳]『道徳論集(全)』東海大学出版会、1989年、p.102)

 

セネカさんは、流刑の身にあって、不運を嘆く母ヘルヴィアさんの悲しみを和らげる
ために手紙をしたためました。
クラウディウス帝が即位した西暦41年、
セネカさんは、
カリグラさんの妹ユリア・リヴィラさんとの姦通の罪に問われ、
弁解無用の判決を受けて、コルシカ島に追放されました。
クラウディウス帝の最初の后メッサリナさんと
その共謀者たちの陰謀によるものだったらしく、
セネカさんは、
無実の罪の犠牲者になりました。

 

・炭を引き庭でピンポン春隣  野衾