小苗打ち

 

秋田ではコニャウヂといいました。
いいました、というのは、
いまは、
田の隅のごく一部を除き
すべて機械で行いますから、
事実がなくなるのと同じくして
そのことを表すことばも聞かれなくなったからです。
辞書によれば、
小苗打ちとは、
田植えの際に早乙女のまえに苗の束を放り投げ配ること。
わたしも子供のころやりました。
手伝いの仕事ながら、
だれかが必ずやらなければならない仕事ですから、
おとなたちに混じって
重要な任務をまかされた気がしてわくわくしたものです。
投げる方向をまちがえると、
放り投げられた苗を拾うために
早乙女たちが無駄な動きをすることになりますから、
微妙なコントロールが必要でした。

 

・雉啼くや田に張る水の清々し  野衾

 

センブリ

 

よわい還暦を過ぎ、
なにごとにつけ父に似、母に似ていることを思い知らされている
きょうこの頃ですが、
胃腸の弱さはどうやら母似でありまして。
大型連休期間秋田に帰った折、
ふと思い出したことがあり
「じいさん、毎朝、センフリ飲んでながったが?」
と父に訊いたところ、
「んだんだ。毎朝飲んであったな」
との答え。
センブリのことをわが田舎ではセンフリ。
祖父は九十八まで生きましたが、
口には出さずともそれなり健康に気を付けていたのかもしれません。
というわけで、
さっそくネットで探したところ、
ありました。
その中から加工していないものをえらび注文。
届いてすぐに煮だして飲んだら、
うっ、
に、にっがあああ!!
これぞセンブリ。
センブリは漢字で書くと千振、
千度振り出してもなお苦いの意から
といいますから、
まさに名のとおり。
祖父トモじいの顔がありありと目に浮かびました。

 

・田植ゑまへ巾着のごと父の口  野衾

 

もうせん

 

少しずつ読み進めているドリトル先生シリーズ、
六巻目の『ドリトル先生のキャラバン』に入りました。
原著者ヒュー・ロフティングの挿絵もたのしく、
ゆっくり読んでいます。
わたしが持っているのは、
井伏鱒二訳のもので初版が昭和三十七年。
漢字には、
ほどよくふりがなが付されており、
当時から子どもたちにも読まれたのでしょう。
読んでいて、おや?と思うのは、
「もうせん」
ということば。
「もうせん」は「もう先」で、
いまとなってはもう前のこと、
の意味ですが、
このごろはほとんど使わないのではないでしょうか。
こんなところにも
ゆっくりたっぷりした時間が感じられ、
あらためて、
本っていいなぁと思います。

 

・夏の吾(あ)の重さ失くして居たりけり  野衾

 

コデマリ

 

毎年この時期になると目にするのがコデマリの花。
漢字で書くと小手毬。
たしかに白い手毬のようにも見えます。
と、こう書きだしましたが、
コデマリという名の花であることをこのごろ知りました。
名を知らずに愛でていました。
無手勝流に俳句をつくるようになって
十年たちましたが、
いちばんありがたいのは、
いろいろなものの名を知るきっかけになったこと。
とくに花の名、鳥の名、虫の名、気象の微妙なうつろい、
名を知ることで
よけいそこに目が行き、
変化を味わうようになった気がします。
コデマリはその一つ。

 

・白鷺の佇ちて眠さの勝りけり  野衾

 

フィロポイメン

 

ひきつづき、モンテーニュから引用。

 

大勢の家来の真中で「殿様はいずれに?」などと問いかけられるのは、
いや、髯剃(ひげそ)りや秘書などが受けた敬礼のおあまりをやっと頂戴するなんて、
とても癪(しゃく)にさわる。
可哀そうにフィロポイメンはそういう目にあった。
部隊に先んじて彼のおいでを待ちうけている旅籠(はたご)屋に第一番に到着したところ、
女主人は彼を知らなかったし、
見ると風采はなはだ上らぬ男なので、
「女どもがフィロポイメンをもてなすために水を汲んだり火をおこしたりしているから、
そっちへ行って手伝いなさい」
といいつけた。
やがてお供の侍たちが来て見ると、
大将がこの花々しいお役目にいそしんでいるので
(まったく彼はいいつけに違背しなかったのである)、
驚いてそのわけをきいた。
「わたしはわたしの醜さの罰をうけているのだ」
と彼は答えた。
(関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』国書刊行会、2014年、p.756)

 

それまでコオロギのようにしずかに読んでいたのですが、
引用した箇所の最後
「わたしはわたしの醜さの罰をうけているのだ」
のしずかなもの言いに
フィロポイメンのかなしさがそこはかとなく表れているようで、
カバのように大笑いしてしまいました。
そして、
紀元前ギリシアの大将フィロポイメンのことが
好きになりました。

 

・家出する少年の日の五月かな  野衾

 

欲望について

 

モンテーニュがこんなことも書いていたのをすっかり忘れていました。

 

牝馬の匂いをかぐとどうにも押えようのなくなる老いぼれ馬を、
わたしはとうとう種馬にやっちまったことがある。
容易にやれると、この馬はいつの間にかその牝馬どもにげんなりしたが、
でもよその牝馬が始めて彼の柵のわきを通るのをみると、
相変らずうるさくいななき、前と同じように昂奮した。
我々の欲望は、その手元にあるものには眼もくれず、
それを飛び越えて自分が持たないものを追いかける。
(関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』国書刊行会、2014年、p.724)

 

「我々の欲望は困難にあうと増加すること」の章のなかにあることば。

 

・しらさぎ飛翔妊婦の腹の和毛(のこげ)かな  野衾

 

夢のはなし

 

雨模様の道を静かにあるきながら、
障害者教育の専門家がインタビューに答えています。
インタビュアーはマイクを持ちながらさかんにうなずく様子。
わたしはたましいだけの存在で、
ふたりのうしろからふわふわ宙に浮いたまま
ついていきます。
とうとう雨が降りだしました。
道がどんどんぬかるんできます。
ふたりの足はすでにくるぶし辺りまで水に浸かり。
道は窪地にさしかかり、
雨がたまって沼のようになっている場所へ入っていきました。
ふたりとも傘は持っていません。
ずんずんずんずん水のなかに入っていき、
ずんずんずんずん、
ずんずんずんずん、
とうとう頭もすっぽり入って、
全身見えなくなってしまいました。
泡がぷつぷつ浮いてきました。
しばらくすると、
ふたつの頭が水面から現れ、
やがて首、肩、胸、腹、腰、脚、膝、脛、足。
専門家は何事もなかったかのように話しつづけています。
インタビュアーはなんだか必死。
頬を雨が伝わります。
汗だったかもしれません。

 

・海沿ひのうすむらさきの五月かな  野衾