金色の午後

 

『不思議の国のアリス』のもとになったお話は、
1862年7月4日、ルイス・キャロルことチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンさん、
友人のロビンソン・ダックワースさん、
それとロリーナさん、アリスさん、イーディスさんのリデル三姉妹
といっしょに、
アイシス川をボートで遡るピクニックに出かけた際、
ドジソンさんがアリスさんのために語った「アリスの地下の冒険」
でした。
それから四半世紀後に、
チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンさんは、
思い出にふけったとして、
伝記作家のコーエンさんは、
ドジソンさんが記した文章から引用しています。
わたしは、日本語に翻訳された日本語で読んだのですが、
訳文がいいせいで、
もとから日本語で書かれた日記を読むようなぐあいで、たのしく読み、
また、しみじみした気持ちになったのでした。

 

何日も何日もぼくたちはいっしょにあの静かな流れを漕いだのだった
――幼い三人の少女とぼくと――
そしてたくさんのおとぎ話があの少女たちのために即興で語られた
――時には、作者の「気が向いて」、
追い求めずともさまざまな空想が群をなして押し寄せてくることもあり、
また時には、
疲れ切った詩神が突き棒で追い立てられて動きはじめ、
何か語りたいことがあるからというよりは、
何か語らなくてはならないと責め立てられるかのように
おとなしくとぼとぼと歩いていくこともあったにせよ――
けれどもこれらの多くのお話は
どれひとつとして書き留められはしなかった。
それらは夏の小さな羽虫のように生まれては死んでいった。
それぞれがそれなりの金色の午後を迎えながら。
けれど
やがてある日のこと、
たまたまぼくの幼い聞き手のひとりが
そのお話をあたしのために清書してほしいのと哀願したのだ。
それは何年も何年も昔のことだ。
だが今こうして書きながらも、ぼくははっきりと思い出す。
妖精伝説に何か新機軸を打ち出そうと必死になって、
あとさきの展開も考えずに、
手始めに女主人公をウサギの穴のなかに投げ込んだことを……
そのお話を書き留めながら、
ぼくはたくさんの新鮮な着想を付け加えていった。
それらはもとの幹からひとりでにどんどん成長していくみたいだった。
そしてさらにたくさんの着想がおのずと付け加わっていき、
数年のちに
ぼくはもう一度すっかり書き直し、出版したのだ……
ほんとうに何年もの歳月がいつのまにか過ぎ去ってしまった。
おまえを生みだしたあの「金色の午後」
のときから。
しかしぼくはまるで昨日のことのように、
あの午後をほぼはっきりと蘇らせることができる
――雲ひとつない青空が上方に広がり、水の鏡が下方に光っていた。
ゆったりと漂いながら進むボート。
オールがゆらゆらとたいそう眠たげに波打つたびに、
滴り落ちる雫の音。
そして
(こうしたまどろみに誘われる眺めのなかでただひとつ、命の輝きを放っていた)
三つの熱心な顔。
妖精の国からの便りを待ち焦がれている。
それにはとても「だめ」とは言えそうもなかった。
唇からもれるのは、
「お願い、あたしたちにお話をして」という言葉。
そこには変えることのできぬ運命の三女神のいかめしさが浮かんでいた!
(モートン・N・コーエン[著]高橋康也[監訳]安達まみ/佐藤容子/三村明[訳]
『ルイス・キャロル伝(上)』河出書房新社、1999年、pp.166-7)

 

金色の午後……、
ドジソンさんとアリスさんたちのようではありませんけれど、
わたしにも「金色の午後」
とよべる時間があったように思います。
おそらく、
だれにとっても「金色の午後」があるのでしょう。
さてその「金色の午後」ですが、
引用した文章中に「雲ひとつない青空」という文言もあるくらいですから、
当然快晴だっただろうと想像しますが、
この本の原注によると、
気象庁の記録では雨ということになっており、
そうすると「金色の午後」の意味合いは違ってくることになります。
ですが、
そうであっても、
それならばそれで、感味は尚いっそう深まる気もいたします。

 

・夕映えやけふはここまで窓の秋  野衾

 

斧の柄の故事

 

わたしは碁をやりませんし、将棋は駒の進め方くらいしか知りませんけれど、
中国に、
碁のたのしさと時の経過をつたえて味わいぶかい故事があります。
晋の時代、木こりの王質が山に入り、
四人の童子らの打つ碁を、
童子にもらったナツメを食べ食べ見ていると、
いつの間にか、
斧の柄が朽ち果て、
山から里に帰ってみれば、知っている人はだれ一人いなくなっていた、
それぐらい膨大な時間が経っていた……。
その故事をふまえて、

 

『古今和歌集』991番、

 

故里ふるさとは見しごともあらず斧の柄の朽ちしところぞ恋しかりける

 

また『新古今和歌集』1672番、

 

斧の柄の朽ちし昔は遠けれどありしにもあらぬ世をも経るかな

 

こちらは、
ふるさとを詠んだものでなく、
父帝である後白河院が亡くなったのちに、式子内親王が、
父帝在世中のむかしを懐かしんでの述懐
ですけれど、
時間経過に関する感じ方としては、共通のものがあります。
さて、
ふるさとを離れて暮らすことは、
つらいこともありますけれど、楽しいこともあり、
そうやって暮らしているうちに、
幼なじみがひとり、またひとりと亡くなったことを知るにつけ、
時のたつ速さにおどろき、また、それを感じて歌に詠った古人のこころを
思わずにはいられません。

 

・霜月や吾はまだ世には居らざりき  野衾

 

信仰のかがやく場所

 

ことわざに「鰯の頭も信心から」があり、
関暁夫さんの「信じるか信じないかはあなた次第」という文言も、
よく耳にしますが、
信じる、信じない、に関し、
味のあることばだと思います。
見えるものだけを在るとするのか、見えないものでも在るかもしれないとするかで、
大きくちがってくるかもしれませんが、
『聖書』の「マルコによる福音書」第九章二十四節に、
信じることについての切実なことば
が記されています。
悪い霊に取りつかれた我が子をなんとか救いたくてイエスのもとにやってきた父親
のことば。
「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
下に引用する、小塩力(おしお つとむ)さんの文には、
『聖書』からの引用はありませんけれど、
「マルコによる福音書」の当該箇所に深くかかわっていると思います。

 

だいぶ前に、ある小説家が、神父カンドウらしい人の説教を聴聞ちょうもんして、
感動する場面を描いた一文を読んだことがある。
われわれが、礼拝の中心部として、正統的なかたちで期待している説教とちがって、
聴衆との共通の部分をたしかめ、
小さな、
しかも抗あらがいがたい手がかりを与えて、
終局に達するような説教である。
その最後の「手がかり」の部分が、
次のような詩の引用を核心としている文章にみられる。
「……わたくしは最後に、ヴォルテールの詩を皆さんにご紹介したいと存じます。
あの、キリスト教に反抗し、キリスト教を敵視したヴォルテールにさえ、
こういう美しい詩があるのです。
その詩を申しあげて、
わたしの話を終りたいと存じます。
これは、
珠玉のような、極く小さい詩でありますから、
これだけは原語で、フランス語で申しあげます……。
これを好い加減に、
日本語に訳してみますと、
『若し神様というものがあるとするなら、
神様、
どうかわたしに幸福を与えて下さい』
という意味になります。
皆様も夜中に目がさめて眠れない時は、
どうぞこのヴォルテールの詩を口ずさんで下さい」。
ここに、
不信仰の真剣にあらわにされる場所には、
ふしぎにも、信仰が輝くことが示されると思う。
キリストの形の成るところにこそ、
この二重の真理がみえてくる。
信仰をほこってはいけない、とともに、信じえない現実を、
ただ悲しんでいてもいけない。
(大塚野百合・加藤常昭[編]『愛と自由のことば 一日一章』日本基督教団出版局、
1972年、p.349)

 

小塩力さんは群馬県の生まれ。1903-1958。
上で引用した文は、
新教出版社から1959年に出版された『キリスト讃歌』からのもの、
とのことです。

 

・夢の世を葛の葉裏のささめけり  野衾

 

ことばを測る

 

かつて青江三奈さんという歌手がいました。
「伊勢佐木町ブルース」が大ヒットし、NHK紅白歌合戦に出場するなど、
当時、歌う姿をよくテレビで見たものです。
伊勢佐木町モールには歌碑もあります。
さて、
八十六歳で亡くなったわたしの祖母は、
青江三奈さんがテレビに出てくると、
しみじみ「このひとはりっぱな人だ」と、だれに言うでもなく、ポツリと言った。
それ以上、なぜそう感じるのかを説明してくれなかったし、
家族のだれもそれを問い質しませんでした。
そして、
また青江さんがテレビ画面に現れると、
「このひとはりっぱな人だ」。
あれからすでに半世紀以上たっている。
青江さんも、祖母も、すでにこの世の人ではない。
しかし、
ことばをなりわいとしているせいもあってか、
祖母が青江さんをテレビで見るたびに言い放った「このひとはりっぱな人だ」が、
いまも、いや、いまになって気にかかる。
大きな国語辞書を開いて「りっぱ」の項目を見ると、
①から始まっていくつかの意味が書いてある。
それは、だいたいわたしが知っている「りっぱ」の意味だ。
意味を追いながら、
声のトーン、それを言い放つときの表情と併せ、
祖母の「このひとはりっぱな人だ」を思い浮かべると、
辞書に書いてある説明のどの意味も
しっくりこない。
おそらく、
生前、祖母に直接問い質したとしても、
こたえを得ることはできなかったのではないかと思う。
そこで考えた。
祖母の「りっぱ」の意味を考えることは、
辞書的な意味を超えて、
考えつづける、そのこと自体に、むしろ意味があるのではないかと。
おばあちゃん、
どうして青江さんのことをりっぱだと思うの?
それは、
家が貧しくて小学校へも行かせてもらえなかった祖母の人生がかかっているのだと、
そんなふうにすら思えてくる。

 

・ストレスが腸にまで水の秋  野衾

 

ロックさんと聖書

 

小学校から高校までの教科書には、
おぼえておかなければいけない、
試験に出そうな人の名まえがゴチック体の黒黒した太い文字で記されていました。
それを、
楔形文字みたいな言い方で、
黒太文字(くろふともじ)と称していた友だちがいたっけ。
さいしょ、なんのことかと思ったよ。
黒くて太い文字だから、くろふと文字、まあ、
そう言われればそうに違いないけど。
それはともかく。
黒太文字で昔おぼえた人の書いた本や、
その人の伝記を読むと、
学校の先生から習ったときの印象とはまた違った印象をもつことが多く、
いちばんは、
身近に感じられるようになることかな。
ジョン・ロックといえば、
タブラ・ラサ。
生まれたばかりの人間の心は白紙みたいなもので、
その後の経験によって、いろいろいろいろ、
あらゆる観念が獲得されるようになると主張した…。
なんてことしか知らないわけですが、
たとえば岩波文庫の『人間知性論』を読み始めると、
すぐに『聖書』にある文言がさりげなく引用されていて、
それが幾度か目にしたものであったりすると、
これまで呼び捨てであったジョン・ロックに急に親しみをおぼえ、
ジョン・ロックさん。
『聖書』のどこかといえば、
「箴言」第20章27節
「人の魂は主のともしびであり、人の心の奥を探る。」
は~。そうですか。
ここか~。
『人間知性論』の訳者・大槻春彦さんによれば、
この句は、
ロックさんの敬愛したベンジャミン・ウィチカットさんが好んだ句
だそうで、
『人間知性論』の第4巻第3章第20節にも引用される、
とのことですから、
さっそくその箇所を見てみた。
たしかに。なるほど。
学校時代に習ったことを改めて勉強し直すことの味わいが、
こういうところにもある気がします。

 

・いわし雲吾のこころのみ見てゐたり  野衾

 

嫌いな人ともつきあう

 

子どもの頃からいまだに、これといった方法が見つからないことのひとつに、
嫌いな人とどうやってつきあうか、という問題がありまして。
どんな場所に行っても逃れられないことながら、
隠しても隠し切れないし、
相手だってわたしを嫌っているかもしれず、
相性もありますから、
ほどほどの付き合いで勘弁してもらい、なるべく避けて付き合わないようにする、
ぐらいが無難かな、とも思います。
ところが、
そういうやり方、浅知恵ではない方法で道を切り開いた人がいました。

 

修道院の中には、もちろん仇はおりませんが、やはりここにも、
自然に好きな人と嫌いな人がありまして、ある人の側には知らず知らずひきよせられ、
ある人には回り路をしてでも会うことをさけたりいたします。
……以前、
何かにつけ事々に私が不快の感を抱かずにはいられなかったひとりの修道女
がおりました。
それには確かに悪魔の手が加わっておりまして、
私はその悪魔にあやつられて、
彼女の嫌な点ばかりを見ておりました。
どうかしてこの自然の隔意に打克うちかちたい、
そうだ愛はただ心に蔵おさめておくばかりでは足らず、
行為に表わさなければならないと思い付きましたので、
私は全力を尽して、
この姉妹を最愛の友を扱うように扱いはじめました。
そして彼女に出会う度たびにその為に祈り、またその功績の凡すべてを
主の前に数え並べました。
すべてどのような名匠もおのれの手の業を讃えられて喜ばぬ
ことはございません。
霊魂の名匠にいます主も、
私がただその御手の業の外形ばかりを見ず、
主が住居として選び給うた内なる聖所まで見透して、
その美を賞め讃えたことを、たしかに嘉よみしたもうたことと存じます。
私にそのような自己抑制の機会を備えてくれた姉妹のため、
ついにはただ祈るだけでは心足らず、
私は彼女にできるだけの奉仕を献げ、また不愉快な返答をしそうになるときは、
大急ぎでほほえみ、
又談話の向むきをかえるように致しました。
そしてついにこれら凡ての戦闘に勝利の日があけました。
彼女は或日、
真によろこばしげなほほえみを浮べて申しました。
「テレジア童貞よ、
私のうちに、何かあなたをそれほどひきつけるものがあるのでしょうか?
まあ、おめにかかるごとに
何ともいえぬ御親切なほほえみで迎えていただきますので……」。
ああ、
私の心をひきつけるもの、
それは彼女の霊の奥ふかきところに住み給う主イエス、
もっともにがきものをも甘きにかえ給う主イエスでございます。
(大塚野百合・加藤常昭[編]『愛と自由のことば 一日一章』日本基督教団出版局、
1972年、p.345)

 

引用した文章は「リジューの聖テレーズ」とよばれた、
マリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタンさんのことば。
1952年、新教出版社から刊行された宮城春江さん訳の『小さき花』から
とられています。
テレーズさんは、フランスのカルメル会の修道女で、
1873年に生まれ、1897年に亡くなっています。
24年の人生でした。

 

・悲しさの底の無音を鈴に秋  野衾

 

つねおくんのこと

 

おとうとから電話があり、つねおくんが亡くなったことを知った。
小学生のころ、
わたしはつねおくんと、
とくに親しくしていた時期があった。
よく話をし、家に帰ってからも、よくいっしょに遊んだ。
こんなことがあった。
あるとき、
川上先生が担任のときだから、
たしか小学三年生。
わたしは親に買ってもらったばかりの新しいベルトを締めて学校に行った。
つねおくんは、それを目ざとく見つけ、
なにか言った。
そのときの印象を、
その時点ではことばにできなかったけれど、
のちに、
『銀河鉄道の夜』を本で読み、
「ジョバンニ、らっこの上着が来るよ。」
と冷やかしたザネリの顔
を想像し、
ザネリと重ねてつねおくんを思い出した。
しかし、
わたしがして行ったきれいなベルトを見つけ、
なにか言った後のつねおくんの振る舞いは、
ザネリとはまったくちがっていた。
というのは、
わたしが三色の編み上げのベルトをして学校へ行ってから三週間、
いや四週間ほど経ったある日のこと、
一時限目の授業が始まる前に、
つねおくんがわたしのもとへやって来て、
ぺこりと頭を下げあやまった。
けげんに思っていると、
わたしが身に着けていた三色のベルトが羨ましくて、
それであんなことを言ってしまった、
「ゴメン!」
「……」
わたしはだまってつねおくんを見ていた。
「ぼくも三色のベルトが欲しくなって買ってもらった。ほら!」
「あ!」
ほんとだ。ぼくのとおんなじ。
そうか。
そういうことだったのか。
ぼくは、つねおくんは、ほんとうの友だちだと思った。
……………
中学を卒業してから一度もつねおくんと会ったことがなかった。
が、
一度だけ、
帰省した折、買い物をしようとアマノに行った際、
つねおくんによく似た人を見かけた。
「つねおくん」と思ったけれど、どうやら買い物を終えて帰りしなだったし、
少し離れてもいて、人ちがいかもしれず、
声をかけなかった。
つねおくんのことでは、
あとふたつ、
忘れられない思い出がある。

 

・はじめのことば秋冷に葉の揺るる  野衾