スクリーチ先生

 

人間が知りうるいっさいは恩寵の賜物であるという見解は、
ラブレーの「年代記」に初期から見られるテーマである。
神学、法学、医学、哲学、予言そして詩歌の分野でラブレーが重視する真理
――要するにすべての真理――は、
人間の努力により獲得したものではなく、霊的な糧(マナ)のごとく、
人間の頭上に滴り落ちてきたのである。
こうした見解は、現代人が想像する以上に、
学問や学識の分野ではずっと強く信じられていた。
ルネサンス期のユマニストたるキリスト教徒は、視野狭窄症に陥ってはいない。
彼らは、エジプトの象形文字から、
あるいはギリシアの哲学から、
さらにはヒポクラテスの霊感を宿した医学的知識から、
何らかの叡智を引き出そうと努めた。
「汝自身を知れ」という偉大な古典期から伝わる教訓も、
彼らは自分たちの天啓的真理の領域に組み入れてきたのだ。(pp.794-795)

 

上の文章は、
マイケル・A・スクリーチ『ラブレー 笑いと叡智のルネサンス』
(平野隆文訳、白水社)からの引用(改行は変えてあります)
です。
カルヴァンによって放蕩者と位置づけられたラブレーですが、
著者であるスクリーチ先生と訳者・平野先生のおかげで、
広やかな地に案内され、
ようやく深呼吸できたような気になり、
忘れられない一冊になりました。

 

・払暁のつとめの庭に初音かな  野衾

 

辛夷咲く

 

このごろの朝のたのしみのひとつは、
保土ヶ谷駅に向かいながら、
丘の下にある辛夷の花の咲き具合を愛でること。
花の数は同じでも、
ひとつひとつの花の開花がすすみ、
木ぜんたいとして
空の雲をまとったようにもみえます。
八十六歳で亡くなった祖母は、
千昌夫の「北国の春」が好きで、
カラオケがまだない時代、
親戚があつまった席で何度か歌ったのをおぼえています。
歌詞のなかに
「辛夷咲くあの丘」とありますが、
わたしはかってに、
あの丘はこの丘だと思いながら、
鼻歌に興じます。

 

・かがまりて歌ふ祖母の背春兆す  野衾

 

ラブレーの中庸

 

カルヴァンの『キリスト教綱要』を読み、
その舌鋒の鋭さに舌を巻いた
ところまではよかったのですが、
読み進めていくにつれ、
だんだんそれがこちらの身におよび、
解放感よりもむしろ
苦痛のほうが増してくるようでありました。
なぜそんなふうになってしまったか
の分析はともかく、
これはまずいと思いつぎに手にしたのが、
マイケル・A・スクリーチの『ラブレー 笑いと叡智のルネサンス』(平野隆文訳)
でした。
すこしずつ
緊張したからだがほぐれていくように感じながら
読んでいましたら、
つぎのような文言にでくわし目をみはりました。
「ラブレーは、黄金の中庸という古代の理想と、謙虚というキリスト教の概念とを、
信仰という文脈内で並置する。強い信仰心を持って祈る場合には、
神はわれわれの祈りを聞き届けてくれるはずである。
しかも神は、
その要求が控え目なものならば、
つまり中庸mediocritasを旨としているならば、
それを叶えてくれるだろう。」(p.619)
この箇所を読み、
すぐに新井奥邃のことを思いました。
奥邃はどこかで、
いまのひとは新しい本は読むけれど、
身近に『大学』『中庸』などのいい本があるのに、
そちらはあまり読まないようです
と語っていたはず。
稀有なキリスト者であった奥邃は、
日々の生活の指針として儒学を重んじ、
それを生涯手放すことはありませんでした。
火刑と拷問が日常茶飯の時代にあって、
ラブレーのいのちがけの笑いの精神が、
奥邃の日用常行、謙虚とひびき合う気がしたからです。

 

・風を享(う)け甘露垂るるや枝垂れ梅  野衾

 

電線に

 

朝、足裏のツボを刺激するボードに乗りながら気功をしていると、
べランド横の電柱のてっぺん、
また、その電柱から
ゆったり弧をえがいてつぎの電柱へつらなる電線に
スズメ、カラス、ムクドリなどがやってきて
目を楽しませてくれます。
強風にあおられ体のバランスを失いそうになるカラスは、
綱渡りの芸人のようでもあります。
このごろは、
つがいと思われるムクドリがよく来ます。
朝日に背を向け、
ちょこんと二羽が並んでいます。
と、
一羽が飛び立ち、
さてのこった一羽はどうするかと見ていると、
しばらくじっとしていて、
それからやはり同じ方向へ飛び立っていきました。

 

・子を連れてふるさとの道春兆す  野衾

 

トイレ系?

 

帰宅途中、
踏切をわたってまもなく
右へ入る小路を曲がったとき、
こちらに向かってくる男の子たち数名と
すれちがいました。
背恰好から小学生と思われます。
そのなかのいちばん背の低い子が、
立ち止まりうずくまるような恰好をしました。
それを見たひとりが
「トイレ系? トイレ系か?」
と、
くだんの少年、
間髪入れずに「トイレ系ではない」
声をかけた少年はなおも
「トイレ系?」
くだんの少年、
「トイレ系ではない!」
わき腹がちょっと痛いとか、そんなことではなかったかと思います。
すれちがいざまのこととて、
それだけですが、
少年たちはあたかも
「トイレ系」なることばを楽しんでいる
ようでもありました。
さてこの「トイレ系」
とりあえずそうかなと思って
「トイレ系」
と表記しましたが、
耳に入ったことばは「トイレけー」ですから、
合っているかどうか分かりません。
それはそれとして、
小学校時代、
学校のトイレでウンコするのが嫌だったのはなぜなのか。
もしかしたら、
その感覚がいまの小学生たちにもあって、
「トイレ系」の盛り上がりになったのかもしれません。

 

・春暁の岨(そわ)に立つ見ゆ羚羊(かもしか)の  野衾

 

桃始笑

 

第八候。
ももはじめてさく。
笑うと書いて「さく」
おとといの土曜日は鎌倉の大佛茶廊にて「さろう句会」
月に一度、
第二土曜日に行なっていますが
回をかさね第二十五回となりました。
わたしをふくめ八名の参加。
下の写真はそのときの模様。
部屋のなかから外の庭を写したものです。
あたたかくなってきたせいか、
野外でお茶をする外国人の姿がありました。
きのうは、
久しぶりのシネマジャック&ベティにて映画『福島は語る』を鑑賞。
監督は土井敏邦さん。
福島原発事故で被災した方々の証言を丹念にまとめたもの。
途中十分間の休憩をはさむ
三時間の長丁場ながら、
カメラ(監督)に向かってしずかに語る
ひとりひとりの物語に引き込まれ、
生きるとは何か、
にんげんとは何か、
国家とは何か、
そういうことを深く考えさせられる内容でした。
証言をしてくださった方が、
なんどか「土井さん」と語りかける場面があり、
映像には映らない土井敏邦さんの人柄と、
関係の深さ親しさがしのばれました。
土井監督が、
スベトラーナ・アレクシエービッチ『チェルノブイリの祈り』
に感動し触発されたことも大きかったようです。

 

・はるのひのゆめもうつつもとうたらり  野衾

 

安心のにおい

 

精神科医の中井久夫さんの文章に
「不安のにおい」
に関するものがありますが、
不安のにおいというものがあるとすれば、
反対に、
安心のにおい
というものもあるのではないか。
そう思ったのは、
先日読んだ『ドリトル先生アフリカゆき』が
とてもいいにおいがし、
古くなった紙のにおいというだけではおさまらない気がしたからです。
五十一年前に発行されたものですから、
少なくともひとり以上のひとの手にわたり、
おもしろく読まれて、
そのおもしろいと思った
「おもしろい」の気持ちが本に込められたのではないか。
中井さんによれば、
かつての精神病院にはどくとくのにおいがあり、
それがなんのにおいかと思っていたところ、
あるとき
ある患者さんに中井さんが不安になるようなことを告げた、
すると、
あのどくとくのにおいがした…。
それは患者さんの吐く息のにおいであった。
それはひとを遠ざけるにおいであり、
他のひとがその場を去りたくなるにおいであったと。
だとすれば、
反対に、
ひとを引き寄せるような
安心しているときに吐く息のにおいというものもあるのではないか。
古書の『ドリトル先生アフリカゆき』のにおいは、
それをかつて読んだひとが安心
安気のこころで読んだ証ではなかったでしょうか。

 

・東風吹かば鳥来る道にひと渉る  野衾