あきたびじょん

 

わが郷土の秋田県が平成22年度から取り組んでいる
イメージアップ戦略の名称
「あきたびじょん」
その新しいポスターが昨年11月に完成したとのことで、
年末に帰省した折、
駅の待合室を初めあちこちで目にしました。
それが下の写真。
写真上部には「Any bad kids?」の文字。
撮影したのは、
フランスの写真家シャルル・フレジェ氏。
いつも見ているナマハゲが
どこか異国の雰囲気を醸し出しているように感じられるのは、
撮影した写真家の背景にある文化の違いか。

 

・大旦背(せな)に重なる月日かな  野衾

 

たいくつだなぁ

 

ソファに父とならんで座っていた母がそう言った。
すると、
父がやおら立ち上がり、
テレビの横の駄菓子が置かれたコーナーに歩いていった。
ここまでは、
母の「たいくつだなぁ」と
父の動作に関連があるとは夢にも思わなかった。
さて父は、
駄菓子の中から、
「でん六 味のこだわり」を取り出し
母に渡したのだった。
父はにこにこしている。
はは~。
なるほど。
「たいくつだなぁ」はどうやら、
「たいくつだから、でん六「味のこだわり」の小袋をとってくれ」
の後半の部分の省略形のようなのだ。
母に「そうなのか?」
と尋ねたところ、
「んだよー」と。
「んだよ」は秋田弁。
「そうだよ」の意。
母は、
「さがなっコ、さんびぎ入っていだ!」と、
うれしそうに言いながら、
でん六「味のこだわり」をポリポリ食べている。
父はただ笑っている。

春風社はきょうが仕事始め。
本年もよろしくお願い申し上げます。

 

・故郷やびりりと青き大旦  野衾

 

宗教と哲学

 

分けよ! 宗教と哲学を――この両者がまず第一に重要であったのだ――、
これらは二つの分かたれた事柄である。
それゆえに、
両者は互いに妨げ合うことはありえない。
宗教は、思弁にまったく依存しない。
宗教は、永遠にして神的なものを、宗教のやり方で直接的に、
感情に即して把握するのである。
これがシュライアーマッハーの偉大な思想である。
……………
彼と彼の直感は、全面的に受け取られねばならない。
彼の指し示すところは、いまだなお十分には貫徹されなかった。
だが、その光が人間の目に届くには百年を要する星がある、と言われる。
おそらくシュライアーマッハーは、
このような星なのであろう。
(『ディルタイ全集 第10巻 シュライアーマッハーの生涯 下』法政大学出版局、
2016年、pp.751-752)

 

のこすところ250ページほど、
まだ終わっていませんが、
上巻とも合わせ、読み応え十分でした。
ディルタイ、シュライアーマッハーについてもっと知りたいと思います。

 

さて弊社は、下記の期間を冬季休業とさせていただきます。
よろしくお願い申し上げます。
2019年12月28日(土)~2020年1月5日(日)
どちら様もどうぞよいお年をお迎えくださいませ。

 

・忙中のベランダに富士寒夕焼  野衾

 

天然ダンス工房

 

装丁家の長田さんご夫妻から案内をいただき、
ダンスの発表会を見に行った。
第1部 小品集、第2部 港町ラプソディ、第3部 幻の水族館
の三部構成。
長田さんのお嬢さんは第1部の「山登り」「市松」に、
第3部では熱帯魚役で出演。
彼女はいま小学三年生。
ごく小さいころから知っているので、
大きくなった彼女が楽しそうに嬉しそうに踊っている姿を見、
目頭が熱くなった。
熱帯魚役で舞台の前面で踊っているとき、
彼女だけが薄く口を開きにっこり微笑んでいた。
そういう場面が二度あって、
二度ともそうだった。
先生の指示どおりなのか、
それとも
彼女のこころの姿だったのかは分からない。
印象深く目に焼き付いた。
全体を通しては、
まず、
音楽の選択が抜群によかった。
なつかしさと新しさがほどよく合わさり、
舞台と客席をがっちり結び盛り上げていたと思う。
照明も大胆かつ繊細に舞台を演出し。
発表会ということだったが、
クオリティの高さに驚き、
二回の休憩をはさんで約三時間、
言葉が少ないからこその深い世界観を堪能。
ある場面では近藤良平を、
ある場面ではピナ・バウシュを、
ある場面ではピーター・ブルック、カントールを思い浮かべながら、
久しぶりにナマのダンスが織りなす時間に
たっぷりと浸ることができた。
それともう一つ、
発表会と銘打ちながら驚くほどの完成度を示していたのは、
ふだんのレッスンの賜物と感じられた。
三歳の子どもも数名加わっていたけれど、
きちきちに間違えないようにと踊るのではなく、
伸び伸びのびのび踊っていた。
演出の妙だと思う。
子どもを型にはめていこうとするのではなく、
ダンスはまず楽しいものなんだよというこころが
踊りだけでなく演出に垣間見られて
そこにも深く感動した。

 

・クリスマス駆け下りてゆく靴の音  野衾

 

感情のつかい方

 

とつぜんのことながら、
子どもの頃から、
喜怒哀楽の感情に振り回されてきたように思います。
生まれ性もあるし、
仕方のないことであると、
そのことについて
この頃は、
必要以上にふかく考えないようしています。
ところが、
ディルタイの『シュライアーマッハーの生涯 下』
(ディルタイ全集第10巻、法政大学出版局、2016年)
を読んでいましたら、
ディルタイは、
シュライアーマッハーを神学におけるカント
であるとして、
シュライアーマッハーが
人間の感情を積極的にとらえていたことを記しており、
目を見ひらきました。
感情の波におぼれずに
それを上手につかえたら、
どんなに人生がすばらしくなっただろう
とも思います。
今からでは遅いかもしれません。
が、
しかし、
シュライアーマッハーに
ますます興味が湧いてきました。

 

・口にすることにはあらず降誕祭  野衾

 

九時間寝ると

 

スッキリします。
高齢の方で、
日常的に昼寝をするひとがいてうらやましく思うことがありますが、
わたしは老人の仲間入りをしたばっかりなので、
昼寝を常態にするにはまだ若く、
たまに九時間眠ることぐらいが関の山。
きょうはクリスマス・イヴ。
いろいろ物思うきょうこのごろです。

 

・ラファエロを見て定まりぬクリスマス  野衾

 

空の養分

 

日曜の朝、テレビを点けたら、
『粘菌 脳のない天才』という番組をやっていました。
おもしろそうなので見ていたら、
やっぱりおもしろかった。
粘菌が迷路の出口までのルートを最短で見つけたり、
塩が粘菌にとって危険でないことを学習したり、
それを他の粘菌に伝えることができたりと
まるでSF映画のような世界。
ということで興味深く見たわけですが、
その番組の中でちょこっとだけ
粘菌以外の植物の生態についても触れる場面がありました。
そのときの説明によると、
植物の知能は根にあり、
人間でいえば、
それはちょうど
頭が土に埋まっている状態であるとして、
人形が土入りの鉢に逆さに挿されたオブジェが映し出されました。
それを見て、
あ、
これはどこかで見たことがあるぞ
とひらめき、
すぐに安藤昌益の『自然真営道』『統道真伝』を思い出した。
植物の根に知能があって
地中から養分を受け取っていることになぞらえれば、
人間の頭が体の上にあるのは、
地中でなく
空から養分を受け取るためではないか、
空を見ていろいろいろいろ思うのは、
そのこととなにか関係しているのではないか。
たとえば谷川俊太郎の詩「かなしみ」
の冒頭、

 

あの青い空の波の音が聞えるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまつたらしい

 

などというのも、
人間が、
空に蒔かれた種から育ったことを
詩人の感性でうたっていて、
人間は
地上に立ってからも相変らず空から養分を受け取って生きている
のではないかと思いました。

 

・店主煙草を冬ざれの骨董店  野衾