時が満ち来る

 

もうすぐクリスマス。世はまさにクリスマス一色でありまして、
♪シャンシャンシャーンシャンシャンシャーン
とジングルベルの歌が、
あちこちから聴こえてきます。
この時期になると思い出す本があります。
恩師竹内敏晴さんの『時満ちくれば―「愛」へと至らんとする15の歩み』。
からだから始めて声を、声から始めてことばを、
ことばから始めて精神を、
レッスンを通して歩み思索し歩んだ本として読みました。
時が満ちくる。
わたしが行く、ではなく、時が満ちて、来る。
それが特別でないことをナウエンさんは切々と語っています。

 

「私は時が満ちるという体験はしたことがありません。私はごく普通の人間で、
神秘家ではありません」と言う人がいます。
確かに神の存在を独特の仕方で体験し、
それによって神の存在を世に宣べ伝える独自の使命を持った人はいます。
けれども、
私たちの誰もが――学識があろうと無学であろうと、
金持ちだろうと貧乏だろうと、
人々の目に止まろうと隠れていようと――
時が満ちて神を見る恵みをいただけるのです。
この神秘的な体験は、
少数の例外的な人々のためにとって置かれているわけではありません。
神はその贈り物を、
神の子どもたちすべてに、
何とかして与えようとしておられます。
けれども、
私たちはその贈り物を望まなければなりません。
注意深く、
心の目を醒ましていなければなりません。
ある人々には、
時が満ちる体験は劇的にやって来ます。
聖パウロにとっては、ダマスコへの途上で地面に倒れた時がそうでした
(使徒言行録9・3-4)。
けれども、
私たちの内のある人々には、
ささやきの声や背中にそっと触れる優しいそよ風のようにやって来ます
(列王記上19・12)。
神は私たちすべてを愛しておられます。
そして、
それぞれに最も相応しい仕方で、
私たちみんながそれを身をもって知るようにと望んでおられます。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.417)

 

・いとへどもありがたき世に雪がふる  野衾