声が聞こえる

 

書かれた言葉は弱い。多くの人は人生のほうを好む。
人生は血をたぎらせるし、おいしい匂いがする。
書きものはしょせん書きものにすぎず、
文学もまた同様である。
それはもっとも繊細な感覚――想像の視覚、想像の聴覚――
そしてモラル感と知性にのみ訴える。
あなたが今しているこの書くということ、
あなたを思いっきり興奮させるこの創作行為、
まるで楽団のすぐそばで踊るようにあなたを揺り動かし夢中にさせるこのことは、
他の人にはほとんど聞こえないのだ。
読者の耳は、
大きな音から微かな音に、
書かれた言葉の想像上の音にチューニングされなければならない。
本を手に取る普通の読者には、はじめはなにも聞こえない。
書いてあることの調節状態、
その盛り上がりと下り具合、
音の大きさと柔らかさがわかるには、
半時間はかかる。
(アニー・ディラード 著/柳沢由実子 訳『本を書く』田畑書店、2022年、p.59)

 

以前、中井久夫さんの本を読んだとき、
翻訳をするときには、
原著者が日本語を話せるものと想像し、その声を聴くようにして日本語にする、
という主旨の文章に目がとまりました。
柳沢由実子さんが訳されたアニー・ディラードの文章を読むと、
アニー・ディラードさんの声が聞こえてくるようです。
本を読むことは、
文字をとおして、それを書いた人の声を聴く、
ということになりそうです。
そのためには集中することが必要
になりますが、
集中しようと意図して集中できるものではありませんから、
集中のカミサマが下りてくるように、
場をととのえなければなりません。
紙の本は、
そのためにもある気がします。

 

・白雲のたつ果て知らず今朝の秋  野衾

 

風景うごく

 

子供のころ、外をぼうっと眺めていて、祖母に注意されたことが何度かあります。
ぼうっと何かに見とれているうちに、
気が触れてしまうと祖母は思ったかもしれません。
田舎のことですから、
そういう言い伝えがあったのかもしれず。
柳田國男の『故郷七十年』に、
それに似たエピソードが紹介されていて、
驚いたことがありました。
ともかく、
そういう癖も、
三つ子の魂百までのことわざどおりで、
いまとなっては、
だれも注意してくれるひとがありませんから、
以前にも増して、ただ、ぼうっと眺めているようです。
じぶんでそのことに気づくのは、
風景が動くから。
ぼうっと、また、じっと眺めている風景の画のどこか一点がほんの少しだけ動く、ズレる。
それでハッと我に返る。
うごいたものに眼をやると、
そこにいのちを宿したものが蠢いている。
枯れ落ちる一葉であることもあるけれど。
急ぐなよ。
先だって、
外出した折、坂の途中でしばし立ち止まりました。
風が気持ちいいのでそうしたのでしょう。
立ち止まった動機が今いち思い出せません。
どれぐらいの時間そうしていたのか。
と、
風景がうごいた気がした。
見ると、
樹上に赤茶けた、細く、長い蛇が、頭をもたげていた。
幹でなく、枝と葉にくねる体を絡ませて。
崖に生えている樹ですから、
坂の上からよく見えます。
こんな大きな樹の上までよくぞ這い上がったな。
とおくジオラマの風景のなかを横須賀線下り電車がすべっていった。
またぼうっとしていたようです。

 

・夢かとぞ問ふひともなし虫の声  野衾

 

ピンクのランドセル

 

朝、ツボ踏み板を踏みながらの体操は約三十分を要します。
五年程前に始めたときは、
痛くて、脂汗がにじみ、
三十分はおろか、十分踏むのもやっとの状態でしたが、
必死に痛みをこらえ、つづけているうちに、
いまは鼻唄交じりでも、本を読みながらでも、できるようになりました。
げに継続は力なり。
鼻唄を歌わず、本を読まない場合、
要するに、
ただツボ踏みに専念するときがいちばん多いわけですが、
痛くないので、
意識が足裏に向かうことはなく、
ここ山の上から、
季節ごとの風景を眺めるのが楽しみの一つ。
ツボ踏み板の上で、踏みながら体を回転させるやり方もありまして、
まるで自力の回転展望台。
しずかな動画がくり広げられます。
カラスが飛び、ハトが飛び、たまにアオサギが飛び。
スズメの子らが五羽六羽、
遅れて一羽。
犬を連れてゆっくり上ってくる散歩のおじさん。
めったに見られないけど、
電線の上を台湾栗鼠たちの目くるめくサーカス。
ゴミ出しの日は、
向こうの丘から、手すりをぽんぽんぽんと、可愛くたたきながら階段を下りてくるおばさん。
一日の始まりです。
やがてピンクのランドセル。
数年前に見たときは、
大げさでなく、
ランドセルが生きて、弾けて、坂を下りていくように見えた
(小学一年生になったばかりだったのでしょう。
「行ってきまーす」の元気な声が聞こえ、
その後、ランドセルが揺れて走っていった)
のに、
このごろは、
ランドセルを背負った女の子が、
一歩一歩、ゆっくり坂を踏みしめ下りて行きます。
学校での生活も厚みを増したことでしょう。
山の上から見下ろすのは後ろ姿だけですから、
顔が見えず、
どこに住んでいる娘さんか、まったく分かりません。
だから、よけいに、
ランドセルと娘さんの対比が日々の記憶に刻まれていくようです。
歳月は確実に過ぎてゆきます。

 

・正面に黒猫のそり秋来る  野衾

 

声の文化と文字の文化

 

声の文化と文字の文化の相互作用は、
人間の究極の関心と願望〔としての宗教〕にもかかわりをもっている。
人類のすべての宗教的伝統は、
声の文化に根ざした過去のうちにその遠い起源をもっている。
また、
そうした伝統はすべて、
話されることばをを非常に重んじているように思われる。
しかし、
世界の主要な宗教は、
聖なるテクスト(ヴェーダ、聖書、コーラン)の発展によっても内面化されてきた。
キリスト教の教義においては、
声の文化と文字の文化の二極性がとくに先鋭化している。
おそらく他のどんな宗教的伝統よりも
(ユダヤ教とくらべてさえも)
先鋭化している。
なぜなら、
キリスト教の教義においては、
唯一神性の第二位格 Person、人類の罪をあがなうこの第二位格が、「神の子」と呼ばれる
ばかりでなく「神のことば Word of God」とも呼ばれるからである。
この教義にしたがえば、
父なる神はかれの「ことば」、かれの「子」を口に出す、
あるいは話すのである。
神はけっしてそれを書きつけるのではない。
「子」の位格はまさに「神のことば」からなりたっている。
(ウォルター・J・オング[著]桜井直文/林正寛/糟谷啓介[訳]『声の文化と文字の文化』
藤原書店、1991年、pp,363-4)

 

白川静さんの本をひとしきり読んだ後だったので、
よけいに、
声の文化にかんする考察がとても刺激的で、
興味ぶかく読みました。
ことばにかんするわたしの思考は、
単純に、
いずれの文化圏においても、
文字が作られる前に話しことばがあっただろうということ、
それと、
亡くなった祖母が、
家が貧しくて小学校にも行けず、
奉公先の大学生の子息から、平仮名と片仮名と少々の漢字を習い、
それは書くことができても、
基本的に話しことばの人であったこと、
この二つが、根本的な土台になっています。
本に記された文字を読むときに、
意味を伝える記号として読むのか、
声を記録した記号として読むのか、
では、
おのずと態度と経験がちがってくるように感じます。

 

・秋高し先蹤を追ひ土を踏む  野衾

 

本は

 

神奈川県立図書館新館が今月一日にオープンしまして、
わたしはまだ中に入ったことがありません
けれど、
弊社が入っているビルと、道を挟んだちょうど向かい側にあり、
また建物全体に、ガラス窓を広くとっているせいか、
なんだかとってもリゾートホテルのよう。
なので、
仕事に疲れてきたときなど、
椅子をくるりと回転させ、
館内で本を読んだり、勉強したりしている利用者の姿を遠めに眺めます。
弊社は教育会館の三階にありますが、
新しくできた図書館の三階には広いバルコニーがあって、
そこから外の風景を楽しむひとの姿も見えます。
(お~い)
社のすぐそばに図書館ができたことで、
ありがたいのは、
本を読む、本と接するひとのイメージが具体的につかめるようになったこと。
いま校正しているこのゲラも、
やがて本になり、
向かいの図書館で読む人がいるかもしれない。
一階のソファでゆっくりと読まれるか、
二階の窓に向かった机のところで辞書をそばに置いて読まれるか、
はたまた、
すぐには読まれず、
とりあえず、
本を小脇にかかえて、
バルコニーにでてみるか、
と思った人の体温に温められたり…。
本て、いいなぁ。
本て、いいもんだぞ。
弊社はきょうが二十三周年、
明日から二十四年目に入ります。
今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

・丘越しのきつね色なる秋の宵  野衾

 

「は」と「が」の違い

 

つまり「は」という助詞を提題の助詞だというわけは、
「は」の本質は、その上の部分に問題として出すのだということです。
そして下に答を要求しているんです。
問題として出すからには、
その問題ははっきりわかってなきゃ困る。
だから、
「は」で受ける上の部分はすでにわかっていることとして取り扱う。
そして「は」の下に未知の答を求める。
提題というのは、そういうことなんですね。
だから既知とか未知とかいう言い方で「は」を説明すれば、
題目として、問題として出す以上は、
その部分は既知扱いとなる。
そして「は」の下のところへくるのが未知の答なんで、
答というものはいろんな、
さまざまのいい方ができるもの、
つまり、新しく提供される情報でしょう。
つまりわかっていること(既知扱い)とわからないこと(未知扱い)とを
組み合わせて、
一つの言語表現をする。
それが日本語の「は」の構文の本質なんです。
(大野 晋・丸谷才一『日本語で一番大事なもの』中公文庫、1990年、p.212)

 

この箇所を読み、すぐに、あるテレビ番組を思い出しました。
それは、
「サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん」
いろいろなジャンルのものに興味を持った子供たちが登場し、
じぶんの好きな世界を紹介していきます。
おもしろくて、
このごろよく見ます。
番組中、
「博士ちゃん」がサンドのおじさん二人と愛菜ちゃんにクイズをだす場面があります。
たとえば、
スタジオに宝石三個を用意し、
一個は20万円の物、一個は300万円の物、一個は宝石にまねて作ったガラス製品。
そのなかから、300万円の宝石がどれかを当てる
というクイズ。
そのとき「博士ちゃん」は、
「一個300万円の宝石は~~~?」
とことばを発します。
宝石の問題に限らず、
どの「博士ちゃん」も、クイズをだすときには、
「○○のものは~~~?」
と言い、
「○○のものが~~~?」
とは言いません。
宝石の場合でいうと、
スタジオで三個の宝石(一個はガラス)を直接見て触っていますから、
既知ということになります。
疑問に感じることもなく番組を見ていましたけれど、
大野さんの説明と照らし合わせると、
合点がいきます。
ちなみに、
「は」の上は既知、
に対して、
「が」の上は未知、
ということになります。

 

・赤々と夕陽の下の虫の声  野衾

 

サンスクリット的世界

 

ちょっと話がそれるかもしれませんけれども、
昨年インドに行きましたとき、
私の通訳として助けてくれたインドの若い女の人に、川の水の流れをみて、
われわれは
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例ためしなし」
というと、言ったんですね。
また中国では
「ゆくものはかくのごときか昼夜をおかず」
と孔子が言ったという話をしたんです。
そうしたら彼女いわく、
「水は流れて行くけれども、その本質においてなんの変りもない」
と。
これには私も驚きました。
インドの人には、やはりサンスクリット的世界のとらえ方があって、
時間によって物ごとが流動して行くことを詠嘆しない、
事の本質はなにかというようにだけみるわけなんですね。
いつか彼女に、
この市原王の歌を訳してあげたら、
「風の音は、本質において空気の振動である」
と言うでしょうかねえ。
(大野 晋・丸谷才一『日本語で一番大事なもの』中公文庫、1990年、p.119)

 

引用文中の「市原王の歌」は、萬葉集1042番、

 

一つ松 幾代か経ぬる 吹く風の 音の清きは 年深みかも

 

この一つ松は幾代を経たことであろうか。
吹き抜ける風の音がいかにも清らかに聞えるのは、
幾多の年輪を経ているからなのであろう。(新潮日本古典集成『萬葉集 二』)

 

大野晋さんと丸谷才一さんとの対談は、
『源氏物語』に関するものを以前読んだことがあり、
とてもおもしろかったので、
今度はズバリ日本語に関するものを読んでみようと思って読み始めましたら、
こんな箇所がでてきて、
なるほどなぁと思いました。
引用箇所の発言は大野さんです。
ことばを覚え、ことばを操っているようにみえて、
それは驕り高ぶりかもしれず、
実のところは、
それぞれの言語構造の海に産み落とされ、
そこの水にふさわしい泳ぎを習い泳いでいる、
ということかもしれません。

 

・天高し逆さ宇宙の雲がゆく  野衾