読書の時間

 

収録後にゴールデン街でみんなで飲んで、やっと人心地ついてね。
私のアパートで鍋パーティをやる約束をして、
後日、
三上(寛)氏や評論家の松本健一さんなんかも交えて手製の鍋料理を囲んでね、
膝突き合わせて飲みました。
こっちもうれしくてベロベロに酔っちゃってね、
出したばっかりの私の処女詩集を見せびらかしたりした。
これは後ではっきり言われたんですが、
「この詩集の装丁はよくない」
と。
友人の日野日出志のイラストを使わせてもらったんですけど、
黒い空と海と難破船をバックに包丁を手にした男が立ってる絵ね。
中上(健次)さんは
「表紙が内容を言い過ぎていて、全然読む気にならない」
っておっしゃんたんだな。
正鵠を射た批評というかね、慧眼ですよね。
今になって考えてみると、
その通りだと思う。
(友川カズキ『友川カズキ独白録』白水社、2015年、p.177)

 

友川さんの処女詩集の装丁についての中上健次の発言、
納得します。
内容をギュッと圧縮し、
さらに圧縮したような装丁は、読んでいないのに、
なんだか中身が分かったような気になり、
得したというよりも、
むしろ損したような気になります。
本を実際に読みはじめた読者が、
本を読む時間とともに、
いろいろ気づいていくのがほんとうの読者サービス。
本のタイトルも、装丁も、
読者の「読書の時間」に資するものでなければならない、
と考えます。

 

・お社やいのちの祭蟬の声  野衾

 

声と人

 

だからまぁ、一番大事なのはその声の後ろにいるはずの「人」の問題なんだよね。
私はそっちの「内面」の方が問題なんだと思うのよ。
人にとって一番面白いのは「人」なんだな。
確かに音楽って、身体的なものではあるわけです。
肉体ありきのものではあるんだ。
でも大切なのは情緒や感情などの「内面」。
それは反復作業で鍛えられるようなものではないと思う。
(友川カズキ『友川カズキ独白録』白水社、2015年、p.122)

 

引用した上の文章の前に、
デビューしたころ、
レコード会社に言われて一度だけ専門家のもとでボイストレーニングをした
ことがあると記されており、
「生きてるって言ってみろ」のあの友川カズキが
神妙にボイストレーニングをしている姿を想像したら、
笑いが噴き出した。
友川さん、それでどうしたかというと、
「アホらしくなってね、途中で飛び出し」たんだそうです。
で、
ボイストレーニングの有名な先生に向かい、
「どう考えてもこんな練習は必要ないと思います」
と啖呵を切ったところ、
先生は話の分かる人だったらしく、
「うん、君の言うことも間違ってはないな」
ということになり、
すぐに友川さんを解放してくれたのだとか。
下の写真を見ながら
このエピソードの場面を想像すると、
友川さんには悪いけど、
なんともいえず可笑しくなります。

 

・社いま古代のまつり蟬しぐれ  野衾

 

音調のこと

 

実際には、音調がもっとも重要であるかもしれない。
T・S・エリオットは
「詩における意味は、
それによって読者を油断させてその隙に本質的なものを相手に忍びこませるもの」
と言っている。
これは詩に限らない。
繰り返し述べるが、精神医学的面接においても、
H・S・サリヴァンは
「言語的(verbal)精神療法というものはない。
あるのは音声的(vocal)精神療法だけだ」
とまで言っている。
そして
「きみの「デザイアの声」で語り、「トレーニングの声」で語るな」
と言っている。
耳の聞こえにくい人との面接は目の見えない人との面接よりも難しい。
また、一般に大声での会話では音調がなくなる。
耳の聞こえにくい人との対話の難しさは、
逆説的だが、そこである。
(中井久夫『私の日本語雑記』岩波書店、2010年、p.240)

 

三橋美智也の歌について母が漏らした
「このひとの声だば、世話してもらえるような気がする」
の言葉をさらに敷衍する内容。
三橋美智也をリスペクトする歌手は多く、
テレビでも、
彼の歌をカヴァーして歌う歌手は少なくないけれど、
みんな上手いし、
それなりに楽んで聴いてはいるものの、
改めて、
三橋美智也の声の質について考えざるをえません。
美智也の声は、聴いているうちに、
気持ちがだんだん落ち着いてくるというのか、
おだやかになってくるというのか、
とにかく、声、なんですね。

 

・犬連れた佐々木さんにも秋来る  野衾

 

声のこと

 

私の経験によれば、
どこからも入院を拒絶されがちな患者さんをみていると、
暴力でも、理屈でもなく、音声である。「声がすごいんです」と主治医がいう。
問題はもっぱら声にあった。
私は会ってみた。
その音調は話題を問わず
「ブリキの板で脳味噌を直接切りさいなまれている」感覚を起こさせた。
しかも、
間を置かず、「あのー」の間の手もなく、
私が口をはさむ隙間が全くない。
この音調を二時間以上ただ聴いていると、私の脳は全く麻痺する。
必ず左耳で電話を受ける私は左耳の高音部の聴力を四デシベル低下させた。
右脳に入ることになることがポイントかどうか、
私は必ず左耳で受ける。
右耳で受けると心なしか乾いた論理しか伝わらないようだ。
ブリキ板への私の対応は、
無理でもゆっくりと低音で返事するか、音調をせせらぎのようにして、
細い、しかし明快な声で答えることであった。
これは重荷ではあったが、
相手はいつしか穏やかな音調に変わっていった。
(中井久夫『私の日本語雑記』岩波書店、2010年、p.231)

 

さすが中井久夫さんと思いました。
わたしも左耳で電話を受けますが、そうしている人は多いのではないでしょうか。
いずれにしても、
コミュニケーションにとって、
話の中身よりも声がいかに重要か、
そのことを改めて考えさせられました。
もう一つ。
三橋美智也の歌を聴いて、
ぽつり、
「このひとの声だば、世話してもらえるような気がする」
と漏らした母の言葉を思い出す。

 

・新聞をキオスクまでの今朝の秋  野衾

 

聖書と学問の分岐点

 

聖書においては、
この「こころ」という言葉が意味しているのは、
人間自身が認識することもできず、
支配することもできない、
あの人間の最も深いところにある本質的なもののことである。
あの人間を動かす究極的な中核となっているものである。
これは、
われわれ自身にとっても謎めいたものであり、
われわれが持ち合わせのものや
自分の意思によって好きなように動かすことのできないものなのである。
聖書において
まさにわれわれが
自分で自分を認識する義務があるとされていない
のは、
感謝すべきことと言えよう。
あの〔ソクラテスが聴いたという神託が語る〕〈自分自身を知れ〉
ということは、
恐ろしい励ましであり、
自分で果たしようがないものだからである。
(加藤常昭編訳『説教黙想集成 1 序論・旧約聖書』教文館、2008年、pp.719-720)

 

上の引用文は、
ドイツのルター派牧師で実践神学者のヴィルヘルム・シュテーリンが、
旧約聖書のエレミヤ書第17章5-14節に関して記述した
文章から。
さて、
「知・情・意」という言い方がありますが、
「情」には「こころ」の意味があり、
「情」に「こころ」と振り仮名を振っているものもあります。
「知・情・意」というと、
なんとなく並列な感じがし、
三つがバランスよく保たれているのが良い、
みたいなニュアンスがありますが、
神経心理学の山鳥重(やまどり・あつし)さんに言わせると、
人間にとって情の世界が圧倒的に大きく、
いわば海のようなもの、ということになるようです。
聖書で説かれている「こころ」と
心理学で説かれている「こころ」、
大きく離れているようで、
それぞれカーブを描いて近接してくる具合です。

 

・尻を振り怒つてゐるのか蟬の声  野衾

 

毎日が印象派

 

朝に夕に空を見上げ、雲をながめることが多くなりました。
この光の感じはモネ、
この薄い翳りはシスレー。
風景、風の景、風に景色あり。
天に気があるように
人に気があり、
目覚めては、
きょうの光を黙想します。

 

・主無き閨に陣取る青大将  野衾

 

さまざまの事おもひ出す

 

秋田の父から電話があり、
叔父の勤が亡くなったことを知った。
享年八十二。
勤と書いて、
つとむ。
標準語ならフラットに読むはずだが、
秋田では、
バナナのアクセントが三文字の真中、「バ」のつぎの「ナ」にあるように、
叔父の名前は「と」にアクセントがある。
む。
父はぽつりと、
「きょうだいのうち、これで、三人亡ぐなってしまったハ」
わたしは、
かけることばを失った。
「三人亡ぐなってしまった」なら、
ちがっていたかもしれない。
最後に発した「ハ」にこめられた父の万感の思いに胸を打たれた。
叔父は歌が上手かった。
かつて友人のミュージシャンを秋田に同行した時、
叔父の歌を聴いて、
しろうとの上手さではないと言った。
叔父は若いころ、
歌手になりたくて東京に出たことがあった。
父はそのとき親代わりとして東京を訪れ、
部屋探しに付き合った。
叔父は歌手にはならなかった。
営林署にながく勤めた。
生まれて間もなくの病気が原因で障害を持ってしまった長男のことを、
いつも思っていた。
数年前、
親戚一同でカラオケのできる店に集まったとき、
叔父に寄り添って歌う息子の姿に、
そこにいるみんなが目頭を押さえた。
長男も、
叔父に似て、歌が好きだ。
叔父の住まいのすぐそばに神社があった。
うっそうとした林のなかに蟬の声が響いている。
ちいさな子供がしゃがんで、
なにか探しているようだ。

 

・文字以前社にひびく蟬しぐれ  野衾