辞典を作るこころ

 

だいたいの本の「はじめに」「あとがき」は読むのに、
辞典、事典の「序」「刊行のことば」「はしがき」「編集にあたって」となると、
この仕事に就くまではあまり、
というか、
ほとんど読んできませんでした。
ところが、いまの仕事を続けているうちに、
辞事典類の「序」や「刊行のことば」がいかに重要であるか
を思い知らされ、
遅まきながら、
これまで使ってきた辞事典類の「序」や「刊行のことば」を読み返している
きょうこの頃です。

 

辞典によっては,
それぞれの用語の正しい使用方法や本来の語義を考えて規範的な観点から記述する,
いわば現在の語の使用の誤りを正すという編集方針を採用するものもあろう.
しかし本改訂においては,
我々はこの方針はとらなかった.
「世直しを行わない」という原則である.
それは,
用語や概念は, 時代によりその意味や用法が変化していくものだという考え
に基づいている.
また, 使われなくなった古い用語や現在は否定され誤謬とされる古い概念などは,
新しい辞典に採録する必要なし, との立場もあろうが,
あらゆる時代の文献を読解するにあたっては, これらもまた無視はできない.
現在の用法のみを適切に記した用語集は, 各分野において常備されており,
本書の機能はそこにはない.
むしろ積極的に,
広範囲にわたってさまざまな用語や概念の消長をあえて記しておき,
生物学の俯瞰を可能にすることが,
学問科学の次世代の担い手を育成することに繋がると我々は考えた.
無論, 不適切な用語は時間とともに消えて行くだろう.
どの語が最も適切であるかは,
編者が判断するのではなく,
科学者コミュニティの中での語の長期の変化,
すなわち「用語の自然淘汰」に任せるのが望ましい.
ただ, 採択するべきはどの語か, すでに定着しているのはどの語か,
といった判断,
あるいは処理の手際が適切かどうかに関しては,
我々編者の責任である. 読者の率直なご批判をいただきたい.
(巌佐庸、倉谷滋、斎藤成也、塚谷裕一[編]『岩波 生物学辞典 第5版』
2013年、第5版序より)

 

こころの丈が感じられる、いい文章だと思います。
なお、この辞典は横書きの日本語ですが、横書きのため、句読点ではなく、
カンマ、ピリオドを使用しています。
このことについては、言わずもがなのことかもしれず、
とくに謳っていないようです。

 

・三寒の児を追ふ母の背中かな  野衾