忘れるために読む

 

じっさいのところは、読んで忘れた、だけなのですが、
あることから、ん!? 待てよ、
ひょっとしたら、もしかして、忘れるために本を読んでいるのかな、
と思いたくなりまして。
あることとは、4回連続の対談、というか聞き書き。
S先生からお声がけをいただき、S先生が聞き役になってくださり、
問われるままにわたしが語ります。
いずれなんらかのかたちにまとめたいと思います。
すでに2回おこないました。
ぜんたいのくくりは「本のある世界」(仮題)。
1回が2時間から、2時間超。
1時間半ぐらいをめどに、といって始めるのですが、
だんだんノッてきて、時計を見れば、だいぶ超過していることに気づきます。
前もっての台本らしきものはなく、
先生の質問に、
その場でなるべく正直に答えていくわけですが、
話していると、ひょいっ、ひょいっ、
っと、
これまでのさまざまな体験、
あるいは、
そのときどきに読んできた本のことが思い出されてきて、
体験も読んだ本も過去のことなのに、
結びつき方があたらしく感じられ、じぶんでも、
ちょっとおどろきます。
忘れてしまったことが、いわば種となってわたし自身に蒔かれ、
意識の下で根を伸ばし根茎を形成しているような。
それで、
ん!? 待てよ、ひょっとしたら、もしかして、
となりました。
こんしゅう3回目をおこないます。

 

・梅が香やまなこ閉づれば五百年  野衾

 

山田洋次さんのこと 5

 

クロード・ルブランさんの本がおもしろすぎて、引用を重ねてきましたが、
そろそろ終りにしたいと思います。
さらに引用したい箇所はいくつかある(たとえば『映画とは何か』
の著者アンドレ・バザンさんに触れている箇所(pp.159-160)や
隠れキリシタンの地であった五島列島をロケ地に選んだことへの言及
(pp.404-405)など)のですが、きりがないので。

 

洋次の作品を見る視点が変わったことは、パリの人々に限ったことではない。
もともと彼らのほとんどははじめて見たのだが。
2022年7月、
ガンを患う坂本龍一は雑誌『新潮』に闘病日記の連載を始めた。
その初回で、
いくつかの歌についての考察をした後、洋次の人気シリーズに少し触れている。
「病気でもしなければこんな曲を良いとは思わなかったかもしれないし、
歌詞の内容に耳を傾けられるようになったのは歳のせいもあるかもしれません。
だから、
演歌だってまだきちんと聴いていないだけで、
今なら若い頃とはまた違った受け止め方をできる可能性もあると思います。
寅さんだってそうですね。
『男はつらいよ』シリーズの新作が毎年のように作られていた80~90年代、
ぼくたちの世代はそんな映画には目もくれずに
『ハイテク』だの『ポストモダン』だのと言いながら、
東京の街で遊び回っていた。
だけど、
その頃の寅さんも、
昭和という輝かしい時代が既にもう取り返しのつかない段階まで来てしまった
という、郷愁のテーマを扱っていたわけですね。
そのノスタルジックな感覚は、より敷衍して言うなら、
変わりゆく地球全体の環境問題を考えることとも繋がります。
だから自分が年を取った今ではもう、
『男はつらいよ』のタイトルバックに江戸川が映るのを見るだけで、
号泣してしまいます」。
これは、
国民の意識に決定的に刻まれた山田作品の深い印を、
もっとも感動的に承認した証言のひとつだと思う。
(クロード・ルブラン[著]大野博人・大野朗子『山田洋次が見てきた日本』
大月書店、2024年、p.745)

 

坂本龍一さん、こんなことを書かれていたんですね。
「『男はつらいよ』のタイトルバックに江戸川が映るのを見」て、
目頭が熱くなるとか、ぽろぽろ涙を落とすとかではなく
「号泣してしまいます」というのは、よほどです。
YMOもふくめ、坂本さんがつくりあげてきた音楽にも、
ノスタルジックな感覚があると思います。

 

・探梅行天に届けと子らの声  野衾

 

山田洋次さんのこと 4

 

わたしの実家は兼業農家で、子どものころから、農家の仕事を見てきました。
親にいわれれば、子どもでもできる仕事を手伝ったりもしました。
共同の田植えのときに、植えすすむ人が手をあげるのを見、
あぜ道から苗束を放り投げたり。
ことば以上に、家業から教わるものは少なくないようです。

 

橋本の事務所が仕事場だった。ひと区切りごとに洋次はアイデアを記し、
鉛筆を握りしめたまま「師匠」に丸ごと渡す。
すると橋本はいくつかコメントし、書き直しを求める。
このやりとりは橋本が満足するまで続いた。
「そんなことが毎日毎日続くわけです」。
夕食ではもう仕事の話はしなかった。
洋次は橋本のこれまでの歩みや、東京の印象などを尋ねた。
橋本は地方出身だったのだ。
こうした付き合いは、
「私にとって橋本さんは、まごうかたなき『師』なのです」
と言うほどの強いきずなを育んだ。
2か月近くして、二人の脚本は完成した。
執筆者どうしが総括をするときが来たのだ。
「ぼくが
『脚本を書くという仕事は、なにか才気にまかせて書く、
といった格好いい仕事のような気がしていたけれど、
本当は油にまみれて働く労働者の仕事のようなものなんですね』(と言うと)
そしたら橋本さんが笑いながら、
『いや、お百姓に近いんじゃないか』と答えました。
『タネをまいて、芽が出て、天気を心配したり、
水の心配しながら作物を育てていく。
まあ、そういう忍耐のいる、いや、忍耐だけが頼りの仕事だよ』」。
橋本の教えの本質をつかむことができたからこそ、
洋次は脚本家としても成功したのだ。
(クロード・ルブラン[著]大野博人・大野朗子『山田洋次が見てきた日本』
大月書店、2024年、p.107)

 

文中の橋本とは、橋本忍さん。脚本家で、山田洋次さんが師と仰ぐ方。
生まれたところは、
兵庫県神崎郡鶴居村(現・神崎郡市川町鶴居)。
家業は小料理屋だったとのことで、
子どものころは、家業を手伝っていたそうです。
わたしがこの仕事(編集)をするようになって35年たちましたが、
このごろあまり言わなくなりましたけど、
編集の仕事をよく農業にたとえて言っていた時期がありました。
いただいた原稿をととのえ、本に仕上げていく営みは、
種を蒔き、苗を育て、草刈りをし、
天気を気にし収穫までもっていく行為にいろいろ似ている気がしたものです。
いまもそれは変りません。

 

・空もよし歩数重ぬる探梅行  野衾

 

山田洋次さんのこと 3

 

高校生のとき、同級生の女生徒が授業中、こんなことを言いました。
もっとむかしに生まれたかった。
なぜなら、
むかしに生まれていれば、
歴史の学習で、こんなにおぼえることが多くなかっただろうから。
半分はじょうだんだったと思いますが、
現代史になればなるほど、
ものごとが錯綜していて、おぼえきれないという感想をもった生徒は多かった
はずですから、半分は本音だったかもしれません。
わたしも同感でしたから、忘れられないのでしょう。
歴史の勉強が好きでもなかったのに、
興味のある人の伝記を通じての歴史は、おもしろく感じられます。

 

1984年に出版された回想録の中で、
強く記憶に残ったあるできごとを報告している。
隣人の一人に京都大学の教授がいた。
特別講義のために大連に滞在していたのだが、日本が降伏して、
妻とともに身動きができなくなってしまった。
体が弱い人で、
食べるものを手に入れることもできずにいた。
洋次は、
彼のために本を売ってなにがしかのカネに換えようと考え、
元気のいい声で買い手の気を引いた。
すると一人の男が足を止めて、ある本の売り値を尋ねた。
買い手の登場に喜んで「十円です」
と答えた。
当時は貴重な食品だった落花生がいくらか買える額だ。
すると彼がこう言った。
「いいかい君、これは永井荷風の『墨東綺譚』の初版本といってね、
大変値うちのある本なんだぜ、十円なんかで売っちゃいかんよ」。
まだ中学1年生だった洋次は
「初版本なんてよくわからないし、『墨東綺譚』もよくわからない。
無知を指摘されたようでちょっと恥ずかしかったものです。
で、
そのおじさんが買ってくれるかと思ったら、
溜息をひとつついてそのまま行ってしまいました」。
後になって彼は、
『男はつらいよ』シリーズを象徴する人物、寅さんをつくりあげる。
ただ、
この露天商は少年の洋次よりもっと商売上手で、
巧みな口上でなんだって売ることができた。
(クロード・ルブラン[著]大野博人・大野朗子『山田洋次が見てきた日本』
大月書店、2024年、pp.67-68)

 

引用した箇所の冒頭「1984年に出版された回想録」
というのを読んでいませんので、
ここに記されているエピソードをはじめて知りました。
山田洋次監督にこんな思い出があったんですね。
山田さんが渥美清さんと知り合ったころ、
渥美さんの啖呵売に魅せられたことはなにかの本で読み知っていたけれど、
どうしてそんなに夢中になったんだろうと、
すこしふしぎな気もしていました。
それが解消された思いです。

 

・ていねいにゆつくり動く春の風  野衾

 

山田洋次さんのこと 2

 

映画『男はつらいよ』のシリーズを、わたしは映画館で観たことがありません。
もっぱらDVDによってです。
テレビでやっていれば、それもつい観てしまいます。
ですから、なんのことはない、
たべものでいうところの食わずぎらい
だったということになるでしょう。
映画の冒頭に流れる星野哲郎さん作詞、山本直純さん作曲のあの歌の
プワ~ッという音に、
わかき日のわたしは共鳴しませんでした。
ところが、映画も歌も、じわりと効いてきて、
いまでは、全部ではないけど、相当数のDVDをもつほどになっています。

 

北は北海道から南は沖縄まで、彼ほど全国各地で撮影をしてきた監督は
ほかにいない。
四国にも行ったし、東京から東北の岩手県の松尾村(現在の八幡平市)
まで足跡は及んでいる。
どんな地方でも、
彼は住んでいる人たちの大半が顧みることのなかった日本の現実を、
深いところまで示そうとしてきた。
それが彼の作品の人気の理由なのだろう。
90歳を超えた今も、
自分の国を知りたいという思いを持ちつつづけている。
彼は自分の国について、最初は外国から知ったのだという。
「私は、アルジェリアに暮らしていたフランス人に似ています。
彼らもフランスを地中海の対岸から見ていたのです」
(クロード・ルブラン[著]大野博人・大野朗子『山田洋次が見てきた日本』
大月書店、2024年、pp.53-54)

 

「アルジェリアに暮らしていたフランス人」から
カミュさんのことを連想します。
また、ふるさとも、
いったん外に出ることで見えてくるところがある気がします。
ちなみに、
著者のクロード・ルブランさんは1964年生まれですから、
アルジェリア戦争と地つづきの1968年パリ五月革命の波を浴びています。

 

・交差点待つ間の黒き薄氷  野衾

 

山田洋次さんのこと 1

 

ある時期から映画『男はつらいよ』にハマってしまい、以来、
『男はつらいよ』にかんするものだけでなく、
渥美清さんや山田洋次監督にかんする本も手にとるようになりした。
山田洋次さんについてフランスの方が書かれた評伝の日本語訳が昨年発行され、
さっそく読んでみました。

 

技術面で業績を上げることに熱心だった正は、入社したばかりのこの企業に、
さらに思い入れを強めることになった。
当時のナショナリズムの高まりの中にいれば、
そこから逃れるのは難しかった。
しかも、その高まりをもっとも体現している企業で働いているとなれば、
なおさらだった。
日本政府は、東京―パリ間の鉄道敷設を促進するうえで、
特急あじあ号を前面に押し出した。
日本初の超高速列車を牽引した「メイド・イン・ジャパン」の
パシナ型蒸気機関車によって、
鉄道分野での日本の技術的な優位性を強調したかったのだ。
このころ日本の技術者たちは弾丸列車計画に取り組みはじめるのだが、
これは、
やがて1950年代に「新幹線」の建設につながり、
1964年10月にはじめて東京―大阪間で運用されることになる。
(クロード・ルブラン[著]大野博人・大野朗子『山田洋次が見てきた日本』
大月書店、2024年、pp.38-39)

 

たとえば、こういう記述が、むしょうに興味深く感じられます。
歴史は、まえもうしろも、途切れることなくつながっているのだな、と。
文中の「正」は、山田洋次監督のお父さんの正さん。
「入社したばかりのこの企業」とは、南満洲鉄道株式会社、
いわゆる満鉄です。
『男はつらいよ』には、列車のシーンが多く登場します。

 

・明烏三声発して朧かな  野衾

 

悩みについて 3

 

あるていど年をかさねてくると、健康についての悩みがふえてきます。
ともだちと会っての話題も、年々それが多くなります。
健康にかんする悩みも尽きないわけですが、
森田正馬さんの考えを紹介しながら、
帚木(ははきぎ)さんは、こんなことをおっしゃっています。

 

病気か未病か、健康か不健康かで考えるよりも、
病気即未病、健康即不健康というように、「即」をつけたほうが、
より実際の人生に近いのではないでしょうか。
〈健康すぎる病気〉があるのかもしれません。
今は未病でも、いつかは病気になる。
病気とまではいかなくても、半病人くらいにはなる。
たとえ半病人であっても、
健康人らしい顔をして健康人のように生きていれば、
これもまた健康といえるはずです。
本来、人の一生は、健康を守り通すのが目的ではありません。
与えられた命を全うするのが、その人の目的です。
となれば、
不健康であっても構わないはずです。
(帚木蓬生[著]『生きる力 森田正馬の15の提言』朝日新聞出版、
2013年、p.109)

 

なかなかこういう考えを身に付けることはむつかしい気がしますが、
とてもたいせつな考えであると思います。

 

・流れきて流れゆくなり雪解川  野衾