デカルトさんとアクィナスさん

 

伝記好きの、それも、読み応えのあるぶ厚い伝記が好みのわたしとしては、
これは読まずにいられませんでした。
『デカルトの生涯』
上下巻合せると、優に千ページを超えます。
ぶ厚い伝記を読んでおもしろいのは、
なんといっても、
これまでじぶんが持っていた印象が揺さぶられ、
ときに、
まったくイメージが変ってしまうようなことが起きること、
です。
まだ下巻を読み終えていないので
なんともいえませんが、
上巻で、
わたしにとりましては衝撃的なことが書かれていて、
さっそく付箋を貼りました。
こんなこと。

 

しかし、敵対者たちのやり方にかかずらうことはやめて、
彼らには、
デカルトは『序説』にある道徳の四つの規則を、
それがいかに優れたものであるにせよ、
道徳哲学の規則だった完成された体系であると考えたことは決してなかった
と言うだけにとどめておこう。
デカルトは、
他人に規範を示すことは決して自らの使命ではない
ことを確信していたので、
正当に自分に課された規範につねに従っていた。
デカルトは、
愛読し、神学者としては唯一研究しようとしたことのあった聖トマスのもの
とは別の道徳哲学を構想したり、主張したりすることは決してなかった
ことは間違いないであろう。
(アドリアン・バイエ[著]アニー・ビトボル=エスペリエス[緒論・注解]
山田弘明+香川知晶+小沢明也+今井悠介[訳]
『デカルトの生涯 上』工作舎、2022年、p.426)

 

この本、原著は、1691年ということですから、
三百数十年も前になります。
デカルトさんが亡くなって41年後のもので、
だからというのか、
ただの情報ではなく、
翻訳を通してですが、血が通った記述になっていると思います。
ぶ厚すぎてこれまで翻訳されてこなかったんですかね。
どう言ったらいいでしょう。
わたしとしては、
この本によって、はじめて、
肖像画に描かれるあのデカルトさんの表情に合点がいった、
そんな感じ。
ひとの印象というのは、変わるなぁ。

 

・地より出て地にかへりゆく蟬の空  野衾

 

蟬くんのこと

 

ふるい小さいマンションなので、エントランスも至ってシンプル。
いまの時期、
朝、ゴミを出しにドアを開けると、
コロッところがっている蟬くんにでくわすことが多い。
つまもうとする瞬間、ジジッと体をふるわせ、飛び立つものもいますが、
いのちを終えたものもいて、
その場合は、
マンションの前にある緑うっそうたる藪の下に置きます。
いつも驚くことながら、
蟬くんのあの体の小ささ、軽さから、
どうしてあんな大きな声というか音を発することができるのでしょうか。
いのちの不思議とは、まさに蟬くんのこと。
字でいえば、
「蝉」より「蟬」がカッコいい。
つくりの「單」(ぜん)が、はじき弓の象形だそうで、
蟬くんのかたち、腹のふるえは、
たしかに、はじき弓「單」を連想させます。

弊社は本日より通常営業。
よろしくお願い申し上げます。

 

・サイフオンのフラスコ朝は蟬の声  野衾

 

思う火だから「思ひ」

 

連日記録的な暑さがつづいていますが、暦の上では秋に入りました。
無理にも涼しい風を引き寄せ感じて、
ことし三分の二の来し方を反省する日もあり。
反省はまた物を思うことでもありますが、
和歌の世界では、
「思ひ」の「ひ」は「火」に掛けられて詠まれることが多かったようです。
たとえば『新古今和歌集』1032番、
寂蓮法師の

 

思ひあれば 袖に蛍を つつみても いはばやものを 問ふ人はなし

 

峯村文人(みねむら ふみと)さんの訳は、
「思いという火があるので、袖に蛍を包んででも、心を告げたいものだ。
物思いをしているのかと問う人はいない。」

 

また1033番、後鳥羽院の

 

思ひつつ 経にける年の かひやなき ただあらましの 夕暮の空

 

峯村さんの訳は、
「思い続けて過ぎてしまった年のかいがないのか。
ひたすら、逢えたらよいという期待がつのるばかりの、夕暮の空よ。」

 

なにか物を思うのは、精神的な営みだとの観念があり、
そうではありますけれど、
それが胸に、こころに、火を宿しているという、
その捉え方がなるほどと思い、
いいなぁ、わかるなぁ、
腑に落ちる気がします。

弊社は明日より今月16日(水)まで夏季休業となります。
17日(木)から通常営業。
よろしくお願い申し上げます。

 

・秋近し恋は思ひの止み難し  野衾

 

ドゥンス・スコトゥスさんのこと

 

ハイデガーさんの伝記を読んでいますと、
ドゥンス・スコトゥスさんという人の名前がでてきます。
若き日の教授資格論文名が『ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論』
であることからも、
ハイデガーさんの学問にとって、
ドゥンス・スコトゥスさんがたいせつな人であることが分かります。
そうですか。
と、
ひとり呟いていましたら、
2019年に知泉書館から八木雄二さんの訳註により、
ドゥンス・スコトゥス[著]『存在の一義性 ヨーロッパ中世の形而上学』
が出版されていることを知り、
さっそく買って読みました。
ははあ、
なるほどハイデガーさんが注目し、
意識し、研究するはずだな、と思いました。

 

スコトゥスにおいては, 実存する対象の完全な知性認識とは,
直観認識(知覚)であり,
これに対して抽象認識は, 実存(現存)が抜け落ちた不完全な知性認識である。
このような理解は,
二世代前の神学者トマス・アクィナスにはない。
なぜなら,
トマスにおいては抽象認識のほうが神を認識するうえで
よりふさわしい認識だからである。
それゆえにまた, トマスには、知性の直観認識の論はない。
知性の直観認識の論はスコトゥスにおいて中世哲学史上はじめて生じたものである。
さて,
直観認識(知覚)が完全な認識であるとすれば,
それに対して人間知性が一般的に知性認識としてもつ認識は,
一般認識, すなわち, 抽象認識である。
それゆえ,
スコトゥスにおいては,
一般的な知性認識は,
対象を不完全にしかとらえていない認識として理解される。
この段落で, まず知性が色の実在性をとらえる認識について述べているのも抽象認識
の話である。
すなわち,
目前に対象が現存するかぎりの認識ではなく,
時空的限定を問わない普遍的な(一般的な)対象認識である。
したがって,
抽象認識における色の認識であれば,
それは何らかの色の「種」の認識である。
わたしたちは抽象認識でふつう, この「種」の認識を得る。
たとえば「白」とか「赤」とかの認識である。
(ドゥンス・スコトゥス[著]八木雄二[訳註]
『存在の一義性 ヨーロッパ中世の形而上学』知泉書館、2019年、pp.552-3)

 

んー。
小林秀雄さんを思いうかべます。
ゆうめいな「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」。
小林さんらしい。
それと。
ドゥンス・スコトゥスさんはイギリス生まれ。
フランシス・ベーコンさん、アイザック・ニュートンさん、
それにジョン・ロックさん
なんかのことも、
つぎつぎ気になってくるし。
三百年生きられたらなぁ。

 

・青空や涼をたづねて佇めり  野衾

 

ゲンジツと絡みながら

 

会社で飲むコーヒーはコーヒーメーカーによるものですが、
家では、サイフォンを使います。
めんどうでないこともないのですが、
ふっくらもわっとしたフラスコの形状も気に入っていて、
気晴らしを兼ね、
ゆっくり、じっくりを、その都度こころに刻むように淹れて飲む、
みたいなことかとも思います。
豆は、
焙煎を専門にする近くの珈琲店で購入していますが、
ブラジル産のものと、
もう一種類、
その日マスターが薦めてくれる豆を常備。
朝、
淹れる直前にミルで挽きます。
計量スプーンで適量の豆をミルに入れてハンドルを回すと、
ミルの刃が豆をつかみ、グッとストレスがかかり、
ガリガリガリガリガリガリ…。
数えていませんが、
一度に二杯分を挽くので、
120回から150回ぐらいのガリガリ度だと思います。
右手でガリすることが多いのですが、
疲れてくると左手も使い。
やがてガリガリの音が止み、急にストレスから解放されたようになり、
ミルの底を持ってミルを回すと、
ハンドルがくるくるストレスフリーで回転し、
なんとも気持ちいい。
その回転を見ながら、ふと、うつに陥っていた時期のことを思い出しました。
豆がゲンジツだとすると、
挽き終ったあとの状態というのは、
いくらハンドルを回しても、
もう一粒の豆もないから、
刃が豆に触れることはなく、ただクルクルクルクル。
豆があったときは、
豆に刃がグッと食い入り、
ブレーキがかかって回転が止まってしまうことも間々あるけれど、
考えようによってはそれがゲンジツ。
ストレスがかかることで、
からみながら目の前のゲンジツをくだき、
ひらき、仕事をこなしていく。
過度でなく、適度のストレスが、仕事にとっては必要でたいせつなものかと、
ふと、
そんなことを思いまして。

 

・涼の日のセゴビア空気より涼し  野衾

 

死に際しての贈り物

 

三十年ほど前のことになりますが、大好きだった祖母が亡くなりました。
亡くなった年の正月に帰省した折、
入院先の病院で会ったのが最後でした。
そのとき祖母に言われたことばは今もはっきり覚えています。
秋田で行われた葬儀に参列しているあいだ、
なんとなく、からだがビリビリし、
悲しいとか、いなくなって寂しいとか、そういう感情、それもなくはないけれど、
それよりも、
ビリリと、からだがまっすぐに伸びて、
こころも伸びて、気圏のかなたから何かが降ってきて、
いまそれを全身に浴びている、
とでもいうような不思議な感動につつまれた。
ああ、おばあさんは、ぼくに最後の贈り物をくださったのだ。
(どうすることもできない悲しみが、あとからやってきた)
それから数年経ち、祖父が亡くなった。
また、
敬愛し慕っていた先生たちが亡くなり、
畏友の死にも遭った。
その都度、ビリリはやってくる。
からだがまっすぐに伸びて、
そうだ、
もうもう、まっすぐに生きていこう、その他のことにはあまり気を取られまい。
受けとる側の問題で、
この世を去っていく人が意識してすることではない
のかもしれませんが、
たしかにいただくものが、
死に際してあるのだと感じ、思います。

 

聖霊(せいれい)  神の霊の別名。特に新約聖書においてこの表現はひんぱんに
用いられ, 重要な事柄を表している。
イエスは聖霊によって身ごもったマリアからお生まれになり
(マタ1:18,20, ルカ1:35), ヨルダン川で洗礼を受けたときに,
聖霊がイエスの上にお降りになった(ルカ3:22)。
復活したイエスが約束されたとおり,
聖霊は五旬祭の日,
イエスの弟子たちの上に降って(使2:1-4), 教会が生まれた。
パウロによれば,
イエスの死と復活によってわたしたちに与えられる最大の贈物は聖霊であり,
「わたしたちに与えられた聖霊によって,
神の愛がわたしたちの心に注がれている」(ロマ5:5)
(日本聖書協会『新約聖書 詩編つき』新共同訳、2012年、巻末付録pp.29-30)

 

・クラクシヨンきけば天竺夏の旅  野衾

 

時間のこと

 

『論語』に「子、川の上に在りて曰わく、逝く者は斯くの如き夫、昼夜を舎てず。」
があります。
「上」は、「うえ」でなく「ほとり」。
孔子さんが川のほとりで言ったことばについて、
吉川幸次郎さんの解説は、
「過ぎ去る者は、すべてこの川の水の如くであろうか。
昼も夜も、一刻の止むときなく、過ぎ去る。
人間の生命も、歴史も、この川の水のように、過ぎ去り、うつろってゆく。」
まさしく「川の流れのように」
であります。
この世のすべてのことには時があるという『聖書』のことばも響きます。
過去から未来へと向かう時の流れは、
どうすることもできず、
ピンで留めるように、いま現在を捉えることはできません。
なげいても、わめいても、仕方のないことで、
ただじっと、我慢し、
あきらめ眺めているしかないようです。
しかし、
川の流れのように水平方向にうつろいゆく時のイメージに対して、
「時が止まったように」

たとえられもする瞬間、
垂直方向に開かれる「現在」というのが、
一方にある気がします。
恩寵のように降ってくる「時間」。
「開かれた明るみ」
に打たれ、
こころがふるえます。
じぶんの業で叶うことではありません。
恩寵を待つ行為は、
たとえば、
うさぎが走ってきたと思いきや、木の切り株に当たって死んだのを目の当たりにし、
以来、仕事を投げ捨て、毎日切り株を見張り、
またうさぎが飛び出して来やしないかと待ちつづけたものの、
ついにうさぎは捕まえられなかったという
宋の農民の愚かな姿に似ているかもしれず。
まずは、
きょうの仕事を由無し事とせずに、
こころを籠め、
きちんときちんとこなしていくしかないようです。

 

・忙中の破れかぶれや蟬の声  野衾