山田洋次さんのこと 4
わたしの実家は兼業農家で、子どものころから、農家の仕事を見てきました。
親にいわれれば、子どもでもできる仕事を手伝ったりもしました。
共同の田植えのときに、植えすすむ人が手をあげるのを見、
あぜ道から苗束を放り投げたり。
ことば以上に、家業から教わるものは少なくないようです。
橋本の事務所が仕事場だった。ひと区切りごとに洋次はアイデアを記し、
鉛筆を握りしめたまま「師匠」に丸ごと渡す。
すると橋本はいくつかコメントし、書き直しを求める。
このやりとりは橋本が満足するまで続いた。
「そんなことが毎日毎日続くわけです」。
夕食ではもう仕事の話はしなかった。
洋次は橋本のこれまでの歩みや、東京の印象などを尋ねた。
橋本は地方出身だったのだ。
こうした付き合いは、
「私にとって橋本さんは、まごうかたなき『師』なのです」
と言うほどの強いきずなを育んだ。
2か月近くして、二人の脚本は完成した。
執筆者どうしが総括をするときが来たのだ。
「ぼくが
『脚本を書くという仕事は、なにか才気にまかせて書く、
といった格好いい仕事のような気がしていたけれど、
本当は油にまみれて働く労働者の仕事のようなものなんですね』(と言うと)
そしたら橋本さんが笑いながら、
『いや、お百姓に近いんじゃないか』と答えました。
『タネをまいて、芽が出て、天気を心配したり、
水の心配しながら作物を育てていく。
まあ、そういう忍耐のいる、いや、忍耐だけが頼りの仕事だよ』」。
橋本の教えの本質をつかむことができたからこそ、
洋次は脚本家としても成功したのだ。
(クロード・ルブラン[著]大野博人・大野朗子『山田洋次が見てきた日本』
大月書店、2024年、p.107)
文中の橋本とは、橋本忍さん。脚本家で、山田洋次さんが師と仰ぐ方。
生まれたところは、
兵庫県神崎郡鶴居村(現・神崎郡市川町鶴居)。
家業は小料理屋だったとのことで、
子どものころは、家業を手伝っていたそうです。
わたしがこの仕事(編集)をするようになって35年たちましたが、
このごろあまり言わなくなりましたけど、
編集の仕事をよく農業にたとえて言っていた時期がありました。
いただいた原稿をととのえ、本に仕上げていく営みは、
種を蒔き、苗を育て、草刈りをし、
天気を気にし収穫までもっていく行為にいろいろ似ている気がしたものです。
いまもそれは変りません。
・空もよし歩数重ぬる探梅行 野衾

