聖書の読み方

 

われわれは、聖書を読む時に、
何か自分の気持に同情してくれるようなものは、どこかにないか
と思いながら読むものです。
あるいは、
ほんとうは、人生相談に行って聞きたいことなのだけれど、
聖書の中にそんなことは書いてないか、と思って探すでありましょう。
あるいは、
この世に生きていく哲学はないか、と探したりするのです。
しかし、その時、欠けている大事なことは、
聖書は、王様が、絶対の権威をもって、お前の罪はもう赦した、
お前は赦されたのだ、
ということを聞かせようとしているのを予想して読むことだと思います。
もしそれを求めていなければ、
聖書は、ほんとうの力にはならないのであります。
(竹森満佐一『わが主よ、わが神よ イエス伝講解説教集』教文館、2016年、p.132)

 

もしも、
聖書がこのようにして読む本だとした場合、
これはなかなか難しい。
そんなふうに読む本はほかになさそうだから。
娯楽のために読む本、
理解しようとして読む本ならいろいろありますけれど。
聖書が難しいのは、
哲学書が難しいのとはどうやら違っていそうです。

 

・人なき公園ブランコすずし  野衾

 

これもまた

 

仕事とはいえ、
ずうっとゲラを読んでいると、
さすがに疲れたり飽きたりしてきて、
なんかメールが届いてないかなぁ、
と、
クリックしたら、
「〇〇銀行のカー・ドローン」のご案内っていうのが目に入った。
一瞬のことでありました。
すぐに「カード・ローン」であることに気づきましたが、
これもまた老人力のなせる業かと。
中黒「・」はわたしのアタマが勝手につけたもので、
文面は中黒無しの
「〇〇銀行のカードローン」でありました。
このごろは、
ドローンが飛び交っていますから、
つい、
「ローン」よりも
「ドローン」に引き付けられたのかもしれません。

 

・珈琲を淹れて眺むる梅雨の刻  野衾

 

これぞまさに

 

赤瀬川原平が唱えたもので、
同名の本のタイトルにもなったことばに「老人力」があります。
物を忘れるという、
ふつうならマイナスにとらえられがちな現象に
積極的な価値を見出し付された名称で、
このごろそれが、
わたしにもかなり身についてきたようでありまして。
年に一度、
出身高校から同窓会誌が送られてきます。
楽しみなのがエッセーのコーナー。
存じ上げないひとばかりですが、
齢は違えど、
同じ高校で三年間過ごしたひとがこういう人生を送っているのかと思うと、
不思議な感慨にとらえられます。
先だって送られてきた今年の会誌に
卒業生数名のエッセーが載っていました。
その筆頭がFさん。
タイトル「子どもへの眼差し」
中央アジアのカザフスタンを訪れた際のエピソードが
印象深く綴られていました。
顔写真を見て、あれ?
なんか、見たことある気がするなぁ。
それに、
Fさんの名前。
お会いしたことがあるような、ないような。
そんな感じでありましたが、
会社に同窓会誌を持っていき、
編集長に見せたところ、
うちから共著を二冊出している方で、
わたしもいっしょに会食(!)し、
その際、
秋田の話でしばし盛り上がったのだとか…。
すっかり忘れていました。
ふむ。
これぞまさに老人力!
その後Fさんに電話し、老人力には触れずに、
同窓会誌に掲載されたエッセーの感想を述べつつ、
近況を伺いました。

 

・紫陽花や海にあくがる土の声  野衾

 

井戸浚

 

井戸浚(いどさらえ)は夏の季語。
井戸の水を汲み出し、底に溜まったゴミや泥を取り除きます。
いまも秋田の実家には池が二つありますが、
子どものころ、
家裏の池はいまよりずっと大きかった。
お盆のころだったでしょうか、
一年に一度、
水を掻き出しては井戸浚を行っていたはず。
水を湛えているのがふつうですから、
水が汲みだされた池は、
たとえていうなら、
見慣れた風景から巨大な奥歯が一本引き抜かれたような。
不思議な光景で、
見ていて飽きなかった。
池の底の小さな生き物たちが、
はじめて感じる太陽を皮膚の裏、こころの底から眩しがっていた。
それと、
どくとくのあの臭い。
鯉をたらふく食って欲望を満たした鯰が
隠し事を暴かれ、
体をくねらせた。

 

・診察を終えて楽しも豆ご飯  野衾

 

装丁のこと

 

きのうは、仕掛かりの小説について著者と打ち合わせ。
ワード原稿の段階から数度読んできて、
わたしのなかで醸しだされてきた印象とイメージを著者に伝えました。
そうしながら、
イメージをことばで伝えることの難しさを改めて感じ、
同時に、
これが本づくりの醍醐味だとも。
テキストはどこまで行ってもテキスト
ですが、
ゆっくり読んでいるうちに、
文体とも連動しつつ、
いろんなイメージが湧いてきます。
ひかりの具合、湿度、匂い、音、窓から見える空の色まで、
たとえば。
そのイメージを著者に伝え、
同意を得られれば、
こんどはそれを装丁家に伝える。
装丁家は本の装丁をおこなう表現者ですから、
編集者のイメージはあくまで参考。
ことばでとことん伝えますが、
参考以上ではないとずっと思ってきたし、
今も思っている。
編集者のイメージを参考にしてもらいつつ、
装丁家がどんなイメージで装丁してくれるか、
そこのところが本当におもしろい!
装丁カンプを見、
ほ~、となったり、は~、となったり、
むむ、となったり。
そうか、
同じテキストを読んで、
こんなイメージが湧いたのか、
おっもしれー!!
そう思って眺めていると、
本づくりをとおして、
人といっしょにあることの喜びが湧いてくる。
つぎの本を作りたくなる。

 

・隕石の落下地点か井戸浚  野衾

 

生き物たち

 

きのうの朝、
テレビを点けたら干潟のことをやっていました。
九州・有明海に流れ込む佐賀県田古里川(たごりがわ)河口。
ムツゴロウ、カニ、殻を持たない貝の仲間など、
多くの生きもたちが静かなドラマを繰り広げていました。
生き物たちが登場する番組だと、
ついつい見てしまいます。
と。
高校一年生の時だったでしょうか。
生物の時間に、
「校舎から出て何でもいいから観察して発見したことを記述する」という、
無茶な課題が出たことがありました。
「何でもいい」とはいっても、
生物の授業ですから、
生き物のことなら、という意味です。
無茶と思いつつ外へ出たら、
グラウンドの端のほうで蟻を見つけたので、
それをしばらく追いかけて作文に仕立てたような気がします。
無茶な課題だったけど、
おもしろかった。

 

・万物が興味津々井戸浚  野衾

 

歩いて二、三分

 

三十年ほどまえのことになりますが、
身辺にわかに騒がしくなり、
家に閉じこもり鬱々していた時期がありました。
おカネになりそうな本をつぎつぎ売って、
好きな音楽も聴かずにただぼーっとしていたように記憶しています。
なにも手につかず、
そばにある本を手にとっても
書かれている内容があたまに入ってこない、
そんな時間が過ぎていくなか、
寺山修司の言葉だけはあたまに入る、
というか、
こころに沁みた。
短歌であれ、俳句であれ、エッセイであれ、詩であれ。

 

大工町寺町米町仏町老母買ふ町あらずやつばめよ

 

この韻律、この叙情、
意味よりなにより、言葉がもつオーラに感応し、
言葉の底に沈んでいる言うに言われぬ悲しさに懐かしさを覚えた。
そんなことではなかったかと思います。
遠い記憶が蘇ったのは、
一通の手紙がきっかけでした。
ふるさとの、
わたしより三つ下、
子どものころからよく知っていて、
父親は大工をしており、
家は歩いて二、三分。
小学生の頃は、三つちがいでも遊びましたが、
中学は三年間しかありませんから、
いっしょになることはありませんでした。
彼が高校、大学を出たあと、
高校の先生になっているということを風のうわさに聞きました。
彼の名前をちょくちょく見るようになったのは、
秋田の地方紙の短歌コーナー。
そうか、短歌をやっているのか。
手紙は、
その彼からのものでした。
文中、寺山修司が好きだとありました。
来年三月で定年を迎えるとも。
歩けば二、三分、
いまも家はその距離にありながら、
彼がかつて暮らした家には今はだれもいません。
たまに帰って、
窓を開け放つぐらいのようです。
それぞれの人生を生きて、いろいろあって、
いろいろいろいろ、
思い出したりくやんだりもした。
取り戻すことはできなくても、
抱くことはできます。

 

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

 

・太陽が間近くなりぬ井戸浚  野衾