ヘロドトス

 

洋の東西を問わず、なるべく古典を読むようにしてきましたが、
教科書に載るようなものなのに、まだ読んでいないものがいくつかありまして、
その代表格がヘロドトスさん。
いつか読もうと思い、ふつうサイズの岩波文庫ではなく、
文字の大きいワイド版岩波文庫で上中下三冊を購入し、
いつでも読めるように、自宅の目につく場所に置いてありました。
いよいよ読み始めるようになったきっかけは、
ヘロドトスさん本人のまえに、
中務哲郎さんの『ヘロドトス『歴史』――世界の均衡を描く』
を読んだことでした。

 

ヘロドトスを批判するのに「物語的である」とはよく言われることである。
その意味は一つには、
『歴史』には面白い物語が数多く収められているということ。
今一つは、
まるでドラマか小説のように登場人物が生彩ある対話を交わす場面が多いことである。
しかもヘロドトスは自分の思想を登場人物に語らせる場合が多いから、
そのような場面では、
ヘロドトスは
歴史的事実を再現するというより歴史の意味を述べ伝えようとしているのである。
詩作ポイエーシスは普遍的なことを語り
歴史ヒストリアーは個別的なことを語るから、
詩作は歴史に比べてより哲学的でありより深い意義をもつ、
とアリストテレスは述べたが、
ヘロドトスは『歴史』を物語的なものに作る(poiein ポイエイン)ことにより、
普遍に連なる哲学的な作品とした。
そこで語られるのは弱者が強者を倒すクーデターの歴史ではなく、
大国の自壊の歴史である。
人間の条件が変わらぬ限りいつかまた同じようなことが起こる、
その時に繙かれるべきものとしてトゥキュディデスは『歴史』を書いたが、
ヘロドトスも、
「ヒュブリスへと向かう人間の本性」と
「他に抽んでたものを切り平げる神の嫉妬」が変わらぬ限り
人も国も滅びる、
というメッセージを永遠の財産として残したのである。
(中務哲郎『ヘロドトス『歴史』――世界の均衡を描く』岩波書店、2010年、p.176)

 

中務さんのものを何冊かおもしろく読んでいましたから、
その流れで、手にとったところ、
この本、
ヘロドトスさんの『歴史』に対する熱量がすごく、
一気に読みました。
また、
このごろの世界をじぶんなりに考えるよすがになれば、
とも思い、
ようやくヘロドトスさん本人にたどり着いた次第です。

 

・遮断機を待つ間の会釈風薫る  野衾

 

漢字と平仮名

 

パソコンやスマホを使うようになってから、機械が勝手に判断し漢字に変換して
くれますので、
その漢字で合っているかどうかさえ間違わなければ、
けっこうな数の漢字を使って、文章を入力することになります。
しかし、
書いたあとで読み直したときに、
漢字が多いと、どうも自分でない気がする。
漢字が多いと、
ものを知っている感がつよくなって、自分が入力しているのに、
だんだんそこに現れる文章を見て緊張する具合。
それと、面で見たとき、黒いし、ごつい。
黒黒していて、厳めしい。
いけないいけない。
というふうで、
漢字でなく平仮名にすることにより、自分を取り戻す、
といったらいいでしょうか。
なるべく「です・ます調」で入力するのも、
そのこころかと思います。
ただ、
平仮名が多いと、それはそれで、自分でない感じがし出して、
けっきょく、
こんな感じかなぁ、
というところのバランスに落ちつく。
そういうふうに、いまも、なっていると思います。
なので、
この単語がどうして平仮名表記なの?
と訊かれても、
んー、なんとなく、と答えるしかありません。
ひとかたまりの文章で、
あるところは漢字、
べつのところは平仮名という場合もあるかもしれない。
きのう平仮名、きょう漢字、
とか。
気分ですかね。
文章を入力するとき、
その日その時の気分を消したくない。
きょうのこの文で言うと、
「つかう」を漢字にするか、平仮名にするか、
ちょっと迷います。

 

・ことばより空の青さにあくがるる  野衾

 

こころと神話

 

はや三十年は経っていると思いますが、夢野久作さんの小説『ドグラ・マグラ』
をかつて読みました。
この小説にたしか呉一郎(くれ いちろう)という人物がでてきた
と記憶していますが、
この人物の造形に、
どうやら実在した呉秀三(くれ しゅうぞう)という方の存在が影響していたらしい、
ということを、当時、本の解説か何かで読み、
呉秀三さんの名を覚えました。
精神科医、かつ「日本精神医学の父」とも称される人です。
このひとの長男が、
ギリシア神話に関する著作で有名な呉茂一(くれ しげいち)さん。
それを知ったとき、
こころのうちで、なんども「へ~」を発し、
その驚きと興味は、消えずいまにつづいています。

 

神話が語るのは始原の出来事でありながら永遠に繰り返されもする出来事である、
とも言われる。
それ故、
精神分析学は神話と夢を同列に置いて論じえたし、
社会構造を共時的に解明しようとする構造主義も、
太古からの伝承として今に残る神話の分析を大きな武器となしえた。
しかし、
これに似たことはひとり神話のみならず、
伝説や昔話
――われわれはもはやこれらを単に話とか物語と呼ぶ方がよいと思われる――
についても言えるであろう。
よく似た物語がさまざまな時代さまざまな地域に現れて、
われわれが自分の心の奥底を、
心の太古を覗のぞき見る縁よすがとなってくれているからである。
世界の各地に源を発し、千古の闇の彼方から生き続けてきた物語も、
ようやく生れたばかりの話も、
今という堰に堰き止められて物語の大海を形づくっているのである。
その海へ、
ギリシア文学という河口から漕ぎ出でてみたい。
(中務哲郎[著]『物語の海へ――ギリシア奇譚集』岩波書店、1991年、pp.6-7)

 

・ゲラ読みのわつぱがでぎだ風薫る  野衾

 

爪のこと

 

「爪に爪なく瓜に爪あり」という言い方がありますが、たしかになぁ、
うまいこと言うなぁ、って思います。
「爪」のまん中の縦棒の下に「虫」の字の下のツメみたいなのが
チョコンとあるのがツメでなく、
ウリ。
無いのがツメ。
よって、
「爪(ツメ)に爪(ツメ)なく瓜(ウリ)に爪(ツメ)あり」。
このごろ爪が伸びるのが速くなった気がする。
そんなことはないだろう、
とも思うけど、
週に一度は爪切りで爪を切るので、
子どものころ、こんなに頻繁に切っていたかなぁ、と不審に思うことしきり。
爪って、
とくに手の爪は、ほんの少し伸びるだけで、
なんとなく気になる。
たとえば、
サイフォンでコーヒーを淹れ、ロートを洗うとき、
ガラスに指が触れた瞬間、
いやな感覚が指先にピピツと走り、
爪の存在を意識する。
ん!? と思う。
それで、また、おもむろに爪切りで爪を切ることになります。
きのうのこと、
そうやって静かに爪を切っていたら、
不意に、
先年亡くなったKくんのことを思い出した。
小学校から高校までいっしょ。
Kくんは、
とくにスポーツが得意というわけではなかった
ように記憶していますが、
野球は上手で、投げるボールがずば抜けて速かった。
仲が良かったので、
Kくんに尋ねたところ、
爪が、爪の長さがとてもだいじであることを、
こんこんと諭された。
一本一本の指先の肉と同じ高さであることが重要で、
肉よりも高くても、低くても、
いけない。
高さがちょうどであることにより、
ボールを手から離すときに回転速度が増すんだ。
へ~、
って思いました。
野球の理論にかなっているかどうか分かりませんけど、
少年だったわたしのこころをつかむには、
じゅうぶんだった。
Kくんすごい!!
キャッチボールをすることで、
彼の理論は裏づけられた気がした。
背が高く、ひょろっとしたKくんなのに、ゆっくり投げているように見えるのに、
ボールが浮き上がってくる。
いまもその姿が脳裏に焼き付いています。

上の文章を書いて、いったんパソコンの電源を落としたのですが、
Kくんのことを思い出していたら、
バレーボールの強烈なアタックをするKくんのすがたがよみがえりました。
Kくん、バレーボールもうまかった。

 

・腕まくら祖父のかたちの端居かな  野衾

 

青鷺!?

 

くわしくありませんので、特定できませんけれど、青鷺だったと思います。
きのうの早朝、ゴミ出しにでて、
カラス避けのネットを組み立て終えたとき、
まだ明けきらぬ空を見上げるや、
西の方から二羽の大型の鳥がこちらに向かい飛んできて、さらに、
東の方へと飛んで去りました。
横並びでなく、縦に、三~五メートルほどの間をおき。
細く牛蒡のようなる脚は、隙間なく、
きちんとそろえ、
羽ばたきは、あくまでゆったりゆっくり。一回のストロークはそんなに大きくはない。
たとえて言うなら、
排気量の大きなクルマが、あまりスピードを出さずに、
高速道路を滑るように走っていく、
そんな具合。
見とれてしまった。
秋田に帰省した折、白い鷺は何度も見ていますが、
それとは違っていました。
ほかにも種類があるらしいので、いちがいに言えませんけど、
浅知恵ながら、青鷺ではないかと思います。
ともあれ、
こんな出会いもありますので、
早起きは三文の徳。

 

・朝まだき正しき青鷺の飛翔  野衾

 

ふしぎな書物

 

まいにち少しずつ読む本だとか、一日一ページずつ読む本について、
思ったり考えたことを書いてきましたが、
そういうふうな読み方が身についたきっかけは『聖書』だと、このごろ思います。
十代の終りからですから半世紀に近く、
くりかえし『聖書』を読んできて、
いまも飽きず読んでいます。
とちゅうサボったときもありましたが、
このごろはまた、たとえば、ふるさとに帰ることにも似て、
しずかに読み返しています。
文語訳をふくめ、
翻訳もいろいろですので、
通読としては、七回目に入りました。
通読でなく、章とか節とか、
意識して読んだ文章は、何十回に及ぶものもあるでしょう。
それぐらいくり返し読んでいるのに、
いや、
くり返し読んでいるからこその不思議に打たれるというのか、
そういうことが、
たびたび起こります。
このごろこころが墜ちているなぁと感じた土曜日の朝、
目にしたことばが、
「マタイによる福音書」の11章28節。

 

すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。

 

なぜこのことばなんだろうと思いました。
きのうでなく、きょうという日に。
偶然といえば偶然。
だけど、
こういう感慨にとらわれたことが初めて
ではありません。
恩師宮田光雄先生の書かれた
『御言葉はわたしの道の光 ローズンゲン物語』(新教出版社、1998年)
を読むと、
そういう感慨をもった人がわたしだけでないことを
教えてもらい、力がわいてきます。
『聖書』は実に、ふしぎな書物です。

 

・五月雨やそろうり園のハシビロコウ  野衾

 

ふたつの「ことば」

 

映画『男はつらいよ』の第一作で、
寅さんと、さくらと結婚することになる博との喧嘩の場面があります。
ばんばん言い合いをしているとき、
「ざま見ろぃ、人間はね、理屈なんかじゃ動かねえんだよ。 」
と寅さんが言い放つ。
耳にのこることばです。
「理屈なんかじゃ動かねえ」の「理屈」は、「ことば」と置き換えてもいいでしょう。
しかし、「理屈」いわば論理のことば以外の、
もうひとつのことばがあります。

 

ギリシア人自身は、「神話」を「ミュートス」とよびました。
ミュートスとは、
本来は、「話された言葉」とか、「話」とかいうだけの意味ですが、
そのことから、ひろく物語一般をさすことにもなりました。
ただ、
「ミュートス」といった場合、
「論理の言葉」、「真実を伝える言葉」である「ロゴス」との対立が意識される
ことも多く、
その意味では、
「つくり話」、「うその話」という意味あいを負わされることもあるのです。
にもかかわらず、
ギリシア人は、
言葉というもののふたつの面のいずれかを軽んじることはなく、
「ロゴス」を追求しながらも、
「ミュートス」のもつ創造性を知っていたのです。
哲学者プラトンが、
真理に近づくために、しばしば比喩やミュートスを活用したことも、
知られています。
また、悲劇詩人たちも、神話をよりどころとして、
人間存在への考察を稀有の深さにまでおし進めたのです。
神話は、
論理の言葉ではありませんから、
かえって、詩や美術や哲学への応用がきくのです。
それは、論理の言葉では到達できない真実を、垣間見せてくれるのです。
こうして、
ギリシア神話は、芸術や哲学を豊かにしつつ、
みずからも、ますます豊かになってゆきました。
(中村善也・中務哲郎[著]『ギリシア神話』岩波ジュニア新書、1981年、pp.1-2)

 

人間は、理屈では動かない。論理のことば(=理屈)だけで動くほどたやすくない
生き物なのでしょう。
そこで、
神話や物語や比喩の意味を考えてみる必要がでてきます。
神話や物語や比喩に、即効性はありません。
しかし、
それをじぶんに引き付け深く味わうことで、
じわりと効いてくる気がします。
鍼や灸によって、からだにいいクセが身につくように、
ミュートスによって、
思考のクセに自ら気づくことができるかもしれない。
教育学者の林竹二さんは、
「学んだことの証は、ただ一つで、何かが変ることである。」
とおっしゃいましたが、
理屈のことばだけでは、 なかなかむつかしい。
アリストテレスから始めた学問研究がのちにプラトンに至った林さんの道筋を、
いまの文脈で考えてみたい気がします。

 

・五月雨を止まり木の梟の黙  野衾