ボルヘスの耳

 

―――文学との最初の出逢いは、どのようなものだったのですか。
―――初めて読んだ本は、たしか英訳のグリム童話だったと思います。
実物を覚えているような気がしますが、しかしほかの本のものかもしれません。
学校や大学でより、父の図書室で学ぶことが多かったのです。
祖母のことも忘れるわけにはいきません。
祖母は英国人でしたが、聖書をそらんじており、
おかげで私は聖霊の手引きによって、
あるいは、
おそらく我が家で耳にした詩を通して、
文学の道に入ることができたというわけです。
(J・L・ボルヘス編纂/序文『新編 バベルの図書館 6』国書刊行会、2013年、p.631、
引用箇所は、1973年4月、
ブエノスアイレスの国会図書館で行われたものの冒頭部分。訳は鼓直)

 

引用箇所を読み、深く納得するところがありました。
聖書を読んできたこころからすると、
アウグスティヌスをはじめ、
たとえばトマス・アクィナス、ルター、カルヴァン、バルト(カールのほうの)などは、
おもしろいところ、教えられるところは
もちろんあるけれど、
どうしてあのような小難しい議論になるのかな
という気持ちが抜きがたくあったし、
いまも少し、いや、けっこう、あります。
聖書は、
耳で読む本か、という気がこの頃しますから、
ボルヘスのエピソードはとても面白く、
また、
ボルヘスがつくる詩や短編のこころに触れた気がします。

 

・鶯の声ほころびて青さかな  野衾

 

卒園式

 

世の中は、卒業式、卒園式のシーズン。
きのうは、いっしょに仕事をしているひとのお子さんの卒園式。
式後、
時間の都合で、
おかあさんに連れられしばらく会社に来、
入口付近の大きな木のテーブルに向かいちょこんと座り、
本を読んでいました。
その姿から、ふと思いました。
ああ、わたしは卒園式を経験していない。
というか、
幼稚園に行っていない。
なぜならば、
あのころわがふるさと井川村には幼稚園がなかった。
その後、幼稚園ができ、
三つ下の弟は幼稚園に通ったはず。
幼稚園はなかったけれど、
幼児学級というのがあって週に一度わたしはそこに通いました。
土曜日の午後、
小学生が下校してから小学校の教室を借り、
そこに集まっていたと記憶しています。
移行措置の期間だったのかもしれません。
それはともかく。
幼稚園がまだなくて、幼稚園に通っていないのに、
「いかわようちえんのうた」
というのを覚えています。
こんなの。
♪あおいおそら いかわようちえんみているよ…
メロディーもなんとなく覚えている。
弟が歌うのを聴いて覚えたか、
はたまた、
幼児学級に通っていたころ、
やがてできる幼稚園の歌を先取りして習い、歌ったものか、
その辺のことは深い霧のなか。

 

・鶯や里山息の深くなる  野衾

 

赧の字の怪

 

白川静の『漢字の体系』は、白川さんのいわば遺言のような本なので、
ゆっくり味わうように読んでいるわけですが、
ときどきハッとするようなことが書かれていて目をみはります。

 

ゼン(「赧」の字の旁、右側、入力しても出てきません)
陰部に手(又[ゆう]は手の形)をさし入れる形。
赧[タン]はその行為を受けて赧[は]じ入る形。
このような字が生まれるのは、
そのような行為が一般的に行なわれていたからであろう。
(白川静『漢字の体系』平凡社、2020年、p.275)

 

ということですが、
中国人もこれを知ったら驚くんじゃないでしょうか。
驚くだけでなく、受け入れないかもな。
許慎の説文解字には、そんなこといっさい書かれてないし。
あやしい人が言うならともかく、
白川さんが言うんだから、
それなりの根拠があるんでしょう。
いやはや。
こんなことまで漢字にしてしまうのか。
恐るべき漢字の世界。

 

・鶯の声や枝葉の揺れてをり  野衾

 

我が言ならず、とは

 

キリスト者・新井奥邃(あらい おうすい)は、
自分の文章の終りに「我が言ならず」と書くことがありました。
自分で書いた文章なのに「我が言ならず」
自分の言葉でない、
というのはいかにも矛盾ですが、
たとえばモーツァルトが、聴こえてきた音を書き留め曲づくりに励んだように、
奥邃も、
聴こえてきた言葉を書き留めた、
ということだったかもしれません。
わたしは、
そういう感覚を覚えたことはありませんが、
ふと思いついた言葉を書き留め、整序し、届けることで、
予期せぬ言葉をかけていただくことがあり、
あとから考えて、
あの時あの言葉を思いついたのは、
あれはわたしだったのかな、
と不思議に思うことはあります。
言葉を知り、本を読むことで、いのちある言葉が種となって体と心に落ち、
自分でも知らないうちに発芽し、
ハッと気づく、
そんな感じかな。

 

・ここだいま工事現場の空や春  野衾

 

同感

 

私の考では、禪宗は、佛教の思想を主體として、
それに老子・莊子、
特に莊子の風味が加はつて、彼の如き風味の者になつたと思うて居る。
然しそれがおもしろいか、おもしろく無いか、
眞理であるか、眞理で無いかといふ事が最も重要なる問題である。
眞理に叶つて居り、おもしろい者であれば、
それで宜しいのである。
基督教の聖書に就いても、同じやうな事を言ひ得られる。
繫辭傳に就いても、同じわけで、
たとひ孔子の製作で無く、誰の製作であるとしても、
少しも構はぬのである。
(公田連太郎[述]『易經講話 五』明徳出版社、1958年、p.112)

 

易経の「易」は、変移の意であり、
したがって易経は、
変移の理法を説くことを主眼としている。
それは人事に限らず宇宙万般にわたる。
公田連太郎の『易經講話』は、講話とあるとおり、
語ったものをまとめたものであるから、
やたらと繰り返しが多い。
しかし、
このひとは、易というものに心酔しており、
だもんだから、
繰り返しが頻出してもうるさく感じられない。
(たまに感じる)
引用した箇所でも分かるように、
基本的に常体だが、
公田さんがほんとうに重要だと思って語るところは敬体になる。
これがまたなんとも味があって楽しい。

 

・ひがしにし日の移ろいを花菜かな  野衾

 

ん! どいうこと?

 

むかし田原俊彦の歌で『ハッとして!Good』という歌がありましたが。
それと直接関係はありませんが、
ハッとしたことはハッとした。
下の写真がそれ。
「日本火曜市開催中?」
日本…? 日本…?
アッ!!
そうか。
そういうことか。
よく見れば、そういうことなのでした。

 

・暖かや珈琲の香にチェーホフ  野衾

 

 

一週間ほどまえから鶯の声が聴かれるようになりました。
天気予報によれば、
きょうの最高気温の予想は23℃、
五月中旬の陽気だとか。
桜の開花も例年にくらべだいぶ早まっているようだし、
鶯もあわてて鳴きだしたのかもしれません。
まだホーホケキョには至りませんで、
ホーホーとかホーホケぐらい。
それでも鶯の声を聴けば、
気分はすっかり里山で。
小川に清冽な水が流れ、鶏が遊び、子らが飛び出してきます。
いまは朝の五時半ですが、
もう聴こえています。

 

・鶯の来鳴き里山全きかな  野衾