真理へ至るには

 

物理学の概念は人間の心の自由な創作です。
そしてそれは外界によって一義的に決定せられるように見えても、実はそうではないのです。
真実を理解しようとするのは、
あたかも閉じられた時計の内部の装置を知ろうとするのに似ています。
時計の面や動く針が見え、
その音も聞こえて来ますが、
それを開く術《すべ》はないのです。
だからもし才能のある人ならば、
自分の観察する限りの事柄に矛盾しない構造を心に描くことは出来ましょう。
しかし自分の想像が、
観察を説明することの出来る唯一のものだとは言えません。
自分の想像を、真の構造と比べることは出来ないし、
そんな比較が出来るかどうか、
またはその比較がどういう意味をもつかをさえ考えるわけにゆかないのです。
けれども、
その知識が進むにつれて、
自分の想像が段々に簡単なものになり、
次第に広い範囲の感覚的印象を説明し得るようになると信ずるに違いありません。
また知識には理想的な極限があり、
これは人間の頭脳によって近づくことのできるのを信じてよいでしょう。
この極限を客観的真理と呼んでもよいのです。
(アインシュタイン, インフェルト[著]石原純[訳]『物理学はいかに創られたか 上巻』
岩波新書、1939年、pp.35-6)

 

時計の内部をだれも開くことはできないとすれば、
なかの構造をこころに描くしかない、
か。
この場合、
真理の時計職人はいないってことで。
これって、
0.00000000………1は、0と呼んでもよい、
と同じかな。

 

・花冷えや利休鼠の空の下  野衾

 

語りかけられたら

 

ひんぱんに、というわけではありませんが、
ときどき、このブログに載せている写真を褒められることがあります。
写真を載せるようになって十年ぐらい経つでしょうか。
はじめは、
なにを撮ろうか、
きょろきょろ周囲を見ながら街を歩いていました。
いつのころからか、そういうふうでなくなった。
この頃はといえば、
動物、植物はもちろん、空だとか雲だとか、電車だとか、なにかの影だとか、
いのちを持たないものまでが、
こちらを向いて語りかけてくるような具合。
きょう載せるのも、
そんなふうにして撮った写真です。
会社の近く、
道路沿いに置かれたオブジェ。
会社の行き帰り、
この道をもう二十年ほど歩いているのに、
立ち止まって見たことがありません。
それなのに、
きのう初めて立ち止まりました。
「オレを撮ってくれ」
と、
言われたわけではないけれど、
それに近いことを小声で囁かれた気がしました。
そんな顔して…。
で。
左右を見、
クルマが来ない隙をねらって急ぎ道を横断し撮った一枚。
ふむ。
大学時代からの友人が酒に酔ったとき
の顔に似てないこともない。
あ!
いま写真を見たら、
字が書いてある。
「青少年諸君しっかり頼む」
へ~。
知らなかった。

 

・嗚呼嗚呼と春を横切る烏かな  野衾

 

好きの味

 

さだかではありませんが、
小学校の図書室に伝記を並べたコーナーがあった
と記憶しています。
エジソン、リンカーン、ベートーヴェン、ナイチンゲール、キュリー夫人、
日本人なら、聖徳太子、鑑真、おっと、これは中国人か、
徳川家康、二宮金次郎、
など。
背文字がデカくて、
「これを読みなさい」と上から諭されている気がして、
というのはウソで、
そのころは伝記だろうがなんだろうが、
とにかく本を読みませんでした。
家にも本はなかったし、
親に本を読めとも言われなかった。
このごろのじぶんの読書傾向を振り返ってみると、
割と伝記を読んでいることに気づきました。
それも分厚い伝記を好んで読んでいるようです。
じぶんのことなんだから
「ようです」は少し変ですが…。
なんでか?
と考えてみるに、
クロニクルな伝記的事実を知りたいというよりも、
著者が、記述しようとする人物を、どのように愛し、どこに、何ゆえに惚れているのか、
いわば「好き」の味を確かめるのが楽しい。
そもそも、わたしは、
「好き」「おもしろい」は伝播する、
と信じている人間です。
さいきんでは、
ヘレン・スウィック・ペリーの『サリヴァンの生涯』
が圧倒的におもしろかった。
サリヴァンの身近にいたひとが、
サリヴァンの弱点も洞察しながら、しかし、
サリヴァンの人格のすばらしさを認め、
それが淡々と記述されており、
訳者の一人である中井久夫さんがサリヴァンに惚れこむのも宜なるかな、
と感じました。
さてと、
つぎはだれの伝記を読もうかな?

 

・海の向こうまで掃部山の桜  野衾

 

好きな世界を持つ

 

土曜日夕方のテレビ番組『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』を
ときどき見ています。
じぶんの好きな世界をとことん突き詰め、
サンドウィッチマンのあたたかいイジリに応えながら、
たのしそうに話す子どもたちの姿に感動します。
古代エジプト博士ちゃん、
世界遺産博士ちゃん、仏像博士ちゃん、歴史好き博士ちゃん、
味噌博士ちゃん、野菜博士ちゃん、
江戸切子博士ちゃん、お魚捌き博士ちゃん、
昭和大好き博士ちゃん、日本の神様博士ちゃん、
世界の調味料博士ちゃん、
などなど。
そうそう、
「美空ひばり博士ちゃん」として登場した梅谷心愛(うめたに こころ)さん
の歌にはこころふるえました。
歌のうまさもさることながら、
いっしょうけんめい歌う姿を見ていたら、
彼女のこれからの人生を思って、
親でもないのに、
なんとなく泣けてきました。
それにしても改めて、
好きな世界を持つということは、いいことだと、
この番組を見ていてつくづく思います。
さて、
まもなく『わたしの学術書 博士論文書籍化をめぐって』が刊行されます。
弊社は、これまで、
22年と半年で約900冊の本を刊行してきましたが、
そのうちの百冊ほどは、
博士論文をもとにしています。
博士論文の書籍化をめぐり、
58名の方々が、エピソードを交えたライフヒストリーを書いてくださいました。
本になる前のゲラを二度通読し、
いろいろ感じ、考えさせられました。
ひとことでは言えませんが、
むりして言いますと、
世間は狭いけど、世界は広い、
ということになるでしょうか。
これから学問の世界で生きていこうとするひとを想定して企画しましたが、
好き(とばかりは言えないようです)な世界を持って生きる
という、
さらに普遍的なテーマについても
さまざまに考えさせられる内容になっていると思います。
また、
いま何が問題になっているのか、
その見取り図としても読むことができます。
エッセイですので、
読み易く、時にホロリと、時にククと笑わされます。
A5判500ページ、税込2200円。
ぜひ手に取って読んでほしいです。

 

・春愁の映画靴擦れの絆創膏  野衾

 

一般教養の時代

 

ヨーロッパの古典的人文的教養を十分につんだブルクハルトが、
ディレッタントをもって自任したことは少しもふしぎではない。
『世界史的考察』の序論でいっている。
「科学においてはただ限られた領域で巨匠、つまり専門家でありうるにすぎないし、
またどこかで人はそうあるべきである。
しかし、
もし人が普遍的概観の能力、いや、その尊重の念を失うべきでないとすれば、
人はなおできる限り多くの他の場所でディレッタントとなり、
少なくとも自己の責任において自己の知識を増し
見地を豊かにするためにも、
そうならねばならない。
さもないと人は専門を越えるすべてにおいて無知な人となり、
事情次第では全体として粗野な人間にとどまるであろう」。
ブルクハルトの著作はすべて一般教養に資することをめざしていたことは、
再三注意した通りである。
(西村貞二『新装版 ブルクハルト』清水書院、2015年、pp.135-6)

 

「一般教養」ということば、いつの頃からか、あまり聞かれなくなりました。
いまは、リベラル・アーツっていうのかな。
もう四十年以上前になりますが、
わたしは経済学部に入学しましたけれど、
一、二年生は教養部に所属し、
他の学部生といっしょに講義を聴きました。
専門外の本を教授たちからいろいろ紹介され、
じぶんでも意欲的に探して、いろいろ読み漁りました。
高校までのことでいいますと、
わたしの場合、
基本的に学校の先生の話を謹聴するというスタイルでしたから、
自主的に何かを学ぶということが少なかった
気がします。
その点、大学は、
講義を休み、教授の話を聴かなくても、
じぶんの興味関心にしたがってどんどん本を読めばいい、
本を読んで、じぶんのアタマで考えることが楽しい、
大学っていいなあ、
って、
単純に思いました。
専門性がだいじなことは言うまでもありませんが、
このところ、
そちらにウエイトがかかり過ぎている
ような気がします。
「一般教養」ということばは、
古くなったのかもしれませんが、
「一般教養」に籠められた思考、願いは古びてないと思います。

 

・駅ホーム遅延テロップ春寒し  野衾

 

内気について

 

好きな映画監督ジム・ジャームッシュの『パターソン』で
圧倒的な存在感を見せてくれたアダム・ドライバーが、
こんどは、
これまた好きな映画監督レオス・カラックスの初のミュージカル作品『アネット』
に主役として登場するという。
アダム・ドライバーという俳優、
わたしは『パターソン』で見たのが初めてでしたが、
彼について弊社から本を出している江田孝臣さんがこんなふうに評しています。

 

映画も詩も、舞台はニュージャージ州の古い産業都市パターソンであり、
どちらの主人公の名前もまたパターソンである。
ただし、詩の主人公は産科・小児科の開業医であったウィリアムズの分身であり、
したがってドクター・パターソンと呼ばれるのに対し、
映画の主人公はニュージャージ州交通公社(NJ Transit)に雇われている
バス運転手である。
二〇一五年の『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』で
二代目ダース・ヴェーダー(カイロ・レン)を演じたアダム・ドライバーが、
内気でおとなしい詩人の役を見事に演じ切っている。
(江田孝臣『『パターソン』を読む ウィリアムズの長篇詩』春風社、2019年、p.13)

 

江田さんの評にまったく同感で、ふかく共感を覚えますが、
オランダ出身のカトリックの司祭で、
1996年に亡くなったヘンリ・ナウエンは、
「内気」について、
こんな文章を遺しています。

 

内気であることには、何か言い知れぬすばらしいものがあります。
私たちの文化は内気であることを長所とは考えていません。
むしろ単刀直入であり、相手の目を見、自分の思うことを語り、
恥じることなく自分のことを打ち明けるようにと奨めます。
しかし、
そのように尻込みせずに自らを開け広げて、恥ずべきことを打ち明ける姿勢には、
すぐにうんざりさせられます。
それは影のない木のようなものに見えます。
しかし、内気な人々は長い影を持っています。
この内気な人々のすばらしさの多くはこの影の中にあって、
つつしみのない人々の目には隠されています。
内気な人々は簡単には説明できない、
また言葉にしきれない人生の神秘を思い起こさせてくれます。
(ヘンリ・J・M・ナウエン[著]嶋本操[監修]河田正雄[訳]
『改訂版 今日のパン、明日の糧』聖公会出版、2015年、p.133)

 

アダム・ドライバーは、
映画『パターソン』のなかで、確かに、
「言葉にしきれない人生の神秘を思い起こさせてくれ」ました。
レオス・カラックス監督の新作映画『アネット』のなかで、
どんな演技を見せてくれるのか、
楽しみです。

 

・うぐひすや千古の光をつれて鳴く  野衾

 

「あはれ」の語

 

「あはれ」は、感動から「ああ、はれ」と自然に発する感動詞に原点を持つ
と言われているように、
時には「賛美」の歓声であり、時には「悲嘆」の溜息であり、
時には「愛着」「恋慕」であり、時には「共感」「同情」「憐憫」である
というように、
簡単には現代語には訳せないものがある。
要するに、
理性とは関係なく、
感情の動きだけを直接的に表す語なのである。
この歌の場合も、
言っても仕方がないが、つい口にしてしまう溜息、
せめて溜息をつくことによってみずから慰めるほかない
と詠んでいるのである。
(片桐洋一『古今和歌集全評釈(中)』講談社学術文庫、2019年、p.338)

 

引用した文章は、古今和歌集の502番

 

あはれてふことだになくは何をかは恋の乱れのつかね緒にせむ

 

「あはれ」という言葉までが存在しなかったら、
それ以外の何をもって恋に乱れる我が心を束ねる緒にしようか。
他に何も無い、「あはれ」という嘆声を発するほかはない。
(同書、p.336)

 

高校に入学してすぐ、古文担当の先生から薦められて買った古語辞典の
「あはれ」の語をいま見てみると、
黒のボールペンで線を引いただけでは足りなかったようで、
赤のボールペンでも線を引いています。
辞典ですから、長い説明はありませんが、
片桐さんの説明と同様のことがそこに書かれています。
歌のこころは「あはれ」の語にある、
といってもいいのかもしれません。

 

・うぐひすや日のうつろひを惜しむらし  野衾