脈診

 

週に一度、
鍼灸師の朝岡先生(秋のトークイベントに参加していただきました)
に診てもらっていますが、
ベッドに横になったわたしの手首をとり、
脈を診ます。
しばし。
「ん!? なにかありましたか?」
「え?」
「すこし緊張しているようですが」
「とくにこれといって…。所用で秋田に帰ってきましたが」
「いつですか?」
「おととい行って、きのうこちらに戻りました」
「ああ、そのせいですね」
「ちがうものですか?」
「トクッ、トクッと、強く打ちますから。
安定しているときの脈はころころ転がるように打ちます」
しかるべきところに鍼を置き、
間をおいてまた脈を診ます。
そうしているうちに、
だんだんうつらうつらしてきます。

 

・伊良湖の海(み)夜中をさして月のぼる  野衾

 

持ってはみても

 

それ[音楽、プルーストの『失われた時を求めて』]に比べると美術は、
すでに示唆したよう、「所有」の概念にもっとなじみやすい。
絵はモノであるし、
だからこそ資産運用(あるいは賄賂)の目的で取引されたりもする。
しかしレンブラントを、ゴッホを、若冲を所有しているからといって、
そのうらやむべき所有者は心を本当に満たされているのか。
むしろ所有者であるにもかかわらず、
作品がどうしても内心を自分に打ち明けてくれない、
つまり自分のものになってくれないという焦燥を感じるのではないか。
(岡田暁生『音楽と出会う 21世紀的つきあい方』世界思想社、2019年、p.9)

 

うえの文章を読み、
しばらく観ていない名作『天井桟敷の人々』のあるシーンを思い出しました。
モントレー伯爵の囲い者になったガランスが、
再会したバチストに心が奪われていることを知った伯爵に、
貧しい人からすべて取り上げようとしても
それはできない
といった趣旨のことをガランスは言う。
DVDではなくVHSビデオテープで持っていて、
再生装置もまだ捨てていませんから、
何十年ぶりかでまた観てみようかな?

 

・秋さやか白波たつや伊良湖崎  野衾

 

秋田は寒かった

 

おととい、きのうと秋田に帰っていましたが、
用心し少し厚手のものを身にまとっていったにもかかわらず、
いやはやなんとも寒い寒い。
さびさび~~!!
夜は電気毛布ですもの。
電気毛布にくるまっていれば快適なわけですが、
夜中トイレに起きたとき、
震えあがりました。
そんな寒さですから、
夜の星空、
翌朝起きての外の風景は格別です。
シーンというより
キーン。
ふるさとに帰った気になります。

 

・潮騒の身にしむ舟や伊良湖崎  野衾

 

方言のちから

 

きのう、
東京学芸大学の末松裕基先生がゼミの学部生、大学院生とともに来社され、
わたしとイシバシも参加し、
座談会を行いました。
とちゅう、
ことばについて話すこととなり、
いい機会だと思い、
ちかごろでたばっかりの拙著『鰰 hadahada』を紹介したところ、
末松先生から一篇朗読してほしいといわれ、
「カミサマノハナシ」を
秋田のことばで読み上げました。
と、
とちゅうでぐっと胸が詰まり、
なにか体の底から湧き上がってくるものがあり、
あらららら、
じぶんでビックリ。
昨年、
銀座の教文館で講演を行ったときも、
子どもの頃の思い出に秋田のことばでほんのちょっぴり触れただけで、
ぐわっと涙があふれだし驚いたことがありましたが、
それとおんなじ。
考えてみれば、
生まれる前から母親のおなかの中で
意味も分からず聞いていたことばが方言ですから、
からだもこころも一緒くたになっており、
感情が間欠泉のように噴き出してきて不思議はありません。
わたしにとっては秋田のことばがそうですが、
どのひとにとっても、
母親のおなかで聞いたことばがあり、
方言というのは、
そういうことばなのでしょう。
このごろよく聞くかつてザ・ブルーハーツ、
いまザ・クロマニヨンズの甲本ヒロトさんの岡山のことばも、
なんと言ったらいいか分かりませんが、
いいなあと思います。

さて所用でこれから秋田へ行き、
一泊しますので、
明日の「よもやま日記」は休みます。

 

・伊良湖崎夜中をさして月の金  野衾

 

ほめること

 

こういう歌(巻向の 檜原もいまだ 雲居ねば 小松が末ゆ 淡雪流る)や、
同じ人麻呂集歌
あしひきの 山川の瀬の 鳴るなへに 弓月が岳に 雲立ちわたる
のような歌に接すると、
この世において、
物をほめることのむつかしさを痛感せざるをえない。
すぐれた存在を讃美することは身命を縮めるような厳粛な行為であることを
思わないわけにはゆかない。
比べて、
対象を貶めて言うことなど、
何と軽々しく安易な営みであることか。
批評とはほめることであり、
ほめることが人間の創造につながるのである。
ほめるに値しないものについては、
黙して言わぬが、最良の道というべきか。
(伊藤博『萬葉集釋注 五』集英社文庫、2005年、pp.625-6)

 

伊藤博さんのこころざし、心意気が感じられる文章だと思います。
伊藤さんの恩師である澤瀉久孝先生は、
歌の成立、意味は記しても、
解釈はつつしんだということが、
『萬葉集釋注』の前の巻にありましたから、
澤瀉先生のこころでもあったのでしょう。

 

・いにしへの伊良湖日和や月に海  野衾

 

読むとき買うとき

 

旧約聖書の「伝道の書」(いまはコヘレトの言葉)は好きな文章で、
そこに
「~するに時があり」
とあります。
天(あめ)が下のすべての事には季節があり、
すべてのわざには時がある。
生(うま)るるに時があり、死ぬるに時があり、
植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、
と、
いろいろいろいろの
時があることを告げ知らされます。
しかして、
神のなされることは皆その時にかなって美しい…。
モンテーニュが「伝道の書」を愛読していたことを、
日本にモンテーニュを紹介し、
亡くなるまで自己の翻訳に手を入れていたという関根秀雄さんの本によって知りました。
ところで、
本を読むのと、本を買うのも、時がありそうで。
新刊はもとより、
古書でもいまはワンクリックで本を買える時代、
ポチっとやれば
お買い上げありがとうございました、
で、
翌月明細がとどいてアリャリャリャリャ。
たしか以前この日記に、
一生かかって読める分だけの本は買ってしまったから、
あとは蛙に、
もとい、
買わずに読むだけ、
みたいなことを書いた気がしますが、
ああそれなのにそれなのに、
あれからまたずいぶん買い込んでしまった。
なんと言ったらいいんでしょう、
まあ、
ひとつの業とでもいうんでしょうか。
さてあたらしい月になりました。
今月はもうぜったいに買わないぞ!
なんて。
なんだか、
やっぱりダメそうな気がします。

 

・いにしへの伊良湖おもほゆ秋の風  野衾

 

第二詩集『鰰 hadahada』完成!

 

冬、秋田近海(だけではありませんが)で獲れるさかなに鰰があります。
鰰は、ハタハタと読みますが、
秋田ではハダハダと濁る。
また、
標準語ではフラットに発音しますが、
バナナが秋田ではバナ、
真ん中の「ナ」にアクセントがあるのと同じように、
ハダハダも二文字目の「ダ」
にアクセントがありハハダ。
装丁は間村俊一さん。
カバー装画は、
片山健さんの『cut 1985-1998』(ビリケン出版)より。
好きな片山健さんからご快諾をいただき、
間村さんがかっこよく仕上げてくれました。

 

・金色(こんじき)の波寄す秋の薄暮かな  野衾