はたらくについて 2

 

はたらく、ってなんだ? ということですが、
本で読んだり、ひとの話を聴いたりし、そうかぁ、と納得することもあれば、
そうかなぁ、と、さらに疑問符がかさなることも。
いまのところ、
わたしが「これだ!」と腑に落ちたのは、
鈴木重雄さんという方の『幽顯哲学』という本にある説明です。
1940年刊行の本。
これについては、
すでに昨年の2月14日にこのブログにとり上げましたので、
くりかえしは避けますが、
要点は、
「はたらく」の語源は初田開く(はつたあらく)であろうということでした。
開くと書いて「あらく」と読むことがあるかと疑問に思い、
『広辞苑』をしらべてみたら、
ありました。
いわく、
「(関東・東北地方で)荒地。また、新しく開いた畑や山畑。
動詞として、開墾する意にも用いる」と。
わたしが農家出身ということもありまして、荒地を開墾して畑にしたり、
田んぼにしたりすることが「はたらく」のもともとの意味だよ、
という説明はしっくり来ます。

 

・ありがたく掌に受く石清水  野衾

 

はたらくについて 1

 

小学校低学年のときでしたが、学校でたまに、テレビを観た記憶があります。
「はたらくおじさん」というタイトルだったとおもいます。
テレビを観るというのは、べんきょうでなく、息抜き、たのしいあそび、
みたいなものという感覚がありましたから、
学校でテレビを観るというそのこと自体が新鮮でした。
ネットでしらべてみたら、
NHK教育テレビで1961年から放送された小学2年生向けの社会科番組とありますから、
記憶と合っていそうです。
ちょうど2年生だったのかなぁ。
2年生のときの担任といえば、斎藤先生なわけだけど。
ともかく。
子どものころ、じぶんがやがておとなになって、
はたらいておカネを得るようになるときが、ほんとうにくるのかなぁ、
と、空をゆく雲をながめるような具合に呆けていた。
はたらく、ってなんだ?

 

・外便所板の節目の残暑かな  野衾

 

中井久夫さん 9

 

どの本でも、読みながらおもしろいとおもったところに付箋を立てます。
本を読み終え、付箋を立てた箇所をあらためて読みなおしたとき、
その文についてもういちど考えてみたいとおもえば、
このブログに引用し、拙文を添えています。

 

私は宗教的な人間からほど遠い。そのためであろう、
宗教が精神病者を救いうるかという表題からは、次第に離れてしまったように見える。
しかし、
「宗教は精神病者を救いうるか」という一般的な問いを先に立てて、
いかようにせよ答えを出してしまうと、
救える者も救えないという機微はないだろうか。
「精神科医は精神病者を救いうるか」
という問いには一般的には「是」も「非」もない。
これは自明であろう。
精神科医は「治療者」という言葉で呼ばれるけれども、
実は、一種の触媒に過ぎず、
よい反応もよくない反応もその上で起こるであろうが、
触媒自体は、反応について多くを知ることはできず、また、
その必要もないどころか、触媒の分際で周囲のすべてを知ろうとすれば、
反応自体が失われるだろう。
つまり「いまここ」で起こっている、より大きな事態、より大きな文脈の中の一部
である。
宗教の場合はいかがであろうか。精神医学は精神科医なしにありえないが、
宗教は、生身の宗教者なしに(必ずしも僧ということではないが)
ありうるのだろうか。
精神医学の本を読んで治癒する人はあっても、軽症の人であろう。
少なくとも精神科医が呼ばれるほどの患者の場合、
いかに不完全な存在であっても生身の精神科医抜きでは治療はありえない。
宗教の場合はいかがであろうか。
(中井久夫『中井久夫コレクション 世に棲む患者』ちくま学芸文庫、
2011年、pp.324-325)

 

中井久夫さんの『世に棲む患者』を読み、いろいろ考えさせられました。
ひとのこころというのか、精神というのか、
こういうありようをとるのかとの思いをつよく持ちしました。

 

・笑み合えば同級会の夏休み  野衾

 

中井久夫さん 8

 

中井久夫さんの一冊の本から多く引用してきましたが、
あとすこし続けたいとおもいます。
「世に棲む患者」という書名に魅力を感じていることが大きいのかもしれません。

 

「妄想」それ自体が、実際は、きわめて定義しにくい。いわく、「訂正不能性」
「のりこえ不能(他の考え方がありうるという視点変換ができないこと)」、
「確率の無視(確率のきわめて少ないことをもっともありうることと考えて
恐怖する)」など。
西欧の精神医学者は、妄想の定義に苦しむ。精神病は「理性の病い」である
という固定観念を脱することが難しいからであろう。
それでも、
カトリック作家のG・K・チェスタートンは、
「狂気の人は理性が狂っているのではない。理性以外のすべてが狂っているのである」
と言っている。
「すべて」かどうかは問題であるが、
この発言のほうが的を射ているように私は思う。
(中井久夫『中井久夫コレクション 世に棲む患者』ちくま学芸文庫、
2011年、p.316)

 

(他の考え方がありうるという視点変換ができないこと)や
(確率のきわめて少ないことをもっともありうることと考えて恐怖する)ことは、
多少のちがいはあっても、だれもが持っている資質のような気もします。
「世に棲む患者」というのは、
こういうことも指しているとおもいます。

 

・宿題を七日で済ます夏休み  野衾

 

中井久夫さん 7

 

帰省はいつも新幹線を利用しているのですが、前席シートの後ろのネットのなかに
JR東日本が発行している冊子が入っていて、
それを読むのをたのしみにしています。
[旅のまにまに]の連載エッセイは柚月裕子さん。こんかいは「思いつきの勧め」
という題で書いていました。
その文章のなかに、十年ほど前のことらしいのですが、
心身ともに不調だったことに触れ、心と体は、片方が不調だと、
もう片方も衰弱する。何もしたくない、何も食べたくない、やる気もない、
三ない尽くしの時期があったと。

 

診断を話しても、それが治療に生きなければしょうがない。
難しい漢字の病名を背負いこんだり、恐ろしいと思って帰るだけでは全くしょうがない。
せめて「ノイローゼから一歩出ていると思う」とか、
「統合失調症みたいな所も確かにあるが健康な所もある」
といった様に話すことにしている。
これが一つもウソでないことは精神科医の方々には分ってもらえるはずだ。
相手をみて「″気になり病″という感じですね」「″気が済まない病″ですね」
「ふさぎの虫がちょっと腰をおろしましたね」
「二本の綱の綱わたりという感じですね。これから何病が出てくるか、
ここから立て直すか、一生のうちでも重要な時ですよ。めったにない時だから
協力して下さい」というふうに話すと
病名を言う際の副作用が非常に救われることもある。
診断ということは″レッテルを貼る″ということだとされ、
マイナスの方を強調されがちだが決してそうではなく、
ただ、〇〇病であってそれ以外でなく、
かくかくの程度であってそれ以上ではなく見通しはこうだという限界づけ
が重要である。
いつもではないにしても内科などでは医者がかけつけて診断をすると
それで随分精神的に救われる場合も多い。
(中井久夫『中井久夫コレクション 世に棲む患者』ちくま学芸文庫、
2011年、pp.272-273)

 

中井久夫さんに診てもらったひとは、ホッと息を吐き、
肩の力が抜けたんじゃないでしょうか。
″気になり病″″気が済まない病″、
また、ふさぎの虫はわたしのなかにも棲んでいますから、
中井先生の精密でやわらかな診断に
診てもらう人は希望をもてたんじゃないかと想像します。

 

・夏帽子取つて二つの薬缶尻  野衾

 

中井久夫さん 6

 

中井久夫さんは精神科医ですから、
ご専門の本はとうぜん多く読んでいるわけでしょうけれど、ギリシャ詩の翻訳や
ポール・ヴァレリーさんの詩の翻訳まで手掛けるくらいですから、
どんだけ読書の範囲がひろいの、と驚いてしまいます。
こんかい引用している本に、二宮尊徳さんのことがでてきてびっくり。

 

二宮尊徳というような話をすると古いかもしれませんけれども
あの人はなかなかいいことをいろいろ書いているんですが、
あの人が村を立て直すというときに本当に村が立て直ったというのは、
二宮という人が村の立て直しにタッチしたというようなことは忘れてしまって
自分たちの力で村を立て直したんだというふうに思うようになった時に
初めて再建できたんだということを書いている
のを読みまして、
まさに精神科医あるいは一般に医者というものとおなじだなと、
そして二宮という人は、
村を立て直すという意味では非常にいい″医者″だったんではないか
と思ったことでございます。
(中井久夫『中井久夫コレクション 世に棲む患者』ちくま学芸文庫、
2011年、p.236)

 

引用した文章は、医師たちの集まりにおいて中井さんが話したものを
録音テープから起こし「比較的忠実に文字にした」と
「文庫版への付記」に書かれています。
それがまたなんとも中井さんらしくて、おかしい。
いわく、
「医師集団というものの威厳というか威圧力を同じ医師の私でも
これほど感じてしまうわけですかね。
保険医協会というのは、まあ、王様みたいな医師のいない集まりですけれども」
(同書、p.268)と。

 

・半世紀変らずの空帰省かな  野衾

 

ふるさとの力

 

今月12日から16日まで秋田に帰省していました。
ことし1月に他界した母の新盆にあたり、墓参りをしたときのこと、
そこで何十年ぶりかの、ほんとうに久しぶりの幼なじみに出会いました。
むこうもびっくり、わたしもびっくり。
ほんの数秒見つめ合ったあと、ふたりともかぶっていた帽子を脱ぎ、
髪の毛の薄くなったあたまを見せ合い、大笑い。
ときのながれの速さを身にしみて感じました。
このごろ帰省するたびに好んでするのは、
散歩。
家を出て、バス通りを左に折れ、井内町内へ下り、
Sさんの家を正面に見ながら、鋭角的に左へ曲がり、大麦へ向かいます。
サギが数羽、ゆったり田んぼの上を飛んでいきます。
町の由来になった井川のせせらぎは、前の晩の大雨の勢いをたたえて、
いつもより高鳴っているよう。
稲穂はずいぶんこうべを垂れはじめました。
田んぼの上を赤とんぼが舞っています。秋はまだかいな。
大麦町内を抜け、寺沢方面へ。
建物が変ったり、くねった道が放置されまっすぐの道に変っても、
上下左右360度、見まわし、見わたしてみれば、
変化したのは1パーセントにも満たない気がします。
横浜だって緑が少ないわけではないけれど、
ふるさとの緑というのは、ビジュアルだけでなく、
川のせせらぎや空気のにおいなどとあいまって、どくとくのものがあり、
五感にくるなぁとおもうことしきり。
一歩一歩の先にゆっくり展開するパノラマに
さまざまな思い出が幾層にもなって迫ってきます。

弊社は、本日より通常営業です。よろしくお願い申し上げます。

 

・父がいて弟がいて帰省かな  野衾