傲慢と嫉妬について

 

古い時代につくられ、読まれ、読みつがれてきた書物を読んでいると、
似たようなエピソードにときどき出くわす。
たとえば、
身分の高い人妻が若者に恋をし、それが受け入れられないことを怨みに思い、
かえって夫に讒言するというような。
『アラビアン・ナイト』で読んだけれど、
『旧約聖書』「創世記」にも、同じような話が出てきます。
このエピソードのもっとも古いのは、
読んだことがないけれど、
紀元前十三世紀ごろのエジプトの『二人兄弟の物語』にあるそうです。
影響関係があるかもしれないし、
ないかもしれない。
それよりも、
こういうむかしむかしの話を読んでつくづく思うのは、
人間は、ほとほと変らないなー、
ということでありまして。
とくに、ギリシア神話やそれに関する本を読みながら、
わが身を反省しつつ、
人間の傲慢と嫉妬について思いを巡らさずにはいられません。

 

それでは、アラクネの罪は何だったのでしょうか。
もちろん、おのれの機織りの技術を神のそれよりもすぐれていると考え、
神に腕くらべを挑んだという、
人間にあるまじき「傲慢」がそれだったということになります。
しかし、
みぎの物語をたどってみますと、
彼女のそういう「うぬぼれ」にもそれなりの理由はあり、
女神を相手にして彼女が織りあげた作品の出来ばえは、
女神の「癪にさわる」ほどのものであったことも、じじつです。
そして、
女神が、彼女の織った織物をひき裂き、彼女の額を梭で打ちすえたのは、
彼女の作品の「出来ばえが癪にさわった」からです。
彼女の側にも「傲慢」
――こういう種類の傲慢をギリシア語では「ヒュブリス」といいます――
という罪があったかもしれませんが、
女神の行為にも、
「嫉妬」的な動機があったともおもわれます。
「アテナ女神も、『妬み』の神も……」などといわれていることからも、
そういう感じは強められましょう。
そして、
もともと、ギリシア的な考え方では、
人間の「ヒュブリス」というものと、神の「嫉妬」
――ギリシア語では「プトノス」です――
というものは、表裏をなすものでもあったのです。
神が「嫉妬する」といえば、一見、おかしなことのようにもおもえるのですが、
ギリシアの神々には、
そういう場合がひじょうに多くあり、
彼らが「人間的」でありすぎるといわれる理由のひとつ
にもなっているのです。
(中村善也・中務哲郎[著]『ギリシア神話』岩波ジュニア新書、1981年、pp.131-132)

 

ちなみにアラクネは『広辞苑』にも載っています。
いわく、
「ギリシア神話の機織り女。アテナと技を競い、憎まれて蜘蛛に変えられた。」

 

・新緑や小闇七色風来たる  野衾

 

理解を超えることば

 

一日一ページずつ読む本がいくつかあるなかで、『リジューのテレーズ 365の言葉』
は、帰宅後すぐに手にとります。
編者はレイモンド・ザンベリさん、
編訳者は伊従信子(いより のぶこ)さん。
2011年に女子パウロ会から刊行されています。
わたしが持っているのは4刷。
著者のテレーズ・マルタンさんは、フランスのカルメル会修道女だった方。
1873年に生まれ1897年に帰天されていますので、
24年の人生でした。
この本に、
むつかしいことばはでてきません。
むつかしいことばがでてきてほしいと思うくらい、
ことばそのものは、むつかしくない。
みじかい時間なら、暗記して口にだして言えるぐらいですが、
そうしたからといって、
どうにもなりません。
テレーズさんの自伝に『小さき花』
がありますが、
道の横に咲いている小さい花を目にし、しばし立ち止まり眺めるときがありますけど、
そんなふうにして読むのがせいぜいです。
5月27日のページに、
こんなことが記されています。

 

くよくよすることは、わたしたちのためになりません。
こういう場合は、自分から出て
急いで愛のわざを追いかけるようにすることです。
神さまは無理に自分とつきあうようにはおさせになりません。

 

・にぎはひを冷まして静か五月雨  野衾

 

体力勝負

 

おおざっぱな言い方をしますと、何ごとにつけ、
だいたいポジティブ・シンキングを心がけるようにしています。
そう考えることで、
日々を少しでも明るく過ごせればと願う今日このごろ。
ネガティブよりもポジティブ。
加齢によるいろいろも、
赤瀬川原平さんの「老人力」に習い、悲観的にならぬよう極力気をつけています。
が、
きのうのことです。
日々のささやかなこころがけではカバーできない出来事が起こりました。
「お先に失礼します」
社にいる皆さんに挨拶をし、荷物をもって退室。
と、ん!?
なんだかとっても身が軽い。
ん!?
あっ!!!
リュ、リュック忘れた!!
じぶんで驚いた。身が軽いはず。小さなトートバッグと本を入れた布の袋は持ったのに、
肝心のリュックサックを忘れているではないか。
じとーっ。
脇の下に変な汗。
回れ右して、何も言わずに、退室したばかりの社に戻り、
静かに堂々と歩を進め。
机の横に置いてあるリュックをおもむろに手に取り、
ゆっくり背中に背負い、そろ~り、
ふたたびの退室。
だれも何も言わない。無言で机に向かっている。
ほ。
よかった。たすかった! 気づかれてない!
胸をなでおろす。
それから、
何ごともなかったかのように家にたどり着いた。
以上、
一連のことを家人に報告したところ、
いわく、
「きっと、みなさん気づいていたと思うよ。あら!? シャチョー、どうしたんだろう?
そう思っていたわよ」。
そうか。
そうだったのか!
でも。
と、ここでポジティブ・シンキング。
土、日も出勤し、ただいま鋭意集中して読んでいるゲラがあり、
つづきをきのうも読んでいた。
一ページが約五分として十ページで五十分。
気になることを調べ始めると、
十分、二十分はすぐに経つ。
休憩をはさんで三時間もつづけると、ヘロヘロに。
ことばを追いかけ読むのに、
アタマはもとより、こんなに体力を使うのかと改めて思い知らされます。
そうか。
集中して仕事をしたせいか。
そのせいでリュックを忘れたのか。そう思うことにしよう。
そうだそうだ。
でもな。
すこし無理がある。

 

・新緑や開けて黙示の音を聴く  野衾

 

子どもの宝物

 

まえにもこのブログで取り上げたことがありますが、
わたしが一日一ページずつ読む本に、
大塚野百合・加藤常昭編『愛と自由のことば 一日一章』があります。
日本基督教団出版局から
1972年12月15日に発行されたものです。
こういう日めくりのような本がいくつか出ていますが、
おもしろいのは、
毎年読んでいると、
年によって、印象が変ること。
本のことばは変っていないのですから、読む側の変化、
と思うしかありません。
5月29日のページに、ポール・トゥルニエさんの文章が載っていました。

 

子供の考え方を理解しない親たちは、
よく、非常に手のこんだおもちゃを子供に与えます。
それは値段も高く、
技術的にも精巧であるという点で大人の目から見ると高価なおもちゃ
であることはたしかなのですが、
こうしたおもちゃは、
非常に現実に密着した、
日常生活に実際に用いられている道具や機械の模型にすぎません。
ところがおもちゃが精巧になればなるほど、
子供が自分の内部から、
つまり自分の想像力や詩的空想ポエジーから何かをそれにつけ加える余地
がなくなってしまうのです。
子供はむしろ一本の紐とか棒切れ、または一枚の紙切れで遊びます。
こうしたものは、
どんなものをも表わすことができるし、
努力して操作をおぼえる必要もありません。
こういう単純なものが子供にとっては宝物なのです。
これこそが、
私たち大人が大切にしてやらなければならない宝物なのです。

 

トゥルニエさんの元の本は、三浦安子さんの訳で1970年にヨルダン社から出た
『人生の四季』とのこと。
さて、
引用した文章のなかに「棒切れ」が出てきます。
あれは、わたしがまだ小学校に入るまえだったと思います。
わたしはよく、
家の周りに落ちている、てきとうな棒切れを二、三本、腰のベルトに差して遊んでいた。
いっぱしの少年剣士、いや、
子ども剣士になったつもりだったのでしょう。
まだ家にテレビがない頃のことで、
どうしてああいう恰好をしたかったのか、
我がことながら、
いまとなっては謎です。
が、
小躍りするようなあのワクワク感、嬉しさ、喜びはこころの奥に仕舞われて
いるようです。

 

・休日のわつぱがでぎだ夏夕焼け  野衾

 

ことばが降ってくる

 

じぶんと同じ年頃の人の文章を目にすると、ほとんど例外なく、
ニュアンスはそれぞれなれど、
もの忘れが以前と比べひどくなったことが記されてあり、安心します。
安心、というのも変だけど。
安堵、かな。
ともかく。
耳で聴いたことばも、目で読んだことばも、
早々に忘れがち。
は~。
いったんは、ちょっと落胆気味になりますが、待てよ、と。
忘れがちな日常に反し、
アイディア
というほど大げさなものでなくても、
いろんな想念は浮かんできて、
一大発見みたいにも感じ、うれしくなることがあります。
もの忘れと発見的想念!
名づけると大げさになるなぁ。
ともかく。
もの忘れはたしかにひどくなっているけど、
耳から入ることば、目から入ることばの量は変らず、というか、
以前と比べむしろ増えているかもしれない。
それで、
仕事に関わる忘れていけないことは、
ノートを意識的に活用するなど工夫していますが、
それ以外は、
忘れてもいいや、の精神でいることが多い。
でも、
ふと、忘れることは無くなることではない気がしてきた。
なぜなら、
発見的想念がたまにやって来るから。
その連関、
つながりについて考えた。
耳から入ることばについても言えますが、
目から入ることばとして、
特に思ったのは、日々仕事で読んでいる、原稿のことであります。
仕事で読む原稿のことばが圧倒的に多い。
圧倒的な量のことばを読み、編集し、本が仕上がる。
と、
あんなに時間をかけて作ったのに、
おもしろいように忘れていることがある。
でも、
あるとき、どういうタイミングでか定かではありませんが、
あるアイディアが不意に浮かび、
あら? あれ?
これって、
あの原稿を何度も読み、編集し、本を作ったこと、本の内容と、
どこかでつながっていやしないか?
つながっているよ、
そうだそうだと思えてくる。
山に雨が降るように、
原稿を精読し、本の編集をすることを通じて、原稿にあることばが
わたしに降ってくる。
そして、
降った雨が、時をへて、離れた土地の湧水となるように、
わたしの中からあるアイディアが生まれる。
そう考えたら、
忘れることを恐れず、目の前の原稿に向かうことが、
ますますだいじに思えてきた。
原稿に感謝。
わたしは土で、
土のわたしにゆっくり、
ことばの雨が静かに浸み込むことを願いながら。

 

・読み疲れ五月晦日の本を閉づ  野衾

 

くもりガラス

 

ちょっとまえ、と言っても、だいぶ経ちますが、
大川栄策さんが歌う「さざんかの宿」がヒットしました。
大川栄策さんは、好きな歌手の一人ですが、
「さざんかの宿」をカラオケで歌ったことはありません。
わたしの義理の叔父が、よく酒の席で朗々と歌い上げていました。
応援歌を歌うような、その朗々たる歌い方が、
歌詞から受けるイメージとちがっていて、笑った。
「さざんかの宿」の歌いだしは、
「くもりガラスを手で拭いて」であります。
手で拭いて、ですから、内と外の気温差によって曇ったガラスのことを言っている
のでしょう。
歌いだしのその歌詞を、ふと思い出しました。
というのは、
人と接していて、
相手のことばを耳にするとき、
ことばは、内にあるものを垣間見せてくれる窓のようなものかな、
と思ったからです。
人と人とのつながりは、
内と外の気温差によって曇らされたガラスのようなもの?
そんな気もします。

 

一般に、人間と人間との関係のなかには、
わたしたちが通常みとめているよりも、はるかに多くの神秘がひそんでいる
のではないだろうか?
何年もまえから毎日いっしょにくらしている相手であっても、
ほんとうにその人を自分が知っているとは、
わたしたちのだれも主張するわけにはいかない。
わたしたちはどんなに親密な人たちにも、
自分の内的体験をつくりあげているものの断片しか伝えることができない
のである。
全体を示すというようなことはできないことだし、
できたとしても、
相手がそれをとらえることはできないだろう。
わたしたちは、
互いに相手の顔形をはっきり見わけることのできない薄暗がりのなかを、
いっしょに歩いているのだ。
ただ、ときおり、
わたしたちが道づれとなにかを経験したり、
互いにことばをかわしたりすることによって、
一瞬のあいだ、
稲妻に照らし出されたように、わたしたちのそばにその道づれのいることがわかる。
そうしてそのときわたしたちは、
相手の様子を見てとる。
が、
それからまた、
おそらく長いあいだ、暗がりのなかを、ならびあって歩いて行く。
そして相手の顔形を思いうかべようとしても、
それができない。(生い立ちの記)
(アルベルト・シュヴァイツァー[著]浅井真男[編]『シュヴァイツァーのことば』
白水社、1965年、pp.307-308)

 

・映画館出でてこの世の新樹光  野衾

 

たとえについて

 

たとえのことを比喩といったり、譬喩といったりします。
読みはどちらも、ひゆ。
『新約聖書』を読むと、
イエスが、たとえをもって話をする場面がたびたび出てきます。
弟子たちが、
このたとえはどういう意味でしょうか、
とイエスに質問すると、
イエスは、
「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、
ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、たとえで話すのである」
なんてことをおっしゃる。
こういう箇所を読むと、
ちょっと意地悪な印象を持つわけだけど、
なるほどと納得したり、おもしろくも感じます。
奥義を悟られないためにイエスがたとえをもって語っても、
奥に隠された意味を
イエスは説き明かしてくれますから、
なるほどそうか、そういう意味か、
と腑に落ちる。
しかし、
そこで、ふと思う。
世にいろいろなたとえがあるじゃないか。
そうすると、
たとえには、『聖書』を離れ『聖書』とは関係なく、
隠された意味があるかもしれない、
あるのではないか、
だとしたら、
どんな意味が隠されているのだろう。
それを考えるのは、
たのしいことなのではないか。
漢字の譬喩(ひゆ)の「譬」も「喩」も一字で「たとえ」と読むけれど、
「喩」には、
「さとす」「さとる」の意味があり、
さらに
「こころよい」「たのしむ」「やわらぐ」「やわらぎよろこぶ」
という意味もある。
だとすると、
たとえ、もっと広くいうと、ものがたり
というのは、
味わい楽しみ
(それで十分なわけだけど)
欲ばって、
たとえに隠された意味をさぐり、さとる、
そういうこころや楽しみ方も譬喩にはありそうだ。

 

・夏の空神話と譬喩を産む日かな  野衾