世界という散文

 

だから世界の相貌は、紋章、文字、暗号、晦冥な語
――ターナーによれば「象形文字(ヒエログリフ)」――
によって覆われるのである。
かくして直接的類似の空間は、
開かれた大きな書物のようなものとなる。
そこには無数の文字記号(グラフイスム)がひしめきあい、
ページ全体をつうじて、奇妙な形象が交叉し、
ときには反復されるのが見られるのだ。あとはそれらを解読するだけでよい。
(ミシェル・フーコー[著]/渡辺一民・佐々木明[訳]
『〈新装版〉言葉と物 人文科学の考古学』新潮社、2020年、p.51)

 

後漢の許慎(きょしん)の手になる最古の漢字辞典『説文解字』
の成立が西暦100年。
白川静の『漢字の体系』が上梓されたのが2020年。
『漢字の体系』では約1800字について、
すべて『説文解字』の説明と白川さんの説明が対比されており、
漢字が単なる記号を越えて、
漢字そのものが、
漢字成立に至るまでの当時の世界観、宇宙観を表すものであると納得する。
まさに本はタイムマシン。

 

・春泥の足指まつかをぬるりかな  野衾

 

人間になること

 

まことに強制収容所の経験は、
人間を人間の顔をした動物の一種に変えることは事実可能であり、
人間の〈自然〉(本姓)が〈人間的〉であるのは、
きわめて非自然的なもの、
すなわち人間になることが人間に許されている場合のみである
ということを明示している。
(ハンナ・アーレント[著]/大久保和郎・大島かおり[訳]
『新版 全体主義の起原 3 全体主義』みすず書房、2017年、p.270)

 

教育哲学者の林竹二は、
小学生に向かっても、寿町の労働者たちに向かっても、
「人間について」の授業を行う際に、
「蛙の子は蛙、ということわざがありますが、人間の子は人間と言えますか?」
という問いを発した。
蛙の子はオタマジャクシで魚類だから、土の上では生きられない。
それなのに、
成長して蛙になれば、
土の上でも生きられる。
いのちの不思議、神秘に林自身が打たれての質問に、
授業を受けるものはだれもかれも、
こころをわしづかみされた。
わたしは、
授業そのものは受けていなくて、
授業を記録した本で知っただけだが、
それでも、
こころをわしづかみにされたまま現在に至っている。
人間は、
「人間である」ということはなかなか言えない。
人間であろう、人間になろう、
そう思考し意欲するとき、
その過程、途上にあるときに、
かろうじて「人間」とよべる、
のかな?
アーレントの本が突きつけるものは、
ひとことで言えば、
「人間の子は人間と言えますか?」

 

・詩も何も尽くしがたきよ雪解川  野衾

 

人文書と『聖書』

 

ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』を読んでいたら、
「ラザロの復活」
という言葉が不意に出てきました、
二度まで。
忘れもしません。
ドストエフスキーの『罪と罰』中、
ろーそくの灯の下、
殺人者ラスコーリニコフと娼婦ソーニャが語り合う場面で、
『聖書』にあるこの箇所を
ソーニャがどれほど生きる支えにしているか
を、
ドストエフスキーは印象深いタッチで描いています。
『罪と罰』をはじめ、
欧米の古典文学は『聖書』の解説書とも感じられ、
大学に入学してすぐに
『聖書』を買い求めました。
欧米の、
とくに古典文学に対する考えは基本的に変わっていません。
ところで、この視点は、
なにも文学に限ったことではないのではないか
というのが、
このごろのわたしの感想です。
アーレントについていえば、
学位論文「アウグスティヌスの愛の概念」はもとより、
『全体主義の起原』でいえば、
第十二章「全体主義の支配」に「ラザロの復活」が、
またこの本の最後には、
アウグスティヌスの『神の国』からの引用があります。
近代以降、
文学に限らず、
人文書全般にわたって感じられるのは、
『聖書』の世界観が通奏低音のように響いているということ。
欧米の学術書を絵画にたとえれば、
その額縁は『聖書』ではないか。
額縁なしの絵画を見ることができないように、
ホッブズ、ロック、モンテスキュー、ルソーはもとより、
デカルト、カント、ヘーゲル、マルクス、
ふ~、
フッサール、ハイデガー、フーコー、ドゥルーズも、
『聖書』を抜きに語れない
のではないか。
挙げればきりがありませんが、
たとえば思いつくまま挙げた上の思想家にしても、
『聖書』を、
まあ、一回読んだ、
と、
そういったことではおそらくない。
仮に読んでいない人がいるとしても、
毛穴から浸み込んでいるということはあるだろう。
日本の人文書を読みながら、
いちばんの違和感は、
わたしの先入観、偏見かもしれないけれど、
例外はあるでしょうが、
著者が『聖書』をあまり読み込んでいないのではないか
と感じられること。
そういう意味で、
先日、
弊社から刊行された『教育のリーダーシップとハンナ・アーレント
をめぐっての座談会に参加された先生たちが
『聖書』にいたく関心を持ってくれたことがうれしく、
また、有難いことだと思いました。

 

・山よりの光を放て雪解川  野衾

 

底が抜けた!?

 

一所に住まない放浪する民が日本に居たことを知ったのは、
五木寛之の『戒厳令の夜』
を読んだのがきっかけでした。
興味の湧きついでにさらに五木の『風の王国』
を読み、
さらに知りたくなって三角寛の書に手を伸ばす、
そういう時期がありました。
もう三十年以上前のことになります。
時も時、
一所に住まぬ放浪の民サンカを取り上げた映画が上映されることを知り、
なになにっ、と目を剝き、
なにを差し置いても見なければと思い、
見ました。
三十年以上前のことですから、
物語は薄靄につつまれたような具合ですが、
萩原健一扮する男と藤田弓子扮する女の滝の前でのセックスシーンは、
忘れられません。
衝撃でした。
わたしの記憶では、
キャメラは、
滝を正面から見上げるように遠望する位置であったかと。
したがって男と女の交接は、
自然の中の自然の行為とも感じられた。
女のバックから迫るとき、
萩原健一は、
山と水、取り巻く自然の光景に、ほんの短い時間、
目を向け、
それからやにわに実事に向かう。
女はのけぞる。
滝の音にかき消され、
にんげんの一切の言葉は聴こえない。
映画のタイトルは
『瀬降り物語』。
映画館から外へ出たとき、
魂の底が抜けちまって、
ふらつきながら、
アパートまで帰ったのではなかったかと思います。

 

・春寒や商店街の人まばら  野衾

 

読み継がれる本

 

全体主義の支配している国ですべての人が信じることのできる唯一の規則は、
ある機関が公的なものであり人によく知られていればいるほど
その保持する権力は小さいということである。
この規則によれば、
広く知られている成文憲法を
国家の最高の権威として認めているソヴィエトは
ボリシェヴィキ党ほど権力を持っていない。
そしてまたこの党は、
党員を公募し、
すべてのものから真の支配階級と見なされているのだから、
秘密警察ほど権力を持っていない。
権力はつねに公開性がなくなるところから始まるのである。
(ハンナ・アーレント[著]/大久保和郎・大島かおり[訳]
『新版 全体主義の起原 3 全体主義』みすず書房、2017年、p.172)

 

情報公開の重要性について、改めて考えさせられる。
すぐれた政治哲学者であるハンナ・アーレントの本の魅力は、
なんといっても、
見聞を含めての実体験とそれに基づく思考が、
あざなえる糸のごとくに展開すること。
最初に英語版で発表されたのが一九五一年というから、
いまからちょうど七十年まえ。
しかしいまも途切れずに読まれている
ということは、
それだけの理由があると納得する。

 

・春寒し遮断機の音高鳴れり  野衾

 

上書きの時代

 

先週金曜日、
都市科学事典』発刊を期し、
出版記念オンライン・シンポジウム
「トランジションシティ 都市をめぐる知の交差」が開催された。
わたしは聞かずじまいだったが、
パネリストのお一人が、都市=エンサイクロペディア、
ということをおっしゃったそうだ。
また「上書き」という言葉が印象にのこったと、
シンポジウムを聞いた者から教えられ、
我が意を得たりの感を深くした。
政治家をはじめ、この頃は、言葉が薄く感じられるようになった。
パソコン、スマホ、ブログ、ツイッター、フェイスブック
が普及したことにより、なにが変ったか。
いろいろな論点があるだろうけれど、
言葉が「上書き」されることがふつうになったことは、
見逃すことのできない重要な点だと思う。
たとえば政治家の発言をテレビで見ていると、
ひとつひとつの発言が、
のちに上書きされる可能性を残しつつなされている
の感が否めない。
小学校で習った5W1H
「Whenいつ」「Whereどこで」「Whoだれが」「What何を」「Whyなぜ」
「Howどのように」
はどこに行ってしまうのだろう。
ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』のなかに、
ヒトラーとスターリンが、
二人とも共通して事実に関心がなかった、
ということが記されている。
嘘を常習とする人間にとっては、
事実はいつでも捏造可能ということなのだろう。
上書きが日常化されてしまえば、
嘘をつくことが横行し、痛みを伴わなくなってしまう。
本を焼くものはやがて人を焼く、
と、かつてハイネは言った。
本を焼く、とはまた、言葉を焼くことだ。
言葉を焼くのは、
その裏付けとなる事実を焼き、歴史を歪めることに繋がる。
そうならないためにも、
5W1Hの基本精神を大切にし、
紙の本で残したい。
紙の本は、事実を後世に残すための、
また、
上書きという捏造を許さぬための紙碑なのだ。

 

・春寒や上り列車の遠ざかる  野衾

 

小さな発見

 

日々の暮らしのなかでだれに教わるでもなく、
ごく小さなことを発見して、喜んだり、驚いたりすることがありますが、
きのうのこと、
ああやっぱり、と合点が行くことがありまして。
食事をするとき、
行儀の悪いことながら、
なんとなく足を組んでいるときがあり、
あ、いけない、と思って、
組んでいる足をふつうに戻す。
ところが、
なにか考え事をしながらだと、
足を組んでいることをついつい失念してしまい、
すると、
痛!
いてててて。
舌の端を噛んだり、頬の内側を噛んだり、
そういうことが間々あります。
外で食べているときもありましたし、
こたびは家のなかで起きました。
足を組みながらの食事は禁物、要注意、そのことの
ほんの小さな発見でした。

 

・沈丁花いつもの路地の垣根越し  野衾