かゆみについて

 

テレビをつけるといろいろ情報番組をやっていて、
からだや健康に関するものが少なくありません。
スポンサーは、
飲食料品、サプリメント、化粧品をつくっているメーカーなど。
いろいろやっていますから、
どこかで取り上げてくれないかと思うものに、
「かゆみについて」
があります。
見逃してるだけかもしれませんけれど。
内臓疾患が原因のかゆみもあろうかとは思いますが、
そうでなくてもちょっとした、
たとえば、
耳のふちがかゆいとか、
鼻の穴の中がかゆいとか、
あれはなんで起きるんでしょうかね。
じっとしていて
急にかゆくなることがあり、
細胞レベルでかゆみ物質が活性化したか、
などと思ったりするものの、
そもそもかゆみ物質なんてあるのか、
ないのか、
とても不思議な気がします。

 

・五月晴れ陸橋に射す夕陽かな  野衾

 

色とにおい

 

ドリトル先生と暮らす動物たちは、
どの動物も個性派ぞろいですが、
図書室の館長をつとめるのは白ネズミ。
白ネズミは膨大にある本のなかから、
書名によらずに目的の本を探し当てるのです。
どういうふうにしてか。

 

このネズミは、それには敏感な嗅覚が大いに役立ったのだと話してくれました。
背表紙に書いてある文字だけでは本の区別がつかないときも、
その色とか、においのぐあいなどで、
見分けたり嗅ぎわけたりすることもありました。
(ヒュー・ロフティング/井伏鱒二[訳]
『ドリトル先生と秘密の湖』p.57、岩波書店、1961年)

 

わたしが読んでいるのは1969年、第14刷りのもので、
色が褪せ、古くなった紙のにおいがほのかにし、
それもあってか、
嗅覚の発達した白ネズミが
色とにおいで本を識別するということが
妙に納得できました。

 

・細りゆく父と母との五月かな  野衾

 

いくつになっても

 

「価値をつけるものは、わざ(アート)であって、素材ではない。」
……………
『ロビンソン・クルーソー』は、
二世紀をこえて後も、
やはり依然として「かつて書かれた最上の孤島物語」である。
デフォーは『ロビンソン・クルーソー』のなかに、
根本的で普遍的な孤島物語の概念をつくりあげたのに、
模倣者たちは一人もそれをなしえなかった。
(リリアン・H・スミス/石井桃子・瀬田貞二・渡辺茂男[訳]『児童文学論』
pp.46-47、岩波書店、2016)

 

よい本をえらぶ基準はあるのか。
あるとすればどのようなことなのか。
子どもはそれをいちいち言葉にしません。
好きなものをだまって読みつぎ、
それが児童文学の古典とされてきたことがよく分かります。
「十歳の時に読む価値のある本は、五十歳になって読みかえしても同じように
(むしろしばしば小さい時よりもはるかに多く)価値がある
というものでなければならない。
……おとなになって読むにたえなくなるような作品は、
全然読まずにいたほうがいい本である。」(同書、p.13)
「ナルニア国ものがたり」を書いたC・S・ルイスの言葉です。
わたしは本を読まない子どもでした。
本を読むたのしみを知らず、
季節ごとにめまぐるしく変化する自然とたわむれてばかりいました。
もし、あのころ本を読んでいたら、
と、
考えないではありませんが、
スミスさんのこの本を読むと、
六十一歳になったいま
児童文学の名作を読むことのたのしさを
あらためて思い知らされるようです。

 

・さつきあめ嶺々(みねみね)のそら跼(かが)みをり  野衾

 

トホホ…な想像力

 

電車に乗っていましたら、
ある広告が目に入りました。
そのなかの文言
「脇の下のつぎに多いのがvio脱毛」
正確ではありませんが
そのようなことが書かれてあり、
ごく簡単にひとふで書きの人体図まで添えられていました。
脇の下のところに「脇の下」
とあり、
いわれなくたって分かるわいと思った。
に対して、
vio。
なんだヴィオって!?
アイスクリームにそんな名前のがあったような…
それともヨーグルト…
それはともかく。
人体図の下半身のほうに「vio」と置かれているだけで、
どこを指しているのかが
イマイチ分からない。
それと。
脇の下が「脇の下」とはっきり日本語で書かれているのに、
vioはなぜか
日本語で示さずにアルファベット。
あやしい!
ハハァ。
あたしゃピンときましたね。
下半身で、
毛の多い場所といえば、
そこしかない。
きっとそうだ。
そうにちげえねえ!
そう確信したのですが、
なにゆえそこを脱毛しなければならないのか。
ふむ???
じぶんのそこが赤ん坊の股間のようになっている姿を想像した。
なんのために???
いくら考えても分からない。
わたしはここで
じぶんが大きな間違いを犯していることにまだ気づかなかった。
脇の下の脱毛といえば、
ぜんぶの毛をなくすわけでしょうから、
とうぜんvio脱毛も
ぜんぶの毛をなくすものと信じて疑わなかった。
家に帰りいそいそとパソコンを立ち上げ、
調べてみた。
ア˝ア˝ア˝ア˝ア˝
そうか。
そうだったのか!
ぜんぶの毛をなくすのではなく、
水着のパンツからはみ出たところだけの処理であることが判明。
そりゃそうだよな。
じぶんの想像力の乏しさに呆れ、
老いを感ぜざるを得なかった。
いっとき情けない気分に浸りもしましたが、
梅雨晴れ間の空を見上げ、
希望をもって生きようと気持ちを新たにしたのでした。

 

・ひとも無し社(やしろ)の裏の蛇である  野衾

 

あれから20年

 

ひょんな縁で春風社三浦さんと出会い、
『インド・まるごと多聞典』をつくり、装丁仕事をすることに。
まさかそのあとずっと本をつくりつづけるとは想像もしなかった!

 

六月十七の矢萩多聞さんのツイッター。
ほんとに。
多聞さんもそうでしょうけど、
わたしも春風社が二十年つづくとは思いませんでした。
十年はつづけたいとは願っていました。
考えてみれば不思議なご縁です。
多聞さんのお母さんがやっている店のショーウインドーに飾られた
木彫りのガネーシャに引き寄せられるようにして
店に入ったのがそもそものきっかけでした。
大きいかわいいガネーシャの像で、
いまもわが家の玄関先に置いてあります。
ガネーシャがとりむすぶ縁!
京都dddギャラリーにて「本の縁側 矢萩多聞と本づくり展」が開催されていますが、
きょうはその最終日。
多聞さんと「本づくり」についてトークを行います。
二十年をふりかえるいい機会を与えていただきました。

 

・天狗いで浮世の宵に虹を吐く  野衾

 

希望について

 

フランクルの『夜と霧』(みすず書房)には
収容所における地獄絵図のような日々が記されていますが、
全編を通じておしえられるのは、
希望によってひとは生きる
ということでした。
若いひとを元気づけ勇気づけおもしろく感じさせるものは多くありますが、
歳を重ねるにつれ、
だんだんそうしたものが少なくなっていく
気がします。
新井奥邃の文章に触れてから四十年経ちますが、
奥邃の文章を読むと、
ふつふつとちからが湧いてくる気がし、
それはいまも変わりません。
奥邃の文章には本気がこめられていて、
読んでいるときに
それがこちらにつたわってくるからだと思います。
奥邃に親近し最後まで奥邃を世話したひとに
秋田出身の中村千代松がいますが、
中村は、
自身の最晩年、
床に伏したまま静かに奥邃の文章を読んでいた
といわれています。
また、
かつて五木寛之の「夜の時代」という文章を読んだことがありますが、
夜の時代といえば、
いまもそうかもしれません。
悲観し絶望したくなることがつぎつぎ起こってきますが、
そうであればこそ、
希望をもって生きることのたいせつさと
そのための勉強を
思わずにはいられません。

 

・五月雨や崖うへの店烏賊を焼く  野衾

 

活学

 

新井奥邃の命日にあたる六月十六日、
新井奥邃先生記念会が下北沢の北沢タウンホールでありました。
参加者は十五名。
奥邃に直接ゆかりのある方がいなくなったこともあり、
周辺知識よりもまず
奥邃の文章を読んでみることが大事ではないか
と提案した手前、
ここ四回ばかり、
奥邃の文章からわたしがいくつか選び、
レジュメをつくって音読し、
感想とコメントを加えるようにしてきました。
きのうは「学」「活学」にふれた文章を取り上げました。
死んで終わりではない活学が読む者に希望を与えてくれます。

 

・蛇跨ぐ鎌首くるり刹那かな  野衾