お銭《あし》のこと

 

中野好夫さん訳『デイヴィッド・コパフィールド』のなかに、
「お銭」また「お金」と書いて、
「銭」や「金」に《あし》と振り仮名が付されている箇所がありました。
それを目にし、
学生のころのことが、俄かに思い起こされました。
芳賀先生とおっしゃったかな、
大教室の講義の初回だったと思います。
はじめての回ですから、
自己紹介的な、やわらかい話のなか、
かつての学生が、外国語の文献を日本語に訳しながらの授業だかゼミだか
のなかで、
ある単語を「おあし」と訳したのだとか。
芳賀先生、ニコニコしながら、
「おあしはまずいでしょう。おかねでもちょっとね」。
芳賀先生は、
そのことばにつづけて、経済学の本なので、
「貨幣」「金銭」と訳してほしかった、
みたいなことをおっしゃったのかもしれませんが、
そこのところの記憶はあいまいで、
ああ、
おかねのことを「おあし」というのか、と思ったことだけ
憶えています。
「おあし」なんて言い方、
そのころは知りませんでしたから。
『広辞苑』で「足」を引くと、
うしろのほうに、
「(足のようによく動くからいう)流通のための金銭。ぜに。おかね。」
という説明があります。
『デイヴィッド・コパフィールド』を
中野さん訳で読んでいなければ、
芳賀先生のあのエピソードは、
思い出されずじまいだったかもしれません。

 

・飛び立つ鳥や川面にさす緑  野衾

 

ピンクのランドセル

 

きのうのことです。朝のルーティンを終え、コーヒーカップを持ち、
ぼんやり外を眺めていたら、
ランドセルを背負った少女が、坂を下りて行きます。
少女がどこのどなたか知りませんが、
彼女が背負っているピンク色のランドセルは、数年前から目にしていますから、
よく知っています。
かわいいピンクのランドセル。
初めて目にしたのは、
小学校に入学したときだったかもしれません。
小走りで坂を下りて行くと、
ランドセルがユッサユッサ、逆さの小さな放物線を描いて揺れますから、
その逆さ放物線のかたちが笑ったときの人の口元
に見えたものです。
はは、ピンクのランドセルが笑っているよ!
以来、何度見たでしょう。
見れば、
これから学校か、と、送り出すような気持ちになりました。
きょうの授業は何かな?
好きな教科は?
コロナのときはどうだっただろう。
休校になったことがあったかもしれない。
彼女自身はどうだったでしょう。
コロナの猛威が一段落し、
友だちとも笑って会えるようになったかな。
昼休みにドッジボールをしてるかな。
きのう、
ピンクのランドセルを目にしながら、
いろいろ想像がふくらみました。
少女の背は高くなり、
ランドセルは、左右に揺れることなく、
ピッタリのサイズ感で少女の背に負われ坂を下りて行きました。

 

・暁烏鳴く蕭条に花の雨  野衾

 

小説の効能

 

仕事柄、学術書を読むことが多く、個人的にも好きなものですから、
むつかしくて、どれだけ理解できているか心もとないのに、
わたしなりの小さい発見があったりすると、
ああ、きょう生きてて良かったなぁ、
と思える瞬間がたまにあり、
椅子の横に、
ついつい、
その類の本がつみ重なっていきます。
そういう日常のなかで、
いろいろ思考が折り重なった結果、ここひと月ばかり、
小説を読んできました。
ディケンズさんとオースティンさん。
月並みですが、
小説は、いいなあ、って思いました。
笑ったり目頭を熱くしながら、
こころの凝りがほぐれていくと申しますか、とかされていく感じ
とでもいうか。
だいぶ前になりますけれど、
しりあがり寿さんの漫画を読んだとき、
そのなかに、
歳をとると、しょっぱくなる、みたいな文言があった
と記憶しています。
しりあがりさんのことばを借りれば、
小説は、
しょっぱくなった老いの塩気を薄くしてくれる
ようにも思いますので、
眉間に皺を寄せないためにも、ときどき小説を読もうと思います。

 

・万象が薄むらさきの四月かな  野衾

 

ただ読む

 

読書法というほど大げさなものではありませんが、
わたしの本の読み方を強いてあげれば、
ただ読む、
これに尽きるか、と思います。
子どものころ、本を読まなかったこと、
入った高校の生徒たちがやたら勉強ができて、
上には上がいるとの実感により、井の中の蛙の鼻っ柱をへし折られた、
そんな思い出がありまして、
ああ、ああ、
おれはもう、これからの人生を、ただただ愚直に行くしかない、
それしかないよ、
そんな風に思い定めたのでした。
それで、
本を読むのでも、そうしてきました。
いまも、そんな風です。
何冊もあって長くつづく本は、途中飽きることも。
飽きたら、無理せずしばらく放っておく。
眠くなることもある。ならば寝る。
でも止めない。
すると、
途中で投げ出さなくって良かったよ~と思うことがしばしばで。
投げ出さなかったことのご褒美みたいに、
おもしろい箇所がでてくるから不思議。
こんなことがありました。
どちらも大学の先生。
研究領域からして関連があると思ったので、
それぞれの先生に『マハーバーラタ』『サミュエル・ジョンソン伝』
の読後感を申しあげた。
もちろんわたしが読んだのは、日本語訳。
『マハーバーラタ』のほうの先生は、
後日、
わたしが全巻読んだことに疑念を持ったことを詫びるメールを送ってくださった。
拙著を読んでくださり、
ほんとうに全巻読破したことを知った、
とのこと。
『サミュエル・ジョンソン伝』については、
べつのある先生曰く、
「わたしは、必要に応じて読むぐらいで、全部は読んでいません」。
アタマのいい人は、全部読まないのかな。
ほんとうにすぐれた本ならば、
ただ読むだけだけど、
わたしのような人間にも、
よき感化を与えてくれるに違いない、
そんな助兵衛な根性が働いているかもしれません。
卑下するつもりはないが、
個性はどうでも、
脈々と伝えられるもののほうこそ大事、
との思念から、
かぎられた時間のなかで、
すぐれた先人にすこしでも近づければ本望です。

 

・幾曲がり石段上の桜かな  野衾

 

オースティンさんの小説

 

中野好夫さん訳の『自負と偏見』がおもしろかったので、ひきつづき『エマ』を。
こちらは、阿部知二(あべともじ)さんの訳。
学生のころ阿部さん訳(だったはず)で
メルヴィルさんの『白鯨』を読み、
阿部さんの日本語に親しんでいたからかもしれません、
だいぶ前に中公文庫のものを購入し、そのままになっていました。
タイミングとしては、いまか、
と。
『自負と偏見』は、笑ったり、目頭を熱くしたりし、
小説のおもしろさを堪能しましたが、
『エマ』はどうかというと、
会話文がものすごく多く、多いな~、長いな~、と若干食傷気味に感じていたところ、
途中で、アレッ、となりました。
というのは、
会話のことばから、
それを話している人の、性格というか人物像というか、
それがジワリ浮かび上がってきたからです。
阿部さんの日本語訳の賜物でもあると思います。
はは~、
って思いました。
地の文で、この人はこういう性格、
と説明する(そういうところもあるにはありますが)
のでなく、
その人が話すことばそのものから
その人の性格や人物像を、
説明でなく表現する、そんな風に見えてきましたので、
だんぜん『エマ』がおもしろくなってきた。
オースティンさんは『エマ』で、
そういうことをやろうとしたのかな?
そんなことを想像してみたり。
ということで、
こちらはこちらでおもしろい。

 

・子をつれて無言の道や花曇  野衾

 

昔の本を読んでいたら

 

いちにちの生活や時間帯によって、読む本を決めていて、
数えてみると、いま八冊あります。
一日一ページと決めている本もありますので、どうしても数は多くなります。
どの本の著者もすでに亡くなっており、
いちばん古いところではセネカさん、ということになります。
セネカさんのほうから見れば、
わたしは約二千年後のところにいるわけですけど、
わたしのほうから見れば、
セネカさんは二千年前の人でありまして。
セネカさんの本を毎日ちょんびりちょんびり読んでいたら、
ふと、
本を開いたときの
本のノドのところにわたしが佇んでいた。
そして、
右ページの端っこが二千年前、と、左ページの端っこが二千年後、
つまり、
左ページの端っこは、いまから二千年後の4024年、
そんな想像が湧いてきた。
いったんその想像が噴出すると、
連鎖反応のように。
二千年前の本を読んでいて二千年後を想像、
その伝でいけば、
百年前の本を読むとすると、百年後、
三百年前の本だとしたら、三百年後、
○○年前の本を読めば○○年後を想像することになるのかな。
身辺でも世界でも、
いろいろなことが生起し、
明日をも知れない現状が一方にあるけれど、
表紙の手ざわり、一冊の重さ、紙質、
著者のこころを味わう
ことをとおして、
2024年の現在と、いま読んでいる本が書かれた時代との時間の長さを、
たとえばA5判横148ミリだとすれば、
現在から反対側の未来に148ミリ延長して考えてみる、
それも読書のたのしみの一つです。

 

・曇天にひつそり閑の桜かな  野衾

 

ユーモアについて

 

中野好夫さんが『自負と偏見』の解説に書いている、
オースティンさんに関することで、
きのう引用した箇所につづくところの短文も、
『聖書』との関連でとても興味ぶかく、おもしろく感じました。

 

全体としての人間を写す、そしてそこからは、
おのずからすべてを最後はゆるすというユーモアが生れる。
これがオースティン最大の魅力なのではあるまいか。
(オースティン[著]中野好夫[訳]『自負と偏見』新潮文庫、1997年、p.604)

 

ユーモアを辞書で引くと、たとえば『広辞苑』では、
「上品な洒落(しゃれ)やおかしみ。諧謔(かいぎゃく)」。
『明鏡国語辞典』では、
「人の心を和ませるような、ほのぼのとしたおかしみ。気のきいた、上品なしゃれ」
と書かれてあり、
さらに、
「「ウイット」「エスプリ」が理知的なおかしみであるのに対し、
人間的・感情的な温かさを感じさせるおかしみをいう」
とも。
また『ブリタニカ国際大百科事典』によれば、
「基本的美的範疇の一つ。ラテン語のhumorに由来し、本来は湿気、体液の意」
と。
さて、引用した中野さんの文章に
「ゆるすというユーモア」という文言がありまして、
このことばと
「ユーモア」を説明した『ブリタニカ国際大百科事典』の「体液」から、
「ヨハネによる福音書」の第7章38節の
「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、
その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」
の文言を思い浮かべました。
「心の奥底から」は、直訳なら「腹から」であると、
『聖書』に注記されています。
「腹からの水」は、体液ではないかと、単純ですが、
そんな風に想像します。
また、同じく
「ヨハネによる福音書」には、
十字架にかけられ、すでに死んでいるにも拘らず、
「しかし兵士の一人は、イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、
すぐに血と水が出て来た」(第19章34節)
とありまして、
この場合、
血も水も、イエス・キリストの体液のことでしょう。
「ユーモア」の語源に「体液」があり、
人をゆるす、ということが『聖書』のたいせつな訓えであることからすると、
「ゆるすというユーモア」と『聖書』を関連させての想像、思考は、
それほど牽強付会でもないのでは、
と思います。

 

・気掛かりのなきも気掛かり春の月  野衾