「だんこ」について

 

歩行が困難になった母が、お尻を床にズリズリさせながら進むようになって以来、
おのずと、お尻のことが母の会話に上るようになりました。
いわく、
こうやって進むので、ズボンのお尻の辺りが破けてしまうこともある、云々。
秋田弁では、
こうやって進むがら、ズボンのだんこのあだりがやぶげでしまうごどもある、云々。
ということで、
わたしの地方では、お尻=だんこ。
秋田県教育委員会編、無明舎出版からでている『秋田のことば』
に、
ちゃんと載っていました。
いわく、
「「玉こ」。人の肛門の口にあると想像された玉が「尻子玉」で、
水中でこれをカッパに抜かれると臓腑まで食われると信じられた。
方言では省略形「だまこ」を採用し、さらに「だんこ」に変じたものであろう。
一説、「脱肛」からの変化だという。」
記憶で恐縮ですが、
尻子玉が河童に抜かれる話は『和漢三才図会』にもあったような。
尻子玉⇒「尻」脱落⇒子玉⇒逆転⇒玉子⇒だんこ。
こういうことでしょうか。
一説にある「脱肛」からの変化というのは、
音としては「だんこ」に似ているけど、
わたしとしては、
尻子玉説のほうが好きだなぁ。
好奇心旺盛だった少年時代の父が、
学校近くを流れている川に河童が棲んでいるらしいといううわさが本当かどうか、
それを確かめに川べりを探索した、
そんな話を以前父から聞いたことがあります。
そういうわけで、
子どもの頃からあたりまえに使ってきたことばに、ある時、
ふと、立ち止まるように、
その語源をさぐると、
思わぬ発見があり、なんだか楽しくなります。

 

・ぽつかりの雲行く蜂の羽音かな  野衾

 

母からのメッセージ

 

GWの後半、3日からきのうまで帰省しました。
92歳の父と88歳の母は、日々の一つ一つの行い、判断に奮闘しています。
歩行が困難になった母が、
お尻を床にズリズリさせながら進む姿は、
かわいそうでありますけれど、
賢明なこころの形を無言で示してくれているようです。
わたしの半生を振り返るたびに思うのは、
小学四年生のときに、
母が買ってくれた夏目漱石の『こゝろ』のこと。
のちに、
どういう理由から、どこで、
ほかの本でなく、なぜその本にしたのか、母に尋ねたことがありますが、
母は、一切記憶していませんでした。
夏目漱石がどういう人物なのか、
おそらく母は知らないはず。
こたえのない問いであり、
ここに人生の不思議を感じるわけですけれど、
ほとんど終日、
ソファに座っているいまの母の姿は、
本人も意識しない、
「こころ」そのもののようにすら思います。
たびたび体をねじり、
ソファのすぐ後ろの障子を開け、
外の景色を見やる姿は、かぎりなく少女に近づいていくようです。

弊社は、本日より通常営業となります。
よろしくお願い申し上げます。

 

・ふるさとの新緑や山々に雲  野衾

 

人に向かうに

 

新井奥邃(あらい おうすい)さんは「謙虚」ということば、おこない
をたいせつにされました。
己を虚しくしてへりくだることを「謙虚」といいますが、
これに関して『聖書』にいくつか記事があります。
たとえば、
「マタイによる福音書」の第23章11節と12節に、

 

あなたがたのうちで一番偉い者は皆に仕える者になりなさい。
だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。

 

「長」のつく人が偉いわけではないけれど、
「長」がつくと、他人はともかく、おごったこころで自ら偉いと思いがち
なところがありそう。
ですので、
こころすべきことばだと思います。
とくに、
引用した文言の、
「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされ」
ということばは胸に刺さります。
一言でいえば「謙虚」
ということでしょうけれど、
まさに「言うは易く行うは難し」でありまして、
なかなかむつかしい。
仕事でもプライベートでも、
このごろ、
つぶやくように心がけていることがあります。
それは、
「ひとを恐れず、嘆かず、我を張らず」。
恐れなければいけないものは
ほかにあるでしょうし、
『新井奥邃著作集』を出版している会社の「長」として、
まず肝に銘じておく必要を感じます。

弊社は、4月27日(土)より5月6日(月)までGW休業とさせていただきます。
よろしくお願い申し上げます。

 

・種よこころ開けよ満天星の花  野衾

 

仕事を時間で割らない

 

以前勤めていた出版社にちょうど十年いました。
その間に習い覚えたことが、いろいろな面で今につながっています。
社長は、いくつかの職種を経て出版社を起こした人で、
仕事とは何か、働くとは何か、
をつねに考えているようなところがありました。
印刷や製本にかかわる人へ社長が書いた指示書をあるとき見せてもらった
ことがありますが、
それを見、読んだ人がもしミスするとしたら、
それは、
指示した側でなく、
明らかに指示された側のミスであると考えざるを得ない、
そういう徹底した指示書で、
驚きました。
ミスするときの人のこころへの洞察があった
と思います。
社長の発したことばで憶えているものに、
「仕事を時間で割ってはいけない。時間を仕事で割りなさい」
があります。
大切な訓えであると、今もときどき思い出します。
アレもしたいコレもしたい、
ということがあれば、
仕事に割ける時間は限られてきます。
そうすると、
目の前の仕事を何時間でこなせるか、
というようなアタマの働き方になってしまいがち。
そんなとき、何をどう考えるか。
考えなければいけない問題、工夫は、一つではないと思います。
残業すればいい、
というものでもないでしょう。
仕事とは何か、働くとは何か、余暇とは何か、自分とは何か、人のこころはどうか。
ほかにもいろいろありそうです。
そうだ。
月一回のペースで行われていた宴席で発した社長のことば
も忘れがたく憶えています。
「あたながたは、文学とか芸術とかを深いと思っているかもしれないけど、
仕事もけっして浅くない。
音楽や美術や建築と同じように深いものだと思う。」

 

・四月来ペンキぬりたてペンキの香  野衾

 

本の手ざわり

 

これも加齢によるところ大の気がしますけど、
物に触れたときの感触、
また、
それによって引き起こされる気持ちのあり様が以前と比べ、
すこし変化してきたようです。
指紋の山の出っ張りが取れ、
山があるにはあるけれど、
だんだん平らに近づいているとでも申しましょうか、
それと関係があるか、
ないか。
定かではありませんが、
ともかく変ってきた。
本を読む際に、内容はもちろんですが、
若いときから、おおむね、少しざらついた紙の感触を楽しんできました。
すぐに思い出すのは、
中村吉治さん編著の『村落構造の史的分析――岩手県煙山村』。
わたしが読んだのは、
御茶の水書房版だったと記憶しています。
表紙が藁みたいな手ざわり、
日本経済史のゼミにいたこともあって、
おもしろかったけど、
あの藁みたいな表紙の感触は、
内容をはるかに超えて好きだった気がします。
本を読むとき、
手ざわりはとっても大事、
このごろ、とみに感じるようになってきました。
筑摩書房から出ていた箱入りの臼井吉見さん著『安曇野』もたしかそうだった。
ところが、
このごろ表面がつるつるの
PP(ポリプロピレン)加工された文庫本が、
あれ!? この感じ悪くないな、
と思えてきた。
そのときの気持ちをいえば、
エスカレーターの横のベルトをつかんだときの少し冷んやり
とした感触に近く。
指紋が取れてきたので、
じぶんのからだ以外の物との密着度が高まった、
そんな気もし、
文庫本を手にしているとき、
とくに、
左の片手で持って読んでいるときの感触が若いときと明らかに
ちがっている。
このごろの小さい発見です。

 

・さざなみのひかり四月の三渓園  野衾

 

季節の恵み

 

秋田のわたしの実家では、おととい、稲の種蒔きが終りました。
種蒔きの「蒔」は、
くさかんむりに時(とき)。
まさに蒔くに時があり、ということになるでしょうか。
二十四節気では先週金曜日、
19日が穀雨の始まり。
ことしは、
4月19日から5月4日までが穀雨の期間です。
穀雨とは、
春の雨が百穀をうるおす、の意。
また、
二十四節気とはべつに、七十二候というのがありますが、
それでいけば、
4月19日から24日までは第十六候の葭始生(あしはじめてしょうず)。
葭(あし)は、
葦(あし)のまだ穂の出ていないもの。
葦(あし)・蘆(あし)・葭(あし)はイネ科の多年草。
世界でもっとも分布の広い植物のひとつ
とされています。
この季節のめぐりに思いをいたせば、
じつに巧くできているものと感動せずにいられません。
春の雨が降り、慈雨となって地に浸み込む。
それが百穀をうるおし、
しているうちに、やがて芽を出し始める。
宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)の働きでありましょうか。
『旧約聖書』「イザヤ書」第11章1節には、
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」
とあります。
自然の恵み、季節の恵みを十分に量り知ることは、
人間には不可能な気がします。
きのう『春風新聞』第33号ができました。
写真は「角ぐむ葦」。
どうぞご覧くださいませ。

 

・新緑に古民家カフエの華やぐよ  野衾

 

お銭《あし》のこと

 

中野好夫さん訳『デイヴィッド・コパフィールド』のなかに、
「お銭」また「お金」と書いて、
「銭」や「金」に《あし》と振り仮名が付されている箇所がありました。
それを目にし、
学生のころのことが、俄かに思い起こされました。
芳賀先生とおっしゃったかな、
大教室の講義の初回だったと思います。
はじめての回ですから、
自己紹介的な、やわらかい話のなか、
かつての学生が、外国語の文献を日本語に訳しながらの授業だかゼミだか
のなかで、
ある単語を「おあし」と訳したのだとか。
芳賀先生、ニコニコしながら、
「おあしはまずいでしょう。おかねでもちょっとね」。
芳賀先生は、
そのことばにつづけて、経済学の本なので、
「貨幣」「金銭」と訳してほしかった、
みたいなことをおっしゃったのかもしれませんが、
そこのところの記憶はあいまいで、
ああ、
おかねのことを「おあし」というのか、と思ったことだけ
憶えています。
「おあし」なんて言い方、
そのころは知りませんでしたから。
『広辞苑』で「足」を引くと、
うしろのほうに、
「(足のようによく動くからいう)流通のための金銭。ぜに。おかね。」
という説明があります。
『デイヴィッド・コパフィールド』を
中野さん訳で読んでいなければ、
芳賀先生のあのエピソードは、
思い出されずじまいだったかもしれません。

 

・飛び立つ鳥や川面にさす緑  野衾