ちいさな感動 2

 

小津安二郎監督の映画に『東京物語』があります。
冒頭のシーンで、
旅支度をしていて東山千栄子さん演じるおばあさんのとみが、
「空気枕ぁ、そっちぃ、入りゃんしたか?」
と尋ねる。
すると、
笠智衆さん演じるおじいさんの周吉が「空気枕ぁ、おまえに頼んだじゃないか」
と応えます。
が、
けっきょく、周吉の勘違いで、
周吉の荷物のほうに入っていたことが分かります。
映画を二度目に観たとき、
そのシーンに、
けっこうな時間をかけていると思い、
印象に残りました。
それが、物語の最後のほう、
とみが亡くなった日の朝、
外に出掛けた周吉を探しにきた、
原節子さん演じる息子の嫁・紀子に語りかける周吉のセリフ
「ああ、今日も暑うなるぞ……」
と重なり、
生きることはたたかいなのだ、
との感想を持ちました。
こんかい、
秋田に帰省し、
ほんの数日しかいませんでしたが、
どれほど仕事をしたらこんな指になるのだろう?の齢92の父と、
歩けなくなった齢88の母の日常は、
覚束なくなった記憶とも重なり、
まさに刻一刻のたたかいであると感じさせられた。
母が歩けなくなってから毎週母に手紙を書くようにしてきましたが、
それを今後も継続することを母に約束し、
また来るよと言って別れてきました。

 

・またの日は弟を連れ猫柳  野衾

 

ちいさな感動

 

横浜の自宅ではサイフォンでコーヒーを淹れますが、
帰省した折は、数日のことですので、
店の棚に並べられているドリップバッグコーヒーのなかから適当にえらび、
いくつかのメーカーのいろいろな味を
これまで楽しんできました。
こんかい、
いつものように車で迎えに来てくれた弟が、
買い物に立ち寄ったスーパーマーケットにて薦めてくれたのが、
キーコーヒーの「バラエティパック ドリップ オン」。
6種類の味×2杯分で、12杯分。
味は、もちろんだいじで、
これまで飲んできたものに引けを取らず美味しかったのですが、
味もさることながら、
なにからなにまで、
と言うとちょっと大げさに響くかもしれませんが、
やっぱり、
なにからなにまで、
ちょっと感動しました。
帰省した折にだけ口にするドリップバッグコーヒーですが、
袋を開くところから始めて、バッグをコーヒーカップにセットするときの形式、
カップから外れないための工夫、
それがいたってシンプルなのに、素人目にも、
よく考えられていることが分かり、
なおかつ、
コーヒーを淹れたあとのバッグを捨てるとき、
それが入っていた袋にふたたび戻すことで、
よけいな手間は要らず、コーヒーが垂れてこぼれることもない。
この商品を開発したチームの努力と研鑽いかばかりかと、
思いをいたさずにはいられませんでした。
機会があれば、
インタビューしたく思ったぐらい、
ほんとうによくできた商品だと思います。

 

・春風やひとの思ひの飛び去りぬ  野衾

 

だれにとっての「いい」?

 

本づくりを生業とするようになってから、よく耳にすることばに、
「売れる本と、いい本はちがう」があります。
この仕事に就いたころは、
そういうものか、
と他人事のように聞いていた気がします。
それがいつの頃からか、そうだ、その通り、売れる本といい本はちがうのだ、うん!
鼻息荒く、そう思っていた時期もありました。
しかし、
いま静かに振り返ってみると、
その気持ち、考え方に、すこし屈折したものが混じっているように感じます。
これまで、いわゆる「売れる本」をつくった経験がないし、
つくり方も知りません。
なので、
もう一方の「いい本」を心がけるしかなかった。
読者が読んで、ためになる本、喜んでくださる本を「いい本」とみなし、
それに向けて意を用いてきました。
が、
ここにきて、ちょっと待てよ、の気持ちがもたげてきた。
そのきっかけは、
ある本の装丁に関し、
著者と時間をかけて打ち合わせをしたことでした。
いま仮に、その著者をAさんとします。
Aさん曰く、
「とくに装丁に関して好みはありません」とおっしゃる。
社に来てもらっての打ち合わせでしたから、
本棚にある既刊の書籍を引き出し、
いろいろ示したところ、
「ああ、こういう感じ、いいですね。これは、んー、あまり好みではありません。
それも、色がちょっと。
そっちのは、タイトル文字のフォントが…」
事程左様に、好みがないどころか、
はっきりと、
ある。
あるではないか。
Aさん、ちょっと、はにかむようにして
「好みがないと思っていたけど…、ありますね」
とポツリ。
その後、
打ち合わせは順調にすすみ、
やがて本が出来上がり、Aさん、とても喜んでくださった。
装丁のことではありましたが、
装丁だけのことではない気が、いまはしています。
著者本人も気づかない好み、興味、関心、疑問、願い、
生き甲斐、その他もろもろがこころの底に潜んでいるのではないか。
ことばもふくめ、
徹底してそこを見据え、
発せられたことばどおり言質を取る
ようなことではなくて、
また寄り過ぎず、
たとえていえば、自然薯の根を探り、たしかめ、掘るようにして、
著者にとっての「いい」本をつくる。
ひいてはそれが読者をも裨益するのではないか、
の欲張った気持ちもある。
格好つけすぎかもしれませんが、
そんなイメージで、
これから本をつくりたいと考えています。

29日、30日と帰省のため「よもやま日記」を休みます。
よろしくお願いいたします。

 

・弟と土器の欠片を拾ふ春  野衾

 

ソクラテスさんの魂

 

いっぽうに「かみもほとけもあるものか」という考えがあり、
「いまだ生を知らず。いずくんぞ死を知らん」
という孔丘さんのことばもあります。
また亡くなった方の魂が蝶になったのを見たという人は、一人二人ではないようです。
こたえのない永遠のなぞ、と言っていいかもしれません。
ちょくせつ謦咳に触れたことはありませんが、
学生のころから本で知り、
わたしが教師になることのきっかけにもなった林竹二さんは、
ソクラテスさんの、
とくにプラトンさんにとってのソクラテスさん
をずっと考えておられた方でしたが、
墓碑銘は「無根樹」だそうです。
林さんは、
若いときにキリスト教に親近し、
角田桂嶽(かくたけいがく)さんから洗礼を受けたことを、
日向康(ひなた やすし)さんの『林竹二 天の仕事』で知りました。
そんなことを思い出したり、
つらつら考えたりしながらプラトンさんの「パイドン」
を読みました。

 

「それは、いったいどのような性格のことを言っておられるのでしょうか、
ソクラテス」。
「たとえば、食いしん坊で、ふしだらで、酒好きといった生活を習いとし、
こうしたことによく注意しなかった人々は、
ろばの種族だとか、そういったたぐいの動物たちの種族のなかに入ってゆくのが
ありそうなことだろう。そうは思わないかね」。
「まったくありそうなことですね、おっしゃることは」。
「これに対して、
不正や独裁や略奪を好んで選んできた者たちは、
狼や鷹や鳶の種族のなかに入ってゆくだろう。
それとも、
どこかほかにこの種の魂たちの行きつく先がありうる
とわれわれは主張したものだろうか」。
「まちがいなく、それらの種族のなかに入ってゆくでしょう」
とケベスは言いました。
「ところで、ほかの者たちもまた」
とあのかたは言いました、
「その行きつく先は、それぞれが自分たちのしてきた練習との類似に基づいて
向かうようなところだというのは、もはや明らかではないだろうか」。
「もはや明らかです、言うまでもありません」
と彼は答えました。
「では、これらの人々のうちでも」
とあのかたは言いました、
「最も幸福な者たち、そして最も善き場所へ赴く者たちというのは、
通俗的で社会的な徳を心がけてきた人々ではないだろうか。
まさにそのような徳を彼らは節制とか正義とか呼んでいるのだが、
そうしたものは哲学や知性なしに、
習慣や練習から生まれてくるものなのだ」。
「いったいどうしてそういう人々が、最も幸福なのですか」。
「ほかでもない、
そのような人々はきっと、ふたたび同じような、社会的で従順な種族、
たとえば、たぶん蜜蜂とか、雀蜂とか、蟻とかの種族へと至るであろうし、
また、
ふたたび前と同じ人間の種族のなかに入ってゆき、
彼らから品行方正な人間が生まれ出ることも、ありそうなことだからである」。
「ありそうですね」。
(プラトン[著]朴一功[訳]『饗宴/パイドン』京都大学学術出版会、2007年、
pp.238-239)

 

ここのところを読み返すと、
それではソクラテスさんの魂はどうなのだと考え、質問したくなります。
哲学や知性なしに、習慣や練習から生まれてくる徳を
通俗的で社会的な徳と呼ぶソクラテスさんは、
そういう人びととも違っていることになりそうですし、
違ってもいたようです。
そういう疑問を持ちながら読みすすめていくと、
「パイドン」はいよいよ佳境に入り、おもしろくなります。
それはともかく。
上で引用したような対話を親しい人としたあと、
ソクラテスさんは粛々と、毒人参を食べ、足のほうからだんだん重くなり始め
からだが麻痺して死んでゆく。
その姿を目の当たりにしたプラトンさんの衝撃は
いかばかりだったでしょう。
うがった見方をすれば、
その衝撃が、
その後のいわゆる「哲学」を産んだとも言えそうです。
それはまた林竹二さんの抜き差しならぬ問題でもあったでしょう。
「天国への道普請」
ということになるでしょうか。

 

・金兵衛の婆さまのそら若菜つむ  野衾

 

すすむ時計

 

朝、歯をみがきながら棚の時計を見たら、三時二十二分、ということは世の中は三時七分。
はい。
この時計は十五分進んでいます。
ちなみにわたしが本を読んだりパソコンをつかう部屋の壁時計は約三十分、
畳の部屋の目覚まし時計は約十分、
それぞれ進んでいる。
直せばいいようなものの、直さない。
なんでだろう。
なんとなく、
こういうことって好きなんでしょうね。
なんでしょうね、というのは、なんだか他人事みたいで恐縮ですが。
じぶんでもよく分かりません。
放っておいたら、どこまで進んでいくんだろう?
そうだ。
腕時計は三分だけ進んでいる。
わたしの暮らしぶりはルーティン化することが多いので、
反復する暮らしのなかで、
少しだけ変化したり、変化しつづけるのを楽しんでいる気もします。
りくつですけど。
でも、
なんで進んでばっかりなんだろう?
遅れる時計が一個もないというのは不思議。
ここが山の上だからか?
かんけいない?

 

・ふるさとの野に出づるかな若菜摘む  野衾

 

ギリシア人にとっての「神」

 

中公クラシックスの『ソクラテスの弁明 ほか』につづいて、
京都大学学術出版会からでている西洋古典叢書のなかの一冊『饗宴/パイドン』を。
訳者は朴一功(ぱく いるごん)さん。
巻末の充実した解説にギリシア人の神観念に関する記述があり、
目をみはりました。

 

『饗宴』を読む場合にむしろ問題となるのは、
「恋」を意味する「エロース」と、それの神格化である「恋の神エロース」との関係
であろう。
医者のエリュクシマコスの提案を受けて、
上座から下座へと、座っている順番に参加者たちは、
恋の神エロースを讃えることになるが、
恋はわれわれの日常的な経験であっても、恋の神はそうではない。
両者の間にはどのような関係があるのだろうか。
これは『饗宴』全体にかかわる問題であり、
またソクラテス、プラトンの哲学にもかかわる問題である。
そもそもギリシア人にとって、
「神」とはどのような存在なのであろうか。
この問題への最良の接近法は彼らの言語用法である。
つまり、
「神」と訳されるギリシア語の「テオス(θεός)」の使われ方から、
ギリシア人の基本的な神観念を探るのである。
この着眼は
ドイツの古典学者ヴィラモヴィッツ(1848-1931)によってなされたものであり、
彼は正当にも、
ギリシア人にとって「神そのものは何よりも述語概念であった」
ことを指摘している。
(プラトン[著]朴一功[訳]『饗宴/パイドン』京都大学学術出版会、2007年、
p.377)

 

引用が長くなりますので、ここまでにしたいと思いますが、
このあと具体例が挙げられ
ヴィラモヴィッツさんの「述語概念としての神」の言わんとしているところが説明されています。
主語としての神でなく、述語としての神。
さまざまな場面で人間に作用する力であり、そのはたらき。
そうした存在の人格化が「神」。
そうすると、
「隠された神意」の意を本来もつところの日本語の「業(わざ)」に近くなるのでは、
という気もします。
わざおぎ(俳優)は、
業招き(わざおき)だったとされていますから。
こうなると、
ギリシアの神々が
にわかに身近に感じられてきます。

 

・万葉の空の下なる若菜つみ  野衾

 

生きものたち

 

秋田生まれなのに、ここ横浜で暮らしているのは、振り返ればそれなりに、
そうしていることの経緯はあるわけですが、
秋田に比べてグッと温暖なことも理由というか背景の一つ
かもしれない。
冬の寒い時期に生まれたのに、
どうも寒さが苦手です。
に対して、
ストーブにあたりながら本を読んでいて、
すーっと黒いものがよぎった気がしたから目を上げると、
猫。
のっしのっしとベランダの縁を歩いていく。
なんともたくましい。
まるまる太って、毛が長く、炬燵のことなど意識になさそう。
目を部屋にもどせば、
蜘蛛。
これも季節に関係なく登場し、相手になってくれる。
ソンナトコニイタラ、アブナイ。
何十匹、
ってことはなくても、
小さいのが数匹は確実にいて、くく、くく、と。
さて、きのう。
窓から見える向こうの家の塀の上、を、台湾リスが歩いて過ぎるのを見た。
冬だから冬眠しているのかと思ってあきらめ、
いつになったら現われるかと考えたりしていました。
突然現れたので、
びっくりするやら嬉しいやら。
ネットで調べてみたら、冬眠しないんですね、
台湾リス。
といいますか、
冬眠するのは「シマリス」のみって書いてある。
知りませんでした。

 

・よきことの訪れて来よ若菜つむ  野衾