中井久夫さん 2

 

このごろ読んだ中井久夫さんの本から、とくに印象にのこったところを引用しつつ、
思ったり、考えたりしたことをすこし書いてみたくなりました。
それは、中井さんの書くものは、閉じられておらず、
そとの風を浴びることを良しとしているようなところがあるからだと思います。

 

ついでながら、私の経験では、患者がもっとも良質の生産活動の場を発見するのは、
その人の消費生活世界のフロンティアにおいてであった。
そこでの情報交換が有益であった場合も、
端的にそこへ就職してしまった場合もある。
実際、このような前哨点ほどハプニング(思いがけない出来事)に開かれている場合
は他にない。
逆に、
管理中心の病院などがもっとも欠如しているのは、
世に棲む人には宇宙線のごとく気づかれずに日々降り注ぐハプニングである。
患者の家庭も、なぜかハプニングの少ない場であるという印象を持つ。
患者がハプニングに開かれた眼を持ち、
それを活用する姿勢に出ることは、長期的に重要である。
それは治療の場の対話において留意さるべき点の一つである。
治療開始一〇年以後の患者の予後は、
ハプニングあるいは「運」によるところが大であるというのが私の結論である。
いや、人生経路は誰でもそうであろう。
(中井久夫『中井久夫コレクション 世に棲む患者』ちくま学芸文庫、
2011年、p.62)

 

上に引用したこの箇所も、中井さんの面目躍如という感じがします。
「宇宙線のごとく気づかれずに日々降り注ぐハプニング」か。
またここには、10年という時間が記されていますが、
きのう引用したところでも「十数年前」「十年くらい」が記述されていました。
治療というときに、
この時間の長さについても考えさせられます。

 

・目を上ぐや故郷の虹を見て以来  野衾

 

中井久夫さん 1

 

先年お亡くなりになりましたが、精神科医の中井久夫さんにみじかい原稿をお願いし、
書いてもらったことがありました、
『春風新聞』の前誌『春風倶楽部』の時代です。
中井さんの書くものは、専門性のたかいものであっても、
ゆっくりよむと、なるほどなぁ、とか、そうなのかぁ、とか、
いろいろおしえられる気がし、おもしろいので、いまもときどき読んでいます。

 

現実に、多くの患者が治療者や家族の思いもよらない生活世界をもっている。
そして、そのことを人に語らないでいる。
私が知りえたのも、彼らがうっかり洩らしたことばの端からであったことが多い。
ところが、
その生き方を実はすでに十数年前からしていたことが少なくなかった。
たとえば、
うっかり洩らしたのであろうが、
まるで当然のように
「いつものグループの待ち合せ場所で、昨日、こんなことが……」
「えっ、いつもの? グループ?」
時には何気なく告げられることもあるが、
それは相当に信用されてからのことである。
私の場合、十年くらいかかっただろうか。
どのような生き方かといえば、
たとえば、
全く自宅に閉じこもっているばかりと思われていた人が、しばしば、
決まった曜日に家をぬけ出して決まったところへ行っている。
それは、孤独に、ひとりで列車にのって、ある港町に海をみに行き、
また帰ってくる、とか、ある町の映画館に行くとかのことである。
出かけるのはひとりだとしても、たとえば、
あるビア・バーの常連であったり、ある評論家のサロンに入ったりする。
そういうとことへは一旦入ってしまえばしめたもので、
ひっそり聴き耳を立てている人間は咎められないものだ。
(中井久夫『中井久夫コレクション 世に棲む患者』ちくま学芸文庫、
2011年、pp.11-12)

 

中井さんの本を読んでいると、
若いときに読んだ『ドグラ・マグラ』の世界を思いだすことが少なくありません。
やまいを抱えているのが患者で、治るのを補助するのが治療者なわけですが、
いつか、知らないうちに、
治療者も患者のやまいにとり込まれていくような怖さがあります。
たいへんな仕事だなぁ、と思います。

 

・飛行機は夏空をゆく水馬  野衾

 

「のぎ」と「あち」

 

秋田の父からスマホに電話がありました。なにかあったのかと緊張しましたが、
きけば、あんまり暑くて、居間にふとんをもちだし、
そこで寝たとのこと。
想像するに、
秋田の実家は、居間にだけエアコンがあって、ほかの部屋にはありません。
夜も暑いこのごろでは、寝苦しいだろうと、
まえから、わたしも弟も、父に、
エアコンのある居間で寝たらいいだろうと提案していました。
ところが、だいじょうぶだいじょうぶと言い張り、
なかなか言うことを聞いてくれません。
ところがさすがに数日来の猛暑酷暑で、やっと居間にふとんをもち込んだ、
おまえたちの言うとおりにしたよ、と、伝えたかったのかな。
そう思いました。
さて、短い、そのときの会話で、わたしが
「秋田もこのごろは、のぎがらな」(秋田もこのごろは、暑いからな)
と告げるや、
父から、
「なだど。のぎでにゃ。あちでゃ」(なに言ってるんだ。「のぎ」でなく「暑い」だよ)
と半畳を入れられた。ハッとしました。
わたしは「のぎ」=「あち」の認識で、父に言ったのですが、
暑さの程度において、父の認識は、明らかに「のぎ」<「あち」でした。
わたしの地域では「のぎ」ですが、「ぬぎ」というところも。
「のぎ」「ぬぎ」、
ぬくい(温い)からきているものではないかと思います。

 

・そのまんまゴムのおもちゃの守宮かな  野衾

 

クマのプーさん

 

石井桃子さんが訳した「クマのプーさん」「プー横丁にたった家」が一冊になった本
を読みました。A5判サイズ、箱入りのりっぱな本です。
原作は、アラン・アレクサンダー・ミルンさん。
さし絵は、アーネスト・ハワード・シェパードさん。
ハードカバーの本のおもて見返しとうら見返しには、
物語の舞台になったところの地図が絵入りでえがかれていてたのしい。
この本、
ミルンさんの息子クリストファー・ロビンくんと
ぬいぐるみの動物たちが織りなす物語で、
クマのプーさんをはじめ、コブタ、ロバのイーヨー、トラのトラー、ウサギ、
カンガルーの親子カンガとルー、フクロウのフクロなどが登場します。
世界じゅうにファンがいて、
ディズニーのアニメにもなっていますが、
わたしはそちらを見たことがないし、本を読むのもこんかいが初めて。
たのしく読んだことはまちがいないのですが、
どうも、そのたのしさをうまくことばにすることができません。
この物語、
ちょっと調子が外れているような気がして、
それがさいごまでつづきました。
読み終えてふと浮かんだのは、ジャズのセロニアス・モンクさんです。
ジャズのノリみたいなのをじぶんなりにつかんだと思えたころ、
モンクさんが織りなす音に触れ、
なんだ、これはー!! ってなりました。そんな感じ。
モンクさんのジャズもそうですが、唯一無二、
とでも申しましょうか。
ちょっと調子が外れていると感じられるところをふくめ、
どこがどうだからということでもなく、
キャラクターたちがとても印象ぶかく、わすれられなくなりそう。

 

・切れてゐた蜥蜴尻尾を復したり  野衾

 

『川柳でんでん太鼓』6

 

川柳にかんする田辺さんの本がおもしろくて、ついつい回をかさねてきましたが、
そろそろ終りにしたいと思います。
本と旅にかんする川柳で、
これもまた、プッと笑いがこぼれ、読むほどに味わいが増すようです。

 

『番傘』 ’85・2。――ちなみに川柳関係の文章、エッセーにしろ句評にしろ、
テレビ番組に言及されている割合は、書物関係より多い気がする。
だからどうだというのではないが、本の句でおかしいのは、
〈好きな本ばかり並べてよく眠る〉(森淞鳳)

『川柳公論』10巻6号から。読みもしないのに、枕元へ、読みたい本を並べておく
だけで、よく眠れる。
〈本の栞しおり少し動かし旅終る〉(近江砂人)

これもゆったりとした詠みぶりで、大人らしいいい旅が思われる。旅といえば、

混浴と知って慌てたのが男   (林照子)

女のほうはどういうか。「えーやんか」「どーッちゅうこと、ない」
「しゃーないやないの」「はよ、入ろけー」「おもちろ」
(田辺聖子『川柳でんでん太鼓』講談社、1985年、p.317)

 

・始まりが喜びの極夏休み  野衾

 

『川柳でんでん太鼓』5

 

親しくしている写真家・橋本照嵩(はしもと しょうこう)さんは、
俳句もたしなまれるかたですが、橋本さんの代表句といっていいものに、
「アスファルトひたすら急ぐ毛虫かな」があります。
撮影用の重い機材をかついで移動しなければならない写真家の生活がかさなり、
味わいぶかい句になっています。
田辺さんの本を読んでいたら、川柳でも、
毛虫を詠んだものがありました。

 

国道を無事に渡って来た毛虫   (高橋千万子)

 

これ、好きなんですよ、私。
毛虫も胆きも太き、ノンキな奴だが、それをじーっとみている作者もノンキである。
女性はユーモアのある川柳をよう作らん、という男性もあるが、
それは認識不足。いま私の見るところ、ユーモア感覚は五分五分である。
もう少し先には女性のそれが男性を凌駕りょうがするかもしれない。
(田辺聖子『川柳でんでん太鼓』講談社、1985年、pp.287-288)

 

・仰ぎ見て右見て直進蜥蜴かな  野衾

 

『川柳でんでん太鼓』4

 

本を読んでいると、むつかしい熟語やいいまわしに遭遇し、
辞書で意味を調べたりして、はぁ、そういう意味ですか、ということで、
さっそく使いたくなります。
たとえば、閑話休題。なんだ? となって、しらべたら、「それはさておき」
とおなじ意味で、話があらぬ方向へいったときに、
本筋にもどることをさします。ていねいに、「閑話休題」のよこに、
「それはさておき」と振り仮名をふっているものもあります。
事程左様に、知るとすぐ使いたくなるのが、阿呆グセ。
ちなみにいまの「事程左様に」(ことほどさように)も、そのたぐい。
「それほど」「それくらい」を意味する副詞ですが、
わたしのような阿呆は、すぐに使いたくなります。

 

かしこい事をすぐに言いたくなる阿呆   (亀山恭太)

 

『番傘』 ’82・2。類句はありそうで私の目にはまだ入らない。実際、この句、
私のことを言われている感じがして、まいりました。
言いたくなるんですね、阿呆はムツカシイことを。私なんかの場合だと、
書きたくなるんですよ、ムツカシイ漢字や学問を、
右から左に書き写して人を驚かせたくなる。
この句、紙に書いて目の前に貼っておかなければならない。
阿呆の句になると川柳家は俄然ハッスルする。
〈あほになっときなはれという母があり〉(西尾栞しおり
(田辺聖子『川柳でんでん太鼓』講談社、1985年、p.285)

 

・あたらしき網戸越しなる景閑か  野衾