フランシス・ジャムさん 2

 

フランシス・ジャムさんの詩を読んでいると、
静か、静謐のことばが浮かんできます。
「青い谷間」
下に引用した詩に二度でてきます。ジャムさんの青い谷間はフランスだけど、
わたしの青い谷間は秋田県井川町のカッチ山。
山頭火さんの「分け入っても分け入っても青い山」
がわたしのふるさと。

 

幸せとは何だろうか? たぶん、三十年前に
わたしが野うさぎ猟をした青い谷間なのだろう。
黄金の地位や赤い唇が何だというのか?
神の大いなる静謐をもたないものは、すべて空しい。

 

わたしの噂をして、ジャムは年老いたと言うがいい。
わたしの熱い心がどんなに若々しいかを考えようともせずに。
でもジャムはきみたちに塩を送る。おお、乳離れした子山羊たちよ、
神のいる国を映す知恵の塩だ。

 

どんなに甘いグラスも苦さを運ぶ。
曙が目覚めて飲むミルクのような
霧で満たされる青い谷間のグラスは別だが。

 

わたしはおまえたちを忘れることができた、若かりし頃
愛した女たちよ。でも今なおわたしには、小道の
朝露の中を、太陽のほうに進んで行った一匹の犬が見えるのだ。
(手塚伸一[訳]『フランシス・ジャム詩集』岩波文庫、2012年、pp.255-256)

 

「神の大いなる静謐をもたないものは、すべて空しい。」
ここにジャムさんの信仰がある気がします。

 

・たましひのふるさとへ逝く雪解川  野衾

 

フランシス・ジャムさん 1

 

カフカさんの日記を読んでいたら、フランシス・ジャムさんのことがでてきて
うれしくなりました。
なので、ジャムさんの詩のなかからいくつか、
わたしの好きな詩の一部をここに残しておきたいと思います。

 

教会を出て、彼は道路工夫に言った、
「やあ!」相手も言った、「やあ旦那」そよ風が
影と水のさわやかさに満ちたプラタナスを揺らす。
このふるえはひろがっていって、もっと遠くで
白樺の木が騒ぎだす。やがてまたすべてが動かなくなる。
二人はおしゃべりをする。雄鶏がうたう。
小さな町が黒い丘に白く浮かびあがっている。
詩人は祈禱書の聖句のページを開いて
道路工夫に言う、「きみは生命いのちの石を
すべて割ってしまったら、天国で
きみの疲れのすべてを癒すことができるだろう」


「そうだといいんですが」相手は言う、「あなただって

働いていらっしゃる」詩人が答える、「そうだね、
きみのそばでぼくも休みたいものだ。
ぼくたちは父なる方の労働者だ。
福音書にもあるように、一粒の麦は
地に落ちて死ななければ、それは実をつけない。
ただ心に苦しみをもつ種だけが穂をつける。
人間は神によって地に蒔かれた一粒の麦だ、
それがこの世で芽を出すのは、天国に至るためなんだね」


彼らは話をつづけた。焼けつくような青い陽射しの中に

二本の腕を空に、もう一本を地に置いた
十字架が立ち、乞食女の眠りを守っていた。
ぐっすり眠りこんでいる女の胸もとがはだけ、
殻がふくれて今にも割れんばかりの
一粒の麦のように肌を見せていた。
詩人は道路工夫に言った、「この女も
一粒の麦で、魂が成長しているんだ」
(手塚伸一[訳]『フランシス・ジャム詩集』岩波文庫、2012年、pp.198-200)

 

「ただ心に苦しみをもつ種だけが穂をつける。」
ここにジャムさんの信仰がある気がします。

 

・思ふまじなれど追ひくる母の貌  野衾

 

カフカさんの日記 4

 

1912年6月7日の日記は、
「ひどい話だ。今日は何も書かなかった。明日は時間がない。」
(カフカ[著]谷口茂[訳]『決定版カフカ全集7』新潮社、1992年、p.202)
たったこれだけ。
それからひと月ほどおいて、つぎの行、
7月6日の月曜日。
「少し書き始めた。少し寝ぼけている。
それに、このまったく見知らぬ人たちのなかにいて頼りない気持でいる。」
(同、p.202)
この7月6日のところに脚注番号が付されており、
巻末の訳注を見ると、
こんなことが記されていて、目をみはった。
「この記述よりも前に、ワイマルおよびハールツへの休暇旅行
(6月28日から7月29日まで)が始まっている。」
(同、p.494)
わたしは、この「ハールツ」に鉛筆で
くろぐろ傍線を引きました。
ハルツ山は、ゲーテさんがそこを訪れ、
神秘体験といってもいいぐらい生涯忘れることのできない体験をした場所
だからです。
それをわたしはアルベルト・ビルショフスキさんの
『ゲーテ その生涯と作品』で知りました。
また、
ヒトラー暗殺計画に参画し処刑されたキリスト教の牧師
ディートリヒ・ボンヘッファーさんもそこを訪れ豊かな時間を過ごしています。
土地の縁、地霊ということを想像します。

 

・口元をひたすらじつと母の貌  野衾

 

カフカさんの日記 3

 

本日より「よもやま日記」を再開します。

カフカさんの日記は第一次世界大戦の期間を含んでいます。
日記のなかに、うつろいゆく日々の喜び、悲しみ、いかり、慰めを発見する
たび、
いわゆる歴史書とはまた違った印象をもちます。
汽車旅で見聞きしたことの記述。

 

1915年4月27日
…………………
涙ながらに別れを告げている老夫婦。意味もなく繰返される数知れぬキス。

ちょうど、絶望しているときに
そうと知らずきりもなく煙草に手をだすのと同じである。
周囲にお構いなしの家庭的な振舞。どこの寝室でもこういう具合なのだ。
彼らの顔の特徴は、まるで分からない。
女の方は目立たない老女だ。
もっとまぢかに眺めれば、いや正確にはもっとまぢかに眺めようとすれば、
彼女の顔はすっかり溶けてしまい、
何やら小さな、同様にはっきりしない醜さの弱々しい記憶、
例えば赤い鼻とか幾つかのあばたの痕が残るだけである。
男の方は
半白の口髭、大きな鼻、紛れもないあばたの持ち主である。
釣り鐘マントとステッキ。
非常に感動しているのに、自分をよく抑えている。
悲しく痛ましげに老妻の顎を手で挟む。
老女の顎を手で挟むことにどんな魔法があるのだろう。
ついに二人は泣きながら互いに顔を見合わせる。
彼らがそう言ったわけではないが、
その光景はいかにもこんな意味に取れた。
すなわち、
わたしたち二人の年寄り同士の結びつき
というようなこんなみすぼらしいちっぽけな幸福さえ、
戦争のために滅茶滅茶にされるんです、
と。
(カフカ[著]谷口茂[訳]『決定版カフカ全集7』新潮社、1992年、pp.336-337)

 

万感の思いがあふれるようなこのシーンから、
『戦争と平和』中の登場人物、プラトン・カラターエフを思い出しました。
なにげないこういう場面に、
書き手のこころがこめられていると感じます。

 

・聞きとれぬ母の口元見つめをり  野衾

 

お知らせ 

都合により、しばらく「よもやま日記」をお休みします。

よろしくお願い申し上げます。

 

三浦 拝

カフカさんの日記 2

 

1910年から1923年までの日記ですから、100年以上前、ということになります。
しかし、日ごとの体調、心配、不安、ちいさな喜び、願い、
総じて、
生きることから生じるさまざまな気分というのは、
カフカさんの個性はもちろんあるとはいえ、
100年前もいまも変らない気がします。

 

1914年11月3日
午後、Eへ手紙。ピックの小説『盲目の客』に目を通し、
いくつか訂正個所をメモした。
ストリンドベリを少し読んだら眠れなかった。
八時半に家に行く。
すでに始まっている頭痛が心配になって、十時にここに戻った。
そして夜もほんのちょっとしか眠っていなかったので、
仕事はもう全然しなかった。
きのう書いたそう悪くない部分を損うのを恐れたことにも、一半の理由があった。
まったく書かなかったのは、八月以来これで四日目だ。
手紙のせいだ。
ぼくは手紙を書かないようにしよう。
あるいは書くとしたら非常に短い手紙だけ書くことにしよう。
ぼくは今なんと妨害され、
またなんと翻弄されていることか!
ゆうべはジャムの詩を数行読んで、非常な幸福に浸った。
いつもは関心を持ってはいないのだが、
彼のフランス語
――それは彼が友だちの詩人を訪問したときの描写だった――は、
ぼくに強い効力を及ぼした。
(カフカ[著]谷口茂[訳]『決定版カフカ全集7』新潮社、1992年、p.316)

 

カフカさんは、この日の前日、ジャムさんの詩を読み、詩のことばに触れ、
「非常な幸福に浸った」という。
そうか。カフカさん、ジャムさんを読んだんですね。
フランシス・ジャムさんは、
1905年に回心し真摯なカトリック教徒となったひとで、
「自然と愛の詩人」と称される。
わたしは岩波文庫に入っている手塚伸一さん訳のものを愛読しています。

 

・土を破り光る光るよ蕗の薹  野衾

 

カフカさんの日記 1

 

年末年始にかけ帰省した折、寝室の本棚にある新潮社の『カフカ全集』
が目に入りました。
どれどれ。第七巻は日記。まだ読んでない。
なんとなく気をひかれ、手にとって読みはじめたら、
やめられなくなりました。
居るあいだにぜんぶは読み切れなかったので、
横浜まで持ち帰りました。

 

1911年12月16日 日曜日
いま昼の十二時だ。午前中は眠ったり新聞を読んだりしてのらくら過ごした。
プラーク日刊新聞のために批評を一つ書かねばならぬという心配。
こういう書くことに対する心配は、
つねにこんなふうに現われる。
すなわち、
ぼくはたまたま机についていないときに
これから書こうとすることの出だしの文章を考え出すが、
すぐにそれは役にたたない、味のない、
結びに到達するずっと以前に分解してしまうものであるということが判り、
そして
その突き出た断片で悲しき未来を示しているという具合に。
(カフカ[著]谷口茂[訳]『決定版カフカ全集7』新潮社、1992年、pp.139-140)

 

この日の日記は、もっとつづいていますけれど、その冒頭部分。
カフカさんの小説は小説でおもしろいのですが、
日記のちょっとした記述に共感を覚えると、
あるあるそういうこと、となり、急にカフカさんが身近に感じられてきます。
それと、
こういう欠片から、
カフカさんの感性の一端を垣間見る気がします。

 

・一陣の風に芽を吹け蕗の薹  野衾