万葉集と古今集

 

古今和歌集の682番

 

石間いしま行く水の白浪立ちかへりかくこそは見めあかずもあるかな

 

片桐洋一さんの通釈は、
「石の間を流れて行く水の白浪が、激しく浪立っては元に戻るように、
何度も何度もこのようにあなたを見るだろうけれども、
それだけでは満足しないことであるなあ。」
「石間行く水」というのは、滝をふくめた激流の意味。
それにつづく片桐洋一さんの説明がおもしろく、
古典研究の醍醐味が、
こういうところにも表れている気がしますので、
少々長めですが、引用します。

 

では、「石間」とは何か。『万葉集』では、
いのちをし幸さきくよけむと石流いはばしる垂水の水をむすびて飲みつ
巻七・一一四二
石激いはばしる垂水の上のさ蕨わらびの萌えいづる春になりにけるかも
巻八・一四一八
が、
一字一音表記の
伊波婆之流いはばしる》滝もとどろに鳴く蟬の声をし聞けば都し思ほゆ
巻十五・三六一七
にならって、「いはばしる」と読んでいるのが、
『古今集』になると、
いしばしる滝なくもがな桜花手折たをりても来む見ぬ人のため
春上・五四
のように「いしばしる」に変っていることから考えられるように、
「石」は「岩」のことであり、
「石間」は「岩間」と同じと見てよかろう。
岩にぶちあたりつつ激しく流れる水であるゆえに白浪が立つのである。
「いしばしる」が万葉歌語「いはばしる」の文字によって出来上がった語であるのと同様に、
「石間」もまた疑似万葉歌語であると言えるのである。
このように一筋縄でゆかないものを含めると、
『古今集』における『万葉集』の影響は、
今まで言われていたのとは比較にならないほどに大きいことに気づかざるを得ない
のである。
(片桐洋一『古今和歌集全評釈(中)』講談社学術文庫、2019年、pp.687-8)

 

伊藤博さんの『萬葉集釋注』によって、
大伴家持らの編集の妙を教えられましたが、
『古今和歌集全評釈』では、
片桐洋一さんが、
古今和歌集と万葉集の親和性について、ていねいにひもといてくれていますので、
編集の仕事に携わった紀貫之たちは、
歌はもちろん、
詞華集を編む=編集に関しても、
万葉集から多くを学んだであろうと想像されます。

 

・午睡止むうつつより自動車の音  野衾