『わたしの学術書』座談会

 

詩人の佐々木幹郎さん、東京堂書店の人文フロアを担当されている三浦亮太さん、
こんかい『わたしの学術書』の装丁を担当してくださった中本那由子さん、
装画を担当してくださった市川詩織さんをお招きし、
『わたしの学術書』をめぐっての座談会を行いました。
弊社からは、下野、久喜、わたしの三人が出席。
この本は、
博士論文を春風社から上梓した58名が、
その経緯と今後を含めての、
いわばライフヒストリーをつづったエッセー集ですが、
座談会に出席した方々から、
とても有益なことばをお聞かせいただき、
いろいろな意味で今後の本づくりに役立てたい、
考えつづけたいと強く思いました。
会の模様は、
5月20日(金)発売号の『週刊 読書人』に掲載予定です。
ただ、
二時間半たっぷり、
濃密な話を伺うことができた会でしたので、
ロングバージョンのものを、
いずれ何らかの形でまとめ、ご紹介できればと思います。

 

・春風や自転車を漕ぐ堤まで  野衾

 

葦の字の読み

 

パスカルの「人間は考える葦である」で有名な葦ですが、
わたしが愛用している山と渓谷社のカレンダー『七十二候めくり 日本の歳時記』
の十六候「葭始生《あしはじめてしょうず》」
の写真の下に、
「天に向かってまっすぐ伸びる水辺の葦。
「悪し」を転じて「ヨシ」としたのは好案でした」
とありまして、
へ~、そうだったの~!!
と、
ややビックリ。
てえことは、
くだんのパスカルの名言は、
「人間は考えるヨシである」になる、
か。
我がことを振り返ってみれば、
さほど、というか、
まったく疑問に思わずにこれまで来ましたが、
そんな裏話があったとは。
ところで。
きょうのこの文を書くのに、
山と渓谷社のカレンダーにある文言を引用していて気づいたことがありました。
それは、
「好案」の熟語。
好案?
こうあん?
こんな熟語あったかな?
「妙案」の間違いじゃないかしら?
というわけで、
手元の電子辞書やら白川さんの『字通』を引いてみましたが、
「妙案」はあっても「好案」は出てきません。
ふむ。
山と渓谷社に電話して訊いてみようかな。

 

・春風や奥邃の気の触れ来り  野衾

 

あごひげ!?

 

きのうの出勤時のことです。
自宅を出て、いつものように急階段を下りていくと、
見慣れた白と黒のぶち猫が下から上がってくるのが見えました。
おはよう。
やけに急いでいるじゃないか。
階段の途中で立ち止まり、すれ違うぶち猫を見ると、
きりりと結んだ口の下にちょろり、
ながい鬚のようなものがでています。
わたしがキッと見据えると、
猫は目をきときとさせ、
わたしを睨み、
なんとも言えない緊張した面持ちで階段を上っていきます。
そのときハッキリと確認しました。
それは明らかにトカゲの尻尾なのでした。
猫がトカゲを捕まえるなんてことはふつうでしょうけれど、
ドッグフード、キャットフードが当たり前になっているこの時代、
かわいいとばかりは言えない、
野生を忘れぬ猫の顔に少し感動しました。

 

・崖上の猫うぐひすを見上ぐかな  野衾

 

哲学者だって

 

まず小野小町の有名な歌。

 

思ひつつ寝《ぬ》ればや人の見えつらん夢と知りせばさめざらましを

 

『古今和歌集』の第552歌であります。

 

この場合の「人」は恋人でしょう。
恋の苦しさが詠われています。
片桐洋一さんの『古今和歌集全評釈』でこの歌を目にしたちょうど同じ日、
スピノザの『エティカ』の下のような文章に出くわしました。

 

しかし、注意しなければならないことは、われわれが思想や像を秩序づけるさいに、
常に喜びの感情から行為へと決定されるように、
おのおののものの中で善であるものに注目しなければならないということである。
たとえば、
ある人が自分は名誉欲に駆られすぎていると反省したならば、
それを正しく利用することを考え、
それがどんな目的で追求されなければならないか、
またどんな手段でそれが獲得されうるかを考えなければならない。
だが名誉の濫用、そのむなしさ、人間の移り気、
そのほかこれらに類することを考えてはならない。
このようなことは不健康な心の持ち主のみが考えるのである。
なぜなら野心家は、
自分のもとめる名誉の獲得に絶望するとき、
このような考えによってもっとも多く自分を傷つけ、
怒りを発しながら自分を賢く見せたがるからである。
それゆえ、
名誉の濫用やこの世のむなしさについてもっとも多く慨嘆する者が、
名誉をもっとも多く欲している人であることはたしかである。
しかしこのことは、
野心家にだけ見られることではなく、
不運をかこち、無力な精神をもつすべての人たちに共通なことである。
なぜなら、
貧乏で貪欲な人も金銭の濫用や金持の悪徳について語ることをやめないが、
彼はこのことによって自分自身を傷つけ、
自分の貧乏だけではなく、
他人の富にも不満をいだいていることしか、
他人に示さないのである。
これと同じことであるが、
愛する女からひどいしうちをうけたものは、
女の移り気や偽りの心やそのほか詩歌に言いふるされた女の欠点しか考えない。
しかしこれらすべては、
愛する女からふたたび迎えられるやいなや、
ただちに忘れられてしまうのである。
(スピノザ[著]工藤喜作・斎藤博[訳]『エティカ』中公クラシックス、2007年、pp.430-1)

 

さいごの方に出てくる「これと同じことであるが」につづくくだりは、
なるほどと頷きました。
『エティカ』は幾何学的な証明の手法をもって記述されており、
ときどき、
それって証明になっているか?
と、
疑問に思う箇所がないではないけれど、
嫉妬に関する記述であるとか、上に引用した文章を読むと、
この哲学者も実人生において、
恋に触れ、恋に深く悩んだ人であることが想像され、
それが、記述の方法も含め、
彼のなした哲学と無縁でないことが感じられます。

 

・烏飛び交ふ春暁の明けやらず  野衾

 

手を出さない本

 

どんなジャンルの本にかぎらず、文中にほぼ百パーセント、
関連書籍についての記述があり、
それを読んだら、
いま読んでいる本の理解がもっと深まるのではないかと思わされるものですから、
ついネット書店で検索し、
ポチッと。
それが一冊ならいいけれど、
二冊、三冊、それ以上…。
そうやってどんどん幾何級数的に本が増えていきます。
じぶんの興味関心を一本の木に喩えると、
幹から枝が伸びて、
枝からまた新しい枝が伸び、
その先の枝がさらにまた伸びて、
みたいなイメージ。
寿命が三百年ぐらいあれば、
それでもいいですが、
そんなことはありませんから、
幹をたいせつにし、枝の茂りを一定程度に抑えなければなりません。
興味がもたげてくるのは防ぎようがありませんが、
本を読むには一定の時間が必要ですから、
何を読むかの的を絞るために、
何を読まないかを心して定めることが課題になります。
きみは、それを買ってほんとうに読むつもりか?
読む時間があると思うのか?
その本を読む前に読む本があるのではないか?
そんな声を聴きながら、
ポチっと押さないこともあるけれど、
かえって力を籠めポチっと、
となってしまうことも間々あります。

 

・閲覧室窓夢うつつの桜  野衾

 

なとでもえ

 

一日おきに秋田に電話するのがこの頃の習い。
電話には必ず父がでる。
父はいま九十歳。
歩行がむずかしくなった母をたすけ、
朝ごはんの準備をし、鶏小屋に卵を取りに行き、それから朝食。
「もしもし。まま(ご飯)食べだが?」
「食べだ」
「天気、なとだ?」
「いい天気だ」
一日おきにかけているので、
あとは話すことがあまりない。
父も、
この頃は多くを語らなくなった。
十羽いたニワトリがイタチに殺され、小屋を補強したにもかかわらず、
さらに二羽、また一羽とやられ、
いまでは三羽しかいなくなった。
卵を近所にあげると喜ばれることが生き甲斐の一つだった。
父はイタチでない、ネズミに違いないと主張する。
イタチが入れるような穴はどこにもないからと。
わたしと弟は、
ネズミがニワトリを殺すなんて、聞いたことがない、イタチだろうと主張。
その後、父はネズミ捕りをセットし、
六、七匹のネズミを捕った。
「へ~!」
わたしは驚いた。
いや、無意識に、驚いてみせたかもしれない。
「んだども、やっぱりイダヂでねが? ネズミがニワドリどご殺すなんて聞だごどねもの」
すると、
父が「なとでもえ」
と言った。
「なとでもえ」とは「どうでもいい」という意味だ。
「な」と「と」の間に、
小さく撥音の「ん」が入る。
ニワトリがつぎつぎ殺されたことはショックでも、大きなことではない、
ということなのだろう。
では何が問題なのか。
父の同級生だった地域の者たちが一人、
また一人と亡くなって、
ついに父が最後となった。
わたしは父の悲しみを推し量るしかないけれど、
一日一日、
朝ごとのスタートラインは、父とそれほど違っているとも思えない。
「なとでもえ」
忍従し努力し行為すること。
一日が始まる。

 

・タクシー停車道沿いの桜かな  野衾

 

ポンポンポン

 

朝の日課に、官足法に基づくウォークマットⅡのツボ踏みがありまして、
腎臓機能の衰えを防ぐために始めたのですが、
目に見えて効果を発揮したのは、
血圧です。
20mmHgぐらい下がりました。
あくまでも個人的な感想です。
考えてみれば、
ツボ踏みにより、
心臓から最も遠いところを刺激しますから、
血流がスムーズになり、
ポンプの役割を果たす心臓への負担は必然、軽くなるのでしょう。
はじめは、
イボイボの突起がついたプラスチック製の板に乗る
だけで精一杯でしたが、
このごろは窓の外を眺めながら、
鼻唄交じりに推奨されているコースをこなし、
30分ほど踏みつづけています。
習うよりも慣れよ、
は、
ここにも当てはまります。
さてきょうのお話は、
そうやって眺める外の景色についてであります。
わたしが住んでいるこの場所は、
小高い丘の上にあり、
カーテンを開けると丘の下まで広々と季節ごとの景色を楽しむことができます。
次第に明けゆく朝空のもと、
犬を連れた老人が坂道を上ってくるのが見えます。
犬は匂いを嗅ぎながらあっちに寄り、
こっちに寄り。
老人もいっしょに立ち止まります。
散歩を絵に描いたよう。
空には数羽カラスが飛び交い。
そうか。
きょうは、燃えるゴミの日か。
と。
やがて、
白い割烹着姿のおばちゃんが、ゴミの袋を持って、急階段をゆっくり下りてきます。
左手にゴミ袋。
右手は、
階段に備え付けられた手すりをポンポンポンと
リズミカルに叩きながら。
遠目なので表情までは分かりませんが、
その姿がなんとも可愛らしい。
階段を下り切り、
所定の位置にゴミ袋を置いて、
ネットの乱れを直したりなどしてから、
急階段を、下りる時よりもさらにゆっくり上っていきます。
上り切ったら、
そのまま家に入ることもあれば、
崖に面した庭の草を取ることもあり。
割烹着はいいな。
だいたいわたしの朝のツボ踏みも終りに近づきます。

 

・下校時の友の軒にも燕来る  野衾