光の痕跡
和室の低い棚の上に、祖父と祖母の、小さな額に入った写真がそれぞれありまして、
ときどき水をあげ、手を合せます。
ながく見ていると、
駅のだるまストーブのうえでスルメイカを炙った祖父の姿、
米を背負い、
横浜駅の構内でわたしを待っていた祖母の姿、
いろいろいろいろ、
ありありと脳裏をかすめます。
スマホが普及してますます写真が身近になりました。
写真て何かな、その延長の映画って何かな、
バザンさんの本を読み、そんなことを考えます。
写真が生まれ、その後、映画が誕生するまでは、
具体的な存在と不在のあいだを媒介することができたのは、
造形芸術の中でもとりわけ肖像画だけだった。
その理由は類似にあり、
肖像画は類似によって想像力をかきたて、記憶を助けたのである。
ところが、
写真は肖像画とはまったくの別物である。
それは事物や人間のイメージではなく、
より正確にいえばその痕跡である。
それが自動的に生成するイメージである点が、
他の複写技術と写真を根本的に隔てている。
写真家はレンズを介して、まぎれもなく光の痕跡を写し取る。
それは型取りによる複製なのである。
こうして写真家は単なる類似を超えた、ある種の同一性《イダンチテ》
を手に入れるのだ
(身分《イダンチテ》証は写真が到来しなければありえないものだった)。
だが写真はその瞬間性ゆえに、
一瞬の時間しかとらえることができず、
その意味では不完全な技術だ。
対象の時間を型取りしつつ、
さらにその持続の痕跡までもつかみ取るという異様なパラドックスを実現した
のが映画なのである。
(アンドレ・バザン[著]野崎歓・大原宣久・谷本道昭[訳]
『映画とは何か(上)』岩波文庫、2015年、pp.251-2)
・秋の日や脳とこころをながめをり 野衾

