「縫い目のない衣」

 

若いときに観て、その後、何度も観た映画にフェデリコ・フェリーニ監督の『道』
があります。
観るたびに、聖書が背景にあるなあと感じ、
こと文学だけの話ではないんだと思ってきました
が、
内容だけでなく、映画の撮り方においても、
聖書との比較がなされ、説得力があることを知り、
それが逆にまた、
聖書の読み方、現実のとらえ方にまで及んできそうで、
おもしろく感じます。

 

アンドレ・バザンはルノワール作品の重要性を体系的に記述した先駆的論考の中で、
「ルノワールの演出はしばしば愛撫であるかのような、
あるいは少なくとも、
つねにひとつの視線であるかのような様相を呈する」
と述べている。
ルノワールは決して人物たちを背景から切り離すことことなく、
「人物たちの顔のうえの水の反射や、
かれらの髪をなでる風、遠くの木の枝の動きなど」
に、
演技やせりふと同じほどの重要性を与える。
その結果、
ルノワールの映画は
「現実という縫い目のない衣ころもにひだを寄せる」ようなものとなるのだ
とバザンは述べる。
そこでバザンが用いている「縫い目のない衣」という表現は、
聖書に由来する表現である。
イエスの着用していた下衣は「縫い目がなく、上から下まで一枚織り」
(ヨハネによる福音書、19・23)であった。
そこでイエスをはりつけにした兵士たちは、
その衣を裂かず、
だれのものにするかをくじ引きで決めたのだった。
もともと聖母マリアが織ったとされるこの聖なるチュニカは、
のちにキリスト教会統一のしるしとされるようになり、
またいくつかの教会では
そのチュニカの本物と称する服が聖遺物として保存されてもいる。
バザンは
そうした重要なカトリック的意味づけを負わされた「衣」を、
ルノワールの映画は現実を縫い目なしに、連続的に、
そして裂くことなく表すものだという自説
のために援用したわけである。
(野崎歓[著]『アンドレ・バザン 映画を信じた男』春風社、2015年、pp.164-5)

 

・冷やゝかや野を行く道に光降る  野衾